噛みつき評論 ブログ版

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国が進める『貯蓄から投資へ』に騙されないために

2007-11-30 12:57:00 | Weblog
 「貯蓄から投資へ」は国の方針である。証券業界、日本経済新聞はそれに乗っかって、後押しをしている。その方が儲かるからである。

 ところがうまくいっていない。内閣府政府広報室によれば、預貯金を好み、株式や投資信託などを保有しない人は07年5月の調査では前回(05年12月)よりむしろ増えている(71.7%→73.5%)。投資を現在行わず,今後とも行う予定はないという回答も68.5% → 74.1%とむしろ増加傾向だ。

 「貯蓄から投資へ」とは銀行を通じた間接金融から国民が直接投資対象(会社など)を選んで投資することを促すことである。大きく儲かることもあれば大損することもある。つまりみんなで危険な(リスク)マネーを供給しようというわけだ。

 成功の確率を上げるためには十分な情報と判断力が必要だ。国民の多くが経済を勉強しても(経済紙が売れる)機関投資家などの専門家と互角に勝負できるとは思えない。しかも低成長下の株式市場はゼロサムゲームに近いから誰かが儲かると誰かが損をする可能性が高い。余裕ある人のゲームにとどめるべきものだろう。

 投資信託を買う場合は投資の選択を他人に任せるのだから、その点は銀行と同じである。しかしリスクは本人もちだ。バブルのとき、銀行は「みんなでわたれば怖くない」と不動産業界に融資した金が焦げつき、多くの銀行が消滅した。そして知識・経験の豊富な専門家もそろって大失敗するという教訓を残した。

 その点、証券会社は安心だ。相場が総崩れでも証券会社は損をせず、投資した国民がすべての損を負担してくれる。銀行も投資信託の窓販に力を入れているが、預金を集めるよりおいしい投信の手数料が魅力なのだろう。そして銀行もノーリスクだ。

 銀行は主に預金と貸し出しの利ザヤで生きている。だから双方の残高がある限り収入がある。ところが証券会社の主な収益は売買時の手数料だ。長期の保有は収益にならないから頻繁に売買を薦める。そして客はたいてい食われる。もっとも大口の客は優遇される。大口客に 「飛ばし」で損失補填してつまずいたのが山一證券である。
(飛ばし:値下がりした証券を高値で山一の関連会社に買い取らせ、損を埋め合わせる手法)

 同じ調査で、投資より貯蓄を選ぶ理由(複数回答)として、証券会社や証券市場に対する不信感が28.4%もある。不信感は日本の証券会社の長年の涙ぐましい営業努力の成果である。

 「金融商品取引法」は証券業界の目に余る行動を縛るために、9月に施行された。自ら行動を律することができない業界であることはこの法律が証明している。

 山一證券の一部を引き継いだメリルリンチは頻繁な売買を薦めない米国流の営業方針を採った。しかし数年後、日本での業務縮小を余儀なくされた。わが国伝統の、客を食いものにするやり方に敗北したのである。

 現在、株式や投信を保有しているのは1割ほどだ。ハイリスク・ハイリターンを目指すのは余裕のある一部の人でよいではないか。米英独の保有率は日本より高いが、その差は証券業界の信頼度の差によるところもあるのだろう。

「貯蓄から投資へ」はリスクあるゲームへの勧誘である。直接金融の利点もわかるが、弊害も大きい。国民のために、わざわざ国が音頭をとって進めることだろうか。もっとも、証券業界のためになるのは誰にでもわかるが。
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政府税調の答申を大きく報じない朝日の狙い?

2007-11-26 13:02:25 | Weblog
 11月21日、政府税制調査会による税制改正の答申内容が新聞に載った。今回の答申では年度答申と共に中長期の税制の方向性が示され、それには消費税率上げの必要性と共に、所得税の最高税率の引き上げや、相続税の強化など、従来の方向を180度転換する内容が含まれている。

 朝日新聞は1面左上に「所得・相続課税も強化」「消費税上げ明記」、9面に「税を問う」「個人増税 地ならし」と掲げひととおりの解説をしているが、全体として「増税」という負のイメージを強調しているように見える。また問題の重要性のわりに扱いが小さいという印象が強い。

 欧米の動向や新自由主義の影響と思われるが、この十数年、所得税の累進率、相続税率は下げられ続けてきた。累進課税の緩和は所得の再分配機能を低下させ、格差の拡大を助長することになり、相続税率の低下は資産の世代間移動を可能にして、機会均等を妨げてきた面がある(資産を受け継いだ者は有利なスタートラインに立てる)。

 今回の答申は現在までの税制の方向性を大転換するという点で大きい意味を持つ。新自由主義路線に修正を迫るという側面もある。朝日がそれに触れず、増税だけに目を向けるのはどうかと思う。日経は1面トップであったが、朝日の扱いは船場吉兆事件に比べると情けないほど小さい。

 この十数年来、所得税の累進率、相続税率は下げられ続けてきたと書いたが、そのときも十分な報道がされず、ほとんど議論は起きなかった。税制の変更は格差や機会均等という社会の基本的なあり方に密接な関係があるにもかかわらず。

 答申に示された方向転換の意味を十分伝えることによって、理解を深めて議論を興すのが新聞の役割だ。政府税調にしても苦労して打ち出した方向性を冷ややかに扱われたのでは気の毒だ。また答申内容のよい点が評価を受けることで、その影響力を増す。

 累進課税の強化は社民党の主張とも共通するが、社民党と同じ見解を持つことが多い朝日新聞はこの点、もう少し評価してもおかしくない。何か理由があるのだろうか。

 前回、高額所得層の所得税率が下げられたとき、大手メディアの高所得の方々はその恩恵を受けたと思われる。今回の答申が実行されると逆に増税になる可能性がある。日頃、格差をあれこれ言っている手前、表立って反対もできないので、そっとしておきたいお気持ちもわからないわけではありますが。
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朝日新聞殿、これで報道の使命を果たされているのですか

2007-11-20 10:36:19 | Weblog
朝日新聞は社を挙げてキャンペーンをやっているようです。11月10日朝刊に続き、14日夕刊、15日朝刊、16日朝刊、16日夕刊、17日朝刊は船場吉兆事件がトップ記事です(大阪版)。国を揺るがすほどの一大事なのかと思ったところ、ラベルにウソが書いてあっただけということを知り、拍子抜け致しました。

 船場吉兆は資本金2600万円の小企業で、中毒事件を起こしたわけでもないのに、なぜこんなに「格別」の扱いを受けるのか、凡人の私は理解に苦しみます。まるで私的な恨みでもあるかのような執拗極まる報道を読んでも、私にとってはなんら得るところがありません。

 多数の人が吉兆を利用しているとは思えません。あるいは高給の新聞社の方は日常利用していて身近な問題だと錯覚されているのでしょうか(朝日新聞社の給与はなぜか非公開ですが、漏れた資料によるとずいぶん高水準のようです―参考資料)。

 トップ記事は1カ所だけしかない、限られたリソースです。だからトップは最も知らせる必要があることを載せるところです。どう考えても船場吉兆がそれほどのニュースとは思えません。

 例えば、国土交通省の道路の中期計画素案は国の行方を左右するほど重要だと思われるもので、15日の朝日社説で取り上げられました。しかし、この発表を扱った14日の記事は目立たないものでした。また国会が機能不全に陥っている現状をもっと指摘してもよいと思います。

 他紙は15日のトップに載せましたが、規制改革会議が混合診療の全面解禁を盛り込む方針を決めたことなど、ほかにも国民生活に大きな影響をもつ重要ニュースがあります。船場吉兆などのニュースを連日掲載することはほかの重要なニュースが削られることになります。

 裁判員制度や司法試験合格者6倍などの司法改革は、決定までの経過があまり報じられなかったために、突如出現した感があり、その間、反対意見が表面化せず、決定した今になってようやく反対が出始めました。報道の役割が果たされていたかという点に注目したいと思います。

 今回の事件の教訓がひとつあります。それは、高級ブランドを好む食通の方でも、簡単にだまされる、ということです。彼らは高額を払い、満足して食ってたわけですから。

 それはブランド信仰が幻影に過ぎないこと、産地表示の実質的な意味が希薄だということを示唆しています。○○産のなんとかなんてどうでもよいのです。

 ともあれ、見出しを赤く塗りさえすれば、スポーツ紙と見まちがうような内容の新聞は公共性を放棄したものと思わざるを得ません。
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【書評】『高熱隧道』…知ってほしい苛酷な過去

2007-11-16 09:55:37 | Weblog
【書評】『高熱隧道』…豊かさの世代に知ってほしい過去の過酷な事実

 40年ばかり前に書かれた「高熱隧道」を何故いまさら、と思われるだろうが、きっかけは著者、吉村昭の死に様に惹かれたことである。昨年、病床にあった吉村は、自ら生命維持に必要な器具類を取り去り、覚悟の死を選んだ。

 「高熱隧道」は期待にたがわず、硬骨漢らしい冷静な態度が貫かれた記録文学である。昭和11年から約4年間の黒部第3発電所のトンネル工事が描かれている。当時の電力不足という切実な事情に、軍の強い要請が加わる中、工事は多数の犠牲を出しながら進められる。

 重荷を背負い、黒部渓谷の断崖に細く刻まれた道からの転落、岩盤の高温によるダイナマイトの爆発事故、雪崩による宿舎の崩壊などによって犠牲者は300名を超える。鉄筋5階建ての2階以上を数百メートル吹き飛ばした泡(ホウ)雪崩の存在には驚いた(泡雪崩のメカニズムの記述に誤りがあるとの指摘がある)。

 話は工事事務所長や工事課長という管理者側の視点から描かれる。その中で、なぜ人夫は、こんな危険な仕事から逃げ出そうとしないんでしょう、と若い社員の問いに対して、「人夫たちが高熱に喘ぎ、死の危険にさらされながらも工事現場から離れないでいる理由はただ一つ、高い日当にあるのだ。彼らは、普通の作業に従事していたのでは手にする金額も妻子を辛うじて食べさせるだけで、衣服まではなかなか手が届かないことを知っている」と課長の思いが記される。

 危険な仕事に駆り立てるものは、上層部にあっては切実な電力不足を解消しようという使命感や隧道技術者としての誇りであり、下層にあっては貧困である。

 現代の社会にはかつてのような生存を脅かすほどの深刻な欠乏は見あたらない。したがって産業に携わる人間が使命感を持ちにくい状況だと言える。テレビゲーム、ファッション衣料、レジャーランド、などはなくなってもさして困らない。

 だがほとんど停電なく供給を続ける電力、石油、鉄鋼、化学、運輸、通信などの基幹産業が今でも生存にかかわる重要な位置を占めているという事実、またそれらに従事している人々の努力にメディアが関心を向けることはない。

 「今日は電気はお休みです」とか「今日はガソリンが品切れです」なんてことはまず起こらない。それがあたりまえとされ、維持するための供給者側の苦労など誰も考えない。地味な基幹産業をメディアが取り上げるのは事故と不祥事のときだけだ。つまり負の部分しか取り上げない。柏崎刈羽原発の地震被害報道を見て東電へ就職したいと思う人はあまりいないだろう。

 そのような報道姿勢は、生活を支える豊富な物資はあってあたりまえと受け止め、産業の受益者でありながらその重要性を理解しない層を大量に産み出す。95年には57万4000人いた工学部志願者が05年に33万2000人にまで減少したのはその反映だと思う。優秀な技術者の不足はやがて日本の競争力の低下につながるだろう。

 本書によって私は数十年前の、先人達の血の滲むような努力や犠牲が現代の豊かな暮らしにつながっているという事実と、現代の基幹産業の重要性を改めて思い知った。原発反対運動に精を出している方々にはとりわけ一読をお薦めしたい本である。
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裁判員制度、根幹にかかわる4つの重大な懸念

2007-11-13 11:35:38 | Weblog
 十分な議論もなく、突如、国民の前に現れた印象が強い裁判員制度だが、批判する動きが出てきた。

 半ば強制的に裁判員に選ばれた場合、裁判員が様々な不利益をこうむることについての議論に加え、文芸春秋11月号に載った、元東京高裁部統括判事の大久保太郎氏の「裁判員制度のウソ、ムリ、拙速」は違憲という視点から同制度を批判している。だが違憲など法理の問題における異論は常にあり、どうでもよい。

 もっとも重要なことは、裁判員制度がより公正な裁判を実現できるのかということであり、この視点からの論評はあまりお目にかからない。公正な裁判を実現する上で、以下の点が大きな障害になるのではないかと懸念する。

①素人が、事実を正確に評価・認定できるだろうか。
②この仕事に不適格な裁判員が選ばれる可能性がある。
③他人に同調しやすい付和雷同型の多い日本人に独立した意見を期待できるか。
④裁判員は時間に制約のある場合が多く、早く評決を出そうとする力が働く可能性があること。

 以下理由を述べる。
①刑事裁判の機能は、事実をできる限り正確に認定し、適切な量刑を決定することだ。争点が幾つもあったり、矛盾した事柄があったりと、複雑なケースも多い。難しい仕事であるからこそ、判事はもともと難しい司法試験合格者の中でも優秀な人材が選ばれてきたのだろう。全体の3分の2が無作為で選ばれた素人で可能だとすると、従来の優秀な人材の教育・選抜システムはあまり必要ないことになる。

②同制度は平均的な一般人を想定していると思うが、6名では平均化は難しく、ばらつきが避けられない。簡単な詐欺に引っかかる人、怪しい宗教を信じる人、つまり乗せられ易い人もいれば、事件の正確な把握が困難な読解力の低い人もいる。陰謀説を信じるなど現状認識が異にし、話が噛み合わない人もいる。社会への理解が十分ではない20歳の若者もいる。どうしようもない不真面目なものもいる。6名ではこのような不適格な人が多く紛れ込む可能性を排除できない。

③6名の素人がみんな自分の意見を自由に発表するだろうか。「私も同じです」と言っておけば、反論されることもなく、被告を裁くという重圧も軽減される。日本人の付和雷同気質はその傾向を助長する。また職業裁判官に比べ感情に左右される度合いも大きいと思われる。米国の陪審員は美男美女に甘い評決をする傾向があるとも言われている。悪人面には逆の傾向があるだろう。

④最高裁、法務省、日弁連共同の広告には「多くの場合、裁判員の仕事は3日以内で終わる」と書かれている。このような期待を持って参加したところ、5日や10日になったら、「早く終わらせてくれ」という強い要求が出るだろう。議論は収束していないが、これ以上仕事を休めないので判決を出しましょう、では被告はたまらない。

 裁判員制度の利点として裁判の迅速化が言われているが、時間の制約を設けて迅速化を図るのはおかしい。拙速につながる。公判の密度を高める方向での迅速化ならわかるが、それなら裁判員制度でなくても実現可能だ。

 文春の記事によれば、同制度は司法制度改革審議会の中坊公平氏らが熱心に導入を図り、国民に詳しい説明もされず、また国会でも実質的な論議をされず04年夏、成立したという。

 この制度の背景には一般国民の判断というものに対する盲目的な信頼があるのではないか。言うまでもなく、民主主義は国民の判断への信頼を基盤としている。しかしそれは集合(マス)としての平均化された国民の判断である。裁判員制度は僅か6名の平均化されない人たちが直接被告を裁くのだ。無作為に選んだ素人6名に3名のプロをつけて、政治を任せられるだろうか。

 チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」という有名な言葉は民主主義を盲目的に信じる軽薄な者に対する警告だとも解釈できる。民主主義のワイマール体制はヒトラーを生んだように、マスの判断であっても間違いはしばしば起こる。

 少なくとも1名の裁判官の賛成が条件とは言え、評決は裁判官3名、裁判員は6名の合計9名による多数決で決定されるので裁判員は大きな影響力を持つ。裁判員の当たり外れによって裁判の結果が大きく変動するようでは裁判の公正さは損なわれてしまう。

 前回に書いたが、同じ想定の事件についての模擬裁判が2ヶ所で行われたが、一方では殺人未遂で実刑判決、他方は傷害致死で執行猶予付き(実際の服役なし)の判決が出た。

 この制度を推進した人たちは、予想だけに基づいて制度をつくった。このような分野で確実な予想は不可能だ。法曹界の偉い方々が大勢よってたかったとしてもいい加減なものしか作れない。従って、この制度の成否は「やってみないとわからない」ことになり、それではあまりに無責任だ。

 司法制度改革審議会のメンバー13人のうち中坊氏ら法曹関係者は約半数を占め残りは実業家、労組代表、主婦連代表、作家などである。司法試験合格者を3000人に激増させることもこの審議会で決められた。(審議会のHP)

 こんな影響の大きいことをなぜ机上の予想だけに基づいて決めたのか。いまからでも同一の想定事件について、無作為抽選から始める実験裁判を数箇所で実施し、制度の信頼性を確かめてから実施すべきである。模擬裁判によって判決がまちまちになることを懸念する。一般人の常識を裁判に取り入れるために、公正さが損なわれては話にならない。
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裁判員制度、なぜ実験をせずに決めたのか

2007-11-08 17:46:13 | Weblog
 10月2日のNHK「おはよう日本」では裁判員制度による模擬裁判の模様を伝えていた。全く同じ想定の事件について模擬裁判が2ヶ所で行われたが、一方では殺人未遂で実刑判決、他方は傷害致死で執行猶予付き(実際の服役なし)の判決が出た。

 また陪審員制度の国、アメリカでは死刑囚124人がDNA鑑定などによって無実が明らかになった(8/29のNHKクロ現)。また美男美女は刑が軽くなる傾向が見られるという研究もある。悪人面は逆に重くなるかもしれない。

 これらの事実は素人が参加する陪審制や参審制の信頼性に疑問を投げかけるものである。しかし、だからといって現行制度がよいと言うつもりはない。

 裁判に市民感覚を取り入れるという理由で、いつのまにか決まった裁判員制度であるが、裁判員になりたくない人が7割を占めるなど、決まった後から問題が指摘されている観がある。裁判員は無作為に選ばれた候補者の中から、面接をした上で6名が選ばれるそうだが、この選抜基準が気にかかる。

 果たして、裁判員としての適性、つまり常識、論理性、被暗示性、協調性などが短時間の面接で判断できるのだろうかと疑問である。例えば弁の立つカリスマ性のある人物を1人、付和雷同型の人物を5人選んだ場合などはどうしてもその1人に引っ張られるのではないか。また裁判員になりたくない者が、面接のときにトンチンカンな答をすればどうなるのだろうか。

 犯罪を構成する多くの要素を適切に評価していくことは難しい作業だ。たまたま議論の中心になった要素は大きい影響を与えるかもしれない。メディアの、予断を含んだ報道が影響を与える可能性も指摘されている。訓練を積んだ職業裁判官の判断に比べるとブレが大きくなるという懸念を拭えない。

 いま行われている模擬裁判実験をなぜ制度の決定前に行わなかったのだろうか。社会実験の必要性と効果については「ゆとり教育の前になぜ実験をしなかったのか」に書いたが、裁判員制度の実験は規模も小さくてよく、金もたいしてかからない。

 自然科学の世界では実験はあたりまえの手法なのだが、なぜか社会政策の分野では実験という発想が極めて少ない。いい加減な予想に基づいて実行し、結果が間違いであっても責任をとらされることがないシステムのためでもあろう。多分、いきあたりばったりが常態なのだ。

 今からでも裁判実験をして妥当性を検証してから実施すべきだと思う。そして裁判員制度が不適切となれば、判事になる前に一定期間、実社会の経験を義務づけて市民感覚を身に着けてもらう方法もある。
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これでも新聞記者?資質を疑わせる朝日記事

2007-11-05 08:55:54 | Weblog
 最近の朝日新聞に載った二つの記事を紹介する。いずれも記者としての適性を疑うに十分な内容であるが、さらにそれを校正し掲載した新聞社の能力にも疑問を投げかけるものである。

 ひとつは10月30日に載った、養老孟司氏が神奈川県立秦野高校1年3組の総合学習の時間に教壇に立った話である。これは朝日新聞の読書推進事業「オーサー・ビジット2007」の企画によるものだ。その中で、養老氏の「言葉によって認識するのが人間の脳なのだ」「イヌの脳は、呼びかけてくる声を全部違った『音』として認識し」、これが絶対音感と呼ばれる能力だ、という授業内容を紹介している。養老氏の話はとても信じられないものであり、この部分をとくに取り上げた記者の評価能力を疑う。

 絶対音感とは単独の音を聴いて、その音程(周波数)を知る能力のことである。一般の人は基準の音のあとで別の音を聴くとその音程がわかる。絶対音感を持つ人は、例えば単独に440Hzの音を聴くとA(イ)音だと認識することができる。幼い頃から訓練すれば絶対音感は身につくことが多い。しかし絶対に正確なものではなく、より正確だということである。イヌにも備わっているという研究を読んだことがあるが、どの程度の正確さかはわからないし、広く認められたものとは言えない。

 養老説に従えばイヌは声の音程(周波数)と意味とを結び付けていることになり、音程が違えばイヌは違う意味として理解することになる。これは明らかにおかしい。イヌは数個~数十個の言葉を理解するが、音程が変わっても、また声の主が違っても言葉が同じなら同じ意味だと理解する。

 続いて紹介される「人間も赤ん坊の時は絶対音感を持っていた。でも成長するにつれて、基本的には消えていく」という話も疑わしい。果たして根拠があるのだろうか。

 養老氏の知識や理解、とくに言葉の定義は拙論でも書いたように以前から問題が多く、教えるという行為は自粛してほしいと思う。

 イヌの認識と絶対音感を誤解させる授業は40人に対するもので、悪影響は限定されたものだが、朝日新聞はその誤りを20万倍に拡大して800万の読者に垂れ流した。(細かいことだが生物の分野でイヌと書けばヒトと書くのが一般的で、イヌと人間を並べるやり方には違和感がある。文章を商売とするものならば知ってほしい)

 他のひとつは10月26日掲載の、スピーカーの振動板に竹を採用した製品が発売されたという記事だ。この記事には「テクノ最前線 環境編」「音質アップ、針葉樹伐採歯止めに」との見出しもあり、針葉樹に代わる竹の採用が環境に役立つという姿勢で書かれている。

 針葉樹はパルプ原料として、すなわち紙の原料として莫大な量が消費されている。毎日捨てられる朝夕の新聞は古紙が半分強入っているとはいえ200g以上ある。スピーカーのコーン紙は何グラムあるだろう、そして誰もが毎日買うものではない。

2000年の新聞紙の年間消費量343万トンである。スピーカーに使われるパルプはまことに微々たるもので新聞紙の1000分の1にも達しないだろう。それに竹が石油などに代わるものならばまだ多少の意味があるが、針葉樹は再生可能資源であり、竹と変わらない。生育の速さだけの違いである。

 竹のスピーカーが環境に役立つというこの記事は確かに完全な間違いではない。しかし私が採点するなら迷わず落第点を差し上げる。針葉樹を守るなら他にいくらでも有効な方法があるからだ。計算したわけではないが、新聞の全面広告を1日だけやめれば1年分のスピーカー用のパルプくらい十分賄えるのではないか。この記者の数量概念のなさは、もしかすると「ゆとり教育」の成果なのだろうか(余談だが、最近「ゆとり」という言葉は何も知らないという意味で使われているそうだ)。

 かつて航空燃料の不足を補うため全国から松の切り株を集め、蒸留して松根油をつくった話を思い出す。200本の切り株で飛行機を1時間(1本では18秒間)飛ばせるということで進められたらしいが、膨大な量の松と労力を費やしながら結局実用にならなかった。竹のスピーカーと同様、実効性より精神主義の色合いが濃い。どちらも合理的な思考が欠けている。

 取り上げた2つの記事自体は目くじらを立てるほどのものではない。しかしレベルの低さの象徴としての意味があり、800万部の影響力を考えるとやはり見過ごせないと思う。そしてなにより新聞の知性の低下が心配なのだ。新聞は影響力のあるオピニオンリーダーであり、それだけに要求される水準は高い。

 実害がなくても食品表示のわずかな違反が大問題になるが、記事の虚偽表示は実害があっても、違法でなく、騒ぎにもならない。
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沖縄教科書抗議集会11万人の怪

2007-11-01 10:47:23 | Weblog
 産経新聞の『論争「朝日VS産経」』が面白いので概要を紹介する。

 10月29日に沖縄で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれ、その参加者数が主催者発表では11万人となっていたが、航空写真をもとに数えたら18179人であった。建物や木陰に隠れている人数を推定しても1万9000~2万人に過ぎないことが判明した。

 12日の衆院決算行政監視委員会で、福田首相は「11万人の県民大会があったという事実も、われわれとして重く受け止める1つの理由ではあったかもしれない」と述べたという。

 また9月30日の各紙は11万人を主催者発表の数と断っていたが、10月2日の朝日のトップ記事は主催者発表という注釈なしで11万人を記事中に使っている。

 とまあこんな調子だ。問題はこの11万人という数字が教科書検定の修正に道を開いたことである。このような集会では主催者発表の数字は過大であるのが常であり、それをメディアが知らないはずはない。1割、2割ならともかく、5.5倍もの水増しを大々的(朝日)に裏もとらずに発表し、それが政府の方針に影響を与えたとすれば、それは由々しい問題である。

私には、教科書の集団自決の記述問題には判断するための正確な知識がない(たいていの人はそうだろうと思う。どちらかに判断している人は支持しているメディアの言うことを信 じているにすぎない)ので、なんともいえないが、不正確、それも恣意を含んだ虚偽の報道によって世論や政策が曲げられるのは見過ごせない。

 10月3日の産経抄は「戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます」と述べるが、このように揶揄されても仕方がない。共通するのは正確な事実を伝えることよりも、自分の考えを伝える方を優先する体質である。 傲慢体質といってもよい。
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