噛みつき評論 ブログ版

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柏崎刈羽原発報道は適切か・・・中枢部は想定以上の揺れに耐えた

2007-07-25 21:34:13 | Weblog
 新潟県中越沖地震によって柏崎刈羽原子力発電所は50箇所を超える被害を受けた。しかし、想定の2.5倍の地震加速度にもかかわらず、運転中の3基、起動中の1基の原子炉は自動停止し、中枢部の安全性は確保された。

 格納容器などの主要機器の状態は今後の調査を待たなければならないが、ひとまず、安全が確保されたことは評価されてもよい。想定の2.5倍の揺れに耐えられたのは安全率をみた設計のおかげであろう。

 この原発被害に関する報道で目立つのは、建設の事前調査で活断層を見落として想定加速度を低く見積もったこと、放射能漏れがあったこと、変圧器火災の消火に手間取ったことなどである。その原因である設計や管理上の問題を問う姿勢も共通していた。

 これらを繰返し聞かされれば、原発の安全性に対する不安が増幅されるのは自然なことである。原発反対運動は今後活発になるかもしれない。もちろん、メディアが指摘するような活断層の調査など、問題点を今後十分に検討し、解決すべきであることは言うまでもない。

 だが、これは原発が偶然、地震によって試されたケースである。50箇所以上の被害データと共に、原発としては過去最大の地震加速度680ガルに中枢部が耐え、安全が確保されたということであれば、それは世界の原発に貴重なデータを提供することになるだろう。

 中枢部の安全が確保され、重大な事態に至らなかったというポジティブな側面を評価したのは、私の知る限りでは読売と産経の社説、寺島実郎氏の談話(NHKビジネス展望)だけである。朝日、毎日の社説は責任追及と改善策への言及が目立ったが、さすがに、廃止せよという無責任な態度はなかった。

 このような大きな地震に対して、原発といえども被害をゼロにすることは恐らく不可能だろう。原発のような複雑な装置に完全性を求めることは無理である。最重要なのは重大事故を起こさないことである。そのためには少しずつ改善を重ね、危険をゼロに近づけるだけだろう。メディアは怖さを強調し、糾弾することを仕事と心得ているような印象があるが、全体を冷静に評価する見識を持っていただきたいものだ。
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元号と西暦年号の2本立てはややこしい

2007-07-18 09:27:43 | Weblog
 いつまでごちゃ混ぜを続けるつもり?

 私たちは元号と西暦年号という二つの年号を使い続けている。誰にとっても不便だと思うが、不満の声が聞こえないのはなぜだろうか。あまりにも、あたりまえのことなので、改めて疑ってみることをしないのだろうか。

 古い話で恐縮だがメートル法と尺貫法の共存時代を持ち出すまでもなく、二種類の単位系が並存するややこしさ、不便さはどなたでもお分かりだろう。しかも元号はたびたびリセットされ1からのスタートとなる。また昭和64年は1月7日までの7日間で平成元年は残りの358日間というように年度途中の改元であり、余計ややこしい。ひとつの年に二つの呼び名があるのだ。

 元号の使用で困るのは年齢など、複数の元号をまたぐ年数の計算だ。しかしそれ以上に困るのは平成の年号と西暦の下2桁表記の数値が12の差しかないので、混乱が起きやすいことである。

 統計に使われる年号もまちまちである。政府の公式統計は一部を除き元号を採用している。ところが大学などの研究者は外国の資料も使うので発表するデータなどは西暦を使うことが多い。かくして日本の統計はゴチャゴチャとなって読み取りが面倒なのだ。

 現在、全国紙5社のうち、読売、朝日、毎日、日経の4社は日付表記は西暦を優先し、元号はカッコ内としている。本文(記事)でほぼ西暦に統一されている。この4社の部数の合計は9割を超える。しかし約1割以下の産経だけは、日付表記も、本文(記事)も元号を優先している(いかにも産経らしいと思うが)。

 調べたわけではないが、NHKも依然として元号の使用を優先しているように思う。メディアもいろいろでややこしい。もう少し読む側、視聴側のことを考えていただきたいものだ。

 またWindowsなどのコンピューターのオペレーションシステムでは西暦が使われている。
ファイルのタイムスタンプ(更新日時の表示)やソート(並び替え)などは西暦年号によっている。突然の改元が起こる元号はコンピューターには不向きである。

 参考までに近隣諸国で状況をざっと調べた。元号の本家の中国と韓国は西暦、台湾は1912年を元年とする中華民国暦を採用している。

 以下はWikiからの引用である。
『現在、中国の文化的影響の下で伝統的な元号を用いているのは日本のみであり、元号制度の前提である「君主」が存在するのも東アジアでは日本のみとなっている。』

 元号を好む方もおられると思う。また明治時代、大正時代というようにひとつの時代を象徴する言葉として使われているので(それにしても長さがまちまちだが)、廃止まではしなくてもよいが、公式文書やそれに準じるもの、つまり役所や民間企業の文書、メディアの表記を西暦に一本化すれば、ずいぶん便利になると思う。

 そろそろ元号継続使用の利益、不利益を争点にして、議論されるのも悪くないだろう。
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自殺サイト殺人事件、死刑確定に弁護人が横ヤリ、まったく余計なお世話

2007-07-11 23:05:31 | Weblog
 『自殺サイトをめぐる男女3人連続殺人事件で、3月に大阪地裁で死刑判決を受けた無職前上博被告(38)が5日付で控訴を取り下げ、判決が確定したことがわかった。控訴は判決当日に弁護人がしたが、被告は「死をもって償うしかない」と取り下げの意向を固めていた。弁護人は「被告は適切に判断できる精神状態になく取り下げは無効」として、控訴審の期日指定を大阪高裁に申し立てる方針。』(asahi com 07/07/07)

 要するに、前上博被告(判決確定後は死刑囚)は判決を受け入れ、「死刑にしてくれ」と言っているのに、弁護人は「ダメだ」と言っているわけだ。仏様のような、とっても親切な弁護士さんだ。

 依頼人の利益にために働くのが弁護人である。被告の意向に反してまでの弁護行為をどう考えればいいだろう。おそろしく余計なおせっかいであると思うが、弁護人の動機が気になる。

 3人を殺害した被告は、上級審まで争って、死刑を免れる可能性を追求するより、早期の死刑を選択した。仮に死刑を免れても、重荷を負いながら生き続けていくことに、あるいは自分の性格に社会と折り合いをつける困難さを感じたのかもしれない。しかしこんな他人の推定は意味を持たない。

 誰よりも本人自身がよくわかっていることであり、長い時間をかけて本人が出した結論は尊重されるべきだ。生命にかかわる重要な決定を弁護人が勝手に否定するのは傲慢あるいは独善と言うべきである。自分の意に反してこんなことをされたら、私なら弁護人を即刻クビにする。私はこれこそ自己決定権を奪う、人権侵害と考える。もしかすると弁護人は反人権派か?(そんなのあったかな)

 今のところ弁護人の動機は明確にされていない。死刑廃止の主張に沿うものなのか、自分の価値観を押し付ける「独善」によるものか、不明だ。弁護人は国選か私撰か知らないが、報酬を求めての行為ではないだろう。

 光市の母子殺害事件は手弁当の大弁護団だそうだ。有名事件にはご親切な弁護士がいっぱいおられるのだ。そんな親切心とヒマがあったら弁護料が出せない人たちの弁護でもやったらどうかと思うが、世の脚光を浴びないならやらないよと、言われそうだ。

 しかし、ご親切のために控訴審が実現すると大勢の人間が振り回されることになる。裁判所の処理能力は有限である。余分なものがひとつ割り込めば、どれかが遅れるか、はじき出される。被害者の利益にもならず、被告の利益にもならない弁護行為は、裁判という社会の資源を浪費することになる。税金によって運営されている限りある裁判制度だという認識を持ってほしい。
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宗教は害悪?(2) ・・・進化論の役割

2007-07-04 22:37:07 | Weblog
 長い歴史を持つ宗教は実社会と軋轢が生じないようにさまざまな改良が加えられており、害は比較的少ない。葬式仏教といわれるように、改良しすぎて毒にも薬にもならない、サービス業のようになった宗教もあるが、本来の有益性を持つ宗教もまだある。「迷える子羊」(私自身はこんな風に呼ばれたくないが)に生きる指針を与えたり、社会の価値観になじめない者を独自の価値観をもつ世界に導いてやすらぎを与えたりする。

 キリスト教は、富めるものより貧しきものが救われるとし、現実社会の価値の逆転を図った(ニーチェ)。実社会で不幸な者が宗教の世界では幸福になることもあり得る。そして多数の支持を集めた。しかしすべての宗教が無害というわけでは決してない。戦争という最大の害悪の原因にさえもなり得る。

 若者は「自分はなぜ存在するのか」とか「どう生きるべきか」などという問いを持つのが普通である。戦前の学生の多くは答えを哲学に求めた。そこに答えが見つかったどうかは知らない。

 戦後もしばらくはこの風潮が残った。もっとも哲学は一種のアカデミックなステータスの意味もり、また役に立たない学問ほど高級とする風潮もあった。哲学書を手に持って女にもてようと思ったわけだが、そんなものは役に立つわけがない。私のドイツ哲学の本は中身はきれいなのに、外側はボロボロになった。

 やがて哲学や思想が色褪せ、若者は興味を持たなくなる。ところが若者の「問い」はなくならない。一部の宗教やカルトはそこにつけ込む。若者の「問い」に対して、もっともらしい答えを提供する。便利であるが、それは虚の世界である。そして経験や知識に乏しい若者はその不合理さに気づかないことが多い。

 アメリカの公立学校では進化論を教えるか、創造説(インテリジェント・デザイン論、ID論などと名前を変えている)を教えるかで、数十年の間、争われてきた。アメリカは宗教の影響が強い特殊な社会なのだ。幸いわが国では進化論を教えるのに障害はない。しかし、進化論が十分理解されているだろうか。

 私自身、学校で簡単に習った進化論はあまり印象がない。30年前の、ドーキンスの「利己的遺伝子」以後の修正された進化論に、世界観が変わるほどの刺激を受けた。

 自然淘汰(自然選択)が生物界の多様性を作り上げたという進化論は単に生物学の理論にとどまらない。進化論はこの世界が誰かの意思で造られたという考えを明確に否定する。これは神およびその類似物の否定につながる。

 進化論を理解すれば、「ヒトは特別の存在ではない」ということがわかるし、「自分はなぜ存在するのか」といった問いの答えはナンセンスだということも分かる。なぜなら、何者かが意図して世界を作ったわけではないからだ。誰がデザインしたわけでもなく、勝手に出来上がった世界なのだ。

 ここに神や超越者の入り込む余地はない。進化論をしっかり教育にとりいれて、理解させる努力をすれば、宗教やカルトに取り込まれる若者を少なくできるだろう。また安定した世界観を築くのにも役立つだろう。現在の世界に於いて進化論の持つ意味は大変大きい。それゆえ、進化論は生物の授業だけではなく、社会など他の必須教科でも教え、全員に理解させるべきだと思うのである。
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