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京都映画祭「チャンバラ映画の真髄を探る」シンポジウム

チャンバラにも、2つある。
リアリティを追求したものと
様式美を追求したもの。

リアリティ派は、満身の力で刀を振り、立ち回り、切りかかる側も、痛さ覚悟。
様式美派は、踊るように、刀を振る。
歌舞伎出身で踊りに覚えのある市川歌右衛門、大川橋蔵は、様式美。
大河内伝次郎、片岡千恵蔵らは、リアリティ派。

様式美のみにこだわりすぎたとき、
ちゃんばらは、「見せるために斬る」つまらないものになる。
中島貞夫監督が、開口一番「僕はちゃんばらが嫌い」と言われたのも、
それらに対して向けられた言葉。

伊藤大輔監督の「長恨」で、
弟と女を逃がすため、一人大勢の追っ手に囲まれ、
倒れるまで戦う大河内伝次郎の姿には、
情念が宿っている。迫る追っ手の走る姿。逃げていく弟たちの姿。その緊張感。

主役だけではない。
追っ手らその他大勢の大部屋俳優の力量、緊張感が結実して、
クライマックスのカタルシスが現れる。
刀の切っ先に現れる心の振るえを映し取ることこそ
ちゃんばら映画の真髄。

また、斬り方にも2つあって
斬られる側の人生に思いをはせつつも、怒りと悲しみ、万感の思いを込めて斬る、
人間の情念と意志としての表現と、
ただただ逃げるため、降りかかる火の粉を払うために斬る、
の2つ。

剣道の用語の「残心」とは、斬った後に、相手のことを思うこと。
中島監督が、その言葉を聞いて
ご自分が時代劇を撮った時も、
そういえば、主役が敵を斬った後、カメラをフルショットにひいて、
斬られた相手も画面の中に入れていた、ことを思い出したそうだ。

ちゃんばら映画は、
俳優の身体表現の凄さと、
ドラマとして、どれだけの状況でどれだけの感情の極地または冷め具合をつくりだすか、
の2点にかかっている。

会場には、聴衆の一人として、「誰も知らない」の是枝監督が来ておられ、
感想を求められた。
今まで、自分は「そこにあるもの」をベースに映画を撮ってきたが、
今度は、その対極である時代劇、ゼロから始める映画に挑戦するつもりで
次作の時代劇にとりかかっている。とコメントされた。

時代劇とは、「被写体の凄さ」
美術であり、俳優であり、技術であり、歴史的知識。
それらをゼロからつくっていく作業。

まだまだちゃんばらも時代劇も捨てたものではない。
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