◎芭蕉が永平寺を参詣する
芭蕉は、奥の細道の終わりの方で、長く同行した曾良と加賀の山中温泉で別れ、また金沢から同行してくれた北枝と永平寺手前の天竜寺で別れることになった。
『物書きて 扇引きさく なごり(余波)かな』 芭蕉
(夏の間、使い込んで来てなじんだ扇を引き裂くように、別れが名残惜しいことだ。)
実際には、芭蕉は扇にこの句を書いて北枝に形見の品として渡したもの。
芭蕉はその後、山門から5キロほども入って本堂のある永平寺を参詣。京都から千里も離れた場所に道元禅師がこの寺を建立したのは、貴いせいであるか、とあっさりした書きぶりである。
芭蕉はどう悟るかよりは、悟りを持ったまま生きることのほうに関心があったのだろう。
強風吹きすさぶパミール高原を越えて、達磨が中国に持ち込んだ只管打坐は、達磨本人も毒を飲まされ、二祖慧可は片腕を失い、三祖僧璨(さん)は卒中に苦しんだが、その身心脱落テクニックは、道元によって日本に持ち込まれた。そのモニュメントが永平寺。
盲目の予言者テイレシアースは、ナルキッソスを占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言した。果たして16年後ナルキッソスは、泉に映った自分の姿を見て、そこから離れられなくなり、やせ細って死んだ。
自分の姿を見て自分に恋をしたというのは、その美男ぶりを強調するあまりの思わせなのだろうが、本当の自分に出会うことは恐ろしいものだという裏の意味が含まれていると思う。ナルキッソスが泉で死んだのがポイントではなく、本当の自分を知ると長生きなどあまり意味を持たなくなるということのほうに比重があったのではないか。