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No1168『河内山宗俊』~「チョイと嬉しい」連中たち~脚本集の解説から引用

恥ずかしながら、初めてこの映画を観た時、
どういいのがよくわからなかった。
どの映画本でも、絶賛されている、
夭折した天才映画監督山中貞雄の残した、
今、全編通じて観ることのできるわずか3本のうちの、
1本である。
10年以上も前のこと、ツタヤも充実していなかったから、
なかなか観る機会もなく、
やっと上映の機会があった時には、喜び勇んで映画館に駆け付けた。

しかし、正直、どういいのか、よくわからなかった。
皆がほめている、雪が降ってくるシーンも
記憶に残らなかったくらいだから、
何を観ていたのやら、である。

あれから、何度か、機会あるごとに観ているが、
日曜、神戸映画資料館で観て、
ああ、すごい映画だなあと、圧倒された。
やっと、少しずつ、この映画に近づけたような気がした。

山中監督は、
マキノの映画会社に入り、助監督になりたての頃は、
「何やらしてものろいんや!」とぼやかれ、
「あの助監督はあかん」と言われていたそうだ。
でも、だれがどうガミガミ尻をたたいても自分のペースを崩さず、
悠然と他の監督ぶりを見つめ続けていたらしい。

ある監督は、
何もしないで監督のうしろに立っているだけなので
巨匠たちに敬遠されたけれど、
きっと、彼は
「ああ撮ってるけど、
俺やったらこう演出すると考えながら見学していたのでしょう」と
言っている。

その後、彼の書いた脚本は、「すばらしい出来」だと評価され、
会社を代わって、彼の評価は一転し、
まず脚本家としてデビューし、ずぐ監督となり、その才能を発揮していく。

山中貞雄作品集1の解説(佐藤忠男)によれば、

「「チョイと嬉しい」というのが、
山中貞雄がいちばん好んで描き出した登場人物のタイプだったといえるだろう。
「チョイと嬉しい」連中というのは、
英雄や豪傑ではあり得ない。
もっと安っぽい。
市井のどこにでもいそうな人間たちである。
が、しかし、彼らは凡庸ではないし俗物でもあり得ない。
才気があり、度胸もあり、これ見よがしでなしに強く、
やることなすことが気が利いて、粋でなければならない。
山中貞雄が生涯描きつづけた理想的人間の中核にはそういうタイプがある。」

「「河内山宗俊」は、いわば「チョイと嬉しい」連中ものの集大成であろう。
英雄になんかなりたくもない市井のならず者たちが、
しかしさり気なく心に秘めていた気骨によって、
つい何気なく英雄的な行動をしてしまう。

これは河竹黙阿弥の歌舞伎劇が原作なのだが、
原作のほうはもっと凄味の利いた自己顕示的な連中で、
映画はそれを、ぐっと気のいい人間たちに変えている。

まじめな話もみんな冗談に変えてしまうような、
英雄的な行動など俺たちの柄じゃないよと言っているような
トボケた遊び人たちになっているのである。
気のいい悪党たちが、あるときふっと英雄的なことをやり、
そのことに自らテレるようにわざとユーモラスにふるまう」

「河内山宗俊と金子市之丞の二人が、
なり行きで命がけの正義の行動に出るとき、
じつにさり気なくユーモアまじりの調子でその気骨を表現する」

気骨という言葉が、ぴったりだなあと思う。

「なりひら小僧とその一党はこんな調子のチョイと嬉しいお泥棒です」
と字幕が入るのは
山中の初期の作品『なりひら小僧』(サイレント)。

作品集2には蓮實重彦さんの解説がのっていて、
『丹下左膳余話 百万両の壺』についての文章は
音楽についても、触れていて、見事としかいいようがない。
長くなるので、また別の機会にご紹介したい。

と、最近、引用ばかりですが。
もともと、いい文章を書き写すのは好きなのですが、
やはり、鉛筆で書かないと、
自分の文体には、影響していかないのかなあと思ったりです。

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