映画の感想をざっくばらんに、パラパラ読めるよう綴っています。最近は映画だけでなく音楽などなど、心に印象に残ったことも。
パラパラ映画手帖
No1049『阿賀に生きる』~小林茂監督のトーク~
今から20年以上前、7人の若いスタッフたちが、新潟県阿賀野川の川筋に家を借り、共同生活を続けながら、川筋に暮らす三組の老夫婦の姿をとらえようと、16ミリフィルムをまわし始めた。
阿賀野川は、尾瀬を源流として日本海に流れており、親しみをこめて「阿賀」と呼ばれている。山間の点在する段々田んぼを守り続ける長谷川さん、ミヤエさん夫婦、二百隻以上の川舟を造ってきた船大工の遠藤さん、ミキさん夫婦、小さな田畑をしながら餅屋を営んできた加藤さん、キソさん、娘のキミイさん、川に深く関わり、川の恩恵を受けて生きてきて、ゆえに新潟水俣病の被害にあった人たち。
7人のスタッフは、彼らの人生をまるごと、日常をそのまま撮ろうと、田んぼ仕事を手伝ったり、足しげく通いつめ、ときにいっしょに酒を飲み、お茶を飲み、カメラが日常の一部になるまで、長い時間を重ねていく。そうして3年の後、1992年に完成、公開されたのが『阿賀に生きる』だ。
2月17日の日曜日、京都みなみ会館で、16ミリのニュープリントによる『阿賀に生きる』の上映後、撮影を担当された小林茂監督と、本作をテーマに論文を執筆されている和田泰典さん(立命館大学大学院文学研究科2回生)とのトークが開催されました。その内容をご紹介します。
『阿賀に生きる』の公式サイト(予告編観れます。ぜひ!)
(以下敬称略)
和田:映画のラスト、長谷川さん夫婦がカメラに向けているまなざしは、映画自体が写真を装うというか、映っている人が写真を演じているという感じで、よみがえってくるような気がして、まさに「生きた時間」を記録していると思いました。
小林:あの日は、田植えも終わって、皆が車で帰る寸前で、長谷川さん夫婦ら三人で見送ってくれました。長谷川さんの髪の毛に陽が当たり、逆光で大変きれいで、撮りました。私は、もともと写真から映画の世界に入りましたので、記念写真は日常的なことです。写真を撮る前後の、ざわざわと集まっていく感じが好きで、映画の中盤の、患者の会の皆さんが集まっている場面も撮りました。
3年間で、大体35時間ほどフィルムを回しました。当時、16ミリフィルムは(高価で)10分回したら数万円位かかります。普段、一緒にお茶を飲んだり、お酒を飲んだり、戦略的なこともなくいましたが、いざ撮影すると決まったら、数日前からライトやいろいろな準備をしてとりかかり、準備期間が長かったという印象があります。そうして、撮影が始まったら一気呵成にカメラを回していくという感じです。
撮影されているじいちゃんたちに隠し立てをせず、撮ったものは、どんどん観てもらったのがよかったと思います。ラッシュのフィルムを観てもらった時、音がなくても、皆、よく笑ってくれました。
加藤のじいちゃんが餅つきをするシーンでは、裸電球ひとつで家が大変暗く、家全体のワット数も低かったので、撮影中は、冷蔵庫の電源を抜いてもらった覚えがあります。撮影のときは、急に明るくなって、世界が変わった感じがしました。
和田:カメラの前で、演技が立ち上がってきたときの驚きとかはありましたか。
小林:旗野秀人さん(新潟水俣病の未認定患者の支援運動に奔走)は、加藤さんとは家族ぐるみのつきあいで、人間関係ができていました。1989年に撮影を開始し、餅つきのシーンがその年の12月27日です。私は、9月頃から餅つきの場面を写したいと思って、手持ちカメラで追いかけられるよう、ひそかに、スクワットして筋力をつけたりして準備していました。焦点をあわせやすいパンフォーカスのレンズも借りに行きました。
新潟で上映すると、いつも決まって、このシーンで、笑いが起きます。加藤のじいちゃんが、つきたての餅をもって運ぶところで、新潟の人たちは、たいてい餅つきの経験がありますから、餅がやけどするほどに熱いと知っています、それで、映画を観ながら、じいちゃんが、餅を両手で持ちあげ、何メートルも持ったまま、延ばし板に放り投げた後、水で手を洗うところで、「熱い、熱い」とか声が出て、会場がどっとわくんです。
撮影の時に、加藤のじいちゃんが、カメラを持っている私にも、しきりに餅を食べるようすすめてくれました。でも、私はカメラを持っていますし、佐藤監督に「餅を食べるのは監督の仕事です」と強く言って、カメラを回し続けました。その言葉で、加藤さん自身も職人肌の人ですし、私たちの職人魂みたいなものをわかってくれたのでしょう。それからは、何も言わなくなって、カメラを気にしないようになりました。そのとたん、じいちゃんとばあちゃんの口げんかが始まったんです。私は、まるで異次元からマジックミラーを透かして、のぞいているような気がして、それは、時間の破れ目に入っていくというか、ふっともぐりこんでいくような時間に思えました。
長谷川さんは鮭の鉤流し漁(長い竹棹の先に鉤をつけて産卵のために上がってくる鮭を引っかけてとる漁法)の名人で、その話をしながら、酔って眠りこむシーンにも、1合飲み終わる頃があやしいよと聞いていたので、事前にちゃんとマイクを仕掛けておきました。
和田:話の途中でウトウトして眠りかけている長谷川さんを、ばあちゃんが話しかけて起こしたりして、皆で映画をつくりあげている印象を受けました。撮る人と撮られる人とが、一体になった時間が流れていますね。
小林:船大工の遠藤さんが、舟が完成して阿賀野川を滑り出し、完成記念の宴会会場から出てきて、車に乗り込んだ時、「また近くに来たら寄りなさい」とカメラに向かって、小さく声をかけてくれましたが、そのとき、とてもさびしそうで、ハレの日なのにどうしてあんなさみしげな顔をしていたのか、撮っている時はわかりませんでした。遠藤さんが亡くなってから、映画を見なおして、はじめて、このとき、遠藤さんは、もう舟をつくるのは最後かもしれない、と思っていたのではないか、とわけがわかった気がしました。
ねらっているもの以外の周辺が撮れた時が一番おもしろいです。たとえば、長谷川さんから鉤流し漁について話を聞いている最中、いきなり、ばあちゃんが、横から「恐れ入りますが」と使い慣れない言葉で入ってきて「じゃがいもはどこかね」と長谷川さんに話しかけてくる、そのおもしろさ。つい写したくなりました。
会場からの質問:距離感が心地よくて、みとれていました。
小林:16ミリで撮っている時の距離感で、三脚を立てて、カメラがあることを皆さんが容認したうえでやってくれていました。
質問:撮る側と撮られる側の関係性がよくて、あったかい時間が流れていました。
小林:私たちはプロの集団でもありませんし、監督と言い合いになることもありました。撮影途中で、どんどん上映して、観てもらったことで、自家中毒におちいらず、オープンな形で持って行けました。
トークの内容は以上です。
『阿賀に生きる』の新・旧パンフレットや、小林茂監督の書かれた「ぼくたちは生きているのだ」(岩波ジュニア新書)を一部参考に補充させていただきました。
最後に、このジュニア新書に『阿賀に生きる』の佐藤真監督の言葉が引用されていましたのでご紹介します。孫引きで本当にすみません。映画の魅力を的確に伝えていると思いますので。
「フィルムの力を改めて見直してみると、インタビューでもなく、また日常の中の作業過程でもなく、こちらの意図を超えて突然広がる話や行為にいちばん力があることを痛感する。(略)キャメラを構え照明もたいているのに、まるでわれわれが空気のように、いや存在すらしないかのようにキャメラの前に広がる日常の空間と会話。しかしそれは、日常そのものではあり得ず、日常と非日常の間に突出する空間なのだ」
(映画『阿賀に生きる』スタッフ著『焼いた魚も泳ぎだす-映画『阿賀に生きる』製作記録』記録社)
こうして思い返しながら、映画の中のじいちゃん、ばあちゃんたちのことを思い出すだけで
心があたたかくなって、目の奥がうるんでくるものがあります。
今週の金曜日22日まで京都みなみ会館で上映され、3月2日からは1週間、神戸新開地のKAVCでも上映があります。
ぜひ、映画好きの方も、そうでない方も、きっとすてきな出会い、時間を過ごせると思います。
ぜひご覧ください。
参考:2010年秋に『阿賀に生きる』を観たときの感想(ブログ)です
« No1048『阿賀... | No1050『舟を... » |
対談の内容をまとめていただきありがとうございます。
本来は私が行うべきことを代わりに行っていただきありがとうございます。
本当に感謝しています。
今週の土曜日に龍谷大学アバンティ響都ホール(JR京都駅八条東口より徒歩1分)で開催する「阿賀に生きる ニュープリント版」公開記念シンポジウムにもお時間の都合がよろしければ是非ご来場ください。
改めまして、対談の内容をまとめていただきありがとうございました。
これからもよろしくお願い致します。
私もつい間違って二重コメントはよくやってしまいますので、どうぞ気になさらないでください。それよりも、こんな地球の片隅でひっそりやっているブログを見つけてくださり、感謝しています。書きなぐったメモをもとに作成しましたので、お恥ずかしいかぎりですが、小林監督の本やパンフに大きく助けられました。
23日のシンポジウムは旗野さんも来られるのですね、お話聞きたいですし、『阿賀に生きる』ももう一回観たいですし、なんとか行けたらいいなと思っています。
いろいろイベントの準備で大変と思いますが、がんばってください。ぜひこの機会に新潟まで行って、いろんなものを見て、いろいろチャレンジしてください。