噛みつき評論 ブログ版

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元農林水産事務次官の決断

2019-06-09 22:03:56 | マスメディア


 大人と子供の違いはいろいろあるけれど、違いのひとつは物事を多面的に見られるか、一面的にしか見られないか、ということであろう。子供は成長するにつれ、様々な経験をする。その中で様々な立場を経験したり、理解する機会を得る。それが多面的な理解、見方につながっていく。しかしこれは一般論であり、歳だけ十分食っても一面的な見方しかできない大人がいることも事実である。

 元農水省の事務次官の熊沢氏が自分の息子を手にかけた事件があった。報道によれば息子の暴力行為に身の危険を感じた、あるいは息子が他人を殺害する危険を感じたことが動機になったとされる。どちらにしても非常に深刻な問題である。しかしこれらは危険という予測に過ぎないことから事前に警察などに相談しても解決できる問題ではないと思われる。危険が予想される、だけでは動けないのが今の仕組みだからである。

 熊沢氏にとってはまさに苦渋の決断であったろうと思うし、見方によってはご立派だとも思う。また、これまでの何十年間に味わってこられたご苦労は想像を絶するものがあるだろう。私が同じ境遇なら同じことをしていたかもしれない(勇気があればだが)。親が生み、育てた子供に責任を感じるのは当然のことと思う。親は子供の教育に関与し、その成長をある程度左右できる立場なのだからである。通常、親は教師や友人よりも関与できる度合いは大きい。大きく関与できるものに責任が生じるのは当然である。

 むろん子供は別人格であり、親がその生命を自由にしてよいわけはない、少なくとも法的には。だがこのような問題は、法で定めるべき範囲を超えているのではないか。熊沢氏の決断は違法であるが、それをせざるを得なかった状況であることも理解できるのである。熊沢氏が感じたという二つの危険の程度は第三者にはわからない。だからその程度がわからないまま熊沢氏の行為をあれこれ言うのもおかしいと思う。

 弁護士のテレビコメンテーターは親と子は別人格であるからこんなことは許されないと、また別のコメンテーターはなぜ行政などに相談しなかったのかと、非難じみた発言をしていた。どちらも一面的かつ皮相な見方であるように思う。弁護士は法がメシの種であるから、なんでも法を基準にしたがるのだろうが、法は万能ではない。また行政などに相談していなかった点はニュースでもしばしば取り上げられていたが、相談して解決できる問題ではないということが理解できていない。現在の社会システムはそれほど完全ではない。相談すればなんでも解決できると考えるのはかなりおめでたい人である。対処できる場合は限られるのである。

 川崎の子供ら19人を殺傷した犯人ともなれば普通の人間との違いが大きすぎて、恐らく理解不能であり、対処法も明らかでない。法の限界や社会システムの限界を知ることも大人であるための条件であろう。世間にはさまざまな人間がおり、そのバラツキは大きくて、一定の範囲をはみ出したものには教育などの社会システムがうまく機能しないという現実もある。

 熊沢氏には殺人罪による刑が科せられることは避けられないと思うが、決して利己的な動機によるものでなく、せめて執行猶予のついた判決を求めたいと思う。前回、取り上げた、262人もの若い女性を風俗店に売り飛ばした同志社大生らの犯罪に執行猶予をつけた判決に比べ、あまりにも釣り合いが取れない。
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人身売買に近い犯罪に寛容な京都地裁

2019-06-02 22:12:43 | マスメディア
 5月29日、京都地裁で判決があった。京都でバーに誘い込んだ女性に多額のつけを背負わせ、性風俗店に紹介して紹介料などを得ていた同志社大生ら6人に対する判決である。入子光臣裁判長は6人に執行猶予付きの有罪判決(求刑懲役3年~1年6カ月)を言い渡した。好意を抱かせた後、半ば強引に風俗店で働かせたとして「人格を踏みにじる卑劣な犯行」とした。被害女性は262人、グループが得た紹介料は1億円以上(7300万円とも)とされる。女性たちが働かされた性風俗店はデリバリーヘルス21店、ソープ9店、ファッションヘルス6店、性感マッサージ、ピンサロやちょんの間が各1店の計39店。店からは女性がやめない限り15%のバックがあったという。まさに「ひも」である。

 弁護側は「全ての女性が意に反して風俗店に紹介されたのではない」として執行猶予付き判決を求めていたそうだが、その通りのまことに寛大な判決となった。すべての女性でなくても一部の女性が意に反して働かされていただけで十分ではないか。この弁護士の元締めである日弁連はいつも人権人権というが、この女性たちの人権をどう考えているのだろうか。グループ全員がすぐに普段の生活に戻れるわけだが、たまらないのは被害を受けた女性たちであろう。問われたのは職業安定法違反であるが、この第63条には以下のいずれかに該当する者は、1年以上10年以下の懲役又は20万円以上300万円以下の罰金とある。

(イ) 暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段で職業紹介を行った者又はこれらに従事した者(第1号)

(ロ )公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で職業紹介を行った者又はこれらに従事した者(第2号)
 (ロ)に該当すると思われ、最大10年の懲役まで科せられる。しかし今回は最高で3年、そして執行猶予まで付けている。判決理由に「人格を踏みにじる卑劣な犯行」とあるが、その通りである。ところがその割に刑が軽いのである。犯人たちは恋愛経験のない地方出身の女子大生などを対象に、好意を持たせた上で半ば強制的に風俗店で働かせたわけで、形としては成人だが世間を知らない弱者を食いものにしたわけである。実に卑怯な男たちであり、実に腹立たしい。

 興味深いのはメディア各社の扱いである。私の見た限りであるが、もっとも熱心に取り上げたのは関西テレビで、被害女性のひとりを登場させて、被害の実態を直接伝えたし、犯人らの実名、所属する大学なども報道した(犯行当時未成年の1人を除いて)。番組の姿勢としても判決の軽さを強く批判するものであった。

 朝日新聞も事実だけを比較的詳細に報じたが、他のメディアは主犯格の岸井被告以外は実名報道をしなかったようである。もっとも理解できないのは地元メディアである京都新聞である。男6人としただけで全員が匿名の掲載である。見出しは『「巧妙な手口で職業的犯行」性風俗スカウト判決、代表に懲役3年』として、執行猶予の文字を外し、判決の甘さを隠している印象がある。ネット版なので扱いの大きさはわからないが、記事の内容の貧弱さから見て恐らく小さい扱いだろう。

 親の借金のために娘が売春宿に売られるという話は昔のことだと思っていたが、ちょっと形を変えただけでこんなにひどいことが現代の日本にあるとは驚いた。262人の女性たちの多くは、こんな男たちに引っ掛かりさえしなければソープなどで働くなどまず考えられなかったただろう。大きく人生を狂わされたわけである。またこんなひどい目に遭えば他人を信頼すること自体が困難となるだろうし、それは今後、彼女らの人生に少なからぬ悪影響をもたらすだろう。影響はこの後も続くのである。

 この事件は被害の大きさに加え、その悪質さ、最大級の卑怯さにも注目したい。騙しやすい若い女性を集団で食いものにする手口であり、また好意を持たせておいて、それにつけ込んでソープなどに売り飛ばすという卑怯さはとうてい許せない。卑怯と言えば先日、川崎市で起きた事件、19名を殺傷した51歳の男は多くの子供をしかも背後から刺したという。まさに卑怯の神様である。

 昔なら人身売買やこのような犯罪は珍しいことではなかった。それは現代と倫理や文化が異なっていたからだと思っていた。しかし現在、有名私立大生までが手を染めていた事実はまことに重大であると思う。しかし裁判官や京都新聞などのメディアはそうは思わないらしい。卑怯を強く否定するモラルが希薄になっているのではないだろうか。人が死んだ場合や政治家の不祥事のときの大騒ぎと違いすぎるように思う。メディアが大騒ぎすることで改めてモラルが人々に再確認されるという意味もあるのだ。

 私の受けた教育に道徳教育はなかった。しかし卑怯だとか裏切りなど、してはならないことは親や本、漫画から知らずしらずに教えられた。最近は卑怯という言葉を聞くことすらなくなった。裁判官も多くのメディアも卑怯という概念をあまり強く感じない人たちなのだろうか。日産自動車であったように、仲間を当局に売る行為は司法取引のおかげで罪が減免されることになった。カルテルでも仲間を裏切って当局に知らせたものは罪を減免される。こうした動きにも卑怯という感覚の衰退が感じられる。いっそ武士道を道徳教育に取り入れたらどうだろう。
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新自由主義の置き土産

2019-05-26 21:11:58 | マスメディア
 前回、携帯大手3社による寡占体制のために実質的な価格競争が起きず、料金が高止まりして消費者は高い料金を払わされてきた問題を取り上げた。3社は料金体系を極度に複雑化してユーザーが比較することを困難にするなどの手口を使って、実質的に価格競争を回避してきたわけである。それでも公正取引委員会は3社の販売方法にたびたび注意や行政指導を行ってきたが、それに対してメディアはあまり関心を示さなかった。公取だけが孤軍奮闘していたという印象は免れない。もし野党やメディアの後押しがあれば、より強力にできたかもしれないし、またより実効性のある法の改正も可能であったかもしれない。

 同時に半世紀前の話として八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄が誕生した際の大論争を紹介したが、この時代は私的独占に対して社会は敏感であった。公正取引委員会も経済学者らも熱心に議論に参加した。それがなぜこれほど変わってしまったのだろうか。

 それには恐らく新自由主義(市場原理主義)の流行が関係しているのではないかと思う。これは市場原理を尊重し、政府の規制を最小限にしようとする考えであり、独占に対して厳しい規制をかける方向とは相容れない。市場の機能を信頼し、自由放任まで主張する学者もいる。この新自由主義はサッチャー、レーガン、中曽根の時代の経済に大きな影響を残した。所得に対する強い累進課税は緩められ、所得格差に関して、社会は以前より寛容になったようだ。

 日本でも、少なからぬ経済学者がこの新自由主義の流行に飛び乗った。しかし流行は所詮、流行であり、時間経過と共にその勢いは衰えたように見える。服や家具、住宅に車など、世に流行は数多くある。これらの流行は実用面に関係したものもあるが、主として好き嫌いなど、感情・感性に関係しているものと思う。学問領域における流行はこれらのものと少し違う。それは学問が主として理の世界であって、少なくとも感性の世界ではないからである。

 学問の世界でも流行と見えるものもある。進化論などのようにパラダイム(枠組み)の大転換があったとき、流行のような現象が見られる。しかし新自由主義はそのような例ではないと思う。これは学説というより価値観を含んだ思想の面が強い。新自由主義は経済学説というより、共産主義や社会主義、さらにはナントカ教といった宗教に近いと思う。興味深いのは新自由主義に染まり、主導した人たちが学者であることである。本来、理の世界に住む人たちなのである。学者でも「軽快」に流行に乗る人がいるらしい。

 新自由主義は規制の緩和などを通じて経済の成長を促したかもしれないが、同時に所得格差の増大をもたらした。それをどこまで許容するかは価値観の問題でもあり、その国にふさわしいレベルを選択すればよい。しかし私的独占に対してまで寛容になるのはおかしい。独占は市場の機能の公正さを損なうものであり、市場経済がある限り必要なものであるからだ。流行に左右されるものではない。電話料金の値下げを政府が要求しなければならなかったことは法が十分に機能していないことを示している。携帯3社の寡占問題によって現在の独禁法の実効性の限界が天下に示されたわけである。

 政府が料金値下げ要求を行ったが、それは政府がこの問題を認識していたことを意味する。政府は値下げ要求と共に通信料金と端末代金の分離を義務づけることなどを盛り込んだ改正電気通信事業法で対応した。しかし反面、政府を監視するのが役割と自認しているマスメディアや野党、経済学者らはその認識さえなく、まるで役に立たないこともよく分かった。
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独禁法の精神は忘れ去られたのか?

2019-05-19 21:41:05 | マスメディア
 昨年、菅義偉官房長官は「携帯電話料金は4割下げられる余地がある」、「OECDの調査によると(日本の料金は)OECD加盟国平均の2倍程度。他の主要国と比べても高い水準にある」と発言、これが契機になったのだと思うが、携帯大手3社はこのほど料金の引き下げに動いた。この携帯電話料金が高すぎるという指摘が野党でもメディアでも、また経済学者でもなかったことに注意していただきたい。そして菅発言の直後3社の株価は一時、値下がりし経営に与える影響が懸念された。

 ところが、ドコモが値下げを発表した4月以降、3社の株価は上昇に転じている。最大4割の値下げを謳っている会社もあり、4割値下げが実現するかという期待を持たせたが、次のデータをみるとそれがどうもイカサマ臭いのである。以下は19年3月と20年3月の決算予想である(会社四季報3月15日更新)。左側が19年度、右側が20年度。

       売上高 (億円)       営業利益 (億円)
 KDDI    51200 → 52000      10200 → 10400
 Softbank  37000 → 37600       7050 → 7150
 Docomo   48300 → 47500       9940 → 8940

 KDDIとソフトバンクは売上高、営業利益とも微増、ドコモだけは微減となっている。正直に料金を4割下げればこんな数字が出るわけがない。少なくとも増加なんてあり得ない。この予想が正しければKDDIとソフトバンクはより多くの金をユーザーから吸い取る算段であることが分かる。ドコモは少しマシだが、微減である。売上に対する営業利益率はそれぞれ20%、19%、18.8%であり超優良企業である。優良企業であることはよいことだが、それは公共的な事業でない場合である。来期の予想から3社とも身を切るような値下げは考えていないと思われる。政府の誘導だけでは限界があることを示している。ちなみに公共的な性格の強い中部電力の営業利益率は約4%、関西電力は約6%、大阪ガスは約4.6%である(2019年度予想)。

 携帯料金が高すぎる問題に対して、野党からもメディアからも、また経済学者からも指摘がなかった。また各社が高すぎたことを実質的に認めて値下げを発表してからも、寡占状態の弊害に対する指摘は誰からもなかった。携帯電話事業は極めて公共性の高い事業であり、3社の寡占による超過利潤は道義的にも問題である。またその額も3社合計で2兆7千億円と巨額であり、この額は秋の消費税増税による増収額の半分ほどになる。価格競争が働いていなかった事実はもっと重大に受け止める必要があると思われる。資本主義経済は自由競争が前提であり、独占の禁止はその根幹をなすものである。むろん独占禁止法があるが、それが十分に機能しなかった事例として認識しなければならない。携帯電話業界においては現行の独禁法はザル法なのである。

 例えばガソリンはどのスタンドで買っても同じ商品であるから、選択は価格が中心になる。大変わかりやすいので放っておいても価格競争になる。中には過当競争で共倒れという例さえある。ところが携帯電話は多くのプラン、多くの値引き、契約期間の制限など故意に複雑化して、ユーザーが他社との比較判断ができないようにしてある。そして極端な複雑化のため契約に何時間も要するようになり、また高齢者などは理解しないままに契約せざるを得ない状況を作り出す。3社は販売方法について2017年、2018年と毎年のように公取から行政指導や注意を受けている。違法スレスレの販売をやっているためであり、モラルが低い。

 もう半世紀も前のことだが、当時、八幡製鉄と富士製鉄が合併するという話が持ち上がり、これが大論争を引き起こした。公正取引委員会は独占禁止法に触れる恐れがあるとし、また一部の経済学者らも強く反対した。確かではないがメディアも参加していたように思う。何が言いたいかというと、当時は独占ということに世の中が敏感であったということである。

 いま、携帯電話業界の寡占問題に対して指摘をする経済学者を私は知らない。経済学者は株や金利の予想に忙し過ぎるのか、独占の問題には興味がないようである。野党とメディアに至っては、それが問題だと認識することさえないように思える。まあこの問題ひとつとってみても野党とメディアの見識の低さが分かる、つまりかなり無能ということが。だからこそモリカケ問題ごときに熱中するのだろうけれど。
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バカのひとつ覚えは遺伝するか

2019-05-12 22:57:35 | マスメディア
バカのひとつ覚えも遺伝するか

 NHKスペシャル「人体」は去年くらいから放送しているが、内容はかなり目新しいものであるにもかかわらず「こんなに凄いのだ、どうだ驚いた」かといった前のめりの姿勢が気になって興味を削がれていた。番組の宣伝をしつこく聞かされているような感じである。しかしこの5月5日に放送されたNHKスペシャル「人体Ⅱ 遺伝子(1)」意外にも面白い番組であった。その面白さのほとんどは内容の斬新さによるものだが。

 簡単に言うと我々のもつDNAの内、2%は機能や役割がまあ判明していたが、残りの98%は機能や役割が不明でありジャンク(ゴミ)と呼ばれていたのが、最近になってその機能や役割がわかってきたと言うのである。驚いたのは、犯人が残した皮膚や体液などの残留物のDNAから犯人の顔が推定でき、すでに捜査に使われているという話である。顔の形に関係する遺伝子は1万以上あり、それらを調べることにより犯人の顔を描き出せるらしい。しかしなんでこんな面白い話がいままで報道されなかったのか、と気になる。犯人捜査に実用化されるまでには何年もかかったと思う。私だけが知らないのかもしれないが、こんな画期的な話なら繰り返し報道してもよい筈である。数多いテレビ局が毎日24時間も放送しているわけだが、あまり役に立たない。

 リンカーンは「40歳を過ぎたら男は自分の顔に責任を持たなくてもならない」と言い、大宅壮一は「男の顔は履歴書」と言った。顔の形が遺伝的に決まるということになれば、これらの言葉は間違いということになる。しかし若い顔は遺伝的に決定される度合いが大きいと思うが、歳を経ると環境要因の比重が高くなると考えられるので、間違いと決めるのは早計であろう。このあたりのことは一卵性双生児の研究で既に分かっていることと思う。

 ジャンクDNAの解読が進むにつれ、姿形だけでなく才能や性格までを決定づける遺伝子が見つかりつつあるという。ガン、アレルギー、アルツハイマーなど病気に対する抵抗性にも関係する遺伝子があるそうだ。今まで環境などにより後天的に決定されると考えられてきたさまざまのものが遺伝子で決定されているということになりそうである。

 従来は食生活や気候、家族などの人間関係など環境要因によって決まると考えられてきた身体や性格など人間の諸々の特性のうち、個々の遺伝子の機能と役割がこのように示されるようになれば、遺伝の重要性は大きくなると思われる。その分、環境要因の重要性が減ることになる。遺伝的に決まるものが多いほど、努力や学習などの意味が低下すると考えられることから、それを避けるため、この種の話は抑制的に伝えられることが多い。逆に努力すれば変えられるという話は誇張気味にされることが多い。運命論に陥らないための親切なのだろうけど。それにしても人間のさまざまな特性のうち、どれが遺伝の影響を受けるのか、どれが環境の影響を受けるのかということの解明はとても興味深いものになりそうである。

 詐欺グループが騙しやすい人を繰り返し標的にするのは、学習によっても変化しない性格があることを示唆する。激しやすい性格や楽天的な性格など、安定していて変わりにくいものは遺伝的の影響が支配的であるものかもしれない。前回「バカのひとつ覚え」で取り上げた、一旦思い込んだら信じ通す人、他人に耳を貸さない頑固な人の存在は社会の無用な分裂を招くこともある重要な要素である。この性格は遺伝的に決まるものか、大いに興味があるところであるが、私は遺伝が関与する部分が大きいように思う。もし遺伝的に決まるのなら解決はかなり困難となりそうである。
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バカのひとつ覚え

2019-05-05 22:17:45 | マスメディア
 山道で、木の枝などに赤や黄のテープが巻きつけてあるのに気づかれたことがあるかも知れない。道を示す標識の役割をするもので、マイナーな山道や主要路でも迷いやすいところに設置してあることが多い。ほとんどのテープ標識はほぼ適切な場所にある。私もテープ標識に助けられることが少なくない。

 ところがこれをわざわざ剥がしていく人間がいるそうなのである。京都でそのような例を2カ所聞いている。話を総合すると、彼らはテープや標識が自然を壊すという理由で剥がしているらしい。自然保護が大切なのはわかるが、遭難を防ぐ方が重要だと思う。優先順位が異常なのである。またストックの使用が山道を壊すといって反対する人間も少なくない。ストックの使用は歩行の安全に役立つが、安全より山道の方が大事と考えるようだ。山道なんてちょっとした雨が降れば簡単に破壊される。その破壊の大きさはストックの比ではない。

 以前にも取り上げたが、ある環境保護団体は標高約1000mの比良山にあった鉄筋コンクリート3階建ての宿泊用建物を廃業に際して完全の原状回復するよう強硬に主張した。業者は仕方なく全部を破砕の上、半年かけてヘリで麓まで運んだが、多量の燃料を使い(ヘリは1時間で数百リットルのガソリンを食う)、約4億円かかったという。現地に埋める方法よりこの空輸が自然に優しいか、ちょっと考えればわかることである。「健康のためには死んでもいい」という言葉がある。優先順序を間違うことを揶揄(やゆ)する言葉である。

 誰しも短期間であれば、不合理な考えに取りつかれてしまうことはよくある。例えばあまり必要のない商品が魅力的に見えて、欲しくてたまらなくなることなど、時々経験するが、たいてい時間が経てば冷静さを取り戻す。しかし上に挙げた人々は時間が経っても、よく言えば初志貫徹、悪く言えば頑固・しつこいために不合理な考えに取りつかれたままの状態が続くようである。どうやら一部の人間はそういう構造の脳を持っているのではなかろうか。

 初志貫徹やしつこさもある程度の合理性が伴えば美点であろう。その特質のおかげで大きな仕事をする場合も少なくない。しかし合理性が欠ければそれはタダの頑固という欠点となる。憲法9条が平和をもたらしていると考えている人間がかなりの多数に上ることを考えれば、そのような人間が決して少数でないことがわかる。このような脳の持ち主がかなり存在することが世論の不統一、社会の不安定を招くと言ってもよい。

 立場の違いに由来する意見の対立はたいていは必然的であり仕方がない。けれど多くは妥協点を求めることで解決可能である。だが認識の違いに由来する対立は厄介である。同じ現象を見て異なる解釈をするのだから、意見の一致はほぼ不可能であり、妥協も極めて困難である。例えば誰かが重病にかかったとしよう。ある人は神の罰が当たっのだから加持祈祷が有効だと言う。別の人は感染によるものだから抗生剤が有効だと言う。この場合、両者に妥協点はあり得ない。認識が全く異なるからである。

 認識に違いによる対立は、ばかばかしいことだが、現実には大きな社会の不安定要因である。なぜ認識の違いが生じるのだろうかは、実に興味深い問題である。むろん理由はひとつではないだろう。教育や育った環境なども影響するに違いない。しかし人間の特定の性向、ひとつのことを信じればそれが脳の中で大きな位置を占めるといった特定の形質も影響しているかもしれない。ある家族はほぼ全員が信心深い、あるいは家族の多くが熱心な○○主義者である、などの例を見かける。親から子へと受け継がれる、DNAで決定される遺伝的形質の一つかもしれない。

 こんなことはむろん仮説に過ぎないが、社会の中の一定割合の人間は何かに頭を占領されやすい性質を持っていると考えてもよさそうだ。だったらどうすればよいのだ、と問われると困るが、現状の正しい認識が問題解決の基本であるから、無駄にはならないと思う。一度信じると他の考えには耳を貸さない人は昔から存在するようである。昔からある「バカのひとつ覚え」または「アホのひとつ覚え」という言葉はそれを示唆している。日本の野党は「護憲のひとつ覚え」で、いつまで経っても現実認識がまともにならないが、それは野党の構成員の頭の特性によるのかもしれない。
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宗教と共産主義、この厄介な危険物

2019-04-28 21:48:21 | マスメディア
 爆弾テロは罪のない丸腰の一般人を無差別に殺傷する行為である。女子供にも容赦なく行われる。これほど非道で卑怯な行為はどう考えても到底理解できないことだが、テロの実行者にとって、それは正しい行為とされる。イスラム過激派では自爆テロの実行者には天国が約束されていると思わされているそうである。正しいことをして天国へ行けるのであれば志願者は集まる。宗教の力はまことに"偉大"である。スリランカではキリスト教徒が教会で攻撃された。神に祈る場での殺傷被害は神の無力を証明するようなものだが、信仰を捨てることはならないらしい。ある会社が安全保障を請け負った場でこんなことが起きれば、その会社は信用を失うのに。まことに宗教の力は"偉大"である。ただ合理や理屈とは無縁の世界のようであり、理解不能である。

 キリスト教の慈善事業、あるいは宗教によって悩みから解放された例などを見て、宗教はよいものだと考える人は少なくない。これも宗教の一側面であることに間違いはない。だが一方でオウム真理教のように犯罪集団のような宗教、千名近い信者の集団自殺で消滅した人民寺院事件のような有害な宗教もある。また過去には宗教が原因になった戦争は数多くあり、現代でも地域紛争の主要な原因である。被害の大きさでは自然災害を遥かに超えるだろう。人の精神に好ましい影響を与える部分もある反面、巨大な災厄なのである。

 本来、動物には同種内で殺しあうことを避ける仕組みがあるようだ。殺し合いを抑制する機能がなければ種の存続は危うくなる。(かつて、殺し合うのは人間だけだと思われていたが、最近の研究ではチンパンジーにもあることが報告されている。しかしこれはたびたび起きることではないらしい)。だが宗教の力はその抑制を優に超えるようだ。宗教は頭の中を塗り替える、つまり現代風に言えば上書きしてしまう。自爆テロリストは指示通りに動くロボットと化す。人間が人間でなくなると言ってもよい。

 宗教による頭の上書きという仕組みがあるからこそ、戦争でもないのに大量殺戮が起きるのだろう。大量殺戮が起きるもうひとつのケースがある。それは共産主義である。なんでもランキングしたがる人がいるようで、虐殺者ランキングというものがある。あるランキングでは第1位は毛沢東で6000万人、第2位はスターリン2000万人、第3位はヒトラー1100万人、第4位はポルポト300万人とされている。ヒトラーは国家社会主義で、やや色合いが異なるが全体主義であることに変わりなく似ているところも多い。数字には誇張もあるが、ベスト4の内3つまでが共産主義者によるものであることが興味深い。

 大量殺戮は個人の恨みなどによる少数の殺人とは別物と考えるべきである。大量殺戮はそのための組織が必要であり、それを正当化するのは通常の方法ではほぼ不可能である。そのためには洗脳、つまり頭の上書きが必要となる。これを可能にするのが宗教であり、共産主義なのだと思う。大量殺戮を宗教と共産主義が担ってきたのは、双方とも感染力が非常に強いために、大きな広がりが実現し、頭のおかしくなった大集団を生み出すことにある。第二次世界大戦前後に共産圏が世界に広まった事実はその感染力の強さを示している。

 共産主義は、とりわけ現実をよく知らない若者、理想を求める若者にとっては実に魅力的である。一度はその洗礼を受けた人間の方がまともかもしれない。そしてソ連の崩壊を見ずとも、社会や現実を理解するにつれて、共産主義の現実社会に対する適合性に疑問を持つのが普通であろう。しかし一部の頑固者はいつまでも抜け出せない。まあこれも個人なら理解できるが、朝日や毎日のような大組織が抜け出せないことは不可解である。一部の人間は一度信じたものを決して捨てないという構造の頭を持っているのではないかとも思う。9条があれば平和が保たれると信じる連中もそうであろう。周囲に攻撃能力のある国が現れ、環境が変わっても主張は同じである。主張というより固い信念というべきである。社会には生来の頑固者が一定割合存在すると理解すればよいだろうか。

 宗教も共産主義も勧誘の標的を現実を十分理解していない若者にすることが多い。経験を積んだ人間は騙しにくいのである。宗教も共産主義もその本質は人を騙すことにある。騙された結果、どうなるかというとそれはさまざまである。慈善事業をすることにもなり、大量殺人を正しいと思い実行することにもなる。つまり別の人格に変えられると言ってもよい。オウム事件のマインドコントロールはそのよい例である。そうなると彼らは現実を客観的に見ることができなくなる。騙されないための最大の手段は教育である。先進国では教育の充実によって宗教の影響力は徐々に低下しているが、途上国ではイスラムの影響力がむしろ強くなっているようだ。今後も世界の不安定要因であり続けるだろう。

 日本は憲法で信教の自由を保障している。オウム事件の時、警察は腰が引けていたと言われるが、それは「信教の自由」のためだとされる。オウムのような危険な集団でも宗教と名乗れば警察も遠慮するわけである。宗教に対しては性善説の立場であるが、オウムやイスラム過激派の活躍を見ると、現実に合わない。「信教の自由」を保障するどころか、制限するくらいでよいと思う。また共産党に対しては非合法としている国も多い。どちらも大変危険なのである。むろん個人の信教に立ち入ることはよくない。何とかしなければならないのは勧誘などの布教活動であろう。インターネットの普及で、彼らは布教(洗脳)の有力な手段を手にしつつあるのだから。
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有名人のアホな発言

2019-04-21 21:47:17 | マスメディア
『あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです』

 話題になったのでご存知のことと思うが、これは今年度の東京大学学部入学式の祝辞の一部であり、発言者は上野千鶴子東大名誉教授である。前半は女性差別に対する攻撃的な話で、後半はこの話である。ここでは東大に合格したのは「あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだった」と断定している。つまり努力や頑張りの成果、そして意味を全否定している。強調したいのはわかるが、ここまで断言してよいものだろうか。

 これがテレビタレントの発言ならよい。しかし学者ならもう少し言葉を正確に使うべきだと思う。東大合格者の中には環境に大きく支えられ者もいるだろう。しかしそうであっても努力なしというわけではない。しかし逆に環境に恵まれず、涙ぐましい努力の結果、合格した者もいると思う。多数の合格者を一律に扱うのは誤りである。韓国嫌いの人が韓国人すべてを一つの類型と見るのと同じ誤りである。また合格の理由を環境だけに求め、努力を全く認めないという考えも学者としてはおかしい。環境と努力は両方とも重要な要素である。多数の集団を一律なものとして扱う、また多数の要素のひとつだけに着目し他を無視する、これらは学者のそれではなく、扇動者の思考方法であろう。人文科学は自然科学ほど厳密ではないが、それでも許容範囲を超えている。一般的に言えば、教養のなさを示すものと言ってよい。

 上野千鶴子氏は昔「スカートの下の劇場」などの過激な本で有名になった方で、好戦的なフェミニストである。「男のネクタイはペニスの象徴である」と大真面目に主張されたのを覚えている。当時はそういう見方が流行していたとはいえ、今思えば噴き出してしまう。どんな根拠があったのだろう。もっとも否定することも難しいが。

 一方、ゴーン氏の事件によって、否認事件における長期拘留という人質司法が問題になっているが、宗像紀夫元東京地検特捜部長は長期勾留による自白について「捜査する側が求めていることは一切ない。証拠隠滅されては困る。検察がやっているというよりも裁判所が判断する」と述べた。つまり検察側が自白を求めるために拘留することは一切ない、と断言しているのである。検察官全員が一律に潔癖で正しい人であるとは信じがたい。白もいれば黒も、グレーもいるのである。宗像氏はそれを知らないはずがないので、彼は嘘をついているか、それとも国語表現の方法を知らないのだろう。

 また裁判員裁判導入に関して、但木敬一元検事総長の次の発言も気になる。
『(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決である・・・』 これは裁判に国民が参加することを民主主義の実現であると評価したうえでの発言である。しかし無作為で選ばれた6人の素人の判断がなぜ「至当な判決」なのか、理解できない。恐らくこれは民主主義=至当なものという考えが背景にあるのだと思われるが、それが即、至当な判決になるというのはおかしい。論理の飛躍がある。民主主義は至当とは言えないし、なぜ6人が「至当な判決」を出せるのか、根拠がない。まともな判決のためには様々な要素が必要なはずである。これが検事総長の発言だけに、こんな考えの人が検察のトップなのかと驚く。

 何が言いたいのかというと、思考方法の問題である。多様な集団をひとつの概念で一律に規定したり、多くの要素のうち特定のものを選び他を無視するような考え方は誤った結論を招く大きな理由となる。上に例を示した3名はいずれも高い教育を受け、社会的にも影響力のある人物であるが、思考方法に誤りがあると思う。多様を多様として、複雑を複雑として扱う、また複数の要素を寄与度に応じて評価する、と言ったことは思考方法のイロハである(ただし私は学校で習った記憶がない)。これが欠如することは教養がないことと同じであろう。教養は知識だけではない。

 これは教育の問題であるかもしれないが、選抜の問題でもある。教育には思考方法について教える課程があるのだろうか。入学試験には思考方法を判別する問題があるのだろうか。また大学教授を、あるいは検事を選抜するときにこのような思考方法の適否がチェックされていないのではないのだろうか。世の中には多くの議論の対立がある。対立の原因が立場の違いや価値観の違いの場合、対立の解消は簡単ではない。しかし中には思考方法が不適切であるための対立というのがある。意味のない対立である。まともな思考方法(論理能力)が広まれば対立のいくらかはなくなるかもしれない。
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台風21号の予報は妥当であったか

2019-04-14 22:07:08 | マスメディア
 先日「北山」を歩いてきた。北山は京都市の北に広がる標高1000mに満たない山地で、北山杉や、戦前、楽しむための登山の発祥地であったことで知られる。そのためか、登山道や林道が縦横に走っている。したがって様々な登山コースがあるのだが、そのほとんどが倒木で通行ができない、あるいは通行困難となっていて、その状態は現在も続いている。道に横たわった数本の杉の大木を乗り越え、またはくぐり、あるいは斜面を迂回して進むのだが、人ひとり通れる程度に枝が切ってあるところもあり、時間はかかったがなんとか通れた。

 しかしこんなに多くの倒木は初めての経験である。場所によって風の強さに違いがあるようで、谷底から山頂まで全面的に杉がなぎ倒されている斜面もあれば、ほとんど被害のない斜面もある。不思議なのは谷沿いにも多くの被害があったことである。谷沿いは風が弱いと思いがちだがそうではないらしい。また尾根は風が強いと考えられるが、倒木の分布は必ずしもそうではなかった。しかし植生との関係もあるので一概には言えないことと思う。こんなに大きな風の被害は初めての経験である。私の家でも多少の被害があった。門の扉の鉄製の閂(かんぬき)が曲がって脱落し、門が風で勢いよく開き、一部が壊れた。

 昨年の9月4日、台風21号が接近してきた折、気象庁、つまりテレビはいつもの通り強い警戒を呼びかけていた。私もそれは知っていたが、通常の台風と特に異なるとは考えなかった。いつものように大げさな報道であり、言うほどのことはなかろうと考えていた。ところが台風が接近した2~3時間、びっくりするような強風に慌てて、風雨の中、対策に走り回った。あとから気象庁はオオカミ少年であることを知った。果たして気象庁は台風21号がこれほどの被害を与えるとは予想していたのだろうか。国土交通省 近畿地方整備局が後になって発表した台風21号に関する資料では以下のように述べている。

『【台風21号の概要】
非常に強い台風第21号は、勢力を落とさず9月4日午後2時頃に神戸市に上陸した。過去に大阪湾沿岸で甚大な被害をもたらした室戸第風、ジェーン台風、第2室戸台風と比較して最低気圧、平均最大風速とも同規模レベルであり、その経路は既往最高潮位を記録していた第2室戸台風とほぼ同じであった。』

 比較された中で最も新しい第2室戸台風は1961年であるから60年近くも昔である。台風第21号は約60ぶりに来襲した台風ということになる。問題だと思うのは、これほどすごい台風なのに近畿地域の住民は事前にそのことを認識できていなかった、つまり適切に知らされていなかったということである。気象庁の観測、予報技術は年々向上しており、予報の精度はかなり良くなった。にもかかわらず、わずか半日ほど先の予想が間違っていたのだろうか。当時の予報データが少ないので確実なことは言えないが気象庁の認識もかなり甘かったのではないか。気象庁では台風21号の上陸時の中心気圧を950ヘクトパスカルとしているが、室戸岬で11時前に934.8ヘクトパスカル(速報値)を観測していたそうである(饒村曜 気象予報士による)。真偽のほどはわからないが、この差は実に大きく、もし934.8ヘクトパスカルが正しければこの台風の強さを裏付けることになる。つまり上陸直後の観測次第ではもっと正確な予報が可能であったのではないかと思う。大変重要なことだがこの差に関する言及は見られない。

 もうひとつの点は発表の文章、文言の問題である。気象庁の発表はつねに大袈裟の観がある。少なくとも私はそれに慣れていて、過去の台風の予想は半分以下に割り引いて理解してきた。それで充分であった。大袈裟の度合いは年々強まって、中程度の台風でも最大級の警戒を呼びかけるのが普通になった。つまり中程度の台風でも最大級の台風でも同じ、最大級の警戒なのである。安売り、大安売り、逆安売り、超安売りと、言葉は過激になっていく傾向がある。これは一方で、段階・程度を正確に表す言葉の機能が衰退することになる。とにかく、台風21号は予想を超える強さだったと感じた人が多かった。発信側とのギャップがあったことは疑いない。

 予報を甘く発表して、大きな被害がでると責任を問われかねない。気象庁にはそういった気持ちがあるのだろう。そのため大袈裟な発表を続けてきた結果、本当に深刻に受け止めるべき台風21号の予報が正しく周知されなかったということになったように思う。正確に伝えるという言葉の機能を大切にしたい。気象庁の方々には国語を勉強していただきたいものである。
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検察の暴走?

2019-04-07 23:59:23 | マスメディア
 メディアが検察から漏れてくる情報ばかり流すので、ゴーン氏が強欲な悪者だという印象をもってしまいそうだが、この事件は日産の幹部がゴーン氏の失脚を図り、検察がそれに利用されたというのが実像であろう。日産にも罪があるからこそ、司法取引が使われたというわけである。早い話がよくある仲間割れである。ゴーン氏の行為の多くは日産も知っていたことであり、以前は認めていた可能性が高い。その中で違法性のあるものを細かく調べ検察に告げ口したわけである。韓国の朴槿恵前大統領の告げ口外交を思い出すが、あまりスマートなものではない。

 保釈中のゴーン氏がまた逮捕されたが、これは異例のことだという。確かに、目まぐるしく変わる司法側の態度は信頼できないものと映る。また保釈時に収めた10億円の保釈金は拘留されても返されず、再度の保釈時には新たに保釈金が必要となるという。このような制度は、私には理解しかねる。少なくとも現在の10億円は意味がなくなっている。

 今回の逮捕はゴーン氏の口封じだとか、例の人質司法だとか言われているが、国際的な非難を予想しながらの逮捕には相応の理由があるのだろう。一度走り出すと止められない検察の組織としての性格かもしれないし、ここまでやらないと有罪に持っていくのが難しい状況に追い詰められているのかもしれない。

 現在、出てくる情報のほとんどは検察側からのものであり、それらはゴーン氏が有罪であるとの色付けがなされていると考えてもよい。本当のところはわからないが、弘中弁護士が弁護を引き受けた裏にはある程度の勝算があるとの判断があったのかもしれない。弘中弁護士は10年前の村木厚子事件の弁護で無罪を勝ち取った人物である。村木事件では大阪地検特捜部は村木氏を164日間も拘束し、フロッピーディスクの日付を改ざんしてまで彼女を犯人に仕立て上げようとしたが、それがバレ、担当の検事ら3名が逮捕されるという未曽有の事態になり、検察の権威は失墜した。それにしても無実の人間を有罪に仕立てようとしたまことにひどい事件であった。検察は容疑者を長期間拘置して、予定の筋書き通り進めようとしたのだろうが、村木氏本人と弁護士が検察より有能であったのを見落としたのだろう。ゴーン氏もしかり、そして弁護士は同一人物である。

 違法性が疑われているものの、もとは一民間企業内の報酬の形の問題であり、オーナー社長ならありふれたことであろう。特捜部が威信をかけて手掛けるような事件ではないと思う。特捜部の本来の仕事は、汚職で政策を曲げられたなど、公益に影響を与えるものであるべきである。それに比べて卑小な事件を手掛けたばかりに、人質司法など、日本の司法の暗部を世界にさらしたのであれば、まさしく藪蛇である。

 推定無罪は建前だとしても、容疑が確定しない者に対してこのようなやり方は人権侵害である。いくらかの不便はあったとしても、釈放したままで捜査は続けるべきである。組織で動くものは責任が分散されるせいか、無責任な行動をとることが多い。またゴーン氏が無罪になったとしても検察は責任を取らなくてもよい。疑いの段階で、ある程度の拘束は止むを得ないが、100日を超えるような拘留という人権侵害の後に無罪になった場合、咎めなしでは、納得できない。そのために逮捕から延長を含めて23日間という拘留期間の上限を定めているのであって、逮捕を繰り返すことで、その制限を事実上無視することは、実質的な違法行為であるともいえる。他の人権問題には敏感に反応するメディアや日弁連もなぜかこの問題にはあまり熱心ではない。今回は海外に知られることで海外から強い批判を浴びている。日本の常識は海外の非常識なのである。よりよい司法制度のために、検察の惨めな敗北とその結果による「強い外圧」を期待する。
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