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つれづれなるままに、日くらし【夏編④】~狂言を観に行く~

今日の勢いも、これで最後である。(実はもう翌日になっているけれど‥。)
夏の間にあったこと、帰省のことや甥っ子のこと、
友達のライブのことなど、書きたいことは幾つも溜まっている。
「project-P勝手に応援隊」と題して、1曲ずつ、曲紹介をしていこうなんて、
新しい企画案もあたためているところだ。
けれど、物忘れがひどいから、まずは、今日あった出来事から、
忘れないうちに書きとめておきたい。

学生時代の友人が、大槻能楽堂で、狂言に出ると教えてもらい、
朝から夜まで、無料でやっていて、いつでも入れるからというので、
夕方、ふらりと出かけてみた。

能楽堂は、数年前、知人からチケットをもらったりして、
何度も通ったことはあるが、
ここ4、5年は、とんとご無沙汰していた。

久しぶりに、この独特な空間に入って、
やはり、能の謡も囃子もいいなあと、あらためて実感した。

「三番三」では、
大鼓、小鼓、笛が出てきて、リズムを刻む。
打楽器の音の響きが、たまらなく心地よかった。

演者が舞いながら、ボンと勢いよく能舞台を踏む。
この足拍子の音が、客席によく響く。
大鼓の「カン」という甲高い音、小鼓の「ポン」という連打、
「ヤア」とか「ホ」といった掛け声に、
さらに甲高い笛の音が鳴り響き、
演者の「ドン」という足拍子の音が重なり合って、絶妙なリズムと間が生まれる。
演者は、すべるように足をはこび、静の時もあるから、まさに音の芸術だ。 

音と音との合間が、そこはかとない深さを感じさせ、
不思議な時間と空間が広がる。

そこで演じられている物語を聞いたり、演じるのを見るという、
表面的な時間を味わいながらも、
心や身体は、鼓の音と音の間や、余韻や響き、無の空間を漂っているような‥、
そういう感じである。

子どもの頃、お能とか、謡が、ラジオから聞こえてきても、
陰気くさく思えて、すぐ消したが、
段々、そのよさが、わかるような気もしてきた。
あの「間」は、いいかえれば、あの世に通じる時間かもしれない。

結局、夜7時近く、最後までいたから、狂言を7つぐらい観た。
狂言はわかりやすくて、楽しい。
「神鳴」といって、雷(の神様)が、雲と雲の間を踏み外して、
天から地へと落ちてしまう。
「びょうびょうとした」野に、したたかに腰の骨を打って、動けなくなる。
ちょうど通りかかった藪医者が、雷神に鍼治療をして痛みを治し、
治療代を請求する。雷神は、
「なんせ、いきなり雲の合間から落こっちたから、持ち合わせがない」と言って、
代わりに、
八百年、水害や日照りがないよう守ると約束して、天に帰る、
なんて、話もあって、神様も話なのに、妙に現実的で、ユーモアにあふれている。
真っ赤な髪の毛(未来少年コナンのジムシーみたいな髪型)の雷神が、
鍼を痛がる姿も楽しかった。 

お腹の底から出る声が、いかに気持ちよいかを感じるのが能楽堂だと実感した。
まだ、狂言を始めたばかりの人たちだと、
物語やセリフばかりに気がいって、響きがおろそかになる。
上手い人の声は、五臓六腑にしみわたるように、聞こえてくるからインパクトがある。
 
小舞では、謡の男性が3人並んで、合唱し、朗々たる響きを聴かせてくれ、迫力があって、
堂々たる響き、太くて力強い声に、聞きほれた。

狂言も謡も、声や音が、舞台と客席全体に、響きわたり、
その空間全体を身体で感じる芸術なのだと思った。

友人からは、催しの案内の紙をもらっていたのに、
整理がわるくて、見つからず、
どの作品に出るか、わからないままの鑑賞だった。
4時頃出演と聞いており、着いたのは3時半をまわっていたから、
もう終わったかどうか微妙な時間。

「福の神」という演目で、2人の人間に続き、
3人目に、「福の神」が仮面をかぶって現れた時、
少し高めの声を聞いて、友達かもしれないと思ったものの、
妙に小柄で、声も高すぎて、違う気がした。


でも、言葉と言葉の間の息継ぎの感じが、やっぱり友達のようにも思え、
誰だろう?と思いながら、
そのうまさに感心しつつ見ていた。
二人の人間に、順番に、その方を向いて話しかける感じも、神様っぽく、
最後には、見事な舞いまで披露し、足拍子の音も心地よく、
あまりに上手すぎるから、
まだ狂言を始めて2,3年という友達ではなかろうと自分なりに結論して、
終わってから、ホールの外に出たら、
ちょうど、その友達が、別の知り合いと歓談しているのが見え、
やはり「福の神」を演じていたのだとわかり、驚いた。
昔から、緻密な観察力と、研究熱心さでは群を抜いていた子なので、
さすが努力の賜物だと、大いに感服した。

きっと、彼女は、みごと、神になりきっていたから、
人間っぽくない感じが出ていて、私には、わからなかったということである。
この世の人とは思えないくらいうまかったわけで、おもしろい!

小学生くらいの男の子が鞨鼓(かっこ。鼓のこと。)売りを演じ、
最後は、側転しながら退場したのが「鍋八撥(なべやつばち)」。
浅鍋売りの男と鞨鼓売りが競争して、
最後は、浅鍋が割れてしまう演出は、なかなかインパクトがあった。

動作を始めるときの掛け声に、「やっとな」というのがあって、
何度も繰り返し聞いたから、
これからしばらくは、職場でも、「どっこいしょ」の代わりに、
「やっとな」なんて、言ってみたい気がしている。 

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