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藤田怡与蔵の戦い(日航就活編)

2011-12-09 | 海軍人物伝

「零戦隊長藤田怡与蔵の戦い」という本は、兵学校73期の阿部三郎氏によって書かれました。
真珠湾攻撃に参加し、ウェーキ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンの各作戦に参加し、
硫黄島の迎撃作戦にも従事。
第二次世界大戦の戦闘機パイロットそしてそれこそすさまじい修羅の戦場をくぐってきながら、
戦後その体験を本に著すこともしなかった藤田氏に、阿部氏が
「あなたが書かないなら私が書いてもいいか」
と声をかけ、その戦歴を書いたものです。

戦闘機パイロットとしての藤田氏の戦いについては、この本を読んでいただくとして、
本日ここでお話ししたいのは、戦後、民間機パイロットとして空を飛び続けた
「日航パイロット藤田怡与蔵の戦い」です。


終戦。
海軍が消滅し、軍という組織に職業として生活を依存していた全ての人々は、
全てゼロからの出発を余儀なくされました。
占領国による「旧軍パージ」の嵐が吹き荒れ、
「職業軍人」イコール「戦犯」と後ろ指をさす日本人さえいた当時、
元軍人たちにとっては、実際はゼロではなくマイナスからの出発だったと言えましょう。

藤田氏にとってもその道は決して平たんなものではなかったようです。

農業や土建屋の労務係、米軍キャンプの機械工を経て起業。
紆余曲折の職歴で糊口をしのいでいる頃、日本航空が設立されました。
設立当初の日航では、アメリカ人パイロットだけが勤務していました。

「日航が邦人パイロットを募集することになったそうだ」
ある日、同級生からそれを聞いた藤田氏は、その足で日航本社を訪れ、
その翌日には履歴書を携えて入社面接に赴きました。

しかし、ここで問題発生。
藤田氏の飛行時間に「2500時間」とあるのが問題になりました。
今回の募集は3000時間以上なので、受験資格がない、というのです。

「私は戦闘機に乗っていたから時間が少ないのです。
同期の大型機の者は皆5000時間に達しています。
時間より離着陸の回数を見てくださいませんか。技術はだれにも負けないつもりです」

藤田氏は懸命に説明したのですが担当者は首を振るばかり。
なんと、この押し問答は10回にわたって行われました。

その10回目。


「2500時間ではどうしてもだめですか」
相手の頑固さも普通ではない気がしますが、このときの答も
「だめです」

「・・・・・では私の履歴書を返して下さい」

引き出しから出された履歴書を受け取るやいなや、藤田氏は履歴書を広げ、2500をペンで消して、
その横に3200と書いてこう言い放ったそうです。
「これならいいでしょう」

面接担当「・・・・・・・・・」(-_-メ)

藤田氏「・・・・・・・・・」(^^)v

以前「海軍就活必勝法」という項をアップしたのを覚えている方はおられるでしょうか。
履歴書や経歴に書かれていることより、
「この人物と仕事をしてみたい、この人物の、履歴書に書けない部分を見てみたい」
と担当者に思わせたら勝ち、ということを書いたのですが、
まさに藤田氏のこの「暴挙」はその見本のような好例だったと言えましょう。

だからって、この藤田氏のマネをして、面接官に
「この空白の三年間に何をしておられたのですか?」
と聞かれ、
「履歴書を返して下さい」
といってさらさらと
「自己啓発と自己の可能性探求を目的した自宅待機、
あるいはインターネットによる情報収集と匿名掲示板における討論術のスキルアップ」

なんて書いてもだめよ、とそのときと同じことをここでも言っておきますね。


さて、日航の面接会場に話を戻して。
しばしにらみ合うのち、吹き出す担当者。(AA省略)
「負けたよ。受験しなさい」

そして最終面接。
大戦の戦闘機パイロットと聞いて社長も興味を持ち、
戦争中のことについてのいくつかの質問があったそうです。
しかしなんといっても合格の決め手は

「私は戦争中に人生を終わったものと思っていますので、これから日本航空で余世を送らせて下さい。
また実戦の体験から見ると、わたしは戦争の骨董品のようなものです。
日本航空ともあろう会社が、骨董品の一つや二つ持ってもよろしいのではありませんか」
という、一同が大笑いしたこの最後の言葉だったかもしれません。



後半は藤田氏の日航入社後の戦いについてです。

 


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