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No567能『仲光』~遠くをみつめる目~

今回のシテ(主役)は、面もなく、素顔で登場し、亡霊でもない。
でも、心は死んでいるのかもしれない。

平安時代、多田満仲は
勉強するため寺に預けた息子、美女丸を呼び戻すと、
字も読めず、歌も詠めないので、非常に怒って
家臣の藤原仲光に、美女丸を討つよう命じる。
(とんでもない親です)
陰でその話を聞いていた美女丸は、自ら首をとってくれと言い、
仲光の息子、幸寿が身代わりにと申し出る。

結局、仲光は「我が子を夢となしにけり」で
息子を殺してしまう。
そうして、すべてを知った主君は、息子を許し、
親子の祝宴(仏事も兼ねて?)で、
仲光が舞いを舞うという話。

とまあ、信じられないようなお話ですが、
文楽とかでは、自分の息子、娘の命を奪うという設定は
わりとよくあるようです。

最後に、仲光が踊るのは、
笛が激しく鳴り響く中、
とても静かな踊りで、ときに止まったりもして、
演者は、普通の顔で、表情ひとつ変えないけれど、
子どもを殺してしまった哀しみが
ひたひたと押し寄せるようでした。
ここにいるのは、見かけは生きていても
心は死んでしまって、わが子とともにある
うつろな存在にもみえた。

この仲光がひざまづいて、
7、8才の子どもが演じる美女丸と目を合わせ、
帰っていくのを見送る姿も感慨深かった。
サイレント映画のシーンのようでした。

能では、舞台前方の角に柱があって、
この柱が結構、視界をさえぎって、
肝心の場面で、縁者の表情がみえないことがよくあるのですが、
今回も、その見送る仲光の顔が、柱でみえたり隠れたり。
そういうときは、
柱が、映画のフレームのように思ってあきらめるしかありません。

ところで、今日、この能を観ていて、
隣の30歳代とおぼしき女性が、
謡本までひろげて、観ている熱心なお客さんなのに、
舞台の中盤、まさに笛やら鼓が鳴ってる途中で
携帯をとりだして、メールを打っているのには驚いた。

拍手でさえ、終わってすぐではなく、
演者がすり足で、舞台から去っていくその足音を聞き、
その余韻を味わってから、おもむろに始まる
というほどに音を大切にする会場で、
携帯はないでしょう、とびっくりした。

ツイッターでもしているのでしょうか。
2回も取り出していたのには、呆れた。
能では、寝ている人が多くて、
こっくりこっくり気持ちよさそうに舟をこぐのはよくあること。(私もよくやってます)
でも、携帯はない、と思う。
今日は、劇場で、遠くの方の席で携帯を切るのを忘れて、着信音を鳴らしている人までいた。

これを映画館や劇場でやられたら、たまらないです、と
愚痴ってしまってすみません。
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