紅露の写真日誌…北の大地・夢空間

小樽・札幌の風景、イベントが中心

モノクロ写真の数々…その1

2018-01-18 06:00:00 | 日記

                      <昭和33年、中学3年生の時 この年野球日本シリーズで、西鉄ライオンズが3連敗のあと、稲尾の4連投で逆転優勝した年>

 

私が写真に興味を持ち始めたのは中学生時代でした。昭和30年代前半ですから、日本経済が戦後の復興からめざましい発展を遂げてきて、高度経済成長期の途上でした。昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれ、今で言う流行語のなったのを覚えております。カメラ業界も著しい発展を遂げ、子供心にも、ほしいと思い、友人と豆腐売りのバイトをしたことがありました。いかんせん田舎の砂利道でしたから、荷台に積んだ桶の中の豆腐は、売れる前に粉々に…。

その頃カメラを持つことが田舎でも流行となり、役場に勤めていたオヤジが、大枚はたいて買ったのが小西六(後のコニカ)製のパールという、蛇腹のカメラ。隙を見てはパールを持ち出して、中学校で同級生をパチリ、パチリ、女子生徒の追っかけをやり、先生に怒られたことも二度三度にとどまらず。当時はカラーフィルムはまだ一般的ではなく、モノクロ全盛時。と言うことで、第1回目は、中学生の頃のモノクロ写真を取り上げます。

 


昭和34年頃の正月(?)かな、役場の官舎ですが、なにぶん旧病院の建物を簡易手直ししたもので、すきまだらけ。窓なども新聞紙で目張りをして雨風、雪の侵入を防いでます。朝起きると、破れた目張りのすきまから吹き込んだ雪が、扇型に入り込んでいた、なんて今では考えられないような粗末な建物でした。

 


現代のような遊びの機械器具もなく、道具のない多人数での遊びが中心。

 


横の空き地で、ミカン箱を台にして、近所の子供達がままごと遊び。後方にくみ取り用の柄杓があるのが笑える。もちろんトイレは、便層へのドボ~ン式でした。時折跳ね返ってくることがあり、お釣りが来たと笑っておりました。

 


今では殆ど見られなくなった、大根干し。昔は秋になるとどこのウチにも、大根干しが見られました。

 


私が育ったのは、空知管内の雨竜町という、人口7000人(今は2千数百人という)ほどの田舎。遠方に冬なのに自転車を乗ってる人がいる。右が私、左が、一緒にバイトした豆腐屋の息子T君。残念ながら彼は理容学校在学中に病死した。二十歳前の若さで…

 


中3の時の遠足で、隣町(新十津川町)へ行く途中の尾白利加川に架かる吊り橋で、休憩中の一枚。

 


ひょうきん者のM君。

 


遠足先の新十津川町玉置神社境内にて。

 


中央が熊坂校長先生、右が国語の山路先生、左が…思い出せない。手にはカメラを持っており、当時大流行したことを物語っています。

 


修学旅行は、ここ函館と十和田湖でした。ご存じ湯ノ川のトラピシチヌ修道院の、聖ミカエルの像の前でクラス別集合写真。

 


途中の奇岩石ヶ戸の上からパチリ。

 


昼休み時間は、体育館でのバスケとボールが普通。腰に手ぬぐいが…

 


この画像は昭和34年3月卒業式後の謝恩会での一コマ。蛇腹のカメラを自慢気に見せるTM君。

 


昭和33年8月、オリエントモデル撮影会の一コマ。写真屋のオヤジさんに誘われ、全くモデル撮影の知識・経験も無いまま、豆腐屋のT君と一緒に参加して、パチパチ。場所は雨竜町神社の境内です。

 


同じく境内にある、何かの記念碑の前で撮影。数年前にこの神社を訪れたときには、この記念碑はなくなっていた。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする