アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-9

2023-02-22 16:54:08 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-6

(2006-09-05)

 

山から降りて、海に臨むキャンプ場に向かったバーナデット・ロバーツは、虚無と直面することになった。それまでの彼女には、「一なること」に達せられたという大きな解放感があった。

 

そして、それまでは常に「大いなる流れ」「一なるもの」と他のものの区別がない立体鏡で見えていたのが、この海岸にきた途端に、すべての差別が溶解していく先が得体の知れない虚無になってしまった。

 

『しかし絶えず虚無をみていることが、耐えがたく恐ろしいとしても、私がある朝海岸を歩いていて出会ったことに比べれば何でもありません。

 

私は突然周りのすべての生命が完全に停止してしまったのに気がつきました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに進入して生命を奪ってゆくのです。皆忍び寄る虚無に息をつまらせ、断末魔のうめき声を発する他ないのです。生命が急に抜け落ち、その後には死と崩壊しかありません。

 

これは奇怪な恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。わたしの身体はその場に凍りついてしまったのです。

 

一瞬思ったのは、この光景から目をそらせ、何らかの説明を与えて片づけること、合理化してしまうことでした。しかしその途端に、私にはその手だてが何もないことに気がついてはっとしました。

 

そしてその時はじめて、自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることがわかりました。自己がなければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きられないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P39~40から引用)

 

彼女は、この「恐怖も起こらず、逃げもできず、虚無を見守り続けるという生きた心地もない状態」から、海岸から2キロも駆け降りることで、逃げおおせることができた。

この虚無の恐怖を、彼女は氷の指と呼んでいる。これはあらゆる様相の恐怖と狂気が寄せ集まったもので心理的な殺し屋だとしている。

 

そしてまた、自己を脱ぎ捨てることは、どんな敵がいるかわからないところで武器を手放すようなもので、全く狂気の沙汰であると評価している。

 

まことにもって自我をなくす、自己を捨てるということは、神に対してオープンになっていくのと同時に、悪魔に対してもオープンになるということという危険性をはらむものであることがよく分かる。彼女は、虚無が悪魔だとは言っていないが、ここは自己を捨てることは捨てたが、捨てきれていない揺り戻しと見たい。捨てきるというのは、とても難しいものなのだと思う。

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