噛みつき評論 ブログ版

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正義論の流行と新自由主義の退潮

2011-05-30 10:11:36 | マスメディア
  昨年、NHK教育テレビで繰り返し放送された、政治哲学者マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」が大きな話題になりました。授業の巧みな進め方、身近な例を使ったわかりやすい説明によって、正義というあまりなじみのなかったテーマがとても魅力的に見えました。

 授業の人気はむろんサンデル教授の力によるものだと思われますか、今の時代が「正義論」要求しているという背景もあったのではないでしょうか。

 戦前の日本では儒教の影響下に作られた価値観、倫理観が広く存在し、なかでも知識階級である武士の社会では後に武士道といわれるようになった価値観が支配的でありました。その一方、商人の社会では実利を追い求める人々も存在したと思われます。

 戦後、そうした旧来の価値観の多くは軍国主義との関係を疑われ、その多くが否定されました。しかし実利を求める価値観だけは生き残りました。高度成長期を経て、それはより豊かな生活を目指す価値観として、すっかり定着した感があります。

 「日本はなくなり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、抜目がない経済的大国が残っているであろう」という三島由紀夫の予言どおりとなりました。

 近年、新自由主義の経済学者の一部はこれに乗り、経済成長こそが最大の価値であるような風潮をばら撒き、さらにこの傾向を推し進めました。まるでシャイロック(*1)を崇拝するかのように。その結果、物質的豊かさを求める価値観が社会全体を覆ったように見えます。他の価値観はないに等しい状態でしたから。

 その後リーマンショックが起こり、新自由主義やグローバリズムの欠陥が露わになりました。それを契機として新自由主義は色褪せ、同時に新自由主義が基盤としていた豊かさの追求という価値観に対して、疑問を感じる風潮が広がっていたのではないかと思います。このような背景があったからこそ、サンデル教授の正義論が多くの人を惹きつけたのではないでしょうか。

 戦後、実利の追求はあたりまえであり、それを恥ずかしく思うことはありませんでした。逆に、正義という言葉を口にするのはなんとなく気恥ずかしいような雰囲気がありました。それどころか正義は偽善と理解される恐れが多分にありました。利己主義を前提に組み立てられた社会といった感じです。これは戦後教育のおかげかもしれません。

 それはともかく、人々の関心が物質的豊かさの追求だけでなく、他のものに向けられるのは好ましいことです。物資の浪費を伴わない価値観もあるわけですから。物資は有限ですから、誰かが多く取れば他は取り分が減ることになり、争いの原因となります。

 それに、より多くの豊かさを求め続け、どこまでいっても「足るを知る」とならなければ、グリード(強欲)と見られこそすれ、決してエレガントとは見られないでしょう。

(*1)シェイクスピアの「ベニスの商人」に登場するユダヤ人の金貸し
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震災後の価値観変化、今も昔も

2011-05-26 10:04:30 | マスメディア
 『地震は、われわれの人生を、もっとも端的な姿で見せてくれた。人生は根本的になんであるか、人生には根本的に何が必要であるかを見せてくれた。人生に付きまとってゐた、いろいろな表面的な装飾的なものが、地震の動揺によって揺り落とされてしまったのだ。われわれは露骨な究極の姿で人生を見たのだ。
 われわれは、生命の安全と、その日の寝食との外は何も考えなかった。われわれはそれ丈で充分満足していた。一家が安全に、その災厄を切り抜けようと祈念する外は、何の心もなかった。それ以外のものは、われわれにとって凡て贅沢だった。人は、つきめるとパンのみで生きるものだ。それ以外のものは、余裕であり贅沢である。
 ひどい現実の感情に充ちてゐるときは、藝術を考える余裕はない。烈しい失恋に悶えてゐるときは、ゲーテもシェイクスピアもない。烈しい忿怒の念に駆られている時は、ストリンドベルヒもドストエフスキーもない』

 長々と引用しましたが、これは菊池寛が関東大震災の後に書いた文の初めの部分です(文芸春秋6月号より)。実は私も震災後、「安全と親交と満腹感」という題の記事で、ドゥ・ヴァールの「生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」という言葉を紹介し、「われわれはそれ以外のものを追い求めることに熱心になりすぎたのではないでしょうか」と書きました。

 約90年前の菊池寛の文章はむろん私などより巧みで、わかりやすいのですが、内容はよく似ています。ひどい震災がきっかけになり、価値観の変更を迫られるのは今も昔も同じなのでしょう。

 震災直後は誰もが基礎的な生存条件の重要さに気づきますが、やがて復興と共に忘れられ、菊池寛のいう「余裕や贅沢」に関心が向かいます。そうなれば「生命の安全と、その日の寝食」だけでは満足感を得ることが難しく、それだけでは幸福とは感じられなくなります。

 一方、ひとつの文明が栄えるとき、人々の関心は健康に集中し、やがて文明は衰亡に向かう、という話を聞いたことがあります(出典不明)。繁栄が長年続けば、基礎的な生存条件に対する関心が薄れます。健康食品会社の経営者が高額所得番付(現在は非公開)の上位に名を連ね、サプリメントが巨大な市場を形成するような状況は繁栄を象徴するものと言えるでしょう。

 健康への関心の高まりは「余裕や贅沢」の表れであり、それは基礎的な生存条件を軽視することの反映とも考えられます。つまり社会全体が浮身をやつしているような状態とも言えましょう。国としても安全保障などの基礎的な部分が手薄になり、他国の台頭を許すことも考えられます。文明が衰退する裏にはこのような社会の価値観の変化が関係しているのかも知れません。少々こじつけ気味ではあるのは承知の上ですが。
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政府・東電・原子力委の責任転嫁ゲーム

2011-05-23 10:10:02 | マスメディア
 福島第一原子力発電所1号機では淡水が足りなくなったため、3月12日午後7時4分に海水の注入が開始されたましたが、その直後、海水を注入した場合に原子炉内で再臨界が起きるのではないかと菅首相が心配したことによって55分間海水注入が中断された、と報道されました。

 東電側は官邸で再臨界の危険性の議論が続いていることを理由に海水注入を中断したと主張し、官邸側は原子力安全委員会の班目委員長が菅首相に「海水を注入した場合、再臨界の危険性がある」と述べたことを理由に挙げていますが、班目委員長は「再臨界の恐れなど言うはずがない」と否定しています。

 三つ巴の責任転嫁ゲームとなったわけですが、いささか見苦しい姿です。まあそれはともかく、この冷却の中断から関係者の能力や見識など、お寒い状況が見えてくるようです。

 原子力安全・保安院は11日の22時、2号炉についての予測を発表しています。22時50分に炉心露出、23時50分に燃料被覆管破損、24時50分に燃料溶融となっており、炉心露出から1時間で被覆管破損、さらに1時間で燃料溶融と、短時間で重大な結果になることが示されています。関係者は55分間の冷却中断が重大な事態を招く可能性があることはわかっている筈です。

 また淡水を海水に代えれば再臨界が起きるかもしれないという意見を支持する専門家はいないようですから、これは思いつき程度の意見もチェックされことなく現場へ伝えられ、混乱させるという体制を示しています。

 海水の注入前ならともかく、注入が始まってから根拠の乏しい再臨界を検討する政府もですが、それではと、注入を55分も中断した東電も、事態の深刻さをよく理解していたとは思えません。その時点では冷却が最優先であったわけで、官邸からの怪しい指示を言下に否定するだけの識見が東電にはなかったのでしょうか。東電にとっては政府の指示に従っておけば政府に責任を押し付けられるという利点があったのかも知れません。

 東電はベントも国の指示により行ったと発表しています。1号機の格納容器内の圧力は設計圧力の約2倍の8・4気圧に達しましたが、ベントが開始されたのはその約6時間後で、この遅れが水素の漏洩、そして爆発を招いたという指摘があります。過大な圧力による格納容器の破裂の危険もあったわけで、この遅れの理由も気になるところです。

 緊急を要するときに、東電、官邸、原子力委員会、原子力安全・保安院などが、素早い意思統一ができず、結局「船頭多くして船、山に登る」ことになった観があります。関与する組織が多ければ、最適な解を素早く見つけるのは困難です。もっとも責任を分散してウヤムヤにするためには最適な解ですが。

 自信のないプロと、強い権限をもつ素人が、共にうろたえ、右往左往するという、コワイ状況が見えるようであります。
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マスコミの科学リテラシーは中学生レベル?

2011-05-19 07:50:01 | マスメディア
 福島第一原発では震災の翌日から海水の注入による冷却が行われました。しかし水位は上昇せず、燃料棒の露出が続いているという報道が続きました。そのとき、私はなぜもっと水を入れて水位を上げられないのだろう、と不思議に思っていました。おそらく同じ疑問を持たれた方は少なくなかったろうと想像します。

 水位が上らないとすれば、それは圧力容器内の圧力に対して十分な給水圧力がなく水量が足りない場合か、圧力容器やその周辺に穴があいていて水が漏れている場合の二つが考えられます。給水圧力は消防車のポンプ(0.5Mpa以上)を使っていたそうなので、当時の圧力容器の内圧より高く、前者が原因であるとは考えられません。

 とすると、原因は漏水ではないか、と考えるのは自然なことです。しかし東電や保安院の説明、マスコミに登場する偉い学者先生方の解説には、不思議なことに水位低下を漏水と結びつけたものはなかったように思います。

 燃料の発熱のために水はすぐに蒸発するため水位が上らないのだ、という説明がどこかのテレビの解説にあったと記憶していますが、これでは不十分です。燃料の残留熱(崩壊熱)は運転停止後、急速に低下しますが、ある時点の発熱量は計算できるので、そのときの水の蒸発量は決まります。蒸発量以上の水を入れればよいわけです。

 そして、東電は事故から約2ヵ月経ってから、初期に1号機のメルトダウンと圧力容器に穴があいている可能性を認めました。私の疑問はこれで氷解したわけですが、別の疑問が生じました。それは東電や政府の信用度です。水位が上昇しないこと、格納容器の圧力低下、放射線量の高さなどから、東電(政府も?)は格納容器の損傷の可能性を早い段階から認識していたのではないでしょうか。

 マスコミは東電や政府の発表に概ね疑問を抱くことなく、それに沿った解説をしました。もし東電の記者会見で、記者の一人でも圧力容器内の水位が上らない理由を問いただしていたならば東電は圧力容器の損傷に言及せざるを得なかったと思われます。

 むろん複雑な装置なので圧力容器の漏れ以外にも水位の上らない原因があったのかも知れませんが、それならその説明を引き出して欲しかったわけです。

 記者会見で、重要な、そして当然の疑問について質問する記者がいないことは東電にとって「天佑」であったかもしれませんが、マスコミの報道機能については大きな懸念を残すことになりました。

 マスコミには芸能やスポーツ、事件などに精通した方はたいへん多くおられると理解していますが、なぜか科学技術の分野は極端に弱いように思います。そのような体質では、原発などの報道は単に右から左へ伝えるだけ、オウム返しのようなものにならざるを得ません。これでは報道の機能を果たしているとは言えないでしょう。

関連記事 原発報道で露見したマスメディアの弱点
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責任逃れは最重要課題?

2011-05-16 10:05:59 | マスメディア
 原発事故で警戒区域となり、強制移住となった福島県川内村の住民が一時帰宅を認められました。しかし、国の原子力災害現地対策本部は「自己の責任において立ち入ります」という同意書に署名を要求したそうです(*1)。まさに責任回避のための、原発顔負けの多重防護システムであります。

 放射線レベルが下がって安定してきた時期に強制退去させ、一時帰宅時の時間も行動も厳しく管理した上で「自己責任」で、とは信じられません。自己責任なら自由にさせるのがあたりまえ、自由のないところに責任はないというのが世の常識です。

 これは健康被害などが生じたとき自分で責任をとれということであり、当局の責任逃れの意図がありありです。同意書を取れと指示した人物、またそれに盲従した役人。保身のみが大切な、なんとも情けない方々に見えます。もしかすると、彼らは仕事のかなりの時間を責任回避の工夫ために使っているのではないでしょうか。

 比較的線量の低い地域まで一律に強制退去させたのは、万一健康被害が生じたとき、責任を問われる事態になるのを避けるためではないかと思われます。住民に不便や損害を強い、家畜や犬・猫を見殺しにし、養護施設の高齢者に死のリスクを負わせても、とにかく万一の責任だけは回避したいという政府・役人達の「強い思い」を感じます。仮にも自己責任を言うのなら、住民の自由な選択に委ねるべきです。

 電気製品などの取扱説明書の初めのページに警告と注意が書かれています。オーディオアンプの説明書には「内部に水などの液体や異物を入れない」「スピーカーコードの配線はつまづいたりして転倒の原因になります」などの記述が見られます。あたりまえの項目が何ページも並んでいます。アンプに水を注ぎ込む人など、この世にいるのでしょうか。まるで幼児扱いされているような気分になります。

 これは1995年の製造物責任法(PL法)対策として、主として製造業者が責任を回避するために取った措置だと思われます。考えられる限りのことが書かれ、しかも常識的なことが多いため最後まで目を通す気にはなれません。そのためその機器にとって本当に必要な警告・注意が見逃される危険があります。

 この十数年、責任を追及することにずいぶん熱心な世の中になったように思います。人身事故と健康被害に対するメディアの責任追及はいささか度が過ぎるように感じます。トップ報道が10日間以上続いた雪印乳業の集団食中毒事件では下痢と嘔吐の患者を多数発生を見るという実害がありました。しかしその後に起こった消費期限切れ原料を使用した不二家事件、期限を誤魔化した赤福事件、産地偽装の吉兆事件は実害はなくてもトップ報道が続きました。

 ひとつには平和が長く続いたためかもしれません。大きなニュースがないので卑小なニュースがトップを飾り、その過大な報道のために読者は重要なことと勘違いします。やがてメディア自身にも勘違いは広がり、世の中に定着します。その結果、社会から寛容さが大きく失われたように感じます。司法の厳罰化傾向はこの傾向を具現化したものと理解できます。

 責任追及も必要ですが、度が過ぎると責任回避のための配慮や行動が多くなり、本来の機能が阻害される可能性があります。リスクをとって立派な仕事をする人は不利になり、保身に長けた人間が生き残ることになりましょう。「オレが責任を取るから、細かいことは気にせず目的を遂行しろ」と指示するような人間には住みずらい世の中です。

 政治の世界に有能な人があまり出てこないのは、ひとつにはこのような傾向のためかも知れません。それが厳しい責任追及の結果であるならば、我々は大きな代償を払わされていることになります。

(*1)その後、同意書は確認書に、「自己の責任において立ち入ります」の文言は「責任をもって行動します」に変更されました。
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浜岡原発停止を極秘決定したブラック政権

2011-05-12 10:01:51 | マスメディア
 記者会見で突如発表するという菅首相のやり方について、日本経団連・米倉会長の「民主党の時代になって分からないのは、結論だけぽろっと出てくる。そして、思考の過程がまったくブラックボックスになっている」という批判が「有名」になりました。米倉会長の眠そうな顔から切れ味のよい言葉が飛び出したのにはびっくりです。

 この米倉発言が広く報道されたのは記者達にも同調するところがあったためでしょう。首相と枝野官房長官に対する質問にも米倉発言が引用されていました。しかし思考の過程がまったくブラックボックスだという批判に対して首相も枝野氏も停止要請の意義を強調するばかりで、質問の答えにはなっておらず、それ以上の記者の追及もありませんでした。

 質問権を持つ記者は曲がりなりにも国民の代表なのですから、もう少し突っ込んだ質問をして欲しいものです。再質問がなければ実質的な回答拒否を許すことになり、質問者も回答者も緊張感のない茶番となります。結局、「ブラックボックス」に対する回答は枝野氏の「私にはピンときません」の一言だけでした。これは問答無用という態度であり、誠実さが感じられません。

 浜岡原発の停止要請は菅首相、海江田経済産業相、細野豪志首相補佐官、枝野官房長官、仙谷官房副長官らで4月上旬から1か月にわたり極秘に検討されてきたと報道されています。玄葉国家戦略相(民主党政策調査会長)は知らされておらず、不快感を表明しました。原発問題は国家戦略の問題ではないようです。

 民主党政権の秘密主義は今に始まったことではありませんが、民主党という名前が空しく感じられます。「由らしむべし、知らしむべからず」の体質が透けて見えるようです。ブラックボックス政権、略してブラック政権と呼ぶのがふさわしいと思います。

 しかし、たまたまなのかどうか知りませんが、今回の浜岡原発停止要請そのものは妥当な方向だと思います。大事故の確率がどれくらいあるかわかりませんが、一度の失敗は許され同情もされるでしょうが、二度の失敗は信用を失い、軽侮の対象にすらなります。

 原発推進か、あるいは全廃かの極端な選択でなく、リスクの大きいものだけを停止するという判断は現実的なものです。過去、原発に関しては絶対安全とする意見と危険をことさらに強調する意見の対立が続いてきました。

 例えば、反原発のバイブルとされてきた故・平井憲夫氏の「原発がどんなものか知ってほしい」という小論は「日本列島で取れる海で、安心して食べられる魚はほとんどありません」と述べるなど針小棒大な記述が目立つものですが、約8000のブログで紹介・転載され、少なからぬ影響を与えてきました。

 一方、福島第一では津波対策として堤防の嵩上げが検討されたとき、今まで絶対安全と言ってきた手前、それを否定することになるので嵩上げは実現しなかったそうです。絶対安全と無理やり言いふらしたことで自縄自縛になったわけです。絶対安全と言わなければ納得しない風潮を作り上げたメディアにも責任の一端はあると思います。

 一般に、極論の対立がよい結果を生むことはあまりないと思います。その点、今回の停止要請は手法の問題はともかく、確立を考慮した現実的な判断であり評価できます。

 ただ、突然なにが飛び出すかわからない政権という定評ができつつあり、今後も「想定外の思いつき」が出てくるかもしれないという不安は残ります。日本の将来のビジョンを示さない、突如として予想だにしないものが飛び出す、不安のタネは尽きません。
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「デフレの正体」・・・書評

2011-05-09 08:24:34 | マスメディア
 「デフレの正体」は発売後1年近く過ぎていて、いささか間の抜けた話ですが、大変インパクトのある、面白い本なのでご紹介したいと思います。著者は日本政策投資銀行参事役の藻谷浩介氏で、経済学者ではありません。「多くのマクロ経済学徒を不愉快にさせたり、私を無視する気にさせてきたかもしれません」と著者自身が述べている通り、マクロ経済学の常識を覆す内容が詰まっています。文章は理路整然として気持ちよく、すらすらと読めます。

 あとがきにあるように、内容を一言でいえば「経済を動かしているのは、景気の波ではなくて人口の波、つまり生産年齢人口=現役世代の数の増減だ」ということになります。本書では生産年齢人口(15-64歳)の変化に注目して、過去の経済の動向がさまざまな統計資料をもとに説明されるのですが、これがなかなかの説得力を持ちます。

 ここ十数年の内需不振の要因として様々なことが言われてきましたが、生産年齢人口の減少はそのどれよりも大きい要因であるという主張はよく理解できます。逆に80年代終りのバブルの発生はプラザ合意以後の金融緩和が原因とされていますが、生産年齢人口の増加を要因に加えると、より納得できます。

 また、日本の輸出競争力を心配する議論がよく見られるのですが、本書ではバブル崩壊後、日本の輸出は倍増したと説明されます。例えは2000年には約50兆円であったのが07年には80兆円と近年も急拡大しています(この後リーマンショックで急減しますが)。

 この例のように、輸出額や消費額などの長期トレンドが一般に認識されにくいのは、メディアの報道が「前年同期比」が中心であるためだ、と説明されます。その理由として「経済情報の主たる消費者である金融投資の関係者が短期の上下の話だけに関心を集中しているからです」と述べています。その結果、長期のトレンドを理解するための情報は少なく、短期的な変化に注意が集まってしまうわけで、これはまさにその通りだと思われます。

 経済動向は金利や財政政策、技術革新、消費する気分など、様々な要因から影響を受けます。生産年齢人口もその主要な要因のひとつです。従来のマクロ経済学は生産年齢人口を主要な要因と扱ってこなかったのに対し、本書ではこれを主要な要因として扱っています。マクロ経済学は生産年齢人口をいささか軽視していたのではないかという疑問が生じます。

 内需不振の要因の分析を誤れば、対策も的外れなものになります。失われた10年とか20年とか言われ、その間、様々な対策が取られましたが、それらが有効に機能しなかったことは認められなければならないでしょう。本書が広く読まれる裏にはそうした既存の経済学の現実認識に対する失望があるものと思われます。

 アマゾンには123件のレビューがあり、そこには本書に対する強い肯定的評価が多いのですが、批判も2~3割あります。批判は教科書的な経済学の立場からのものが多いように感じます。しかしネットで調べた限り、的外れの反論や部分的な反発はあるものの、主旨に対してきちん根拠を示した明確な反論はまだ見つかりません。

 生産年齢人口が主たる変動要因だと考えれば、将来の予測や対処法は従来のものとは大きく異なったものになります。将来を予測する上にも本書の内容はたいへん有用なものとなるでしょう。また経済学の外側からこのような革新的な分析が生まれたことは実に興味深いことです。経済に関心のある方ならば、一読の価値は十分あると思われます。
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「わが町」・・・ソートン・ワイルダー

2011-05-05 09:52:42 | マスメディア
 今回の震災では家だけでなく、町そのものが流されてしまった地域が数多くありました。古くから住み続けてきた方々にとって、それは単なる経済的損失にとどまるものではありません。計らずも私は「わが町」を想いだしました。

 ソートン・ワイルダーの戯曲「わが町」はニューハンプシャー州のある町を舞台に、1901年6月7日からの出来事を二つの家族を中心に描いたものです。その町のもっとも古い墓は1670年、そこには4つの家の名が刻まれ、今もその姓の人が多く住んでいるという地方の町です。その町で子供達は成長し、結婚、そしてまた子供を生み育て、やがて死ぬということが連綿と繰り返されます。毎日の平凡な生活、死も結婚も日常のこととしてが淡々と描かれますが、そこには平凡な日常にこそ価値があるというメッセージが込められているように思います。そして町は彼らを包む世界と言えるでしょう。
(「わが町」は1940年に映画化されました。邦題は「我等の町」)

 以前、多くの日本人は祖先から家や土地を受け継ぎ、世代を重ねてきました。そこには祖父母、父母から受け継いだものを子孫に継いでいくという考えがありました。世代の継続の中に自分を位置づけるこうした考えは人々に精神的な安定をもたらす、ということを民俗学者の柳田国男がどこかの本に書いていたと記憶しています(古い記憶なので信頼度低し)。ここには世代を中継するという自分の位置づけ、そして「意味」づけがあるからでしょう。

 「わが町」はその舞台を日本の村に置き換えても違和感がありません。この劇が日本でも根強い人気を保っているのはワイルダーが描いた世界と共通するものがあるからでしょう(劇は見ていませんが)。

 しかし戦後の高度成長期、地方から都市への大規模な人口移動があり、また個人を重視する考えが支配的になって「家」は否定的に語られることが多くなりました。とりわけ都会では、人々は「家」の呪縛から解放された一方、「意味」のひとつを失ったわけです。

 大家族制が消滅した結果、表面化した現象として無縁死が話題になっていますが、「自分の位置」や「意味」の喪失はより根源的なものであり、一種のアイデンティティの喪失と捉えることができます。たいていのことには副作用があるということでしょうけれど。
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投機マネーという困り者

2011-05-02 09:47:18 | マスメディア
 震災の後、円は一時76円台(3/17)にまで上昇しました。日本がダメージを受けたのになぜ円が上昇するのか、不思議な気がしますが、これは日本の保険会社や事業会社が震災に必要な円資金調達のために保有する外貨を売って円を買うだろうという思惑によって海外のファンドが円を買ったためという説が有力です。筋書き通りにいけば日本の保険会社などは高い円を買う羽目になるところでしたが、政府の介入で挫折したようです。

 大災害まで金儲けのチャンスにしようという、なんとも商魂たくましい人々です。国内でも同様なことが見られます。東京電力株は震災後に急落しましたが、この中には「空売り」が相当数ふくまれていたものと推定できます。震災如きに決して動じることなく、東電の不運をカネにしようとする「冷静な方々」がいらっしゃるわけです。

 惨禍にみまわれた被災者に対し、多くの企業によって採算を度外視した物資やサービスの提供、また自衛隊や有志の人たちによる救援活動が広く行われました。このような被災者のための活動と、上記のようなファンド・投機筋の活動はまことに好対照であります。

 震災より前、原油や穀物の価格の高騰が見られましたが、国内でも先高を見込んで商品関連投資信託の販売が好調だそうです。一般の小口資金が商品の投資信託に流入し、原油や穀物の価格をさらに押し上げ、自分で自分の首を締めることになりかねません。トウモロコシは高値が続いていますが、投機マネーがなくなれば価格は3割下がるとも言われています。

 株や債権でマネーゲームをするのはまだよいにしても、原油や通貨、とりわけ穀物など食糧を対象にゲームをするのは迷惑千万な話です。チュニジア、エジプト、リビアなどの政治的混乱は食糧価格の高騰に起因するとされています。昨年末、米商品先物取引委が投機規制案を発表するなど、規制への動きはあるようですが、なかなか効果的な規制は実現が難しいようです。

 投機マネーによる原油や穀物の高騰は、貧困国では文字通り死活問題であり、他の国でも深刻な問題です。この問題に対して日本のメディアは規制を求めることも批判することもなく、ただ無気力・無関心だけが感じられます。

 集中報道を得意とする日本のマスコミが投機規制のためのキャンペーンを張り、大騒ぎしてその気運を世界に広げることもまったく不可能ではないでしょう。また無気力・無関心な政府を促して、各国に規制を働きかけるということもできる筈です。たまには世界のために役立ってもよいのではないかと思います。少なくとも入試のカンニング事件や相撲の八百長に報道資源の大半を費やすよりはマシでしょう。
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