映画の感想をざっくばらんに、パラパラ読めるよう綴っています。最近は映画だけでなく音楽などなど、心に印象に残ったことも。
パラパラ映画手帖
京都のオールナイトでの濱口監督のお話~映画にとって言葉とは…~
7月13日(土)の京都みなみ会館での「濱口竜介プロスペクティブ in Kansai」のオールナイトでの
濱口竜介監督と
西尾孔志監督(映画監督、京都造形芸術大学/ビジュアルアーツ専門学校講師)
とのトークの内容をご紹介します。
ワイズマン監督の『最後の手紙』(2001年)の上映に続いて行われました。
印象に残ったことを中心にまとめてみました。
◆『最後の手紙』について
西尾:『最後の手紙』と『親密さ』は、テキストを演じるという意味で、一見似通っている。
『最後の手紙』は、女性の身体の動きを追いかけた、役者のドキュメンタリーともいえる。
濱口:ワイズマンの作品は、病院にしても、動物園にしても、
現場の嘘のない動き、プロの動き、所作が、映像としておさめられている。
西尾:『最後の手紙』では、女優がはっきりとカメラを見るシーンがあり、
監督は、フィクションを導入しようとしているのではないか。
影がたくさんできるシーンは、光の当て方からみても、
女優以外の他の人たちの影が入っていると思われる。
手を上げるというアクションつなぎもあった。
ワンカメラといっても、切り返しを入れたりして違う時間を導入しようとしているのではないか。
濱口:『親密さ』の喧嘩の場面では3台カメラを用意したが、
基本的には、北川カメラマンと、アシスタントと自分の3人で撮っている。
音は、カメラマイクで録音。
後半の舞台(演劇)部分は、ワイヤレスマイクを使い、撮影のために演技を止めたりはしていない。
計4回撮影した。
前半部分には、アフレコのシーンがある。
◆『親密さ』が生まれる経緯(以下ほぼ濱口監督の発言)
『親密さ』は、人と人との距離を描いた作品。
今まで、急に人を怒らせてしまった体験が多い。
人と人が向き合う時の恐怖、怖がりみたいなものを描きたかった。
ENBUゼミナールの2010年の冬から2011年の春の演技コ-スの最後の3か月、
講師を務め、修了作品を撮ることになった。
生徒さんたちとは、少し年齢差もあって、うまくコミュニケーションがとれず、
互いにモンスター感があって、怖いという感じを抱いていた。
インタビューをしたり、家庭訪問したりして、「怖い」感を克服していった。
15人の生徒を5人ずつ、3グループに分け、初稿の台本を渡した。
その後、あてがきで、脚本を書き直し、
実際に彼らが口にした言葉も、脚本に落とし込んでいった。
演じる生徒たちには、あらかじめ、演劇の「外枠」もあるからね、と言っていたが、
演劇だけでも、結構大変そうだった。
3か月のうち、2か月が経った頃に、主役を佐藤亮、平野鈴に決めた。
「言葉のダイヤグラム」という詩は、
各駅停車の電車のように、人の心を拾ってゆく。
◆「活劇性」と「退屈さ」
映画を映画たらしめる要素に「活劇性」がある。
動き、アクションを盛り込んで、活劇にする。
言葉にも活劇性があると考える。
黒沢清監督は、映画そのもの、
監督自身がカメラと思うくらいの人で、一言一言が、心に迫ってくる。
当時、「映像のカリスマ」という本で、
『パリ、テキサス』(1984年、ヴィム・ヴェンダース監督)のラストシーンについて、
会話ばかりで、動きがないと批判的だった。
セリフは3行以内とか、言葉では映画なんてつくれないとも言っていた。
ぼくの映画では、登場人物がずっとしゃべっている。
苦し紛れに言葉をつかっていたら、何かが出てきたという感じもある。
『PASSION』で、早朝、しゃべり続けるシーンがある。
ずっとしゃべっているうちに、何かが明らかになる。なにか映りこんでくるものがある。
真実がばれて、その人の本性が明らかになる、それこそが活劇性だと思う。
映画にとって重要な要素だと考える「退屈さ」が映るように
映画を撮ろうと思った。
「退屈さ」は「余白」に通じるものがある。
『なにくわぬ顔』では、観客の反応があまりなくトラウマになった。
『親密さ』では、意識的に退屈さを取り戻しにいっている。
言葉が役者に身体を与える。
言葉自体が、個人の何か奥深いところにひっかかって、役者の何かを引きずり出してくる。
ワイズマンの『最後の手紙』では、役者がセリフにつかまえられてゆく。
◆現場での演出について
あまり指示しないタイプ。
せいぜい椅子の位置とか、小道具を、役者が動かざるを得ないところに置くとか。
指示をしすぎると、役者は、その指示を“正解”にして、
自分の判断を捨ててしまいがちになり、
指示どおりにするのに精一杯になって、それだけで終わってしまう。
『はじまり』(2005年)という映画で、
オーディションで抜擢した女の子は、とんでもなく長いセリフなのに、
そのセリフを覚えることは相当にできた。
この言葉はどういう気持ちで言おう、といった演技プランを
役者が事前に立てにくいように、
役者のコントロールを超えるくらい膨大なセリフにした。
どうやったらリアルに撮れるのか。
黒沢監督は、演じている人を撮っているにすぎないという。
沈黙は映画と相性がよく、
言葉は映画にとってリスキーな存在。難しいと思う。
自分と同世代の監督作品をみると、切り返しが多い。
映画を壊すために、あえて言葉を過剰につかっているのかもしれない。
「日常の中の戦争を撮りなさい」と言われたことがある。
以上です。
映画にとって、退屈さとは、活劇性とは、言葉とは、
いろいろ刺激的な、示唆に富むお話でした。
実際に話された内容ではなく、私が聞き取ってメモしたものと記憶をもとに
構成していますので、
相当の理解不足、誤解もあるとしたら、どうぞご容赦ください。
でも、ニュアンスとしては、こんな感じのお話として
読んでいただければ幸いです。
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