紅露の写真日誌…北の大地・夢空間

小樽・札幌の風景、イベントが中心

モノクロ写真の数々…その2(高校・大学の頃)

2018-01-24 06:00:00 | 日記

                                  <昭和39年7月夏休みに、自動車部の道内沿岸一周遠征で、釧路教育大の寮に宿泊したとき>

 

今回は、隣町に通った滝川高校時代(昭和34年4月~37年3月)と大学時代(昭和37年4月~41年3月)の計7年間に撮りためたモノクロ画像を集めてみました。中学生の頃あれほどカメラに熱中していましたが、高校時代に撮った画像は…殆どありません。受験のために、日夜机に向かっていたことを思い出しました。夜は深夜番組の受験講座を聞いておりました。「四当五落」と言われていた時代で、受験勉強に明け暮れ4時間しか寝ないものが受かり、5時間寝るものは失敗すると言われた頃です。

わずかに学校祭の画像しか残っておりません。また大学時代はクラブ活動として自動車部に所属し、北海道沿岸一周するなど、大いに遊びに力を入れました。この頃からフィルムがカラー化し、カラー全盛期に入っていきます。大学の三年次に、ゼミを除く全単位習得したので、四年次はもっぱらバイトにせいをだし、質屋で購入したのが「OLYMPUS-PEN F」というハーフサイズのカメラでした。Fのドイツ語風飾り文字にひかれて…

 

☆高校時代(昭和34年4月~37年3月)は受験勉強に明け暮れて…
殆ど撮っていませんでした。わずかに、2年、3年次に学校祭を撮ったのがわずかに数カット残っています。その時クラスの女の子を数カットついでに…


3年E組(昭和36年)の時で、学校祭の前後だったと思います。中央のNさん(腕組み)は、卒業の数年後に病死されたと聞きました。とても可愛く活発で、誰からも好かれていただけに、残念で気の毒…

 


セミ版のカメラ(パール3型)で、コマがつながってしまい、スキャナーが一つの画像(6×9)認識したために、このようになりました。

 


学校祭の仮装行列は、街中へ繰り出します。

 


多分、2年次の時の学校祭の出し物「火星人とスペースシャトル」。ただ当時はスペースシャトルという言葉がなく、ロケットと言われていたように思います。教室(2階)から、市中引き回しが終わって、戻ってきた時です。地球儀がぼろぼろ。

 


火星人は、このように思われていました。

 


2年D組、ロケットはリヤカーで、女子生徒にひかれて、市中引き回し。

 


市中引き回しが終わり、戻ってきた工作物は、グラウンドに集められ、このあと燃やされ、周囲でスクェアダンスが行われました。

 


3年次、卒業式当日、同級生と記念撮影。左が私。右の少し厳つい彼は、江部乙町(現在は滝川市に編入)のI君。

 

☆小樽商大時代は、自動車部に所属して…
手っ取り早く運転免許が取れると目論んだものの…朝里の自動車学校で、部員5人ほどが一緒に試験を受けましたが、学科は難なく全員パス、ところが実技は、5人中一人のみが合格。私は登坂で、エンスト。元に戻ってと、試験官言われ、あえなく早々に失格決定。これは難しいと思い、翌年の春休み、帰省したおりに、滝川の自動車学校に通い、免許を取得しました。


自動車部の同級生は5人のみ。学生服着ているのが私。もう一人のS君は撮影側。当時の車は電子部品なぞ無くて、全てリレー式でした。なので故障というと、即潜り込んで作業をするため、部員はつなぎ服が普通でした。

 

 

当時大学の校舎は薄い緑色の木造で、その色から「緑丘」と呼ばれていました。文字通り山の中腹にあって、小樽駅からは徒歩で30~40分ほどかかりました。バスも最も近いのが、富岡町の第2大通で、そこからも歩いて15分ほど。この緑色の校舎には、小林多喜二も、その1年後輩の伊藤整も通いました。この校舎は残念ながら老朽化で取り壊され、今は鉄筋の校舎に替わっています。

 


3年次(将は39年7月)の夏休みに、自動車部で北海道沿岸一周遠征に出ることとなりました。なにぶん部の所有自動車は2台のみ。小樽市内の自動車関連企業の先輩にお願いして2台借り入れて遠征に出かけました。上の画像は、天塩辺りで、側溝に脱輪した祭さいのもの。先行する車が、後続車の来ないことをいぶかって、逆戻りしたら、事故ってた。当時この国道は、1時間に車が1台も来ないこともあって、助けを呼べず、側溝から引き上げるのも大変でした。

 


釧路教育大の寮に1泊しましたが…なんと夏休み中のため、広間の畳は全部片付けられていました。やむなく隙間だらけの板の上にごろ寝。 

 


昭和38年5月4日撮影、小樽水族館のGWのイベントらしい。現在の水族館はもっと左奥にありますが、当時は海岸淵にありました。現在の「民宿青塚食堂」の当りでしょうか?

 


その時屋外テントで、いとこ達と昼食を食べているシーン。

 


当時は土建業を営む親戚宅に下宿していました。見るからにクラシックな家でした。食事はここで働く従業員達と同じ食卓でした。部屋の中央に炉端があって、ヤカンがいつもシュンシュンと湯気を立てていました。

 


ここの2Fの二部屋に、いとこと住み込みの従業員と同居です。財政学が専攻で、原書を読んでいるところを自撮り。

 


3年・4年次のゼミは「早見ゼミ」で財政学、租税論が中心でした。わずか3名のゼミでしたので、毎週発表があるんので、原書(イギリスから取り寄せ)を読みこなすのも大変でした。

 


卒業アルバム(1966=昭和41年)から転載。北大と商大の応援団の対面式の様子。

 


凄いね、むしろ旗が時代を感じさせる。対面式は4年間で、一度ここを通りすがったときにちらっと見ただけ。現在は花園町のサンモール1番街で行われてますが、当時は、三ッ山病院前の三角広場で行われていました。今は三角形の公園になっていますが…

 


懐かしい画像ですね、緑丘祭の写真ですが、私たちS37年入学時、1年生は全員男子生徒、1年上に女子学生が2名おりました。全学生780人の内、女子学生は、わずか2名だけでした。そのうちのひとかたがギター演奏を披露したんですね。4年間在学して、1度も緑丘祭を見たことがありませんでした。ここ数年は毎年撮影に行っております。
追記:当時講義の時は、女子学生2名の周囲から席が埋まるという…(笑)

 

 

 

 

 

 

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2 コメント

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変わらず… (kozuka)
2018-01-24 21:29:12
穏やかで  お優しい 先生~
自撮りには 思わず
今は自撮り流行りですが…  やはり先生は 流行の先端をだったんですね
返信する
これが自撮り… (紅露)
2018-01-25 09:14:14
今の流行の先取り…50数年前にやっていたとは、わはっはっ!当時のカメラにはセルフタイマーなんぞ、内蔵されていなかったもんね。ロケット型のひょろ長いカプセルの上半分を抜き出して。時計の長針をぐるりと回して、スタート、ジイジイいいながら回ってシャッターがかしゃり。
優雅な時代だったような気がします。モノクロ写真はあと数回続きますので、よろしくね。
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