噛みつき評論 ブログ版

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イメージに頼る判断

2014-09-29 09:00:20 | マスメディア
 「警察」を「けいさつ」と書けば優しい感じになります。また「ケイサツ」と書けば胡散臭い印象を与えます。芸術も「ゲイジュツ」と書けばなんやら怪しげな感じになります。低レベルではあるが少しよいという意味の「まし」も「マシ」と書いたほうがより強調されます。

 日本には漢字という表意文字のほかに、カタカナとひらかなという二種類の表音文字があります。二種類もの表音文字は一見、無駄のように見えますが、より豊かな表現を可能にします。しかも表音文字は表意文字に比べ、はるかに少ない文字数で足りますから、覚えるのに大した苦労はありません。

 外来語をカタカナ表記にすると、外来語ということがわかるだけでなく、対応する日本語とは違ったイメージを持たせることができます。「借金」と「ローン」は同じものですが、「ローン」と言えば暗いイメージを消すことができます。昨今話題の「カジノ」は華やかなイメージがありますが日本語では「賭博場」です。これはずいぶんいかがわしい場所という感じがします。

 「カジノ」導入の是非についての議論が盛んですが、これを「賭博場」と言い換えればきっと反対派が増加することでしょう。「カジノ」と「賭博場」、同じものですが表現する言葉が変われば、賛否も変わるというのは不思議なことです。

 言葉によって賛否が変わるということは、言葉がもつ意味よりもそのイメージによって賛否を決める人が存在することを示しています。本来、賛否の判断は賭博場の詳しい内容や経済的利益・税収はどの程度か、その社会的影響、例えば博打にはまって破綻する人がどれくらい出るか、などを冷静に評価して決めるべきものです。

 我々は身近で切実な問題に対してはそれなりに熟慮して判断します。しかし政治上の課題、例えば集団的自衛権の是非といった問題は身近でない上、複雑であるため容易に判断ができません。外部からの武力攻撃など将来起こり得るさまざまな出来事の確率まで考慮する必要があるからです。こうした難しい問題ではイメージに頼って安易に判断する傾向が強いと考えられます。

 複雑で判断が難しい問題に対して、賛否をコントロールしようと思えば、それを特定のイメージに結びつける方法が有効です。多くの人はイメージによって判断するからです。朝日新聞は集団的自衛権を戦争や徴兵と結びついたイメージに仕立て上げようとしましたが、これは有効な方法だと思います。

 しかしイメージ戦略によって自社の思う方向に誘導することは、有権者が自ら考える機会を奪うものであり、民主主義を否定するものです。また有権者に判断材料を提供するという報道機関の役割を放棄するものでもあります。報道機関としては最悪ですが、今回の朝日事件はその手口の一部が世間にバレてしまい、とうとう謝罪に追い込まれたものと理解できます。

 話がそれたので元に戻します。このように考えると、人の思考やその結果としての判断にはずいぶんいい加減なところがあると思わざるを得ません。メディアのイメージ戦略のために、熱狂的な人気を得て登場した民主党政権はその輝かしいイメージが消滅すると惨めな残骸をさらすのみとなりました(こちらが本当の姿に近いと思いますけれど)。これはイメージによる判断がいかに危いかを示しているように思います。

「結果として間違っていた」という謝罪

2014-09-22 09:01:10 | マスメディア
 謝罪とはなかなか難しいものです。見苦しい謝罪はよく見かけますが、心に響くような素晴らしい謝罪にはあまりお目にかかりません。受ける側は批判しようと身構えているわけですから、筋の通らぬ自己弁護などするとたちまち非難を浴びてしまいます。以下は見苦しい謝罪の典型例といってよいでしょう。

 「結果として間違っていた」という言葉はしばしば謝罪に使われます。これはその後の事情の変化によって間違ったことになってしまったが、判断した時点では間違っていなかった、という意味です。「結果として」という文言を入れるだけで自己を正当化できるわけです。しかし当然ながら本心からの謝罪にはなりません。

 9月11日の朝日新聞の謝罪会見の席上、報道部門の最高責任者、杉浦信之元編集担当取締役は池上彰氏のコラム掲載拒否問題について次のように発言しました。
 「池上さんのコラムの一時的な見合わせを判断したのは私です。結果として間違っていたと考えています」。

 掲載を拒否した時点では正しかったということになります。ところが判断後に内外から想像以上の批判を浴び、仕方なく掲載拒否を撤回したということでしょう。つまり当初のコラム掲載拒否という言論封殺の判断は正しかったと述べているわけです。恐らく週刊誌の広告拒否なども同じ考えからなのでしょう。ずいぶん正直な方のようですが、これでは謝罪や、十分な反省を示したことにならないことがお分かりになっていないようです。報道部門の最高責任者にはもう少しマシな人がいなかったのか、という疑問も拭えませんが。

 杉浦氏の次の発言から考えても彼の謝罪は本心とは思えません。社長らの謝罪会見終了の直後、午後10時45分から開かれた同社の臨時部長会で、杉浦氏は部長たちを前に語った言葉です。
「今回のことですべてが否定されたとは思わないで欲しい。私はいままでの紙面に誇りを持っている」・・・(NEWSポストセブン 9月19日)

 慰安婦の吉田証言と福島第一原発の吉田調書の虚偽報道がバレて朝日は謝罪に追い込まれました。しかしそれは虚偽が言い訳のできないほど明確となった記事だけに対する謝罪であることに注意する必要があります。

 報道すべきものを黙殺する、取るに足らないものを針小棒大に報道する、あるいは構成要素を恣意的に選別して都合に良いものだけを報道するなどは読者の認識を意図的に誤らせるものであり、「広義のウソ」と呼んでいいでしょう。これらの不誠実な手口を使って自らの政治的主張に都合のよい意図的な報道を朝日は数十年間続けてきました。

 その中でついついやりすぎて失敗したのが上記の二つの報道だと言えるでしょう。しかし影響の大きさから言えば「広義のウソ」によるものが圧倒的で、今回表面化した二つの記事は氷山の一角です。「狭義のウソ」についてはだけは謝罪がありましたが、伝統的な意図的報道については全く認めていません。政治的な信念のためには報道を曲げてもよいといった報道機関としてのモラルの低さ、不誠実さは依然として健在なのでしょう。

朝日の謝罪は信用できる?

2014-09-15 08:53:12 | マスメディア
 9月11日、朝日はついに自白と謝罪に追い込まれました。従来どおり突っぱねるよりここで謝罪した方がダメージが少ないという判断があったのでしょう。最初の虚報から32年、この期間の長さは朝日の傲慢さの程度を表しています。また大手メディアが虚偽の報道をしたとき、その是正がいかに困難かを思い知りました。朝日をここまで追い込んだ立役者は産経と読売、週刊文春や週刊新潮などの週刊誌でありましょう。多くの強い批判の結果、業界内での自浄作用が起きたことは評価できます。一方、朝日は信用を失ったと言われていますが、それは本当の信用度がわかっただけで、偽善の仮面が剥がれたに過ぎません。

 政府による吉田調書の公開が間近に迫り、所員の9割が命令に違反して逃げたという意図的な虚報に対する言い逃れができなくなるという事態も謝罪を決断する動機となったのでしょう。今回の自浄作用はこのような「幸運」に支えられた面がありました。慰安婦問題に関しては知らん顔をしていた「同士」の毎日新聞ですら、吉田調書問題では朝日の解釈を否定する報道をしました。それに対してNHKの消極的な姿勢には失望しました。公共放送が対立する意見のどちらか一方に与するといったことは慎重であるべきですが、今回の問題は国家的な重要問題に関して何が正しいか、何が間違っているかという事実に関することです。

 中立的な立場からわかりやすく調査・検証するのは公共放送の務めだと思いますが、NHKは検証能力がありながら朝日の虚偽報道に対して何もしませんでした。もっと早い時点で検証を行っていれば虚偽報道による損失をある程度避けられた可能性がありました。虚偽報道を放置して、業界の自浄のために何もしないという情けない態度を見せました。不作為の罪があるというべきです。

 朝日に対する批判は右よりのメディアほど大きく、左よりメディアはゼロか小さい傾向が見られます。美しい仲間意識も結構ですが、今回の問題は意図的な虚偽報道というメディア報道のより基本的な問題であり、左とか右とかには関係がないことです。

 国語能力にひどく問題のある人でなければ、吉田調書を「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と解釈するのはまあ不可能でしょう。それを記者の思い込みがあったとか、チェック不足があったからという弁解は納得できません。産経などから疑問が出された後、当初の取材班とは別の数人が検討した結果、外形的な事実に誤りはないとして命令違反との解釈は変えなかったと朝日は説明しています。

 重要なのは形ではなく、原発の作業員を貶めたという記事の意味・中身であり、形に頼る態度は実に姑息です。何人もの人間が同一の歪んだ解釈をするなど、一般にはありえないことで、これには相応の理由があると考えるべきです。誤報の本当の理由を発表するまでは謝罪を信じるわけにはいきません。

 おそらく原発再稼動に反対するため東電を貶める、という意図が共通の意識としてあったのでしょう。朝日が謝罪した翌日の12日、今度はテレ朝の報道ステーションが安全審査の審査書決定に関するニュースについて、「大きな間違いを犯しました。田中委員長をはじめ関係者の方々、テレビをご覧の皆様におわび申し上げます」と謝罪しました。まさに恥の上塗りですが、これも安全審査に疑問を抱かせる内容であり、原発反対の主張をこめた意図的編集という疑いが濃厚です。

 報道より主張を優先する姿勢は慰安婦問題でも同じです。事実を曲げてでも信念を貫く、朝日は信念の人なのでしょう。ただ報道機関としては大変困るわけです。朝日は今後、誤報や虚報という尻尾を出さないようになるでしょう。しかしいまだに「慰安婦問題、本質は変わらず」という検証記事(8/28)とか「8月に5-6日掲載の慰安婦報道の特集については「内容には自信を持っている」との社長発言にみられるように見苦しい正当化が目立ち、本心からの反省とは思えません。

 何度もウソをついていた人がもうこれからはウソをつきませんと謝罪したとき、それもウソではないかと思うのは道理です。信用を失うということは恐ろしいことです。そして長年染み付いた体質はそう簡単に変われないことも確かです。

イデオロギーと新聞

2014-09-08 09:02:21 | マスメディア
 朝日新聞批判の騒ぎが力強く広がってきました。慰安婦問題の虚報事件には一切謝罪せず、週刊文春と週刊新潮の広告掲載拒否、そして両誌次号の広告では都合の悪い文言を黒塗りして掲載、池上彰氏のコラム掲載を拒否(後に批判を浴びて掲載)したりと、あたかも自分で火をつけてまわって騒ぎを大きくしているかのようです。少し古いですがKY、つまり空気が読めない人達なのでしょう。

 メディアが世間の空気を読めなくてどうするの、と言いたいところですが、空気が読めないのは無能か、あるいは余程の独善・傲慢な体質のためでしょう。両方ならもっとも始末が悪いですが。ともかくこのところの朝日は適切な判断能力を失っているのは確かなようです。

 池上彰氏のコラムや週刊誌の広告掲載を拒否すれば言論弾圧だとばかりに反撃を受けて、事態がより悪化するとは考えなかったのでしょうか。新聞は公器であるという認識が極めて希薄であることを示しています。

 また、5月には福島第一原発の事故に関する吉田昌郎元所長の調書から「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と大きく報道し、それは世界に広がってフクシマ・フィフティと尊敬されていた所員達の名誉を大いに失墜させました。中にはセウォル号の乗員と同一視する論評までもありました。危険を顧みず懸命に働いた関係者に対する冒涜です。

 産経、読売、毎日新聞、共同通信が批判しているように、吉田調書をどう読んでも「所長命令に違反して撤退」とする解釈は私には不可能です。いずれ明らかになると思われる吉田調書を意図的に曲げて報道すればやがて自らの信用を失うことになることが予想できないのでしょうか。

 原発反対という主張のためなら日本を貶めてもかまわないという価値判断も極めて異常です。慰安婦報道にも同様、かつての戦争を糾弾するためには国益を失っても、またウソをついてもかまわないという異常な価値観が見られます。一体どこの国の新聞なのかと言いたくなります。

 頭がおかしくなったりして個人が判断能力を失うことはよくあることです。しかし、第二次大戦における大日本帝国、オウム真理教など、組織・集団として適切な判断能力を失い、破滅に至った例も少なくありません。大きい組織がおかしくなれば大きな影響を及ぼすわけで、大事な問題です。

 組織や集団がいかにして正常な判断能力を失うのか、個人ならともかく、皆がそろって頭がおかしくなるのですから、そのメカニズムには興味をそそられます。宗教団体や過激集団によく見られますが、独自の世界観や思想があるためでしょう。朝日教と呼ばれるくらいですから。

 そのために思考が独善的、かつ硬直化し、時代の変化に適応することが困難になると思われます。そもそも特定のイデオロギーに染まった報道機関に中立・公正な報道など、期待できるわけがありません。アルカイダや世界統一教が大手新聞を乗っ取った場合を想像すればよいでしょう。

 しかしこの騒ぎ、大きくなったとは言え、朝日の巨大な害悪を考えるとまだまだ足りません。食品の産地偽装や政務活動費のごまかしなどとは比較にならないほど重要だからです。朝日のお得意な「火付け」に期待しましょう。

朝日と野党の困った関係

2014-09-01 09:07:33 | マスメディア
 戦後ずっと、日本には政権担当能力のある野党が存在しなかったと言われてきました。けれどついに2009年、大きな期待の中で民主党政権が誕生しました。しかし3年半後、やっぱり政権担当能力がないことが実証されました。そしてこの実証のために国民は莫大な代償を払うこととなりました。

 民主党政権がロクな仕事をしない中、152人もの大臣を「量産」したことはこの政権の性格を物語ります。仕事に習熟する前に交代するのでは、本当に仕事をする気があるのか、ということになります。こんなレベルの民主党を祭り上げ、政権誕生に力を貸した朝日などのメディアは認識能力の低さを天下に晒したわけですが、謝罪はもちろん、非を認めることすらありません。

 日本にまともな野党が育たない理由はいろいろと言われていますが、左派メディアの存在がその大きい理由であると思われます。朝日などの左派メディアと左派政党は基本的な考えで一致する部分が多く、共同して与党政権と対峙してきました。

 左派メディアの主義・思想はそのプロパガンダを通じて有権者に伝わり、さらに有権者の投票行動を通じて左派政党に影響を与えます。左派政党は多くの票を集めるためには左派メディアの影響下にある有権者の支持を得る必要があるからです。つまり左派政党は票のために左派メディアに迎合し、左派メディアは左派政党を通じてある程度の政治力を持つことができます。こうして両者の馴れ合い関係は長く継続できたのでしょう。

 左派メディアが増税なき福祉予算増額や9条があれば平和が保たれる、非武装中立などと妄想のような主張をしても、野党は票を得るために同調しようと考えるでしょう。左派政党は左派メディアに沿った路線を続けていれば、それがいかに非現実的であろうとも存続できるわけです。政権担当する見込みはまずないのでその能力は問われません。そんなところに有能な人材が多く集まってくるとはちょっと考えにくいことです。

 民主党は野党としてはかなり現実的な路線を採用したこともあって政権獲得に成功しましたが、寄り合い所帯とか、選挙互助会と言われるように主として野党の寄せ集めでした。次々と交代した3人の首相を見るだけでもわかるように、民主党は有能な人材が極度に不足していました。民主党の失敗は野党に有能な人材がほとんどいなかったことの証でもあります。

 朝日などの左派メディアが非現実的な思想集団を育て、それが現実的能力を欠く野党を温存させたと考えられます。もし朝日などがもっと賢明であったなら、もっと賢明で有能な野党が育っていたかもしれません。なんでも反対ではなく、よりよい修正提案や優れた政策提言などによってよりマシな政治が実現できたことでしょう。

 政府の動きを牽制するなど、左派メディアは一定の役割を果たしてきました。しかしその一方で、現実的な能力を欠く政党を育てる、無用な対立を煽る、朝日の慰安婦報道のように国際的な評価を損なうなど、その悪影響は計り知れません。

 今回の朝日の虚偽報道事件では日本を貶めようという悪意までうかがえます。これは国家に対する犯罪的行為です。この事件は左派メディアのもつ負の側面を考えるよい機会だと思います。また報道よりも政治的プロパガンダを優先するような大手メディアが許されるのか、というメディアの中立性の問題も改めて問う必要があるでしょう。大手メディアが政治に介入することに対し、もっと問題意識を持つ必要がありそうです。まともなメディアばかりとは限らないわけです。