アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

水平の悟りメモ-8

2023-06-23 06:42:31 | ダンテス・ダイジの風光

◎まとめ

 

垂直の悟りは、クンダリーニ・ヨーガの悟りの7ステップであり、七つのチャクラの意義が配当されている。これが冥想十字マップの縦軸。

一方横軸は、釈迦涅槃時に四禅から涅槃に入ったのだが、その主要なステップを目盛りとしている。これが水平の悟り。

水平の悟りと垂直の悟りを実現したのは、釈迦とダンテス・ダイジ。人間の求道は、水平の悟りと垂直の悟りのいずれかで足りるが、敢えて両方やって見せたことを示すのが現代における人間進化のポジションニングと言える。

水平の悟りの冥想(瞑想)技法と言えば、生の側からの覚醒である黙照枯坐の只管打坐系であり、老子、達磨、道元、クリシュナムルティが挙げられる。

この問答に出ているダンテス・ダイジの二人の弟子は、公案禅で見性している人物である。その二人を相手にダンテス・ダイジが水平の悟りの秘密を明かしている。

 

1.水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味。

2.水平に生きるとは、誰にも騙されず、ただ素直に、あるがままに生きられること。

3.水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。

4.水平の悟りにあっては、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって・・・。

5.人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄える。

6.水平の悟りは、生の側から窮める。垂直の悟りは、死の側から窮める。

7.恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみも、ありのままに見る。それがどんなに恐ろしいことであっても。

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』の第四章只管打坐では、例話として「絶対愛の目覚め」と「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」の二話が挙がっていて、何のことかわからず面食らう人も多いのだろうと思う。だが、水平の悟りとは、只管打坐を念頭に置いたものであると思う。

『只管打坐とは、即座に、この生きているまま、この肉体を用い、この世界に生きているまま、無限定な、永遠なる、覚自体なる覚に目覚めることなのである。神自身が神を神することなのである。』

(上掲書P113から引用)

 

水平の悟りとは禅的悟りだが、禅といっても、公案禅、マントラ、只管打坐、事上磨錬(作務など)など諸冥想法があるものであり、一口に水平の悟りとは畢竟只管打坐だと言い放ったところで、およそ論理性も説得力もないが、それでも感じるところのある人だけが、水平の悟りに向かうのだろうと思う。

 

同様に老子、達磨、道元、クリシュナムルティが只管打坐での悟りだと、誰が証明できようか。

それでも水平の悟りとは、この日常生活をまともにやっていくのさえ全身全霊を賭けないとならない時代に必要なものなのである。

大地震とか天変地異とか核戦争とか人類絶滅など恐ろしいものは数多いが、それより恐ろしいのは、一回きりのこの人生を不覚に終わることである。

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水平の悟りメモ-7

2023-06-22 03:52:28 | ダンテス・ダイジの風光

◎それがどんなに恐ろしいことであっても、ありのままに見る。

 

7.恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみも、ありのままに見る。それがどんなに恐ろしいことであっても。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『ダンテス・ダイジ「説明してやれ、H。それはとてもいい、坐禅についての正しい立場だ。いやなものが出てきたのを通過する感覚。」

弟子H「感覚は短くなると思う。自分が突き詰められる度合い自体が…」

ダンテス・ダイジ「その場合、突き詰められた度合いと、抜ける度合いとの関数は?」

弟子「関数?」

ダンテス・ダイジ「うん、数式で表せるはず。」

弟子「もう一回言って。」

ダンテス・ダイジ「突き詰める度合いと、それが通過できる間の時間的な関数だ。突き詰めた度合いが高まれば、通過する時間が短くなるか長くなるかってこと。」

弟子「短くなる。」

ダンテス・ダイジ「それが関数だ。本当に突き詰めれば、それだけ早く通過できる。」

弟子「緊張が起こってるときは引っ込んでることが多い?」

ダンテス・ダイジ「そのこと自体は、水平の悟りには多少役立つけど、たいして意味はないんだ。最後は、本当にジャンプしたいんならば、最後の緊張に耐えられる自己をつくるっていうこと。」

弟子「それは肉体的鍛錬じゃなく?」

ダンテス・ダイジ「最終的には、その人の意識だろう。どんなことにもくらまされない意識。それと気力だね。はっと気が付いたら10時間20時間くらい経ってたっていうところまで行くと、もう近いだろう。こうやって座り込んで、只管打座でもいいし、クンダリニー・テクニックでもいいけど、いつの間にか気づいて、昼ごろから始めたのがもう真夜中だったとか、そのときそれが坐禅の力というか、覚醒の力、切羽詰まってくればそうなる。10時間くらいあっという間に過ぎちゃうよ。静寂の中で。

その頃になるとだいぶ有望になってくる。」

 

弟子「それは定力?」

ダンテス・ダイジ「定に入ったこと。あれ、次の日だ。こうなってくると、もう近い。座った瞬間、ぐっと入っちゃう。」

弟子「そうならないってことは、まだやりたいことがあるってことか。」

ダンテス・ダイジ「十分に見てないってことだろうな、現実を。」

弟子「時期が来てないってこと?」

ダンテス・ダイジ「そうも言えるけど、単純に見てないだけだよ、現実を。自分が死ぬという現実。年老いるという現実。人間のエゴのトリックという現実。見てたらやらざるを得ない。定力もへったくれもなくなる。」

弟子「そういうのは後からつけた名前に過ぎないし説明の仕方にすぎないわけでしょ。」

ダンテス・ダイジ「うん。Hだって、この辺が調子悪いって(病院)行ったら胃癌だ、あと三日だ、なんていったらやるだろ。これをやれば助かるとか、これをやれば死を超えられるとか。それは感受性の度合って言ってもいい。つまり自分の中に少しでも嫌なものがあるということは嫌なことだ。

次に、自分の中のものを嫌だと規定していることを止めることだ。もし嫌だと思い続けていたら、それは通り過ぎる。それをちょうどこの薪(まき)を見るように見るんだ。

それは恐ろしいことだ。自分に近いことというのは、人はそういう風には見えない。ここにビールがこれだけ残っている。これをこういう風に見ればいいだけだ。自分の中のあらゆるものを、恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも何もかも。喜びも悲しみもこういう風に見ればいい。」

弟子「多くの場合は、偏見を持って見るってところがあるわけね。」

ダンテス・ダイジ「ていうより、自分のことだから見えない。見えるようになってくる、どういうわけか、只管打座をやってると。ここが不思議な所だ。坐禅ていうのは不思議なもんだな。仮に見えなかったら、今度は見えないという事実を見るという風に行っちゃうわけだな。そこだ。そこでもう、ドン詰まりになって、疑いようのないそこに達するわけだ。疑いのようのないここと言ってもいい。疑いようのない安定、絶対の地盤っていうか。ベース。」』

 

この問答の前半は、自分に向き合うことを突き詰めていくことと、『本当にジャンプしたいんならば、最後の緊張に耐えられる自己をつくる』ことがクリティカル・イシューだとしていること。

この問答の後半は、『最後の緊張に耐えられる自己』に必要なものは、どんなことにもくらまされない意識と気力(定力)だとし、その説明をしている。

漠然と読むと、(只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも(水平でも垂直でも))一日十時間も坐れるようになれば悟りに近いということは頭に残るが、どうすればどんなことにもくらまされない意識と気力(定力)ができるのかは、この問答では明かされていない。

『坐禅ていうのは不思議なもんだな。仮に見えなかったら、今度は見えないという事実を見るという風に行っちゃう』とは印象的である。

ダンテス・ダイジは、只管打坐については、ごちゃごちゃ理屈を言うよりまず坐りなさい。実際に坐るということに絶対性があるとも語っている。水平の悟りは、『疑いようのないそこ』なのだろうか。

また『本当にジャンプしたい』かどうかも問われる。

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人類絶滅を回避する3つのポイント

2023-06-21 06:41:51 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ちょっとの違い

 

1.苦しいこと、困難なことを本当にいやだと思うこと

世の中には、苦しいこと、困難なことを本当にいやだと思う人がいて、一方で苦しみや悩みがまんざらでもないと思う人がいる。

その差はちょっとではなく、天と地の差であり、人類絶滅を防ぐ鍵は意外にもそこである。

そこが冥想しようと思う人と思わない人の差。苦しいこと、困難なことを本当にいやだと思う人は、自分に素直に向かい、神仏に向かい冥想(瞑想)に向かう。また苦しみや悩みがまんざらでもないと思う人は、それをそのままに日々の生活を続けていく。

 

2.無用の用

無用の価値をわかる人は、コストパフォーマンスを無視してかかるからちょっと変わり者と思われるかもしれない。無用の用とは、世間的には役に立たないことに価値を見出すこと。それは実は、物質より精神を優先することであり、自分のことより他人のことを大事に思うということ。あるいは、この功利的な世界観・価値観を棄て、神の御意思を生きること。それは、しばしば価値観が逆転することであって、逆十字や倒立として象徴的に表現される。

 

3.選り好みをしない

選り好みをする人は悟れない。癖が強いとかこだわりがあること、ブランド好きを何かよいことのように見るのもほどほどに。

選り好みをしないのは、自分を極小にしていって、天の意志、神仏の意思つまり天機・天命を生きることだが、それには一度自分が死ぬという意識の極限状態を通過せねばならない。

そこで、選り好みをしないということは最終的には、彼我を越える、男女の別を越える、天国と地獄を越える、生死を越えるということになっていく。

 

人類絶滅を回避する3つのポイントと言えば大上段に振りかぶった物言いだが、そのポイントは、あまりにも身近な日常の行住坐臥にある。

ちゃんとわかった人ほどそれを大声裡に言わないのは、愛のデリカシーの故である。

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水平の悟りメモ-6

2023-06-20 03:49:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎水平の悟りと垂直の悟り

 

6.水平の悟りは、生の側から窮める。垂直の悟りは、死の側から窮める。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『ダンテス・ダイジ「水平の悟りを選べば、水平の悟りっていうのは、面の皮が厚くなることも含めてだよ。鈍感になることも含めてだよ。

垂直の悟りっていうのはまた違った次元に出ることだ。これは決定的に違った次元だ。まさに信じられないような次元だ、死後とは。」

 

弟子「そのとき、横と縦の次元が完成したとき、立体的に生きる。」(笑い)

ダンテス・ダイジ「理論的にはそうなるよ。』

 

水平の悟りでは、鈍感になるが、垂直の悟りでは繊細になる。

ダンテス・ダイジの以下のハタ・ヨーガの定義からもそのことが裏付けられている。

『主に、無数のアサナとプラーナヤーマとムドラーによって、デリケートな感受性と柔軟性を実現していく。その結果、各ボディのブロックも徐々に消えていくわけだが、現代の生存競争と現代物質文明に必須の粗雑な自己防衛機能も消滅するエゴの危険も覚悟しておいたほうがいい。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ27-28から引用)

※ムドラー:冥想姿勢または体位

 

水平の悟りとは、生きている人間であるからには素直に選ぶべき選択肢かと思いきや、無数のあらゆる生命たちの、生きるということに対する神秘とその努力から来る渇望感を感じるが、それは恐ろしいことでもある。

垂直の悟りは、クンダリーニ上昇からニルヴァーナを目指す死の世界の道だが、自己防衛機能も消滅するエゴの危険があって、却って生きづらくなるリスクもはらむ。

さらに一般法則として、冥想法とその結果について二重の不確実性がある。

水平の悟りと垂直の悟りが交差するのが冥想十字マップだが、その図式を実体験する道は言うほど簡単ではない。

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水平の悟りメモ-5

2023-06-19 06:36:19 | ダンテス・ダイジの風光

◎本当に生きているエネルギーの充実感

 

5.人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄える。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『弟子「臨済の悟りっていうのは水平の悟り?」

ダンテス・ダイジ「臨済の悟りっていうのは、要するに全部そういう感覚を経験して分かっていながら、それを超越したときに起こるリラックス。人はたとえばいい状況だったらリラックスできるだろ?悪い状況だったらリラックスできないだろ?そういうことを抜きにした安定感。」

弟子「それを水平の悟りっていうわけ?」

ダンテス・ダイジ「うん、そう。そのとき本当に生きているエネルギーの充実感っていうのが流れる。」

 

弟子「ヘルマン・ヘッセっていうのはどういう人だったの?」

ダンテス・ダイジ「水平の悟りに達した人。水平の悟りっていうのは、おう、何でも来いっていうのが水平の悟りではないからね。嫌なものは嫌って、好き嫌いの激しい水平の悟りの人もいる。」

ダンテス・ダイジ「禅がおそらく最後の宗教になるだろう。人類がもし破滅しないで済めば。破滅するなら、その直前にクンダリニーが栄える。が、人類のどの程度がやるかは保証ないよ。全員がやるとは言わないよ。いろんなずっこけ方があるからね、人は。だって苦しみも実はまんざらでもないんだ。が、苦しみが本当に苦しいなら、坐禅組みたまえ。」』

 

臨済の悟りを典型的な水平の悟りとし、【俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって、】全部そういう感覚を経験して分かっていながら、それを超越したときに起こるリラックスにして、本当に生きているエネルギーの充実感と説明している。

 

なお臨済の悟りは臨済録では、こんな感じ。

※師:臨済のこと。

『問い、「祖師達磨が西の方インドからやって来た意とは何ですか。」

師は答えた、「もし何か意があったら、自分の救いさえ全うできない。」

問 い、「意がないとしますと、二祖はどのようにして法を得たのでしょう か。」

答え、「得たというのは、得ないということだ。」

問い、「得ないと いたしますと、その得ないことの意味は何ですか。」

答え、「君たち が、すべての所に馳せ求める心をやめきれないから、だから祖師はいわれた、『馬鹿者、丈夫たる者が、頭をもちながら頭を探すという愚かな まねをする』と。

君たちがその言下に、すぐに回光返照して自己に取って返し、断じて別に求めず、この自己の身心は祖仏と別でないと悟って、即座に無事である、その時こそ法を得たというのである。』

(禅家語録1 筑摩書房 臨済録P351から引用)

 

『断じて別に求めず、この自己の身心は祖仏と別でないと悟って』というところは、クンダリーニ・ヨーガなら第六身体アートマンにあっては、自分も祖仏も別でないということ。この七つの身体論の説明が、より理解しやすいからといって、だからといって水平の悟り(禅)より垂直の悟り(クンダリーニ・ヨーガ)の方がよいということにはならない。

 

人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄えるという予言は意味深長である。

ソドムの町には、破滅直前に10人の正しい者もいなかった。それを前提に、クンダリーニ・ヨーガが栄えると言っても少数の人間しかクンダリーニ・ヨーガをやってはいまいだろうというニュアンスが仄見える。

一方人類がもし破滅しないで済むシナリオの一例として、出口王仁三郎予言で言えば、山陽地方で10万人、山陰地方で10万人などと残存人口を見ているが、その伝でいけば、日本全体でもせいぜい残存数百万人。生き残った日本人の中で禅的冥想をするのがほとんどということはあるまい。ほとんどの人が禅的冥想をしていれば、そのような人口激減はないだろうし、困難に素直に直面する冥想という技に取り組まず、依然として苦労、困難がないとやってられないという旧時代タイプの心性の人も相当数残っていることを見ている。

新時代、至福千年、みろくの世では、苦労、困難がなくとも神仏道を実感できている人ばかりの時代である。その辺が、『が、人類のどの程度がやるかは保証ないよ。全員がやるとは言わないよ。いろんなずっこけ方があるからね、人は。だって苦しみも実はまんざらでもないんだ。』という彼の発言に出ていると思う。

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水平の悟りメモ-4

2023-06-18 04:21:17 | ダンテス・ダイジの風光

◎水平の悟りと垂直の悟りを同時に生きる

 

4.水平の悟りにあっては、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって・・・。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『ダンテス・ダイジ「水平の悟りっていうのはさ、今こうやっているときの、弟子A自身の充実感。それに腰を下ろしたっていう感じだ。何もかもいいっていう。リラックスっていえばリラックスだし。何一つ問題はないということ。たったそれだけ。単純明快、それを水平の悟りというの。」

弟子「すべてを受け入れることができたときっていうの?」

ダンテス・ダイジ「うん。でもそれだけじゃない。すべての感覚もキャッチしていると同時に、たとえば、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚がここに流れている。感じ取っている。何だって起こり得る。分かる?

そしてまた、永遠に俺が生きているという感覚もここにある。まったく同時にある。

あるいは、無数のあらゆる生命たちが考えている、生きるということに対する神秘と、その努力。神秘と渇望感。ここにある。

が、それは恐ろしいことだ。」

 

弟子「それはって?」

ダンテス・ダイジ「その両方を実現するっていうこと。つまり、ただここでリラックスできるわけだ。一切理屈抜きにリラックスするっていうことが水平の悟りだ。

それに対して、垂直の悟りっていうのは、実際に死後に入るっていうこと。

その二つが合わさって生きるっていうことは、恐ろしいものでもある。すべてであること。が、それはおそらく人間の最後の体験だ。人間っていう存在が持ちうる。」』

 

水平の悟りとは、何もかもいい、何一つ問題はないということ。そこに『俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にある。』のだが、それは恐ろしいことだと説く。

この弟子は、既に水平の悟りにあることを認められているのだが、水平の悟りの深みについて、自分の気づいていない部分をダンテス・ダイジから解説されている。

これも、起こることは起こったが何が起こったのかはわからなかった、の相。

ダンテス・ダイジの解説は思わぬ方向に向いていく。すなわち、水平の悟りと垂直の悟りを二つ合わさって生きることは、恐ろしいものでもあるとし、それはすべてであることだが、それはおそらく人間という存在が持ちうる最後の体験だとする。

当たり前だが、これを証明するには、自らも水平の悟りと垂直な悟りを同時に達成せねばならない。つまり禅の悟りとクンダリーニ・ヨーガの悟りを同時に達成せねばならない。一生のうちにそれができる人間は、この時代にはまだ稀だが、そういった人すらも続々と出てくる時期があると、彼は見ているのだろうか。

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サキャ・パンディタ格言集から-1

2023-06-17 06:02:30 | 浅い霊感から神人合一まで

◎現象をよく理解し三昧に心を静め、過失とそのもとを捨て去れば仏になる

 

サキャ・パンディタは、13世紀チベットの人物。その格言では、覚者の処世術を述べるが、オーディンの箴言や、ベン・シラの知恵、ソロモンの知恵のように、表面は単なる古老の経験談に見えて、実は真理の信じられないような深淵から来るところの知見が混じっているものだ。

サキャ・パンディタの格言集から

『441

瞑想すれば聴き学ぶ必要はない、と

愚かで度量の小さい人は言う。

聴き学ばずに瞑想だけに

励んだところで畜生の修行である。

 

442

因果の法には例外はない、とは

一切智者のすぐれた教えである。

学ばずに全智に至るなら

因果の法がどうして真実か。

 

443

聴き学ばない瞑想は

暫くは成就してもすぐだめになる。

金銀はよく溶けても

火から離せばすぐ硬くなる。

 

444

智恵によって深く観察し

過ちの原因を捨てるのが瞑想である。

身体の汚れを洗うように

瞑想しても永いことすると元通りになる。

 

445

すぐれた因果が完成しなければ

たとえ無我を理解しても仏にはなれない。

最高の方便で達成しなくても

真実を見るものは阿羅漢である。

 

446

それゆえもろもろの現象をよく理解し

三昧に心を静め

過失とそのもとを

捨て去れば仏になる。

 

447

智恵がなければ

いい論書でも誰が手にするか。

宝をちりばめた金の飾りは

美しくても牛が見ようか。

 

448

賢者がすべての格言は

真実だと分かりつつ

実践しないのなら

論書を分かってもなにになろう。

 

449

自分に必要な論書は

一日一句覚える。

蟻塚と蜜蜂のように

またたくまに賢者になる。』

(サキャ格言集/岩波文庫P192-195から引用)

 

441について:スマホの時代になって、検索はするが長い書物で学ぶことは以前より少なくなったのではないか。大概の覚者はよく本を読んでいるものであって、冥想だけする者は、邪見に陥りやすいのだろう。

 

442、443について:覚者は、冥想フリークであるだけでなく、よく古典を学んでいるものだ。霊感だけでは、心もとないものだ。

 

444について、現代人は冥想不足で勉強不足だが、ここは当時のチベット僧院の冥想はするが不勉強な様を嘆いている。

 

445について:すぐれた因果の完成とは、精神の成熟をいう。また、ここは知的理解だけでは無我を知ることはできず、見ている自分を残しているが見仏のほうがましだとする。仏になるのは、その先。

 

448について:因果の理法を知っていても、そのとおり善だけを行い悪を行わない人物もいるのだろう。

 

449について:こうした箴言集でも一日一句覚えて、行動を徐々に改めていけば、賢者になり、今生かどうかわからないが、いつか覚者になる。

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水平の悟りメモ-3

2023-06-16 06:43:21 | ダンテス・ダイジの風光

◎救世主であることの条件は悟っていること

 

救世主であることの条件は悟っていること。それは、水平の悟りでも垂直の悟りでもよい。

以下ダンテス・ダイジ講話から。

 

3.水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。

『弟子「じゃあ水平方向で目覚めているのが救世主の必須条件?」

ダンテス・ダイジ「どっちでもいいよ、垂直方向に目覚めても(笑い)。」

弟子「しかし現実との対応ができない、垂直方向に目覚めただけの人は救世主として救うことはできない・・・」

ダンテス・ダイジ「うん、どっちかというと隠者になる。付き合っちゃいられないからね。水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。彼は一個超然としている。かといって付き合いづらいかというとそうでもない。

だが黙っていると怖い感じがする。話してみると気に置けない。それでいて、適当なことには調子を合わせているが、肝心なことになると一歩も譲らない。」

弟子「ダイジみたいなもんだ。」

ダンテス・ダイジ「それで、首をちょん切ると脅しても譲らないで、ああ切るなら切れ、これが真実だって言ってゲラゲラ笑って、軽くギロチンにかかる。『人に瞞着されず』って臨済録にある、これがそれだ。

人に騙されず。実は人間は人に騙され続けてるのだよ。人から人へ、条件付けされてるのよ。俺は俺だ。分からないなりに俺だ。分かったなりに俺だ。(笑い)どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。

俺は両方言ってるからこんがらがるかもしれないけどね。」』

 

垂直の悟りで行けば、隠者になりがち。ただし、空海、天海、役行者、出口王仁三郎のように隠者でない者も出てくることがある。

水平の悟りで行けば、本当に人々に役立つ存在になる。

『実は人間は人に騙され続けてるのだよ。』とは、教育、政治プロパガンダ、経済商業プロパガンダ、そしてそれに影響された周辺の人々からの口コミ・スマホによる壮大なマインドコントロールの日常に暮らす、われら人間を指す。

そして騙され続けている自分である限り、水平の悟りにはならない。禅的悟りが必要なのだ。

『俺は俺だ。分からないなりに俺だ。分かったなりに俺だ。(笑い)どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。』

この『分かった』とは悟っていることを指す。悟っても悟っていなくともいいんだというのがこの『どっちでもいいんだ』だが、これは、道元が悟り(身心脱落)も悟っていない者の修行も同じだ(修証一如)と言っているのと同義。

そのことについて、既に悟った者がそれを言うのは真実だが、まだ悟っていない者がそれを言うのは嘘だと思う。

OSHOバグワン風に説明すれば、万人は既に悟っているが、それに気がついている人と気がついていない人がいるだけ。

このダンテス・ダイジの『どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。』は、その辺の呼吸である。

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水平の悟りメモ-2

2023-06-15 03:14:18 | ダンテス・ダイジの風光

◎君が愛人と出会う時そこにはどのような意味での必然も偶然もない

 

2.水平に生きるとは、誰にも騙されず、ただ素直に、あるがままに生きられること。

 

以下ダンテス・ダイジ講話から。

『弟子「『イリュージョン』の中でね、飛行機乗り、リチャード・バック、あれはどうなの、最後は。ドンが認めるじゃない。リチャード・バックを。救世主卒業。あれはどういうこと?」

ダンテス・ダイジ「よきナワールになったな。水平の悟りができたな。お前は誰にも騙されず、どんな人にも引っかからず、媚を使わず、ただ素直に、あるがままの内発性を生きられるようになったな。

救世主だ、まさに!

禅的だな。全体は非常に神秘的だね。

で、あそこの卒業式、よくぞ言ったと。自己に忠実に話す、それのみが真実の在り方である。救世主卒業。いいじゃないか、自己に忠実に話す。人が何て言おうと。

そして初めて他人を他人と見る、そのあるがままに。』

 

リチャード・バックのイリュージョンという小説で、元祖救世主のドナルド・シモダが観客の一人にショットガンで撃たれ急逝する。死後ドナルド・シモダは肉体としてリチャード・バックの前に再生し、そこでリチャード・バックのことを、もう救世主として合格だと認める。

ここでは、垂直の悟りと水平の悟りとの比較は出てこない。

ただそれは、禅では通例神秘的などとは言わないが、禅的にして、全体は非常に神秘的、さらに誰にも騙されず自己に忠実に話すが、あるがままに初めて他人を他人として見る、と水平の悟り時の日常感覚を明かしている。

イリュージョンの中に「救世主入門」の断片が掲載されている。救世主入門は、かつてのベストセラーであるリチャード・バックのイリュージョンの中にその断片がいくつか出てくることで知られる。

後にダンテス・ダイジは、何期かあったアトランティス時代の末期に、“愛”を忘れた当時のアトランティス人のために出版した本が「救世主入門」であるとする。そしてリチャード・バックは、当時ダンテス・ダイジと会ってさえもいるという。

 

原典救世主入門から一部をご紹介

『救世主は

ただ一つの生き物しか

救うことはできない

その一つの生き物とは

君自身である

 

君は自分の中に

救世主が住んでいるのを知っている

救世主を閉じ込めてはいけない

それは絶対に避けるべきである

 

友人は君について

君の知人が

千年かかって知るより

はるかに多くのことを

出会いの一刹那で知るだろう

 

君が愛人と出会う時

そこには

どのような意味での

必然も偶然もない

時を忘れた時の中で

君は思い出すだろう

愛人との

いくたびもの戯れのすべてを

 

君達すべての者に告げる

君達が遭遇する事件はすべて

君達自らが招き寄せたものである

その事件の発展の方向を決めるのは

もちろん君達であって

神ではない

 

君が

生きたり死んだりするのは

君が選んだ

無数の見方のうちの一つにすぎない

君がその見方を

気に入っているのなら

生きたり死んだりすればいいし

気に入らないのなら

捨てればいい

 

世界の遊戯に寄与する

君達の使命が

終了したかどうかを判断する

簡単な基準がある

もし 君達が生きていれば

瀕死の重傷で

かすかに息がある場合でも生きていれば

まだ使命は終わっていない』

(十三番目の冥想 雨宮第慈講和録 渡辺郁夫編P111-113から引用)

 

生の側から窮めるのは、遊戯のようである。

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水平の悟りメモ-1

2023-06-14 03:32:34 | ダンテス・ダイジの風光

◎水平の悟りは生の側を極める、垂直の悟りは死の側を極める

 

おおまかに言えば、禅的悟りが水平の悟りで、クンダリーニ・ヨーガの悟りが垂直の悟り。水平の悟りは生の側を極める悟りで、垂直の悟りは死の側を極める悟り。

冥想十字マップ参照

 

水平の悟りについて、そのように一言で言えば、わかったような気になるかもしれないが、類似の概念や説明を見つけようとしてもなかなかないので、水平の悟りについて、ダンテス・ダイジの講話から抽出してみた。

 

1.水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味。

※この「死ぬ」は自殺のことではない。

 

『それは本当にパーフェクトなものだ。完全なものだ。至福なものだ。全生命がそれを求めている、その最後の底にあるもの。それは愛と言ってもいい。自由と言ってもいい。全知全能と言ってもいい。そういったものを誰でも持っている。

 

で、それは死によって起こる。自分が全部消える形によって起こる。今までの古い自分が死んだときに起こる。で、死に方に二つある。水平に死ぬのと、垂直に死ぬのと。垂直に死ぬっていうのは、霊的に死ぬという意味だ。水平に死ぬというのは、禅的に死ぬという意味だ。」』

 

「霊的に死ぬ」で想定されているのは、クンダリーニ・ヨーガにおけるクンダリーニ上昇から脱身、そしてニルヴァーナへの突入。クンダリーニ上昇以降が死の世界で発生しているイベント。最後は自分も死ぬ。

 

「禅的に死ぬ」とは、自分の心は死に、外的対象も死に、そして両方とも忘れてしまうこと。(「心境双び忘ず。乃ち是れ真法なり。」:黄檗希運の『伝心法要』)

 

そこで禅では、本来の自己である仏に出会うためには、自分を死なねばならない(大死一番)などと言う。

 

なお、この講話の内容だと、水平の死でも垂直の死でもどちらも本当にパーフェクトなものに出会うとしており、違いは不分明。

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違いを理解できないもの

2023-06-13 19:28:08 | 只管打坐neo

◎身心脱落と臨済禅

(2008-11-21)

 

何も事前の知識のない人々にわかりやすく説明するためには、違いを明らかにしなければならない。只管打坐ですら、道元とクリシュナムルティと老子は同じ境地を語っているらしいということはわかっても、クリシュナムルティも老子もその坐法と境地の連動について何も語らない。従って最近の文書による論証という手法では、論理的な組立てはできない。

 

また只管打坐と臨済禅の悟りがどう違うかということも、明確にはしにくい。両方の悟りを体験した者だけがそれを知るわけだが、そうした特別の人物が両方の悟りを得たことを、他の悟っていない第三者に証明できるわけではない。

 

面山は、只管打坐のことを純禅と呼び、黙照禅と呼び、臨済系の看話禅と区別している。面山は、黙照禅の身心脱落の境地を華厳経なら海印三昧のことであり、法華経なら無量義処三昧で、般若経なら三昧王三昧であると断言している。

 

ところがこの黙照禅の身心脱落の境地はこれを実体験した者のみがこれを確認できる(唯証相応の境界なる)とも面山は述べており、誰でも理屈で理解できるものではないとして、論理的証明のできないことをも認めている。

 

只管打坐と臨済禅の両方で悟った者を捜すのがてっとり早いが、理屈で言えば、臨済禅も只管打坐も釈迦正伝なので、釈迦こそが両方悟っていたということになるが、それでは何の説明にもなっていないところがある。

 

その境地が、ある特定の坐法の先にあるかどうかの説明はできないが、本当かどうか確かめるためには、自分でその体験とは呼べない体験に飛び込むしかない。

 

これでは禅をやろうということについて、社会へ訴求する力はないのだが、それができなければ、人類滅亡之境を見るというジレンマがある。

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屍解からモクシャ往還まで-9

2023-06-13 07:07:07 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐あるいは身心脱落の謎

 

ダンテス・ダイジの言行の中に、クンダリーニ・ヨーガと並んで、只管打坐こそ最高の冥想メソッドの一つだというものがある。

 

これは、只管打坐で身心脱落へと進むメソッドが、究極であるニルヴァーナに到達できる単純にして優れた冥想手法であることを言っている。

 

ところがいわゆる禅的悟りと言った場合、その悟りは、どんな坐法で起こるのかという点で只管打坐に関しては、怪しい議論となってしまう。

 

中国で禅は、看話禅と黙照禅に分かれ、おおまかに言えば看話禅が臨済禅の流れとなり黙照禅が曹洞禅の流れとなる。

ところが禅は達磨以来しばらくはそもそも看話禅と黙照禅に分かれていなかった。

 

また達磨、二祖慧可の頃は、多分公案はなくて、ただ坐るだけだったのではないか。

臨済宗では、数息観、公案、マントラ禅(無、隻手)などを行い、只管打坐はなかったことになっている。ところが坐法(ポスチャー)は、意識状態に対応して発生するの法則があり、臨済宗の修行者でもとある意識状態に立ち至れば、只管打坐から身心脱落は起こり得るのだろうと思う。

 

臨済系は、大応、大燈、関山、至道無難、正受、白隠と覚者がずらりと並び、ニルヴァーナ(モクシャ)に到達したことは紛れもない。曹洞宗系は、道元を一つのピークとしている。

 

禅的悟りだからと言って、臨済系の覚者たちが、最終シーン直前では、只管打坐の姿勢になり身心脱落したかといえば、そこまでは言えない。だからと言って、曹洞系の祖師たちが(只管打坐により)全員身心脱落したかと言えば、それもまた言えない。

 

冥想には、あらゆる可能性がある。そして坐らなくとも可能性があるかに見える。事上磨錬というのは、毎日仕事を一生懸命かつ精密にやることで悟る方法である。禅の六祖慧能は坐らず毎日米つきばかりやっていたが、それでも悟ったのは、その一例とも言える。

 

そのように人は、さまざまな冥想法で悟り得るが、坐る冥想でない場合もあり得ることを、冥想のあらゆる可能性という。

 

一方でダンテス・ダイジは、公案禅のジュニャーナ・ヨーガとしての可能性は認めている。また、それに併用される場合があるマントラ禅(隻手・無)などの可能性も認めている。特筆すべきは、身心脱落において、七つの身体を急速に突破しているとつぶやいていること。

 

七つの身体を突破するとは、クンダリーニ・ヨーガのプロセスであるが、身心脱落においては、そのプロセスがあまりに早すぎて途中の段階に気がつきにくいということも言っている。というのは、禅的悟りを開いた者が、釈迦と背比べしたら、釈迦の足は雲の遥か下の地獄の底まで届いているのに、自分のは短くて釈迦の背丈の上の方で足をばたばたさせているという話も出している。

 

これは、ダンテス・ダイジは、老子の悟境は禅的悟りだと見ており、急速に起こったがゆえに、高さは十分だが深さは今一歩であると見ていることを言っている。

 

この辺は、論証も追実験も容易ではないが、いつかやってくれる人も出てくるのではないかと思う。

 

釈迦臨終時に、四禅から出て最後涅槃に入ったなどというのは、おそらく事後にそれを見に行った人物が確認したからこそ言えることだと思う。そのように只管打坐あるいは身心脱落にまつわる謎を解明してくれる人が出ることを期待したい。

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10分間室内ウォーキング

2023-06-12 03:21:51 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎雨の日、風の日、猛暑の日対策

 

雨の日、強風の日が続くと所定のウォーキング距離が稼げないので悩む。季節柄猛暑の日も言わずもがな。昨夏は、真剣にウォーキングマシンの購入も検討したが、モニター画面を眺めながらの30分ウォーキングというのは、目(め)的にも、精神的にも、どうかという点がひっかかって結局購入しなかった。

 

昨夏は、早朝30度近い中、外でウォーキングも何度かしたが、一日の内で最低気温ではあったが、健康にむしろ害なのではと思われ、継続しなかった。そういう経緯を経て、きくち体操にたどりついた。

 

きくち体操を始めて9か月。毎日1時間やっていたが、最近は30分にした。下半身の動きは以前に比べると、普通の人に大分近づいた。腕の弱りも若干改善しているが、何か対応を考える必要は依然感じている。

 

『14日間challenge StayHomeWorkout by 中野ジェームズ修一』は、一日10分のスクワットとランジを14日間続けるものなのだが、既に2か月経過。膝、ふくらはぎ、足首が結構しっかりしてきた。

フランジと呼ばれる前方へのランジは、片膝に力が入るものだが、きくち体操にはないメニュー。またスクワット・メニューの豊富なバリエーションも10分も継続するのに大変助けになっている。

 

それに【おけたに整骨院の片足立ち1分】

https://www.youtube.com/watch?v=fFMiNmD8lcc&t=363s

これは、始めて1週間くらいなのだが、まだ全然改善はみられない。30代平均の55秒を目標としているが、道は遠い。60代平均は20秒の由。これは、きくち体操でいうところの『頭と足をつなぐ』バロメーターではないかと思われ重要だと思う。

 

それに『10分間室内散歩(ウォーキング)by竹脇まりな』を3日ほどやってみた。これこそ猛暑の季節の本命ウォーキングだと思った。

もっとも、自分だけでの散歩ステップの倍くらいのピッチで歩数が進むので、結構きつく、今のところ10分が限度。当面20分を目指したい。特にサイドステップは、きくち体操にはないメニュー。若向けメニューなのだろう。

 

以上のように、最近は片足立ちのための筋トレとストレッチが最優先になっている。

 

室内ウォーキングは、日本のyoutubeでは動画が少ないが、アメリカでは沢山上がっている。アメリカでは、女性が外を歩いたりジョギングしたりというのは、基本危険(特に夜)だというのがあって、室内ウォーキングの動画が発達しているのだろうと思った。

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誰もが悟れるチャンスだが最悪のピンチでもある

2023-06-11 03:46:00 | ダンテス・ダイジの風光

◎のっぴきならないリアルな現実

 

あなたは、最愛の愛人と大親友が目の前で溺れている時に、どちらか一人しか救えないとしたら、どちらを救いますか?

 

ダンテス・ダイジの講話は、未悟の者が漫然と聞いていると半分以上はわからないで終わる。

以下の話は、過去一度は読んだことがあったが、その恐るべき重要性に今頃になって気がついたので出してみる。

 

ダンテス・ダイジの講話テープから。

『ダンテス・ダイジ「そうではない。たとえば、A女(最愛の愛人)とB男(大親友)が両方とも溺れていて、どっちを救うかっていったら、どっちを救ってもいいんだ。近い方を助ければ。

 

共産主義っていうのは、これに立脚しなかったが故に、駄目になっちゃった。こういうクレイジーな智恵に。

 

それは恐るべき知恵だ。なぜならその瞬間、自分が決断して、そして自分が一番大切なものを失ったときの全面的な悲しみと、しかしそれでも一つの命を助けたっていうことに関する全面的な喜びとが、拮抗しあうだろうよ、多くの人にとっては。その瞬間だ、ジャンプする可能性があるのは!

 

が、水平の面から言えば、自分の一番近い人から助ければ文句なしだ。僕はどっちがいいとは全然言っちゃいない。ただ宇宙構造の話をしているだけだ。」

 

C男「そのときジャンプの可能性があるの?」

ダンテス・ダイジ「うん。」

C男「そのときなの?」

 

ダンテス・ダイジ「まさにそのとき。その決断を下した決断そのものに覚めている。通常の人間ならそこで葛藤が起こるだろう。だからクリシュナムルティっていうのは、ある意味でいえば、ハートより上でしか生きていない。彼は常にそうするだろう。一番近い人から助けるだろう。どちらが大切ということはないと言い切るだろう。でも俺は、全部を生きてるからね(笑い)。時と場合によってどうなるか分からない。俺は七つ(のチャクラ)全部で生きてる。」

 

C男「クリシュナムルティは、胸から下で生きるとやばいからそうしてるの?」

 

ダンテス・ダイジ「ではなくて、胸から下で生きたら人類が破滅することを知ってるからだ。一方的に自分が胸から上、ハートから上の世界に生きなければ示しがつかないっていう。自分一人だけでも頑固に。」』

 

この対話で最ものっぴきならない部分は、大悟覚醒がまさに発生するタイミングが【自分が一番大切なものを失ったときの全面的な悲しみと、しかしそれでも一つの命を助けたっていうことに関する全面的な喜びとが、拮抗しあう】タイミングだと述べているところ。

 

※水平の面:これは、水平の悟りと垂直の悟りがあって、おおまかに言えば、禅的悟りが水平の悟りで、クンダリーニ・ヨーガの悟りが垂直の悟り。冥想十字マップ参照。

 

※胸から下で生きる:下方三チャクラで生きることを言う。

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この世のテーマ

2023-06-10 06:46:40 | アヴァターラ神のまにまに

◎霊感にはまらないことと「愛、ニルヴァーナ、永遠」

 

ダンテス・ダイジがこの世のテーマについて語る。

※ダン:ダンテス・ダイジのこと。

※渡辺:弟子の一人

 

『渡辺「この世が無常だということと、神の世界が瞬々刻々移り変わるということとはどう違うの?」

 

ダン「テーマがあるんだ。この世のテーマというのは何かというと、テーマのないテーマ。この世のテーマというのは欲望のテーマなんだ。一つの天気があるでしょ。そのいい天気が来たら、それを固定しようとするんだ。それがこの世のドラマなんだ。

 

この世の人類の歴史というのは、全ていい天気だけを固定しようとした努力なんだ。いい天気だけ固定することなんか人間にはできないんだよ。絶対に。

 

それと同じように悪い天気というのも固定できないんだよ。永遠に雨が降ってる国なんてどこにもないのさ。」

 

渡辺「例えば、アトランティスに全盛期があって、それがやがて滅び去ろうとした時にダンは再び出ていったわけでしょ? それはいい天気を固定しようとしたんじゃないわけ?」

 

ダン「うん、固定しようとしたんじゃなくて、本当にいい天気ということは、さっき言ったハッピーということは、天気を越えた空なんだ。それを忘れないでほしい。それが預言者なんだ。君達なんだ。君達の中にいる。

 

海は荒れたり、ものすごく静かになったりするよ。彼は出ては消え、出ては消え、それを無限に繰り返すよ。でも、海そのもの、それは常に実在している。空そのもの、それは常に君達の頭上にあるんだ。それが君達の中の預言者なんだ。

 

そしてね、天国の風景というのは、言うなれば、空のテーマというのは愛なんだ。愛というテーマの中で織りなされる 無常なんだ。一つのドラマが演じ終わるでしょ。すると次のドラマができる。そういうのが、霊界、天界の姿なんだ。

 

そして、天界というものを釈迦があまり語りたくなかったのは、霊感の方に人間が偏ることを嫌ったからなんだ。そして彼が言ったのは、ニルヴァーナなんだけど、ニルヴァーナというのは、言ってみれば、ドラマはいいから抜きにして、とにかく愛がある、空がある、海が永遠にあるということ。

 

言っておくけど、この地上の空や海というのは永遠じゃないよ。ただ比喩として言ってるだけだからね。この空も、この海も、この大地も必ず終わる時が来るよ。だけど、それをあらしめているもの、それをあらしめている空、それは永遠だ。」』

(十三番目の冥想 雨宮第慈講話録/渡辺郁夫編P73-74から引用)

 

この会話を文字に落としてくれたので、ダンテス・ダイジは、愛、ニルヴァーナ、永遠を同義で使っていることがわかる。

後に七チャクラあるいは七つの次元に七属性があり、その一つが愛だと説明しているので、ニルヴァーナの属性の一つを愛としているのを見れば、ここで何を言っているかがわかる。

またニルヴァーナは時間のない世界のことなので、永遠とも表現されることがある。

 

また『天界というものを釈迦があまり語りたくなかったのは、霊感の方に人間が偏ることを嫌ったから』とさらっと説明しているが、霊感にはまると際限がなくなり、なかなかニルヴァーナにたどり着かなくなるから。

 

禅で頓悟、漸悟などというが、霊感にはまるのは漸悟である広義のクンダリーニ・ヨーガ的行き方であり、冥想修行者は一生を費やしても結局わからなくて終わることになりがちなことがある。

 

世の中の宗教シーン、スピリチュアル・シーンでは高次元、高次というのが大流行だが、その考え方で進むと玉ねぎの皮むきのようになかなか探求に終わりが見えないまま沼(はま)って一生を終わる懸念がある。

 

ダンテス・ダイジの人類史観でいえば、既に人類はアトランティスの最盛期に霊能力・霊感万能の時代を経てその文明が滅亡を見ており、再度この時代に繰り返す必要はない。そのことは、釈迦も承知していた。

 

この回答の冒頭に『この世のテーマというのは何かというと、テーマのないテーマ。』などといきなり出しているが、これもわかりにくい。そしてその説明は、人は欲望実現した場合、その永続を期待するがそうはならないということと、逆に人には欲望実現しなくともいつか実現する時節があるものだという意味をもにおわせている。

 

そういうあまりにも覚者としての常識と日常感覚を平気でふんだんに盛り込んだ説明を面前で聞いた場合、半分も理解できないだろうという印象は、その会話の文字起こしを今読んでも変わらない。

 

受験勉強だけメインにやってきた大学生に、そうした求道方面の正しいガイダンスは、今でもほとんどなく、正体を隠したカルトやスピリチュアル詐欺師につけこまれる土壌は今でも変わらないのではないか。

 

スケベ心あるいは、余計な期待はせず、本物を求める情熱を持って探求し続ける人だけが最後まで行きつくということは、今でも変わらないのではないか。

 

道教の魏伯陽は自分が死んでみせて、スケベ心のある弟子を排除した故事がある。

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