◎起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった
肉体が死ぬと原初の光が発生する。以下の文では、原初の光のことを根源の光明と訳しているが、改めてその性質を見てみる。
『これまでに説明したように、心身の一切の構成要素は、死の過程で崩壊していく。肉体が死ぬと、五感や微細な四大元素が溶解し、さらには心のなかの通常の相が、怒り、貪り、無知といった煩悩とともに断たれる。こうして今世で悟りの心を覆っていたものがすべて取り除かれると、心の真の在りようを妨げるものは何ひとつなくなり、雲ひとつない澄みわたった空にも似た、根源なる究極の本質が顕れる。
これを「根源の光明がたちのぼる」という。ここにおいて意識そのものが法界へ、遍在する真理の空間に溶け込んでしまう。『チベットの死者の書』にはこの瞬間のことがこう述べられている。
一切の本性は虚空(そら)のように、空(くう)であり、さえぎるものなく、赤裸々である
中央も周辺もない、光り輝く空性そのものである
清浄にして、赤裸々な明知(リクパ)がたちのぼる。
またパドマサンバヴァは光明についてこう述べている。
始めの始めより生じることなき光明
おのずと生まれでた光明は、それ自体父母を欠いた明知の子供-―なんと驚くべきことか
誕生を体験することもなく、死の因を內包することもない――なんと驚くべきことか
明らかに見えるのに、誰一人見ることができない――なんと驚くべきことか
輪廻のなかを彷徨(さまよ)いながら、なんら害をこうむらない――なんと驚くべきことか
仏性そのものと逢いながら、なんら益をこうむらない――なんと驚くべきことか
どこにも、誰のなかにも存在しながら認識されることはない――なんと驚くべきことか
にもかかわらず、あなたはこれ以外の果をどこか別の場所で得ようとする――なんと驚くべきことか
あなたのなかのもっとも本質的な部分であるにもかかわらず、別の場所にそれを求める――なんと驚くべきことか』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ著/講談社P425-426から引用)
この説明によれば、原初の光とは、父母未生の自分であり、本来の自己であり、宇宙全体であり、アートマン。つまり呼吸停止、脈拍停止して、肉体死が完成した時に、神仏を見るのだ。これは解脱への最大のチャンスである。
ところが、ソギャル・リンポチェは、「原初の光が立ち昇るのがすなわち悟りだという説を唱える者もいるが、そうではない。何が起きたかを把握できて初めて悟りなのだ。」というニュアンスのことを述べている。つまり、起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった場合があるということ。イエス来臨を毎日願っている人の許に、ある早朝イエスが降臨したが、当の本人は眠っていて気づかなかったのと同じ。
ここが、死んだ人すべてが悟るわけではないということ。
ソギャル・リンポチェは、微細にして広大な深みと絶対的な無限さをとらえるだけの準備ができていないと取り逃がすと言っている。
大量死が起こる時、人は、発狂・自殺するか、退行するか、大悟するかの三種に分かれるというが、誰の死のプロセスにおいても、解脱、大悟のチャンスは平等に訪れる。しかしながら、それをゲットできるのは、事前の準備ができていた者に限られるのだろう。