◎水平の悟りと垂直の悟りを同時に生きる
4.水平の悟りにあっては、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にあって・・・。
以下ダンテス・ダイジ講話から。
『ダンテス・ダイジ「水平の悟りっていうのはさ、今こうやっているときの、弟子A自身の充実感。それに腰を下ろしたっていう感じだ。何もかもいいっていう。リラックスっていえばリラックスだし。何一つ問題はないということ。たったそれだけ。単純明快、それを水平の悟りというの。」
弟子「すべてを受け入れることができたときっていうの?」
ダンテス・ダイジ「うん。でもそれだけじゃない。すべての感覚もキャッチしていると同時に、たとえば、俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚がここに流れている。感じ取っている。何だって起こり得る。分かる?
そしてまた、永遠に俺が生きているという感覚もここにある。まったく同時にある。
あるいは、無数のあらゆる生命たちが考えている、生きるということに対する神秘と、その努力。神秘と渇望感。ここにある。
が、それは恐ろしいことだ。」
弟子「それはって?」
ダンテス・ダイジ「その両方を実現するっていうこと。つまり、ただここでリラックスできるわけだ。一切理屈抜きにリラックスするっていうことが水平の悟りだ。
それに対して、垂直の悟りっていうのは、実際に死後に入るっていうこと。
その二つが合わさって生きるっていうことは、恐ろしいものでもある。すべてであること。が、それはおそらく人間の最後の体験だ。人間っていう存在が持ちうる。」』
水平の悟りとは、何もかもいい、何一つ問題はないということ。そこに『俺はすぐにでも死ぬかもしれないという感覚と、俺は永遠に生きているという感覚が同時にある。』のだが、それは恐ろしいことだと説く。
この弟子は、既に水平の悟りにあることを認められているのだが、水平の悟りの深みについて、自分の気づいていない部分をダンテス・ダイジから解説されている。
これも、起こることは起こったが何が起こったのかはわからなかった、の相。
ダンテス・ダイジの解説は思わぬ方向に向いていく。すなわち、水平の悟りと垂直の悟りを二つ合わさって生きることは、恐ろしいものでもあるとし、それはすべてであることだが、それはおそらく人間という存在が持ちうる最後の体験だとする。
当たり前だが、これを証明するには、自らも水平の悟りと垂直な悟りを同時に達成せねばならない。つまり禅の悟りとクンダリーニ・ヨーガの悟りを同時に達成せねばならない。一生のうちにそれができる人間は、この時代にはまだ稀だが、そういった人すらも続々と出てくる時期があると、彼は見ているのだろうか。