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神戸ドキュメンタリー映画祭 座談会『バッハの肖像』『KAZUO OHNO』~映像と音のせめぎあい~

随分前になるのですが、書きかけのまま
アップしそこねていた報告をなんとか完成させました。

10月27日、神戸映画資料館でのドキュメンタリー映画祭の一環で、
バッハの肖像 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009より』の
上映があった。

カンタータ、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲と初めて聴く曲がほとんど。
難解なタイトルにみえても、バッハはバッハで、
私は、フーガの音階を聴くだけで、
切なさとさみしさで、なんだか胸が熱くなる。
どうしてだろう。

筒井武文監督も、バッハが大好きだそうで、
ラ・フォル・ジュルネ」では多くのゲストが演奏する中で、
ミシェル・コルボさん、鈴木雅明さんと二人の指揮者に絞り、
リハーサルから本公演、インタビューとじっくりみせてくれる。

公演後、筒井監督が、インタビュアーとして、
指揮者に話を聞くシーンがあり、
監督の興奮した口調、声には、
音楽以上のリアリティとインパクトがあった。

練習中、「テーマを意識して」と繰り返す指揮者。
テーマってなんだろうと思いつつ、
指揮者は、
身体を大きく揺らしたり、
身振りや表情で、思いを演奏者たちに伝えていく。

指揮者の身体そのものが
ひとつの楽器というか、音楽を奏でているよう。

ほかにも、ダンサーの勅使川原三郎さんの舞踏と
タチアナ・ヴァシリエヴァさんのチェロ演奏とのコラボによる
バッハの無伴奏チェロ組曲。
かきみだすようなチェロの力強い調べの中で、
勅使河原さんのしなやかな身体は、すごい早さで動き、深みにはまりこんでゆく。

上映後、
愛知県文化情報センター主任学芸員の越後谷卓司さん、
筒井監督、
濱口竜介監督の座談会があった。

濱口監督は、
身体表現は苦手だと思っていたけれど、
民話の語り手を撮った『うたうひと』を観たDANCE BOXの人に
「これはダンスだ」と言われてみて、
言葉を通じて、ダンスに近づいていたのかなと思ったとのこと。
「ダンスをしている人を撮ったからといって、
ダンスが撮れるわけではない」

「街自体がダンスをしているから、
そこに踊り手が行って踊ったからといって、
ダンスが撮れるわけではない。
街では、一層、ダンスを撮るのは難しくなる」

私は濱口監督のこの言葉、なんともすごいなあと思う。
監督が、映画を撮ろうと街に出た時、
聴いているもの、聴こえているものって、どんな音なんだろう…
想像してみたくなる。

『KAZUO OHNO』(写真参照©AAC)の製作に携わった越後谷さん。
ダニエル・シュミット監督は、相当の凝り性で、
撮影は本当に大変だったそうで、
高層ビルの上とか、晴海ふ頭とか、結構危険だったけれど、
大野さんは、よくぞ踊ってくれたとか。

観客にとって、家の中とか、構造物があれば、ダンスは受け入れやすいが、
晴海ふ頭のような、何もない野外で踊るのを撮るのは
ある意味で賭けでもあったそうだ。

映画には、ダンスのシーンで音楽が流れているけれど、
実際の映画の撮影時、大野さんが踊っているときは、
音楽はなかったかもしれない。
そう思うと、
大野さんは、街の音、晴海ふ頭の音、水の音、
どんな音を聴き、感じながら、踊っていたのだろう。
うーん、もう少し、当時の撮影のことについて、質問してみればよかった。

この晴海ふ頭で大野さんが踊っているシーンについては、
筒井さんも、
「踊り手とつくり手が共感しあっている。
レナート・ベルタ(カメラマン)も撮りながら、踊っていると思う。
まさにシュミットの空間になっている」

「晴海ふ頭のシーンで、
カメラが、水と陸の区切れを画面の中に入れるかどうか迷っていたように思う」

濱口監督が
いわゆる「カメラマンの身体性」、「編集者の身体性」があると言われると、
筒井監督は、
カメラで空にうつる雲を撮るだけでも、
あちこち悩んで、みえないものが撮れそうな場所がみつかるまで、動きまわる
身体性の強いカメラマンもいれば、
レナート・ベルタは、観念性の強い撮り方をする人。
あらかじめ自分の頭の中にあるイメージどおりに、映像を撮っていく。

その映像をつかうと、より音楽がみえてくる・・
そんなふうにフィルムをつないでいくのが「編集」。

「ラ・フォル・ジュルネでは、
指揮者の正面からのアップのカットがすごい。
カメラマンが頑張って撮ってくれた。
オーケストラの演奏者たちからの目線で撮っている。
曲によって指揮者の動きも全くちがう」
「(演奏者・観客の中には)音楽に繊細に反応している人たちもいる」

「指揮者と演奏者が向き合っているよう。
1回性の現場で、自分の身体性にいかに近づけるかが編集の要」

以上です。
記憶はすっかりおぼろげですが、
こうして書いていると、いろいろ示唆に富んだ言葉に満ちていたような気がします。

たとえば、「音楽がみえてくる」ってどういうことでしょう?
自分でメモしておきながら、謎のような言葉です。
でも、なんかわかるような気もするし、あたためたいなと思います。

濱口監督は、
「リュミーエル監督の庭師を観ると
身体性がテーマになっている。
画面に映りこんでいる人たちのざわめきが聴こえるよう」

「なまめかしいものを撮りたいと思って『不気味なものの肌に触れる』を撮った。
染谷将太くん、石田法嗣くんら役者が上半身脱いだシーンがあるが、
肌の魅力というものを感じた」

映像としてとらえたもの(視覚)と、音としてとらえられたもの(聴覚)のせめぎあいの中で
映画がつくられ、
私たちは、それを受け止めていく、
そのおもしろさをもっと深めていきたいと思います。

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