映画の感想をざっくばらんに、パラパラ読めるよう綴っています。最近は映画だけでなく音楽などなど、心に印象に残ったことも。
パラパラ映画手帖
つれづれなるままに、日くらし【夏編③】~『ダダダダ菜園記』を読んで~
長らく休んでしまったので、リハビリを兼ねて、筆が暴走している。
というか、パソコントラブルに対応するために、書く時間がなかったのと、
一旦、離れてしまうと、習慣というのは恐ろしいもので、
最初の一歩を踏み出すのに、ずいぶんとエネルギーが要るのだ。
作家の宇野千代さんが、
一字も書けなくてもいいから、とにかく毎日机に座って原稿用紙に向かいなさいと
言われたのも、極意だと頷かずにはいられない。
最近、まともに本を読んでいなかった私が、
久々に、あっという間に読了したのが『ダダダダ菜園記 明るい都市農業』(著:伊藤礼 ちくま文庫)だ。
毎月1回、読売新聞で、「時の余白に」という、
世捨て人やはみだし者にスポットを当てた、反逆のコラムを綴っている、
骨太の編集委員芥川喜好さん(専門は美術評論らしい)が紹介していて知った。
伊藤礼翁は、1933年生まれ。
元、日本大学の芸術学部教授で、作家の伊藤整の息子さんだ。
父譲りというわけでもないが、この人のエッセイがすこぶるおもしろく、
ほかにも『こぐこぐ自転車』なんて本もあって、タイトルからして楽しい。
今の私の暴走ぶりは、確実に伊藤礼翁の影響を受けていることは間違いない。
早速、この本について紹介すると、
家庭菜園について綴った軽いエッセイだ。
エッセイといえば、脇道にそれないように書くこと、
テーマと関係ないことは、推敲で削るよう、私は習ってきたが、
伊藤礼翁の場合、脇道にそれたら、そのまま、延々と脇道を突き進んでしまう。
しかも、脇道ながら、いつのまにか、本流と勘違いするほどに、おもしろいし、
勢い(文体のリズム)があって、堂々と踏み込んでいくから、
読者もいっしょになって茂みを分け入っていく楽しさがある。
書き手の翁も、話題がそれたことはちゃんと認識していて、
ふとした拍子に、謙虚に本流に戻っていくところが、けなげだが、
その時には、すでに遅しで、紙数が尽きていたりする
(雑誌の連載エッセイだったので、頁数が決められていたらしい)。
一体、どこで本題に戻るか、それもまた楽しみの一つになる。
家庭菜園といっても、こだわりぶりが、半端ではない。
東農場、中農場、西農場と3分割して運営しているというが、
そもそも、農場自体、庭の中にあって、
東西に約13メートル、南北に約3メートルの広さだから、しれている。
それを3分割しているから、農場ひとつの大きさは、約4メートル×約3メートル。
ある意味、誰にでもできそうなお手軽な菜園なのだ。
ただ、そのこだわりぶりが徹底していて、
観察力、研究力、熱意が並々ではない。
それでいて、どこか脱力もしていて、第三者的な視点で、自分自身をも観察して、楽しんでいるところがある。
とことん極めようとする真剣さと、何かできたらそれでいいさ、みたいないい加減さ、
その絶妙なバランスの上に乗ったのが、このエッセイということで、
嫌味もなく、さらさらと読めてしまう。
私は、人間ドックや病院で、長い待ち時間を、
このエッセイを読むことで、楽しくやりすごすことができた。
思わず、ひとりで吹き出したり、微笑んだりして、
まわりから冷たい視線を送られたこともたびたびだった。
だから、このおもしろさを少しでもお伝えしたく、
私は、本の抜き書きをするのが好きなので、引用してみたい。
まず、本書のタイトルに魅かれるが、
単行本の時のタイトルは『耕せど耕せど』だったところ、
「この題ではなにがどう書かれている本であるか分かりにくい」から、意を決して「ダダダダ菜園記」と改題することになったそうだ。
というのも、
「菜園耕作についての書物だからずばり、菜園、という文字を使えば間違いないからであるが、その頭に『ダダダダ』と付けたのは菜園だけではさびしいから頭か尻尾になにか飾りになるような文字を付けてくれと編集のひとが言うからであった」。
この「ダダダダ」というのは、翁が、心ときめかせて買ったものの、1年半以上もの間、倉庫で眠らせ、
やっと初めて、小さな耕転機を動かした時の感動を綴ったくだりがあり、その耕転機の発する音に由来する。
その箇所がおもしろいので、引用したい。
「穴の中でエンジンカルチベーターの刃がゆっくり回転を始めた。
‥‥‥ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ‥‥‥。
『成功』という言葉が大きな活字となってわたくしの脳みその中に印字されたのであった」
文庫版あとがきで、翁は、
「本文にはダの字が五十ぐらいならんでいるが編集のひとが題名にあまり多く利用するのは問題があると言うので、その意見をいれて四文字におさえた」とあるから、
どこか人をくったようなところがあって、楽しい。
文章にリズムがあり、くどいと思う一歩手前で、止まっている。
この絶妙さ加減が、翁の文章の魅力と思う。
ボウフラ対策に、メダカを育て始めたところを引用すると、
「メダカを観察するのは離れた場所がいい。近づくと、人間の影だけにでも反応し、浮かべてあるホテイアオイの下に隠れてしまう。彼らの行動は機敏である。素早い。ツ、ツ、ツツツ、という感じで移動する。あるいはツン、ツン、ツン、と言ってもいい。フラフラ泳いだりしない。いつでも、ツ、ツ、ツか、ツン、ツン、ツン、である。ツと一言言うあいだに三十センチぐらい位置が変わる。ここと思えばまたあちらである。人間はとてもああいう具合にはいかない」
観察力、描写力もありつつ、どこか諧謔精神、ユーモアに富んでいて、情景がありありと思い浮かぶ。
農場開設のモチベーションについて書いたところを、
かなり長くなるが、おもしろいので、引用してしまおう。
「わたくしの場合、モチベーションはなんだったのか。胸に手を置いて考えると、ヒョウタンだった。(略)
五十年前のことだ。三十歳ぐらいのとき、わたくしはヒョウタンというものの不思議さの虜となったのである。キュウリだってナスだってカボチャだって形は素直だ。細長かったり涙滴型だったり球状だったりじつに素直である。そういう形に変な感じはしない。理解できる。スッと胸に落ちる。たとえば、わたくしがナスだったとした場合、自分の体形が涙滴型であることに異論を唱えるだろうか。そんなことはないだろう。だが、なぜだ。なぜヒョウタンはあんな可笑しな形をしているのだ。わたくしがヒョウタンだった場合、自分の胴体の真ん中がくびれていることを素直に納得できるだろうか。いや、できないであろう。いったいなぜだ、これはなんのためだ、と思うだろう。
不思議さのあまり、あれは成長途中に人間が胴体の真ん中を紐で縛って無理やりああいう形を作るのだろうと考えたこともあったが、そうでもないらしかった。不思議の謎は解けなかった。そこで自分でヒョウタンを栽培してみることにしたのである。これが農業参入の第一歩だったのだ。
わたくしは驚いた。蒔いたヒョウタンは、やがて芽を出しツルが伸び花が咲き、花のあとに草色のヒョウタンの赤ん坊が出来たのであったが、赤ん坊は成長とともに世の中のどこのヒョウタンとも同じヒョウタン形になってきたのである。わたくしが作っても、ヒョウタンはヒョウタン形になる!ああ驚いた!
その次の年、もういちど種を蒔いてみた。昨年は偶然ヒョウタン形のヒョウタンが出来ただけの話で、今年はそうはいかないかもしれない、と考えたからである。だが、この年のヒョウタンもやはりヒョウタン形になったのであった。かくてわたくしは、わたくしが蒔いてもヒョウタンはヒョウタン形になるという確信を得たのである。
この驚きゆえに他の作物にも手を出し始めたのである。」
(略)キャベツ、カボチャ‥、
「作物たちはみな素直に、それぞれなるべきものになってくれたのである(略)
魔術というしかなかった。疑問と発見と感動、それがわたくしの農場運営の原点だったのだ」
すっかり長くなってしまったが、少しでも楽しい気分になっていただけたら、本望です。
(写真は、私が今持っている、伊藤礼翁の著書を並べてみました。
まだ1冊しか読んでいませんが、タイトルがどれも楽しそうです。)
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伊藤礼は、じつは私の大好きな文章家です。「こぐこぐ…」も「ダダダダ…」もいいけど、この一冊といえば断然、「狸ビール」!
無人島に持ってく一冊にしてもいいと思うくらい好きな本なんだ~。ぱらぱらちゃんにも読んでほしいな。
お薦め、ありがとうございます!
伊藤礼をご存じとは、さすがです!!!
ビール好きなので、「狸ビール」はとても気になっておりました。(どこかのあとがきに、著者は、実は、ビールの話ではなく、狩猟の話だと遠慮がちに!書いてました、笑)
古本か、電子本しかないようですが、ぜひ手に入れて、読んでみますね!!!