噛みつき評論 ブログ版

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投資信託、平均40%の損失・・・朝日が報じない「貯蓄から投資へ」の惨状

2008-12-29 13:11:55 | Weblog
 日本経済新聞によると、主な投資信託の昨年末から12月18日までの平均成績はマイナス40%で、下落率トップはマイナス78.8%となっています(12/24付)。また12月13日付の同紙には株や投信の含み損をアンケート調査した結果が載っています。それによりますと有効回答618人のうち62%の人は投資をしていませんが、36%の人が含み損を抱え、含み益が出ている人は2%となっています。また「暴落で胃潰瘍になった」「10日連続でストップ安になり寝込んでしまった」などの話も載っています。まあ現在の投資の状況は惨憺たるものと言ってよいでしょう。

 「貯蓄から投資へ」という国の方針には日経はもちろん、朝日新聞も協力的であったと思います。朝日新聞は『お金は銀行に預けるな・・・』の著者であり、「投資」をお勧めの論客、勝間和代氏を重用してきました。投資に対するスタンスはともかくとしても投資を取り上げてきた以上、またそれが国の方針であった以上、朝日新聞は現在の投資の状況を広く国民に知らせる責務があると思います。

 しかし、購読紙である朝日をすべて見ているわけではないので断言はできませんが、投信の運用成績や個人の投資成績に関する記事は多分なかったと思います(他紙はわかりませんのでここでは触れません)。少し前、流行ったデイトレーダーやFXの参加者が現在どのような状況に置かれているのか、なども含め調査報道を是非とも実施してほしいと思います。投資に興味のある人にとっては重大関心事です。投資による損失で子供の教育資金を失った、あるいは老後の資金をなくした、というような深刻な例も散見され、実態の把握は大いに必要です。

 さらに朝日は「投資」ということの意味を十分知っているのか、疑問です。「貯蓄から投資へ」とは銀行に預金するのではなく、国民が自ら情報を集め調査・分析し、選んだ先にリスクを負って投資することです。国民の情報収集力や分析力を前提とするこのような試みは初めから無理があります。一部の投資家には適していても国民一般に勧められるものではありません。情報の収集力や分析力の弱い人は証券会社のカモになるのがオチでしょう。

 ついでながら、12月26日の朝日には「1人あたりGDP 日本19位」、「07年、OECD30ヶ国中 80年以降で最低」という見出しの記事があります。1人あたりGDP順位が2年連続で過去最低を記録したと結んでいるように、「最低」を強調した記事です。しかしこれは34326ドルで比較したものであり、為替レートの影響を受けます。07年の円/ドル相場は117.76円ということですから現在の90円に換算すると約30%上って約44600ドルとなり10位の英、11位の米にほぼ並びます。

 現在の1ドル90円というレートは購買力平価の90円90銭(日経11/04)に近く、これが実力に近いと思われますから、日本が最低の19位だと悲観的に強調すると誤解を招きます。「現在の為替では12位程度になりますよ」と注釈を入れるのがまともな新聞です。

 12月9日付朝日新聞には「朝日ネクスト」「1500兆円が日本の未来を明るくする」という上質紙を8ページ使った投資を勧める記事広告が掲載されています。金融が実体経済を補佐するという役割である以上、金融が実体経済よりも成長することなど元々ありえないことであり、金融を成長産業と見ることの誤りは米国の失敗を見ても明らかです。

 朝日新聞は投資の意味がよくおわかりでないのか、それとも、わかりながらも有力な広告主である証券会社に不利なことを書きたくないのか、どちらなのでしょう。どちらにしても読者にとっては困ったことです。

競争社会がもたらすもの

2008-12-25 10:03:02 | Weblog
 司馬遼太郎の小説「花神」は討幕軍の総司令官になる大村益次郎の生涯を描いたものですが、次のようなくだりがあります。

 後の大村益次郎、村田蔵六は長州の村医を捨て、宇和島藩に仕官することになるのですが、宇和島へ向かう途中の松山城下で、蘭法医の藤井道一の家に泊めてもらいます。そして藤井は宇和島まで道案内をすることになるのですが、さらに途中の大洲では医者の山本有仲が一行に加わるという話です(藤井道一の同行は記録に残されているそうです)。

 同行する2人の医者は火急の用でもないのに仕事を数日間休むことになるのですが、現代の感覚からするといかにものんびりした話です。作者の脚色もあり、また当時とは社会構造が異なるので比較はあまり意味がありませんが、数日間、仕事を放り出すことができる余裕が事実なら羨ましくもあります。それは医師と患者の立場の強弱に由来することでもあるのでしょう。しかしながら週80時間などという苛酷な労働を強いられる現在の勤務医とは大違いです。

 上は極端な例ですが戦後しばらくの間、物資が欠乏していた時期がありました。輸出が振るわないため外貨不足の状況が続き、輸入は自由にできませんでした。当時は「売ってやっている」というふてぶてしい態度の商店が珍しくなかったと記憶しています。また「気に入らない客には売らねぇ」という、金よりも意地や誇りを優先する頑固オヤジもいました。でもそんな商店やオヤジは遥か昔に滅びました。

 現在は様変わりで、消費者から見ればありがたい社会になりました。物資は過剰なほど豊富にあり、ほとんどの商店は愛想よく笑顔で応対してくれます。消費者が選択権を持って立場が強くなることで売り手の態度は大きく変わりました(それはストレスを伴うことでしょうが)。家電量販店の看板には即日配達の表示があり、宅配便は2時間ごとの配達時間を選ぶことができます(管理業務や無駄も増え、そこまでしなくてもと思いますが)。

 生産物やサービスに対する消費者の要求水準は高くなる一方です。マスコミは常に消費者側に立ち、製品やサービスの質に厳しい姿勢を示します。販売競争とマスコミの姿勢が消費者側の要求を強め、その分、生産・サービス提供者側は負担が増してきました。

 競争は経済を効率化し、消費者にとってよい結果をもたらしましたが、一方で、金よりも意地や誇りを優先するような者を排除し、売上げを優先するものが生き残るという状況を生み出します。売上げ優先の考え方は拝金主義につながり、他の考えの存在を難しくします。例えば視聴率が優先されると放送の使命が軽視されるように。

 競争は生産・サービス提供者側に負担を与え、また社会に拝金主義の土壌を提供するという負の面をもつことに注意したいと思います。様々な利点を持つ競争ですが、「過ぎたるは及ばざるが如し」と言えるのではないでしょうか。

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 03年から07年かけて精神障害による労災支給件数は2.5倍になっており、生産者・サービス提供者の負担は現実の問題になっています(参考:勤労者受難時代)。消費者の多くは生産者・サービス提供者でもあります。消費者が多少不便になっても、生産・サービスに従事する人の負担軽減にもう少し配慮してもいいと思うのですが。・・・むろん江戸時代には戻れませんが。

米の家計資産、600兆円減・・・それでも投資を勧める朝日新聞

2008-12-22 10:37:22 | Weblog
 08年7-9月期の米国家計資産は1年前に比べ600兆円減少したそうです。これは日本のGDPを上回ります。米国の個人金融資産は現金・預金11%、株式・出資34%、投資信託13%(*1)で、47%がリスク資産ですから、今回の金融危機の影響を大きく受けています。600兆円は不動産と年金を含むものですが、減少額のうち株式によるものは250兆円程度です(*2)。これは9月までのことで、このあとリーマン破綻が起きたので現在はさらに深刻な状態と考えられます。米国の個人金融資産の30%を占める年金も多くを株式に投資しており、その損失もさらに拡大していると思われます。

 日本の個人金融資産は現金・預金54%、株式・出資7%、投資信託2%(*1)ですから危機の影響はずいぶん軽くて済みそうです。「貯蓄から投資へ」のかけ声に乗せられなかったおかげであり、とても幸運なことです。

 「貯蓄から投資へ」を煽った方々は米国の家計が多くを株式に投資していることを論拠にしていましたが、米国という「先生」が大失敗した今、どのような弁解をされるのか、大変興味があるところです。

 ところがいまだに「貯蓄から投資へ」のキャンペーンをしている新聞があるのには驚きました。12月9日付朝日新聞には「朝日ネクスト」「1500兆円が日本の未来を明るくする」という上質紙を8ページ使った記事広告が掲載されています。巻頭を飾るのは2ページ全部を使った竹中平蔵元金融担当大臣のメッセージです。

 竹中氏は労働所得の上らない時代には資産所得を稼ぐべきだと主張します。1500兆円をもつ日本の家計が受けとる利子や配当などの資産所得はわずか0.8%に過ぎないが、アメリカは12%で、日本の15倍もあると訴えます。そして「日本はものづくりの国だ」という考えに対して日本人がものづくりから得る所得はGDPの26%に過ぎないと反論します。

 しかし米国は上位10%の層が金融資産の57.9%を、上位20%の層が金融資産の70%以上を所有している(*3)という国情の違いが無視されています。米国は一部の富裕層に資産が集中している国であり、その層の高リスク投資が平均値を上げています。さらに米国の家計は600兆円減とされるように12%の所得の何倍もの損失を抱えることになるだろうと思われます。そしてこのリターン12%という数値もちょっと信じられません。ピーク値を用いているのではないでしょうか。またものづくりはGDPの26%に過ぎないということですが、金融・保険業はGDPの約60%を占める第三次産業の8.9%、つまりGDPの5.4%に過ぎません(*4)。

 今回の金融危機を迎えても考えがブレないのは大変ご立派ですが、これらの説明には誠実さが感じられません。危機以前の米国の都合のよいデータを取り上げ、米国家計の巨額損失という「世紀の大失敗」に触れない態度はとても中立的とは言えず、解説というよりプロパガンダと言うべきでしょう。

 日本の金融機関が今回の危機に致命的な損失を出さなかったのは89年の日本産バブルでの失敗が骨身にしみていためであり、また家計が大怪我をしなかったのは証券会社を信用できないと考えて貯蓄中心を維持したからだと考えてもよいでしょう。02年の内閣府調査によると、証券会社を信用できると考える人は12%に過ぎません。

 問題はこれを掲載した朝日新聞の見識です。8ページの記事広告の主旨は株式や外貨などへの投資と投機の勧めとなっており、広告とは言え、それは朝日新聞の主張と受け取られます。「貯蓄から投資へ」が成功しなかったために日本が大怪我をしなかった幸運をどう受け止めているのでしょうか。

 貯金は銀行を経由して投資されますが、そこには銀行の審査機能が介在します。バブルのときは有効に機能しなかったわけですが、普段はある程度の機能を果たします。しかし一般の個人がリスクをとって直接投資する場合に審査機能を期待することは困難ですから、広く国民に勧めるほどものではないと思います(参考「貯蓄から投資へ」に騙されないために)。

 この記事広告は朝日新聞社広告局が作成したもので、広告主には証券やFX業者だけでなく銀行も含まれ、妥当な部分もあります。しかし金融危機以前と変わらない竹中氏の「貯蓄から投資へ」というメッセージとそれを掲載した朝日新聞には違和感を覚えます。朝日新聞の見識がおかしいのか、あるいは不適切とわかっていながら、広告収入のためならば躊躇せず、なのか知りませんが、どちらにしても日本を代表する朝日新聞の体質に強い疑問を感じます。

 朝日新聞は9月の中間期の連結で103億2500万円の赤字を出しました。戦前、「社員を路頭に迷わすわけにはいかない」として、軍部に対する積極的な協力へと転換した「歴史的な伝統」を思い出します。国民よりも社員を大切にした優しい伝統を。

(*1)個人金融資産の数値(2001末)は日本銀行「国際比較:個人金融資産1,400兆円」より
(*2)数値は12/19付日経記事より
(*3)資産分布格差で読み解く、日米家計のリスク性金融資産比率の相違
~米国家計のリスク性金融資産比率の高さは富裕層への資産一極集中の産物~より
(*4)経済産業省「第3次産業活動指数」2005/02

知的障害者を裁判員に・・・理念ばかりの朝日新聞

2008-12-18 09:34:07 | Weblog
 12月14日付朝日新聞大阪版は社会面トップで知的障害者、精神障害者が裁判員候補者に選ばれた場合の対応を取り上げています。障害自体は裁判員を辞退する理由にならないとした上で、「知的障害の息子に通知が届いた。傷つけずに辞退させる方法はないか」「通知の意味がわかるような状態ではない。辞退したい」「精神障害がある身内の家に通知が届いた。どうしたらいいか」など、寄せられた相談を紹介しています。

 記事は「障害によって職務に支障がでないよう、できる限り配慮する」という最高裁の方針、「健常者が気づかないことに気づき、裁判員全体として真実に近づくこともあるはずだ」という仁科豊弁護士の話を載せ、障害者の参加を呼びかける内容です。記事は漢字を読むことを苦手とする人も対象にしているようで、記事全文にふりがなをつけてあります。

 国民の8割がなりたくないという裁判員ですが、敢えてここで障害者に参加を呼びかけるのは、裁判員制度は司法に国民主権を実現するものであるという理念を推進する意図があるためだと考えられます。確かに、すべての国民が司法に参加し民主主義を実現するという理念は大変立派なものに見えます。

 しかしここにあるのは裁判員制度の理念を実現する形式に対する配慮ばかりで、裁判の最も重要な機能、すなわち公正・公平な裁判ができるのかという視点がまったくありません。また候補に選ばれた障害者が面接に出向いてから外される場合には本人が一層傷つくことも考えられます。参加することに意義があるというのはオリンピックの話です。

 最高裁は障害者を裁判官の隣に座らせて補足説明をすることを検討中ということですが、限られた時間を説明に使えば評議が遅れ、審理を尽くさず判決が出される危険が増加します。裁判員制度のモデルケースとして審理を5日間で終えた広島女児殺害事件の一審判決は広島高裁で「一審は審理を尽くしておらず違法」として差し戻されました。説明に時間をかければ審理がさらに不十分になります。そのため被告の利益が損なわれる可能性を無視してよいのでしょうか。

 知的障害者、精神障害者と言っても範囲が広く、一概に言うことはできませんが、補足説明によって正確な理解ができるとは限らないと思います。しかし判決は場合によっては被告の命に関わります。また被告は無実かもしれません。裁判員が十分に理解しないまま判決を出すということが現実に起きないと言えるでしょうか。健常者の場合でも理解度には個人差があり、果たして全員が正確に理解できるのかという懸念があります。国民参加という形だけ整えても、正確な理解によって審理を尽くすという機能がおろそかになっては意味がありません。

 障害者の参加によって裁判員全体として真実に近づくこともあるはずだ、という仁科豊弁護士の話ですが、逆に、障害者の参加によって真実から遠ざかることもあり得るのではないでしょうか。いずれにせよ実際には6名の中に障害者が含まれるかどうかはクジによる偶然であり、被告は偶然性に左右されることになります(もともと裁判員制度は選ばれる6名のばらつきによる偶然性を無視しています)。知的障害者、精神障害者は約300万人であり、6名の中に含まれる可能性は無視できるレベルではありません。

 裁判は被告の心理や人間関係など、背景の理解をも要求される高度に知的な作業です。漢字が読めない人にとっては負担が大き過ぎる場合もあるでしょう。この記事などによって参加を煽られながら、実際には選任をほとんど拒否されることになっても問題です。

 障害者の裁判員としての参加は様々な問題が予想され、この記事のように単純に推し進めてよいものか疑問です。記事は裁判員制度の理念ばかりを重視し、他の視点を欠いています。裁判そのものより理念が重要という考えはまさに本末転倒です。たいていの理念は不完全なものであり、ひとつの理念を無条件に適用できるというのは子供の考えです。マルクス主義、あるいは旧ソ連や北朝鮮の政治思想に対する認識の誤りも同じような偏狭な思考であったのかもしれません。

 朝日は約1年前にも理念に偏った裁判員制度擁護論を掲載しています。朝日には民主主義とか国民主権という理念に抵抗し難い体質があるようです。

契約社員解雇の自動車・電機はボーナス増加・・・労働界の階級化

2008-12-15 09:05:13 | Weblog
 日本経済新聞の集計によれば、今冬のボーナス支給額は電機(78社)で前年比1.5%増、自動車・部品(56社)で0.27%増となっています。電機と自動車は非正規社員の大量解雇が問題になっている業種です。ボーナスの決定時期が少し早かったという事情があるにしても、微増のボーナスを手にする正規社員と解雇される非正規社員とは大きい差があります。解雇者に対する短期的な救済策の議論が盛んですが、長期的には非正規雇用は社会の構造に関する問題と捉えることができます。

 非正規社員は正規社員に比べ生涯賃金に大差があるだけでなく、不況時の雇用調整のため先に解雇されるという不利な扱いを受けます。それは企業にとっては雇用の緩衝装置です。そして非正規雇用から正規雇用への移行は簡単でなく、半ば固定された階層であり、非正規労働者という階級ができていると言ってもよいと思います。正規社員の、非正規社員に対する差別意識もできていると聞きます。

 不況時には、非正規雇用者は先に解雇、あるいは契約の継続を停止されますが、これは一方で正規社員の雇用が守られることを意味します。非正規雇用という緩衝装置の最大の受益者は正社員だと言うことができます。既存の労働組合は非正規社員の問題に消極的という批判がありますが、これは双方の利益が相反するという事情を考えると理解できます。正規労働者の労組を支持母体とする政党も同じジレンマを抱えているわけです。

 低賃金の非正規労働者のおかげで企業の生産コストを下げられるので、一般の消費者は物やサービスを安く購入でき、また輸出企業の競争力強化は円の購買力を強め、海外の物品を豊富に入手できます。一般の国民も受益者であることを認識する必要があります。

 正規、非正規社員について述べましたが、むろん正規社員であってもひどい不況の場合には減給や解雇もあります。中小企業の場合は一般にそのリスクが高くなります。しかし一方に、それらのリスクがほとんどない上、高い賃金が保証された公務員という「上流階級」があります。

 文芸春秋09年1月号の原田泰氏の記事によると、民間企業の平均給与は97年の467万円が07年には437万円と30万円下がっているのに、巨額の財政赤字を抱え財政再建を謳う「骨太の方針2006」は国家公務員に対して今後2.8%の賃金上昇を保証しているとされています。因みに06年度の国家公務員は662.7万円、地方公務員728.8万円となっています。わが国には非正規社員、正規社員、公務員という3つの階級が存在するようです。

 好んで非正規社員を選んでいる人はよいのですが、就職氷河期などで非正規を選ばざるを得なかった人がそこに固定されることは厳しすぎる現実です。それは個人の問題を超えて社会の不安定化につながる可能性があります。

 非正規雇用の増加理由は直接的には規制緩和ですが、この背景には正社員の賃金の引き下げの困難さ(下方硬直性)があります。労働組合に賃下げの困難な同意を得るよりも非正規社員の解雇の方が簡単という環境がこの「雇用緩衝装置」を育てたと見ることができます。

 解雇された非正規社員に対し、公的な支援で対応するという現在の対策は一時的なものに過ぎず、非正規雇用は社会構造の問題として議論することが必要なのではないかと思います。

期限切れ食品の安売りに80%が賛成

2008-12-11 09:34:04 | Weblog
 『賞味期限が切れて2年が過ぎた炭酸飲料が10円、1年過ぎたチューブ入り調味料は38円――。東京都江東区の食品スーパーが、「モッタイナイ商品」と称して賞味期限切れの格安商品を専用コーナーに陳列している。
 保健所から指導を受けても、「まだ食べられるものを捨てる方がおかしい。今の日本人は無駄をしすぎ」と撤去を拒否。「期限切れ」と明示しているので、日本農林規格(JAS)法違反には問えないという。(中略)「期限切れ品」「試飲済みです。風味OK」と添え書きもある。』(08年12月5日14時36分 読売新聞記事より)

 この記事に対しYAHOOニュースが『「モッタイナイ商品」販売に賛成? 反対?』とアンケートを募ったところ、次のような結果となりました(投票総数 60206票)。
 賛成        80 %
 反対        12 %
 どちらともいえない 10 % (合計が100になりませんが、理由は不明)

 賛成が80%というアンケート結果は意外なもので、モッタイナイという伝統的な価値観は依然として健在であることを示しています。

 一方、11月19日付日本経済新聞には「安全求めて食材買出し」と題して手間暇をかけて遠方へ買出しに行く主婦たちを紹介し、その中に「食品の安全性への不安感」に対する調査結果(08年)を載せています。

 非常に不安である   25.2 %
 やや不安である     54.6 %
 あまり不安ではない  17.6 %
 まったく不安ではない   2.0 %

「非常に不安である」と「やや不安である」の合計は約80%に達し、これは前年より4ポイントの増加で、男性より女性の不安感が強いと解説されています。4人に1人が「非常に不安である」と思っていることになります。そんな気分で食べていてはきっと楽しくないことでしょう、お気の毒ですが。

 賞味期限切れ食品の販売に80%の人が賛成する一方、食品の安全性に不安をもつ人が80%、どう理解すればいいのでしょう。設問も調査の対象も異なる二つの結果を比較するのは無理がありますが、食品への信頼に関するあまりの違いにとまどいます。ただ女性に不安感が強いのはワイドショーを視聴する時間の長さと関係があるかもしれません。

 食中毒による死者は1955年の554人から減少傾向が続き70年には23人、ここ10年間はほぼ数人となっています。原因物質もほとんどがフグ、キノコで、少数の感染症が含まれます。統計上、安全性が低下している事実はなく、不安の増加は根拠があるものとは思えません。不安はメディアの誇大報道の結果と考えられ、非常に不安な気持で毎日を送っている25%の人の生活の満足感(QOL)は大きく低下するでしょう。

 食品スーパーの経営者は、「戦時中は落ちているものも食べた。今の日本人はまだ食べられる食品を大量に廃棄しているが、犯罪に等しい行為」と話しているそうです。この試みが、食品に対する過剰な不安が広がる状況に一石を投じることになればと思います。

Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる・・・日米政府の人事の違い

2008-12-08 09:15:12 | Weblog
 『Aクラスの人はAクラスの人と一緒に仕事をしたがる。Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる』
 シリコンバレーではこの「格言」をよく耳にすると梅田望夫氏は述べています。

 二流の人物が周囲に一流の人間を採用すれば自分の存在が霞んでしまう心配があります。誰しも自分の周りには引立て役を置きたいと思うことはあっても、自分が引立て役になりたいとは思わないでしょう。二流の人物が人事権を持つトップに座れば、二流、三流で占められ組織全体の機能が損なわれるという、とても興味ある言葉です。

 オバマ次期大統領は国務長官にヒラリー・クリントン上院議員、国家経済会議委員長に元財務長官サマーズなど、重要ポストに有能な一流人物を任命していると、好意的に受け止められています。

 シリコンバレーの格言を逆さまにすると、周囲に一流を集めるオバマ氏はまさに一流の人物ということになります。膨大なエネルギーを使う大統領選出のシステムの存在理由があったようです。ところで、短時間の「効率的な」選出システムによって生まれたわが麻生政権はどうでしょうか。

 「自分は麻生さんをやる。麻生さんには大変お世話になったことは忘れてはいけない」と公言し、麻生氏を首相に推したのは強い影響力を持つといわれている森元首相です。「お世話になったから」と首相に推された人物が適任者かどうかは近々明らかになるでしょう。まあ現在でも首相や閣僚が一流の人物ぞろいだと主張するのはちょっとばかり勇気が必要ですが。

 一方、オバマ氏はブッシュ政権のゲーツ国防長官の継続起用を決めたように、実務重視が鮮明です。またヒラリー・クリントン氏が国務長官になれば米国の外交政策がどう変化するかが話題になるように、長官の考えや手腕に関心が集まります。

 ところがわが日本では、大臣への期待はあまり大きいとは言えません。その理由のひとつとして考えられるのが在任期間の短さです。「大臣の平均在任期間」をキーワードに検索しますと、戦後の大臣の平均在任期間は1年に満たない(菅直人著『大臣』1998 )、法務大臣に限ると1952年から08年2月まで73人で平均在任期間は10ヶ月弱(大分合同新聞)、などの記述が見つかります。

 戦後の首相の平均在任期間は26ヶ月と先進国の中で最短クラスですが、大臣の在任期間は1年弱と、さらに短いわけです。大臣は省の頂点に立つわけですが、普通の人間が1年程度で文科省や国交省の組織や問題を理解することはまず無理でしょう。平均1年未満で交代する大臣の多くは理解するまでに任期を終えてしまいますから、官僚を主導していくような仕事は困難です。

 短い在任期間が慣習として定着した状態では、大臣になる人にとっても長期的な抱負をもって就任することが難しくなります。どうせ1年程度でやめるということであれば、勉強しようという意欲も萎え、飾り物の大臣が輩出されることになります。子育て中の人にまで大臣を頼まなくてもいいと思ったのですが、子育て中の人でもできるという意味にとった方がいいのかもしれません。

 官僚主導の弊害が言われ続けながら、メディアが数十年間続くこの仕組みに無関心であることが不思議です。不祥事の追求など重箱の隅をつつくような姿勢を続けた結果、「木を見て森を見ず」という習性が定着したのでしょうか。有能な人物が選ばれ、ある程度の期間仕事を任せるという観点からシステムを見直すという気運が起こってもよいと思います。

朝日とNHKのトップニュース・・・何を基準に選ぶのか

2008-12-04 09:24:52 | Weblog
 12月1日、昼のNHKニュースのトップは黄柳野高校が喫煙指導室を設置した問題が取り上げられ、校長以下が頭を下げて謝罪するおなじみの光景が映し出されました。彼らが直接向い合っているのは記者とカメラですが、全国民に向かって謝罪しているような格好になります。

 容疑は県青少年保護育成条例違反(喫煙場所の提供)で、学校は家宅捜索を受け、関係者は書類送検される方針とされています。しかしこの程度の微罪がなぜトップで大々的に報道されなければならないのかと不思議に思います。

 同校は不登校の生徒を全国から受け入れている全寮制の学校で、231人中72人が喫煙指導室で喫煙していたこと、指導には限界があり、こういう方向しか考えられなかったという校長の釈明が報じられています。学校では72人にカウンセリングなどの禁煙指導をしていたこと、過去に喫煙によるボヤが発生していたことも明らかにされています。

 報道を見た限りでは、学校は喫煙指導室を作らず別の選択をすべきであったのか、疑問です。禁煙指導をしてもやめない生徒を退学処分にする、あるいは寮室と身体を毎日検査をする、などが考えられますが、どれも教育の観点からは好ましいものではないと思います。そして火災は人命にも危険が及ぶ可能性があることを考えれば、学校の選択は一概に間違っているとは思えません。

 今回の警察の介入は果たしてよい結果を生むのでしょうか。また警察の能力は有限であり、優先順位の高いものから使われるべきですから、その点からも今回の介入は理解できません。もっとも他にすることがないのであれば仕方がないですが。

 取るに足りない微罪を取り上げるかどうかは警察の判断次第ですが、放置した場合に比べ十分意味がある場合に限られるべきでしょう。そのような配慮をせず、法を杓子定規に適用する考えによるものならば大変困ったことです。外国ではあまり例がないと言われる医師の逮捕にまで発展した大野病院事件にも通じるものを感じます。これが「法化社会」の理想に至る道なのでしょうか。

 さらに、この警察の手入れの妥当性になんら疑問を抱くことなく、学校側の罪状のみを大袈裟に報道するメディアの見識に強い疑問を感じます。

 次は12月2日付朝日新聞の一面トップです。白抜きの大見出しは
『新車国内販売27%減』、『11月 下落幅、前月の倍』であります。読売もトップですが、経済紙の日経は小さな記事を3面に載せています(他は知りません)。

 朝日や読売のトップ報道は国民の心理をいっそう悲観的にします。経済に詳しい人は経済全体を表す鉱工業生産指数など、別の判断材料を知る機会があるので新車販売27%減は一部の現象として理解することができます。しかし一般紙のトップ記事は経済に関心の低い人にも読まれますから、27%減は経済全体を代表するものかのような印象を与え、経済の実情が実態以上に深刻に理解される可能性があります。悲観的な見方が広がり、それがさらに消費を減らすという悪循環を生む可能性があります。これこそ恐慌に至る道です。

 『われわれが恐れるべき唯一のことは、恐怖それ自体だ』-世界恐慌の最中に大統領に就任したルーズベルトは国民に向かってこう言ったそうです。恐怖や悲観は不況の大きな原因であり、バブルの生成や崩壊も楽観・悲観の心理によって引き起こされます。

 不況は社会に深刻な影響をもたらします。非正規労働者を解雇する動きが広がっているように立場の弱い層はより深刻な影響を受けます。資本主義が始まって以来、不況の克服は経済政策の最大の課題であり、総需要管理政策などによる努力が行われてきました。悲観的な見方を広める行為はその努力を台無しにします。12000円の給付金による需要創出効果など、不安心理の拡大によって吹き飛ぶことでしょう。

 事実を伝えることはむろん重要ですが、インパクトの強い派手な報道によって実態以上の印象を与えることは、不況の深刻化に手を貸すことになります。人を驚かすことを優先する誇大な報道は慎むべきでしょう。いつものことながら報道結果に対する配慮の不足、無責任さを感じます。

「法化社会」が目指すもの

2008-12-01 10:31:07 | Weblog
 「胎児が母体から指一本出ていれば人間として扱われ、殺せば殺人罪となる。母体から出ていなければ胎児であり、堕胎罪となる」

 これは昔、ある教授の講義で聞いた話です。私は極めて不熱心な学生であったのでこの話以外はまったく記憶がありません。後から思うとこの教授は胎児から人へという連続的な状態のどこかに線を引いて区分しなければならない法というものが本来持つ不合理性、不完全性を伝えたかったのだと理解しています(ややこしいことにどの段階で人となるかは刑法と民法よって異なるとも聞きます)。

 刑法上の責任能力は心神喪失、心神耗弱、正常の3種に区分されますが、この区分も問題を含みます。区分し定義することは法に不可欠のことであることはわかりますが、連続した状態を3分する方法は現実との間に無視できない差が生じる可能性があります。また鑑定者によって異なる結果が出ることも少なくありません。そして区分適用の如何によって、刑罰は無罪か死刑かという重大な差が生じることがあります。

 法の世界では論理が重視されますが、その論理の出発点、公理や定義にあたるものが不明確であるなら、導き出される結果は不正確なものになる可能性を否定できません。法の不完全性というものを意識する必要があると思います。

 ところでいま進められている司法制度改革は法の支配をより強めることを目指しているようです。但木前検事総長は「法化社会への対応と裁判員制度」と題する講演で次のように述べています。「では法化社会とは何なのか。端的に言うと、究極的に紛争のすべてが裁判所に持ち出され、あるいは持ち出されることを前提に準備しなければならない社会である」。これは社会のすみずみまで法の支配を行きわたらせることを意図するものと理解できます。司法制度改革の柱のひとつである法曹人口の急激な増員はこの法化社会の実現を見越したものと思われます。

 一方、この数年多くの食品偽装事件がメディアを賑わせました。例えば不二家事件では、期限が1~2日過ぎた牛乳を使用していたとして、食品衛生法等の違反が疑われました(超過していたのは社内基準の消費期限であり、それは牛乳メーカーの消費期限よりも3日ほど短いそうです)。赤福の場合は、余分の商品を冷凍保存し、必要に応じて解凍して再包装し、新たな製造日を印字したことが問題になりました。赤福は10年前に三重県に「この手法で偽装表示にはならないか」を問うたところ「商品衛生上問題ない」という容認を受けて、34年間続けてきたとされています(Wikipediaより)。

 不二家は1995年6月以来食中毒事故はなく、赤福に至っては34年間も問題がありませんでした。食品衛生法の目的は安全な食品を消費者に提供するためのものです。販売量の多さと年数を考慮すると、両社は実質的に安全を確保してきたと言えるでしょう(小さな違反行為より実績が重要です)。しかし結果は大量の商品廃棄(もったいない!)だけでなく手酷い経営的な打撃を受けました。形式的な違反行為でこれほどまでの制裁を受けるのは異常なことと思います。

 メディアは両社が大量の安全な商品を供給してきたことを一顧だにせず、形式的な違法行為ばかりに焦点を当てました。バッシング対象が悪質だと思わせる方がニュース価値が高いのでしょう。メディアにとっては単に興味を煽るための手法ですが、このような報道が続くと、違法の重大さを社会に印象づけることになります。それは法の本来の目的よりも形式的な遵守を重視する風潮を生む恐れがあります。

 福島県立大野病院事件のように、医療事故に対して警察が介入する例が目立ちますが、これも同じ流れの現象として理解してもよいかもしれません。警察の行為はそれが社会に及ぼす影響を考慮するより、法を厳格に運用するという狭い視野に基づいたものと考えられます。

 法化社会の目指すものと、メディアの不寛容な姿勢が産み出すものは同じ方向を示しています。法を無条件に受入れ、より厳格な遵守を要求する方向です。つまり法が人に従属するのではなく、人が法に従属するという意味合いが強くなると考えられます。

 日本の社会は法に頼らない紛争解決法が主流を占めてきました。中には泣き寝入りもあり、この解決法がよいとばかりは言えませんが、これは日本社会の等質性や和を重んじる文化ゆえの美点と言えるでしょう。「紛争のすべてが裁判所に持ち出され、あるいは持ち出されることを前提に準備しなければならない社会」という手間暇のかかる法化社会は国民性への配慮を欠くものであり、社会の効率性を犠牲にするだけでなく、この美点を損なうものではないでしょうか。少なくとも心地よく住める社会ではないという気がします。