紅露の写真日誌…北の大地・夢空間

小樽・札幌の風景、イベントが中心

ジュエリーアイスを撮る

2018-01-30 06:00:00 | 旅行

                                        <朝日に黄金色に輝くジュエリーアイス 豊頃町大津海岸にて>

 

ここ最近テレビや新聞で盛んに取り上げられているジュエリーアイス。氷の宝石ですが、十勝川で出来た氷塊(これが海に流れ出ると、流氷と呼ばれる)が河口付近で壊れ、さらに荒波でもまれ、氷同士がぶつかり合って、やがて砂浜に打ち上げられます。砂浜に打ち上げられた時には、不思議なオブジェに替わってます。それに朝日が当たると、まさにダイヤモンドのような輝きを発します。これがジュエリーアイスと呼ばれるようになりました。

今や豊頃町の大津海岸には、大勢のカメラマンが押し寄せてきます。中にはツアーバスで来る方もおられ、朝夕大勢のにわかカメラマンで賑わいます。ジュエリーアイスの発生のメカニズムは分かりませんが、マイナス20度を下回るような厳寒の地で花咲くダイヤモンドです。

1月22日、午前1時頃自宅を出て高速で帯広に向かいます。池田で降りて、国道を豊頃町、大津海岸に向かえば、日の出前には十分到着できます。 ですがナビに頼りすぎて、池田を通過、さらに次のインター本別をも通過、なんと高速道を下車したのは、もはや北見に近い足寄町でした。さらに豊頃に入って、大津海岸の場所が不明、あちこち探し回って、現地に着いたのが、7時半頃。すでに日の出から1時間も経過していました。事前にルート、撮影場所の調査が出来てなかったツケが…

 


海岸に向かおうと進むと、撮影を終わった方々が引き返してくる…これから海岸に向かう方もいるし…

 


砂浜に出ると、海面からものすごいケアラシが出ている。

 


浜辺にはまだまだ大勢のカメラマンがいるので、ほっと一安心。

 


まずは砂浜に打ち上げられた氷の内、形の良さそうなのを選んで、パシャリ。

 


近くにカップルがいる。カップルを絡めて数カット、パシャリ。

 


ボディキャップレンズ(超ワイドレンズ)を使って数カット。ダイヤモンドらしくなってきました。

 


砂浜に打ち上げられた氷は、ご覧の通り、砂まみれで、決して美しいとは言えませんが、これを太陽にかざすと、一転、ダイヤのような輝きになるから不思議。

 


なぜこのような円形の穴が出来るのか、不思議です。打ち上げられた氷のどれを見ても、大小様々な丸い穴が空いています。

 


夢中で撮影しているときがつきませんでしたが、ほっと一息つくと、顔がやけにひりひりする。相当気温が低いと思われる(後刻、売店の方に聞くと、今日はマイナス19度だよと)。波打ち際の砂が、波が来るところは普通の砂ですが、もう少し陸側は、打ち寄せた波が凍っている。画面中央の帯状の砂は、凍っているんです。塩分を含んだ砂が凍っているのは初めて見ました。

 


砂浜に打ち上げられ、砂まみれの氷は、ご覧の通り、とてもジュエリーとは呼べない。

 


ところが朝日に当たると、透明な部分が宝石の輝きに一変する。イカの頭にも似ている。

 


様々な氷のオブジェ。どれ一つ同じものがない。羽を広げた鳥にも…いや、エイに似ているかな。

 


動物の形をした氷が積み重なって…不思議なオブジェに変身。

 


駐車場の向かいの空き地にはテント張りの売店があって、温かい飲み物やお菓子類が売られている。

 


小豆ミルク1杯300円、冷えた体には良く効く。

 


高速道への戻り道、十勝川沿いの河川敷で見かけた、ダイヤモンドダストらしき現象。バックが日陰で黒いと、もっとキラキラが目立つんですが、凍死する前に引き上げました(笑)。

 


このキラキラ光る浮遊物は、川沿いから道路側に流れ、瞬く間に消えてしまった。

 

☆1月26日NHKテレビの道内ニュース番組(PM6:10~「ほっと北海道」)でも、この豊頃町大津海岸が取り上げられました。この時は夕方の撮影らしく、ジュエリーアイスが青色に輝いておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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モノクロ写真の数々…その2(高校・大学の頃)

2018-01-24 06:00:00 | 日記

                                  <昭和39年7月夏休みに、自動車部の道内沿岸一周遠征で、釧路教育大の寮に宿泊したとき>

 

今回は、隣町に通った滝川高校時代(昭和34年4月~37年3月)と大学時代(昭和37年4月~41年3月)の計7年間に撮りためたモノクロ画像を集めてみました。中学生の頃あれほどカメラに熱中していましたが、高校時代に撮った画像は…殆どありません。受験のために、日夜机に向かっていたことを思い出しました。夜は深夜番組の受験講座を聞いておりました。「四当五落」と言われていた時代で、受験勉強に明け暮れ4時間しか寝ないものが受かり、5時間寝るものは失敗すると言われた頃です。

わずかに学校祭の画像しか残っておりません。また大学時代はクラブ活動として自動車部に所属し、北海道沿岸一周するなど、大いに遊びに力を入れました。この頃からフィルムがカラー化し、カラー全盛期に入っていきます。大学の三年次に、ゼミを除く全単位習得したので、四年次はもっぱらバイトにせいをだし、質屋で購入したのが「OLYMPUS-PEN F」というハーフサイズのカメラでした。Fのドイツ語風飾り文字にひかれて…

 

☆高校時代(昭和34年4月~37年3月)は受験勉強に明け暮れて…
殆ど撮っていませんでした。わずかに、2年、3年次に学校祭を撮ったのがわずかに数カット残っています。その時クラスの女の子を数カットついでに…


3年E組(昭和36年)の時で、学校祭の前後だったと思います。中央のNさん(腕組み)は、卒業の数年後に病死されたと聞きました。とても可愛く活発で、誰からも好かれていただけに、残念で気の毒…

 


セミ版のカメラ(パール3型)で、コマがつながってしまい、スキャナーが一つの画像(6×9)認識したために、このようになりました。

 


学校祭の仮装行列は、街中へ繰り出します。

 


多分、2年次の時の学校祭の出し物「火星人とスペースシャトル」。ただ当時はスペースシャトルという言葉がなく、ロケットと言われていたように思います。教室(2階)から、市中引き回しが終わって、戻ってきた時です。地球儀がぼろぼろ。

 


火星人は、このように思われていました。

 


2年D組、ロケットはリヤカーで、女子生徒にひかれて、市中引き回し。

 


市中引き回しが終わり、戻ってきた工作物は、グラウンドに集められ、このあと燃やされ、周囲でスクェアダンスが行われました。

 


3年次、卒業式当日、同級生と記念撮影。左が私。右の少し厳つい彼は、江部乙町(現在は滝川市に編入)のI君。

 

☆小樽商大時代は、自動車部に所属して…
手っ取り早く運転免許が取れると目論んだものの…朝里の自動車学校で、部員5人ほどが一緒に試験を受けましたが、学科は難なく全員パス、ところが実技は、5人中一人のみが合格。私は登坂で、エンスト。元に戻ってと、試験官言われ、あえなく早々に失格決定。これは難しいと思い、翌年の春休み、帰省したおりに、滝川の自動車学校に通い、免許を取得しました。


自動車部の同級生は5人のみ。学生服着ているのが私。もう一人のS君は撮影側。当時の車は電子部品なぞ無くて、全てリレー式でした。なので故障というと、即潜り込んで作業をするため、部員はつなぎ服が普通でした。

 

 

当時大学の校舎は薄い緑色の木造で、その色から「緑丘」と呼ばれていました。文字通り山の中腹にあって、小樽駅からは徒歩で30~40分ほどかかりました。バスも最も近いのが、富岡町の第2大通で、そこからも歩いて15分ほど。この緑色の校舎には、小林多喜二も、その1年後輩の伊藤整も通いました。この校舎は残念ながら老朽化で取り壊され、今は鉄筋の校舎に替わっています。

 


3年次(将は39年7月)の夏休みに、自動車部で北海道沿岸一周遠征に出ることとなりました。なにぶん部の所有自動車は2台のみ。小樽市内の自動車関連企業の先輩にお願いして2台借り入れて遠征に出かけました。上の画像は、天塩辺りで、側溝に脱輪した祭さいのもの。先行する車が、後続車の来ないことをいぶかって、逆戻りしたら、事故ってた。当時この国道は、1時間に車が1台も来ないこともあって、助けを呼べず、側溝から引き上げるのも大変でした。

 


釧路教育大の寮に1泊しましたが…なんと夏休み中のため、広間の畳は全部片付けられていました。やむなく隙間だらけの板の上にごろ寝。 

 


昭和38年5月4日撮影、小樽水族館のGWのイベントらしい。現在の水族館はもっと左奥にありますが、当時は海岸淵にありました。現在の「民宿青塚食堂」の当りでしょうか?

 


その時屋外テントで、いとこ達と昼食を食べているシーン。

 


当時は土建業を営む親戚宅に下宿していました。見るからにクラシックな家でした。食事はここで働く従業員達と同じ食卓でした。部屋の中央に炉端があって、ヤカンがいつもシュンシュンと湯気を立てていました。

 


ここの2Fの二部屋に、いとこと住み込みの従業員と同居です。財政学が専攻で、原書を読んでいるところを自撮り。

 


3年・4年次のゼミは「早見ゼミ」で財政学、租税論が中心でした。わずか3名のゼミでしたので、毎週発表があるんので、原書(イギリスから取り寄せ)を読みこなすのも大変でした。

 


卒業アルバム(1966=昭和41年)から転載。北大と商大の応援団の対面式の様子。

 


凄いね、むしろ旗が時代を感じさせる。対面式は4年間で、一度ここを通りすがったときにちらっと見ただけ。現在は花園町のサンモール1番街で行われてますが、当時は、三ッ山病院前の三角広場で行われていました。今は三角形の公園になっていますが…

 


懐かしい画像ですね、緑丘祭の写真ですが、私たちS37年入学時、1年生は全員男子生徒、1年上に女子学生が2名おりました。全学生780人の内、女子学生は、わずか2名だけでした。そのうちのひとかたがギター演奏を披露したんですね。4年間在学して、1度も緑丘祭を見たことがありませんでした。ここ数年は毎年撮影に行っております。
追記:当時講義の時は、女子学生2名の周囲から席が埋まるという…(笑)

 

 

 

 

 

 

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モノクロ写真の数々…その1

2018-01-18 06:00:00 | 日記

                      <昭和33年、中学3年生の時 この年野球日本シリーズで、西鉄ライオンズが3連敗のあと、稲尾の4連投で逆転優勝した年>

 

私が写真に興味を持ち始めたのは中学生時代でした。昭和30年代前半ですから、日本経済が戦後の復興からめざましい発展を遂げてきて、高度経済成長期の途上でした。昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれ、今で言う流行語のなったのを覚えております。カメラ業界も著しい発展を遂げ、子供心にも、ほしいと思い、友人と豆腐売りのバイトをしたことがありました。いかんせん田舎の砂利道でしたから、荷台に積んだ桶の中の豆腐は、売れる前に粉々に…。

その頃カメラを持つことが田舎でも流行となり、役場に勤めていたオヤジが、大枚はたいて買ったのが小西六(後のコニカ)製のパールという、蛇腹のカメラ。隙を見てはパールを持ち出して、中学校で同級生をパチリ、パチリ、女子生徒の追っかけをやり、先生に怒られたことも二度三度にとどまらず。当時はカラーフィルムはまだ一般的ではなく、モノクロ全盛時。と言うことで、第1回目は、中学生の頃のモノクロ写真を取り上げます。

 


昭和34年頃の正月(?)かな、役場の官舎ですが、なにぶん旧病院の建物を簡易手直ししたもので、すきまだらけ。窓なども新聞紙で目張りをして雨風、雪の侵入を防いでます。朝起きると、破れた目張りのすきまから吹き込んだ雪が、扇型に入り込んでいた、なんて今では考えられないような粗末な建物でした。

 


現代のような遊びの機械器具もなく、道具のない多人数での遊びが中心。

 


横の空き地で、ミカン箱を台にして、近所の子供達がままごと遊び。後方にくみ取り用の柄杓があるのが笑える。もちろんトイレは、便層へのドボ~ン式でした。時折跳ね返ってくることがあり、お釣りが来たと笑っておりました。

 


今では殆ど見られなくなった、大根干し。昔は秋になるとどこのウチにも、大根干しが見られました。

 


私が育ったのは、空知管内の雨竜町という、人口7000人(今は2千数百人という)ほどの田舎。遠方に冬なのに自転車を乗ってる人がいる。右が私、左が、一緒にバイトした豆腐屋の息子T君。残念ながら彼は理容学校在学中に病死した。二十歳前の若さで…

 


中3の時の遠足で、隣町(新十津川町)へ行く途中の尾白利加川に架かる吊り橋で、休憩中の一枚。

 


ひょうきん者のM君。

 


遠足先の新十津川町玉置神社境内にて。

 


中央が熊坂校長先生、右が国語の山路先生、左が…思い出せない。手にはカメラを持っており、当時大流行したことを物語っています。

 


修学旅行は、ここ函館と十和田湖でした。ご存じ湯ノ川のトラピシチヌ修道院の、聖ミカエルの像の前でクラス別集合写真。

 


途中の奇岩石ヶ戸の上からパチリ。

 


昼休み時間は、体育館でのバスケとボールが普通。腰に手ぬぐいが…

 


この画像は昭和34年3月卒業式後の謝恩会での一コマ。蛇腹のカメラを自慢気に見せるTM君。

 


昭和33年8月、オリエントモデル撮影会の一コマ。写真屋のオヤジさんに誘われ、全くモデル撮影の知識・経験も無いまま、豆腐屋のT君と一緒に参加して、パチパチ。場所は雨竜町神社の境内です。

 


同じく境内にある、何かの記念碑の前で撮影。数年前にこの神社を訪れたときには、この記念碑はなくなっていた。

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小樽街中風景~あふれかえる中華系外国人

2018-01-11 08:27:53 | 街中ウォッチング

                                                <小樽運河は中華系外国人で大賑わい…>

 

今年の正月は比較的穏やかな日々に恵まれました。12月中下旬のあの記録的な暴風雪と寒さはどこへ行ったのやら、1月に入ると、一転暖気続きで、道路は日中はまるで春先の雪解け道で、ぐしゃぐしゃ。でも夕方からはがちがちのアイスバーに早変わり。我が家の前の通りは、南小樽駅から、小樽観光街のメルヘン交差点に続く道路で、毎日大勢の観光客が通ります。中には雪が珍しいのか、足を滑らせ転ぶ方、新雪に飛び込む方もいて、見ている方がはらはらどきどき。

6-7日は、恒例のどんど焼きが始まります。小樽市内では、住吉神社、龍宮神社、水天宮など3大神社をはじめ、各地域の神社でどんど焼きが行われます。どんど焼きと言っても、内地のそれとは幾分様子が違って、注連縄をはじめとする正月飾りやお札が主です。道内では、まゆ玉や門松を飾るという風習がない(と言うより廃れてしまったのかも)ので、小物が中心です。

今年は、6日(土曜)に龍宮神社に撮影に行ってきました。ついでに、小樽駅前の「三角市場」「都通商店街」「サンモール1番街(花園アーケード商店街)」そして「小樽運河」を巡って戻りました。

 

☆三角市場は元々は地元客がメインだったのが…
今はすっかり観光客がメインのお客になってしまいました。特に食事時間には身動きの出来ないほど混み合います。店内の食事処は長蛇の列。99%は東南アジアからの中華系観光客です。
<三角市場とは>
昭和23年頃、小樽駅前において7〜8軒の露天商がお店を出したのが始まりです。その後、出店者が相次ぎ、近郊地域の石狩地方や後志地方、遠くは上川地方や日高地方から、来客はもとよりも買出しに訪れる人々で賑わいをみせ、朝市として発展しました。小樽駅と国道5号線の間に位置しています。 名前の由来は、土地と屋根が三角の形をしていることからつけられました。(三角市場HPから)


ココは鮮魚店がTAX FREEだ。カニをはじめ干物などが飛ぶように売れる。鮮度を保ったまま、自国まで持って帰れるのだろうか、ちょっと気になります。

 


食堂入り口はメニューに見入る一で一杯。

 


やっと椅子席が三つ空いた。

 


メインの通りの横道は、食堂の順番待ちのお客でびっしり。三つ空いたくらいじゃ、焼け石に水…

 

☆龍宮神社のどんど焼き
住吉神社に比べ敷地が狭いせいで、どんど焼きが本殿の目の前で行われます。カメラマニアとしては、どんど焼きと参拝客を同時に取り込めるというメリットがあります。


直径5mほどの雪雪囲いのなかで行います。右は、煙を寄せて無病息災を祈るご婦人。わたしゃ金運を…イヤ、フォトコン入選運を…

 


炎をあげて燃える正月飾り。

 


右側の社務所ではおみくじも売っていました。

 


200円投じてつかみ取ったおみくじは…小吉、正月2日に住吉神社でひいたおみくじも末吉。内容はほぼ同じ。

 


本殿でお参りする参拝客。よく見ると門松があった。小樽市内で門松を見たのは、ここが初めて。

 

☆商店街は…ここにも外国人観光客が…

 


小樽駅からすぐ近くの都通商店街ですが、すれ違うときに聞いた言葉は日本語でない方が半分近く。格好でも分かりますが…

 


中央のポスターの女性の視線に誘われ、パチリ。店内にいる3名(左にもう一人)はいずれもアジア系外国人でした。

 


地元では老舗に入る「西川のぱんじゅう店」、ここにもアジア系外国人が入っていきました。
<ぱんじゅう>詳しくは、2014.3.16付当ブログ「小樽銘菓『ぱんじゅう』…???」を参照のこと。

 


オーセントホテル小樽横通りのナナカマドの赤い実が目立つ。鳥たちにとってナナカマドの実は、不味いらしい。つついているのを見たことがありません。

 


サンモール1番街に入って目立ったのがこの看板。小樽以外の方には分からないかもしれませんが、ランドセルとナップザックを足して2で割ったものと言えば分かるかも。小樽市内の小学校では、殆どがこのナップランドが主流です。軽くて安いのが人気で、ランドセルが数万円するのに対して、ナップランドは、5-6千円です。そういえば入学用品のセール期間ですね。

 


花園町掖済会病院側の塀に展示されている、色んなグループの展示物。商大写真部の展示が目をひきました。中でも特に目をひいたのが次の作品。

 


写真部の部員が手宮緑化植物園で撮影会をしているようですが、左端の女子学生の動きが良いですね。ステップを踏んでいるようで活き活きしてます。目をひきました。

 

☆小樽運河は8-9割はアジア系外国人観光客


観光バスで次々とやって来て、記念写真を撮っては戻っていきます。滞在時間は多分30分も無いと思います。撮ったデジタル画像を、フォトショップCSで、ネガ反転して、さらにネガ反転すると…100%もと画像には戻らない、なんとなくHDRっぽくなったりして…(笑)

 


彼らが記念に撮る、最もオーソドックスな撮り方がこれ。 皆さんいい笑顔、

 


おっ、と思う可愛い子がやって来た。右側から彼氏(アジア系外国人)が撮っている。

 


モデルのような方達(アジア系外国人)、ちょい加工しています。

 


重いコートを脱いで記念写真

 


そのうちの一人が背中を大きく出して撮影。肩までだしかかって、思いとどまった(周囲の目を気にした?)。この日この時間の温度は、プラスとは言え、0.3℃です。うう~寒い!

 

これだけ外国人観光客が小樽に来られることは喜ばしいこととですが…、所詮観光は水もの。ちょっとしたきっかけがマイナスに作用する不安感もあります。 

 

 

 

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新年明けましておめでとうございます

2018-01-05 06:00:00 | 日記

                                                                              <小樽街中新年風景 年明けは、それまでの暴雨風雪とは一転、暖気が流れ込み、雪解け状態>

 

新年明けましておめでとうございます。
昨年は北朝鮮からのミサイルが北海道上空を飛ぶなど、何かと物騒な世情続きでした。また異常気象で道内もあちこちで台風による災害が発生しました。清水寺貫主が書かれた「今年の文字」は「北」でした。今年は平穏無事、平和な年であってほしいと願うばかりです。

さて毎年ブログに書いておりますが、二世帯住宅の我が家は、年末は孫1と孫3の誕生日(23日、31日)があります。加えて約一月も早くなった根雪と12月中旬以降の台風並みの暴雨風雪、まれに見る冷え込みが続きました。すっかり体調を崩し、31日から元日にかけてダウンしてしまいました。おまけに、PCまで不調、年賀状の裏面は印刷できたものの、差出人、宛名面が印刷不可能に。やむなく全て手書きで、エッチラ、オッチラ、

 


12月26日猛烈な暴風雪のなか、南小樽駅から我が家の前の三本木急坂を下り、オルゴール堂、北一ガラスのある、メルヘン交差点に向かう観光客達。

 


そんなある日、昨年暮れに入選した浦幌町の秘境駅小幌フォトコンテストの賞品が届いた。活ホタテ、実際に届いたのはこの3段重ねほど、食べきれない。隣近所、お向かいさんにもお裾分け。しばらく、刺身、天ぷら、酢の物等ホタテ料理が続きました。賞品は、このほかにハム、ソーセージの詰め合わせ、特産イチゴソーダ(なんと道民には懐かしい、「リボンちゃん」の絵の付いた)1カートン。

 

 
31日大晦日は、孫3(中2)の誕生日。私は体調不良で自宅で寝込み、家内が撮った画像を利用しました。今日で14歳、成人式まであと6年、じいさんもあと6年頑張らなきゃ。孫の晴れ姿を写さにゃな~

 


2日、風邪も抜けて、やっと出歩けるまでに回復、さっそく近くの住吉神社にお参りに行くことにしました。年末までの悪天候も、元日、2日と陽が時折顔を出すまでに回復。

 


去年と同じ末吉。あまりよいことはかいてない。病気&交通事故に気をつけろと…

 


住吉神社から入船町を回ってメルヘン交差点へ向かう。この赤いシャッターは畳屋(絨毯・敷物など)ですが、以前から気になっていた店(シャッターが)。ここで注目は、内地と違い、門松がないことです。代わりに紙に書かれた「謹賀新年」の文字があるだけ。左柱上部に小さな紙製の松飾りがあります。これが商店の一般的な正月飾りです。民家では殆ど何も飾っていません。

 


メルヘン交差点にある堺町郵便局の赤ポスト。綱が張られ、横綱~!と言いたくなります。小雨・みぞれがちらつく中、カップルがおどけながら横切る。

 


31日からの暖気で道はぐしゃぐしゃ、夜になると一転、がちんがちんのでこぼこ、つるつる道になる。

 

 

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