アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

霊界占星術-3

2023-06-09 07:28:56 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎OSHOバグワンの見方

 

『隠された神秘/和尚/市民出版社』の全体の三分の一程度は、占星術について占められている。

 

インドでは、リグ・ヴェーダに9万5千年前の星座の現象のことが述べられており、占星術の起源はインドであり恐ろしく古いとする。

 

OSHOバグワンは、現代人が占星術で、いつ死ぬかとか、恋愛がうまくいくかとか、いつ儲かるかとか、外面的なことばかり占断しているが、そのようなものにはあまり意味がないとする。

 

なんとなれば、空間軸で言えば、全宇宙のあらゆる出来事は、相互に影響を与え合っており、そうした中で、自分一人だけが幸運をつかんだり不運に苦しんだりということはあり得ない。幸運も不運も世界全体に少しく影響を与え続けているものだ。

また空間軸では生者の世界ばかりでなく死者の世界、つまり無意識の世界も影響を与えている。

 

また時間軸で言えば、一般には過去が現在と未来を生成しているように見えるが、実は未来の方も現在に大きく影響を与えている。未来も現在を強力に引っ張っているのだ。

 

『占星術を自分のプライドを溶かし、エゴを崩壊させるものとして見るなら、占星術は宗教になる。しかし私たちは、凡庸な占星術師のところへ行き、自分のエゴを守るために尋ねる。「私は損をするだろうか? くじに当たるだろうか? 取り掛かっている新しい事業に成功するだろうか?」

 

こうした質問をするのは、自分のエゴを救うためだ。しかし実のところ、占星術は全面的にエゴと対立する。占星術の意義とは、あなたは存在しないが世界は存在する、あなたは存在しないが宇宙は存在するということだ。非常に強力な力がはたらいており、あなたはまったく取るに足らないものなのだ。

 

自分がこの大きな世界の不可欠な部分であると考え、感じるなら、あなたはその光の中ではじめて占星術を理解できる。だから私は、太陽系全体がいかに太陽と繋がっているかを話してきたのだ。これに気づくことができたら、私たちの太陽が宇宙のさらに大きな多くの太陽と繋がっていることにも気づくだろう。

 

(中略)

 

無限の究極の中心は、知る者たちによってブラフマン、究極の実体と呼ばれた。この究極の中心は自転もしないし、別の何かの周りを公転することもない。自転するものはすべて、必ず別の何かの周りを公転する。しかし自転も公転もしないのは、究極なるものだ。それはまた、至高の沈黙または無として知られている。これは軸であり、中心点であり、全宇宙はその周りで膨張し収縮して いく。』

(隠された神秘/和尚/市民出版社P284-285から引用)

 

つまり少なくとも神仏なるブラフマンを見る体験があって、初めてエゴのない占星術の見方が可能になることを示している。

自分は、みじめで情けない存在だが、それと同時に宇宙全体の不可欠な一部であるという実感を得て初めて占星術が理解できるとOSHOバグワンは述べている。それはつまり、キリスト教なら神と人と聖霊の三位一体を実感するということであって、仏教なら三身(法身、報身、応身の三種)を体感するということがあって占星術を理解できるということ。

道家は、この究極という回転軸を、道の枢(とぼそ)と呼んだ。

 

占星術では、我々はとかくみじめで情けない自分ばかり気にしているが、本来それを問題にしないところに占星術は科学として屹立していたのだ。

 

また現代では、星は物質界だけと思われているが、テトラビブロスでは、エーテルが自明に存在している。七つの身体では、半物質であるエーテル体が存在しており、それは時に霊や気とも呼ばれるが、微細世界あるいは微細身はエーテル体の層ばかりではない。

 

ホロスコープは12宮12星座で世界全体を示すが、世界全体である神を知って初めて、何が幸運で何が不運なのかをありのままにつかむことができる。まず回転軸である窮極をつかまないと当たるも当たらないもないのだと思う。

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霊界占星術-2

2023-06-08 07:15:47 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎ユクテスワのパワーグッズ

 

パラマンサ・ヨガナンダが、師匠のユクテスワから宝石付きの金属製腕輪をはめることを勧められた。

 

ユクテスワは、その根拠としておおまかに以下のような説明をしている。

  1. 元々占星術(星学)は、太古において科学だった。
  2. 人は生存中は、人間の内部の地水火風空の混乱と、自然現象から来る外的崩壊力という2種類の力と戦っていかなければならない。人は天界と地界の様々な影響力を受けねばならない。
  3. 宇宙には、いろいろな電気的放射線や磁気的放射線が絶えず循環しており、それは人体によい影響や悪い影響を与え続けている。そして純粋な金属から発している霊的放射線が星のネガティブな影響力打ち消す力を持っている。同様の効果は、ある種の植物の組み合わせや2カラットの無傷の宝石も有する。これらは必要な重量を満たさないと効果がなく、また直接肌に密着させないと効果がない。
  4. 冥想や祈りによって神に意識を合わせている者は、何をしても決して間違いはない。だが一切の人間苦は、宇宙の法則に対して何か違反を行ったことから生じる。
  5. 人間は過去の過ちやカルマによって苦難に逢うことがある。その際、人は神に祈ったり、意志の力によったり、自分の行動を正していったり、冥想したり、聖者の助けを借りたり、占星学の腕輪をつけることで、その苦難を最小限度にとどめることができたり、完全に避けることができたりする。

 

このような原理の説明の後に、ヨガナンダは、半年苦しむ予定だった肝臓病が、指示された銅と鉛でできた腕輪をつけることで三週間で治癒した自分の実例を挙げている。

(以上参照:あるヨギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP169-174)

世にパワーストーンやパワー・グッズ、ハーブを売る人は多い。だが実際にこうした霊的占星術にマッチした腕輪などのアクセサリーやハーブやパワーストーンを選定・調整できるのは、神知る人だけなのだろうと思う。まずは神仏を知ること。

 

史記天官書の分量は膨大だが、退屈と言えば退屈である。神仏を知らぬ王侯が、天変地異や反乱の発生を占星術で知ろうとしても、王侯自身がその原因の主たるところである場合が多いからである。

 

霊界占星術は、太古の膨大なノウハウをほとんど失い、今は科学ではなく眉唾みたいなものに成り下がったが、万人が神知る時代になれば、そのノウハウが復興することがあるのだろうと思う。

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ユダヤ教エッセネ派

2023-06-07 06:29:59 | イエスと救世主たち

◎エッセネ派は富を悪とする

 

イエスの時代、ユダヤ教は、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派の三派があり、イエスは、エッセネ派出身だと言われる。

 

イエスの超能力の行使ぶりを見ると、エッセネ派は、超能力志向集団かと思いきや、そうではないようだ。

 

数少ないエッセネ派に関する描写がユダヤ戦記Ⅱにあるが、教団内の資産や物は信者による共有。快楽を悪とし、自制することと情欲に溺れないことを徳とする。

現代人には信じられないかもしれないが、エッセネ派は富を悪とする。

これにより、教団全体に貧困による屈辱はない代わりに傑出した富者もいない。

 

注目すべきは、子供を親から引き離し教団で育てていること。イエスは前半生が謎だが、そのように幼いうちから教団に育てられた一人がイエスであって、特に優秀な人物だったのではないか。

 

エッセネ派では、死後も霊魂を不死と見るが、転生してくるかどうかは定かでないが、死後天国も地獄もある。

 

ユダヤ戦記では、物やしきたりの話が多く、教義や冥想修行の話は少ないが、エッセネ派から出て来たイエスが、超能力を駆使し得たことを見れば、ユダヤ教正統の伝統の承継者の一人だったのだろうと思う。

 

ユクテスワやパラマンサ・ヨガナンダは、洗礼のヨハネ、イエス、パウロが、一定水準を越えたクンダリーニ・ヨーギだったと見ている。同一の時代に覚者を連続して出せるノウハウと組織と師を備えていたのがエッセネ派だったのだろうと思う。

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物書きて 扇引きさく なごりかな

2023-06-06 06:23:33 | 達磨の片方の草履

◎芭蕉が永平寺を参詣する

 

芭蕉は、奥の細道の終わりの方で、長く同行した曾良と加賀の山中温泉で別れ、また金沢から同行してくれた北枝と永平寺手前の天竜寺で別れることになった。

 

『物書きて 扇引きさく なごり(余波)かな』 芭蕉

(夏の間、使い込んで来てなじんだ扇を引き裂くように、別れが名残惜しいことだ。)

 

実際には、芭蕉は扇にこの句を書いて北枝に形見の品として渡したもの。

芭蕉はその後、山門から5キロほども入って本堂のある永平寺を参詣。京都から千里も離れた場所に道元禅師がこの寺を建立したのは、貴いせいであるか、とあっさりした書きぶりである。

 

芭蕉はどう悟るかよりは、悟りを持ったまま生きることのほうに関心があったのだろう。

 

強風吹きすさぶパミール高原を越えて、達磨が中国に持ち込んだ只管打坐は、達磨本人も毒を飲まされ、二祖慧可は片腕を失い、三祖僧璨(さん)は卒中に苦しんだが、その身心脱落テクニックは、道元によって日本に持ち込まれた。そのモニュメントが永平寺。

 

盲目の予言者テイレシアースは、ナルキッソスを占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言した。果たして16年後ナルキッソスは、泉に映った自分の姿を見て、そこから離れられなくなり、やせ細って死んだ。

 

自分の姿を見て自分に恋をしたというのは、その美男ぶりを強調するあまりの思わせなのだろうが、本当の自分に出会うことは恐ろしいものだという裏の意味が含まれていると思う。ナルキッソスが泉で死んだのがポイントではなく、本当の自分を知ると長生きなどあまり意味を持たなくなるということのほうに比重があったのではないか。

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屍解からモクシャ往還まで-8

2023-06-05 03:30:42 | 開拓されるべき地平たち

◎肉体を残したままニルヴァーナに入り、肉体に回帰する-2

 

2.ダンテス・ダイジ

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版』によると、

クンダリーニ冥想を行い、

  1. 三柱の神霊が本人の封印を切る
  2. クンダリーニが各ボディ(肉体からアストラル体など)を上昇していく。
  3. メンタル体で肉体を離脱。
  4. クンダリーニが各神霊界(アストラル界、メンタル界など)を上昇。
  5. アートマンがブラフマンに合一
  6. モクシャ(ニルヴァーナ)
  7. 肉体に帰還

 

これは、個たるクンダリーニのエネルギーコードがニルヴァーナに合体して、その後帰還するということ。

ここまで詳細に書いてくれた人は他にはない。

 

生死を越えると言えば、わかったような気になる人も多いだろうが、それは彼我を越える、男女の別を越える、天国と地獄を越える、選り好みをしないという事であって、実はわかりにくい。輪廻転生の実情やニルヴァーナなる神と人間の関係などその知的理解の基盤となるようなある程度の確信がないと、想像もできにくいことなのだろうと思う。

 

また、ニルヴァーナに突入した場合、人間として帰還しないものだと書いている人は少なくない。だが、禅の十牛図では、最後にきっちり帰還している。その消息について、インドでは、ニルヴァーナに突入後に人間として帰還することに関心がないが、中国・日本では関心がある、とダンテス・ダイジは説明している。

 

このクンダリーニ上昇のプロセスについては、超能力・霊能力始めいろいろな悪用のされ方もあるし、またこの冥想修行を我流でやったり、わかっていない師匠についてやったりして、あたら人生を棒に振る可能性もある。それでなくても最近は、スピリチュアルに関心ありますとか天国に興味があると言った瞬間に、カルトや詐欺師が引き寄せられるの法則があるそうだから、難しい時代になった。

 

それでも本当に本物や納得できるものを求めたいという気持を持ち続けている人は少ないながらもいるものだと思う。

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屍解からモクシャ往還まで-7

2023-06-04 06:20:27 | 開拓されるべき地平たち

◎肉体を残したままニルヴァーナに入り、肉体に回帰する-1

 

尸解では、肉体消滅シーンあるいは肉体縮小シーンがつきものである。これらを有から無に向かうものとすれば、何もないところから肉体を生成するという無から有の逆方向の事象も呈示した。何もないというのは死の側で、肉体があるというのは生の側とすると、以上の2ケースは、共に生死を意図的に超える自由を実証する点においては共通している。

 

それらに対して、『肉体を残したままニルヴァーナに入り、その後肉体に回帰する』というものがある。これもニルヴァーナという死の世界に肉体を置いたまま到達し、再び肉体に帰還するということで、生死を超越し、それを実証するという点では、これまた同様の技法と見ることができる。

 

それについて、柳華陽とダンテス・ダイジの例を挙げる。

 

1.柳華陽

道教の柳華陽の慧命経に、微細身が肉体から離脱して、妙道(クンダリーニのエネルギーコードか)を上昇して「有」(アートマン)を出て「無」(ニルヴァーナ)に入る(面壁図第七)。

さらに心印懸空月影浮(大悟した心は月のように空に浮かぶ)、筏舟到岸日光融(有なる筏舟は太陽の岸に着いて融ける)と、有は無に転ずることを示す。

最後の粉砕図第八は、一円相(ニルヴァーナ)。

 

全体としてダンテス・ダイジの示したクンダリーニ上昇の秘儀に、とてもよく似ている印象がある。五番目の出胎図で体外に出たボディをメンタル体と見れば、ダンテス・ダイジの説明に似てくる。

 

チベット死者の書の無上の垂直道は、ダンテス・ダイジの言うニルヴァーナへの無上の垂直道であって、ここでは妙道として表現されているかに見える。

柳華陽は、このような世界の秘密、あるいは体験とは言えない体験をして生還したから慧命経を書き残せたのだ。よって柳華陽は、肉体を置いたまま、ニルヴァーナという死の世界に到達し、再び肉体に帰還するという離れ業をやってのけたと見ることができる。

 

ただし、生死を超える三種の方法の外形が、いずれも自分個人という肉体を中心にまわっているような説明をしているところは、霊がかりな考え方に陥りがちなので、そこは注意すべきだろう。

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ババジの謎

2023-06-03 19:01:16 | 現代冥想の到達点neo

◎神でないものとの時間を一切持たぬ人物

(2017-12-24)

 

インドでは、○○ババという人のことを尊称か愛称かわからないが、ババジと呼ぶらしい。

だからインドでは、ババジというのは掃いて捨てるほどいるので、ババジはありきたりと思うかもしれない。

ところがババジ中のババジがいる。

 

このババジは、サンジェルマンのように俗人の前には出現しない。出会う準備のできた修行者の前にしか出現しない。

その点では、ダンテス・ダイジも同じだった。出会う準備ができた人の前にしか現れない。

 

そのダンテス・ダイジが、インドのボンベイだかの町を歩いている時に、ババジと出くわして、思わずババジに対して「How did you get it?」(要するに、どうやってその高みを得たのかということ)と問うて、それをきっかけにクンダリーニ・ヨーガの真髄を伝授されたという。

 

先日、『ヒマラヤ聖者 最後の教え/パンディット・ラジマニ・ティグナイト/ヒカルランド』を読んでいて、このババジのことが出てきたので、この本は久々のスマッシュ・ヒットかなと思った。

 

この本は、著者のグルであるスワミ・ラーマのことを書いた本なのだが、スワミ・ラーマは、ババジに教えを受け、著者はスワミ・ラーマの侍者。

 

著者は、ババジのことをヒマラヤのいと高き頂から来た聖者であり、時折肉体で人の間を歩き、スワミ・ラーマのように完全に準備の整った求道者のみを指導する、と説明している。

 

著者は、スワミ・ラーマに「本当にいつもババジといらしたのですね!」と失礼な質問をしたら、「神でないものとの時間を一切持たぬ人物と、どうしたらともにいることができよう?」と返してきた(出典:上掲書P129)

 

これぞババジの本質を言い当てている表現だと思う。

 

さて書店に行くと、なんだかヒマラヤ聖者を冠した本が結構あるものだ。

 

『ヒマラヤ聖者の生活探求』、『ヒマラヤ聖者への道』は、霊がかり系であり、悟っていないが単にヒマラヤで修業したことのある行者みたいな本も結構ある。ババジ伝という本もあまり感心しなかった。

 

それほど似非ヒマラヤ聖者は多く、もちろん中国領カイラス山に登ったり、そのふもとのマナサロワル湖観光したのが証拠ではないが、時に本物聖者も粛々と歩いていることがあるのだろう。

 

ババジはクリヤ・ヨーガ(クンダリーニ・ヨーガ)の大マスターであって、かのアメリカで活躍したパラマンサ・ヨガナンダは、ババジのことを「近代インドのヨギ-キリスト」と呼んだ。

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屍解からモクシャ往還まで-6

2023-06-03 06:36:48 | 開拓されるべき地平たち

◎虚空からの肉体形成

 

尸解は、有から無の方向への肉体変成だが、これに対して無から有の方向への肉体変成の例もある。

ここでは、イエス・キリストの弟子ディディモのトマスとババジの弟子ラヒリ・マハサヤのケースを挙げる。

 

1.ディディモのトマス

十二使徒の一人ディディモのトマスは、イエスが復活して来られたとき、他の使徒と一緒にいなかったので、会いそびれた。そこでディディモのトマスは、言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」

 

さて八日の後、弟子たちは家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。

イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じた人は幸いである。」

《ヨハネによる福音書20章24~29節》

 

現代科学は、見て触れて信じるのが基本原則だが、かつまたカルトや様々なマインドコントロールにやられないためには、見ないのに信じるのは一般には危険とされる。

そうすると、何が正しく何が邪なのかを判別するのは、直観ということになるが、一言で「見ないのに信じる」のがベターと言われてもなかなか難しいところがある。

 

またイエスは岩の洞窟の墓に葬られたのだが、遺体が既になくて、イエスの遺体を包んだ亜麻布だけが残っていた。

屍解をよく知っている者にとっては、遺体は空中に煙のように分解し、跡に服や毛髪だけが残るという屍解の定番の進行に似ている。そういう目で見れば、イエスは死後三日間で屍解を行ったのではないかと思われる。

 

イエスは、尸解を行い、逆方向の肉体再形成もしてみせたのかもしれない。

 

2.ラヒリ・マハサヤ

ラヒリ・マハサヤは20世紀の人物。かれはヒマラヤの山奥でクリヤ・ヨーガの秘伝をババジから受けた。その際、どこで呼んでもババジが出現するという許しを得た。

 

その後まもなくのこと、ラヒリ・マハサヤが働いていたモラダバードの役所の友人たちに、うっかりババジのことを洩らしたところ、友人たちはババジの存在を信じなかった。

 

そこでラヒリ・マハサヤがババジを呼び出すと、その密室にエーテルから肉体を出現させ、友人達にババジは肉体に触れさせた。

そしてまもなくババジの肉体は光の蒸気のように消えた。

 

この一件でラヒリ・マハサヤはババジに叱責され、今後は呼んだ時はいつでも来るのではなく、必要な時には来ることに格下げされた。

(参照:あるヨーギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP320-325)

 

生と死を出入自在のババジであれば、このようなことは朝飯前だと思う。

 

3.ババジについて

ババジは、世が爛熟を極めた時だけに短期間にこの世に出現する神人(アヴァターラ)であって、歴史の表舞台に出てこないことと、一般人のように出産と肉体死という一生のプロセスをとらず、真剣な求道者の必要に応じて時折出現し消えるのが特徴。アヴァターラの本来の意味は、そういうものなのだと思う。

 

ババジの直弟子としては、ラヒリ・マハサヤ、スワミ・ラーマ、ダンテス・ダイジが挙げられる。密教系の秘儀の相承は、肉体を持たない師匠から弟子に行われることがままあるので、その伝で言えば違和感はない。

 

また世の中にはほとんど誰にも知られない聖者覚者もいることも忘れてはならないと思う。

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屍解からモクシャ往還まで-5

2023-06-02 05:50:23 | 開拓されるべき地平たち

◎求道と逆方向の物質に非ざる肉体操作という逆説

 

そもそも広義のクンダリーニ・ヨーガの極みとは、人が神になること。一(個)が全となり、全が一となる神人合一。よって、屍解のような一見一対一だけの流れは窮極とは関係がないように見える。

 

ところが、パラマンサ・ヨガナンダは、大聖クリシュナのバガヴァッド・ギータの中の以下の言葉を引いてクンダリーニ・ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)の本質と見ているようだ。

『至高の目標を求めつつ、視線を内なる眉間の一点に固定し、鼻孔と肺の内を流れるプラーナとアパーナの均衡した交互の流れを制止することによって外界の刺激を断ち、感覚と理知の働きを制し、我欲と恐怖と怒りを追放せる瞑想の熟練者(ムニ)は、永遠の解脱を得るに至る』

(あるヨーギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP244から引用)

※広義のクンダリーニ・ヨーガ:

 クリヤ・ヨーガ、古神道、道教、日本密教、チベット密教、ユダヤ教、西洋錬金術など。

※プラーナ:生命力(気)

※アパーナ:体内の老廃物を排除する機能を営む生命力(気)

 

これは、プラーナとアパーナという気のコントロールで生命力を統御し解脱に至るとし、気のコントロールがニルヴァーナに至る中心テクニックであることを明かしている。最終目標は、ニルヴァーナへの到達だが、それが練達のクンダリーニ・ヨーガ行者が見せる臨終が屍解であることどのような関係があるのだろうか。

 

これは、尸解であることを周辺に知らせているのだから、明らかに後進の求道者に見せている。そしてその意図は、人間は肉体という物質すら意のままに操ることさえできるということを示すということではないか。

物質を意のままに操れるということを知れば、人は自分のために悪用しようとすぐ考えがちなものだから、聖者たちは、尸解のタイミングを臨終に置くことで、そうした邪な願望を未然に阻止する。

 

人は髪の毛一本白くも黒くもできない。さらに聖者たちはそうした超能力を駆使する時は、天意天命の命ずるままの場合のみであり、我欲に随って超能力を用いることはない。

 

さらに馬には鞭を見せただけで走る馬もいれば、実際に鞭で叩かれなければ走らない馬もいるように、人にとっても究極を直感するには、百聞は一見に如かずということがある。そこで、ことさらに尸解を見せることが、相当に冥想修行が進んだ者にとっても、そういうものを信じない者にとっても必要だと聖者たちは考えたのだろうと思う。

 

密教家、超能力者は、何のために霊能力、超能力を見せるかといえば、自分の欲得のためでなく、他の人間を利するためという千古不易の基本原則がある。

 

他の人間を利するということであれば、肉体や物質上の現実操作は避けて通れない部分がある。

悟りに向かう修行において、一般に肉体や物質上の願望実現は二の次に置かれるが、密教者あるいは、広義のクンダリーニ・ヨーギがその人生の最後において尸解を見せるのは、逆に肉体や物質も重要であることを示しているように思う。肉体がありながらの大悟覚醒というのも、生身の人間にとってはのっぴきならない現実なのだ。

 

人は物質・肉体でないニルヴァーナを志向するものだが、死に際して肉体を縮小したり消したりするという尸解という肉体操作を逆説的に行うことを、その道のメルクマールとして置いていることは不思議なことである。

 

なおパラマンサ・ヨガナンダは“あるヨーギの自叙伝”で、虚空からものを取り出すアフザル・カーンなど超能力悪用の事例も上げ、悟りと関係ない超能力が危険なものであることも説明を忘れていない。

 

人は超能力と言えば自分と関係のないことだと思う人も多いのだろうが、他人の視線を感じるというのも立派な超能力だし、ある願望を立てて努力し実現していくというのも無から有を成すと言う意味で立派な超能力と言えないこともないと思う。

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屍解からモクシャ往還まで-4

2023-06-01 05:46:46 | 開拓されるべき地平たち

◎葛玄、アチョク

 

屍解の例の続き。

8.葛玄

葛玄は、中国後漢末期から三国時代の呉の道士。

『弟子の張大というものに語ったことには、「私は、天子に無理にひきとめられて、丹薬を作る暇もなかった。これから尸解(しかい)するつもりじゃ。8月13日の日中に発つことに致す」と。

 

その日になると葛玄は、衣冠を整えて室に入り、横になったまま息が絶えたが、顔の色には変わりがなかった。弟子たちが焼香しながらこれを守ること3日。夜半にわかに大風が吹き起こり、屋根をめくり樹木を折り、雷鳴のような音がして、炬火(たいまつ)も消えた。

 

しばらくして風は歇(や)んだが、見ると忽然として葛玄の姿は消えており、ただ床の上に衣服が遺され、帯を解いた形跡もなかった。翌朝隣家に訊いてみたが、隣家の人の話では、大風なんかまったく吹かなかったとのこと。風が歇むと、ただ一軒の家だけが、垣根も樹木も悉く吹き折られていた。』

(抱朴子、列仙伝・神仙伝、山海経/平凡社P416から引用)

 

9.アチョク

1970年頃の話。アチョクというチベット人行者が、

『ある日弟子たちに、「ダライ・ラマ法王の長寿を願う儀式を行いなさい」と命じた。

そして儀式が終わると、「わたしは、逝く」と宣言して、皆を驚かせたのです。

 

彼は僧衣をまとい、七日のあいだ自分を部屋に閉じ込めておくように言いました。弟子たちが師の言葉を忠実に守り、一週間して、部屋に入って見ると、師の姿は完全に消え、僧衣だけが残っていたそうです。

 

ダラムサラのわたしのもとに、弟子のひとりと、彼について修行をしていた者が、訪ねて来て、その話をし、残された僧衣の一片を贈ってくれました。』

《ダライ・ラマ死と向き合う智慧/地湧社/ダライ・ラマP179から引用》 

※わたし:ダライ・ラマ。

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