◎まとめ
垂直の悟りは、クンダリーニ・ヨーガの悟りの7ステップであり、七つのチャクラの意義が配当されている。これが冥想十字マップの縦軸。
一方横軸は、釈迦涅槃時に四禅から涅槃に入ったのだが、その主要なステップを目盛りとしている。これが水平の悟り。
水平の悟りと垂直の悟りを実現したのは、釈迦とダンテス・ダイジ。人間の求道は、水平の悟りと垂直の悟りのいずれかで足りるが、敢えて両方やって見せたことを示すのが現代における人間進化のポジションニングと言える。
水平の悟りの冥想(瞑想)技法と言えば、生の側からの覚醒である黙照枯坐の只管打坐系であり、老子、達磨、道元、クリシュナムルティが挙げられる。
この問答に出ているダンテス・ダイジの二人の弟子は、公案禅で見性している人物である。その二人を相手にダンテス・ダイジが水平の悟りの秘密を明かしている。
1.水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味。
2.水平に生きるとは、誰にも騙されず、ただ素直に、あるがままに生きられること。
3.水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。
4.水平の悟りにあっては、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって・・・。
5.人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄える。
6.水平の悟りは、生の側から窮める。垂直の悟りは、死の側から窮める。
7.恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみも、ありのままに見る。それがどんなに恐ろしいことであっても。
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』の第四章只管打坐では、例話として「絶対愛の目覚め」と「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」の二話が挙がっていて、何のことかわからず面食らう人も多いのだろうと思う。だが、水平の悟りとは、只管打坐を念頭に置いたものであると思う。
『只管打坐とは、即座に、この生きているまま、この肉体を用い、この世界に生きているまま、無限定な、永遠なる、覚自体なる覚に目覚めることなのである。神自身が神を神することなのである。』
(上掲書P113から引用)
水平の悟りとは禅的悟りだが、禅といっても、公案禅、マントラ、只管打坐、事上磨錬(作務など)など諸冥想法があるものであり、一口に水平の悟りとは畢竟只管打坐だと言い放ったところで、およそ論理性も説得力もないが、それでも感じるところのある人だけが、水平の悟りに向かうのだろうと思う。
同様に老子、達磨、道元、クリシュナムルティが只管打坐での悟りだと、誰が証明できようか。
それでも水平の悟りとは、この日常生活をまともにやっていくのさえ全身全霊を賭けないとならない時代に必要なものなのである。
大地震とか天変地異とか核戦争とか人類絶滅など恐ろしいものは数多いが、それより恐ろしいのは、一回きりのこの人生を不覚に終わることである。