噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

マニュアル人間の思考停止

2011-06-30 11:00:33 | マスメディア
 JR石勝線トンネル脱線火災事故では乗客らの自主的判断によって惨禍を免れました。緊急時の判断の是非が時には生死をも分けることもあり、改めてその大切さを思いました。

 一方、避難誘導が適切に行われなかった理由のひとつに、運転士、車掌、指令がマニュアルにこだわり過ぎて、柔軟な行動をとらなかったという点が指摘されています。たしかにマニュアルは便利なもので、業務の内容を効率よく伝えることができます。また業務をする者にとっても自分の頭で考える必要がない、そしてマニュアルに従ったと言えば責任を問われない、という利点があります。

 しかしマニュアルに従ってばかりいると、思考力が育たないため、マニュアルにない状況に直面したとき、適切な判断ができないという可能性が高くなります。

 福島第一原発の1号炉では電源喪失直後、非常用の冷却システムが起動しましたが、圧力容器内の温度が急速に低下したためマニュアルに従って冷却システムを手動で停止したそうです。急に温度が低下すると圧力容器に応力が生じて損傷する恐れがあるためとされています。通常時では高価な圧力容器を保護するために必要な規定なのでしょうが、非常に危機的な状況と認識した上での措置であったのか、疑問が残ります。マニュアルに従ったということで不問にされたようですが、炉心冷却より圧力容器の損傷という僅かな可能性を優先すべきであったのでしょうか。

 マニュアルですべての状況に対応することはまず不可能といってよく、想定外の事態が起こるのは避けられません。マニュアルに依存すればするほど、想定外の事態に対応する能力は低下すると思われます。

 気象庁は緊急地震速報が発令されたときの心得(つまりマニュアル)を作成し、NHKではそれを頻繁に放送しています。その中に、家庭での対処法として、

「頭を保護し、丈夫な机の下など安全な場所に避難する」
「あわてて外に飛び出さない」
「無理に火を消そうとしない」
の3つが掲げられています。

 建物が倒壊しない場合はまあこの対処でよいと思いますが、倒壊の場合は「速やかに外に飛び出す」がもっとも適切な行動でしょう。阪神大震災の死者の約8割は建物の倒壊による圧死・窒息死だからです。机などは上からの荷重には比較的強いのですが、建物が平行四辺形のように倒壊する場合は、斜めからの力が働くので簡単に破壊されます。

 「無理に火を消そうとしない」と教えるのも疑問です。火を消さず、机の下に避難して建物の倒壊による圧死を免れても焼死することがあります。最適な方法は状況により様々であり、一律に教えるべきではないと思います。「建物の倒壊可能性に応じて、自分で判断して適切な行動をとれ」でもいいのではないでしょうか。

 「無理に火を消そうとしない」という言葉が繰り返されれば消火の重要性が軽視され、周囲をも巻き込む火災の可能性を高めます。単純なフレーズで様々な状況に対処しようということが元々無理なわけです。

 東日本大震災のとき、気象庁が津波の予想波高を当初3mと発表したことが被害拡大の大きな原因になったと指摘されています。おそらく限られたデータからマニュアル(計算方法)に従って導き出した結果であろうと思われますが、的確な判断力のある人がいれば違った結果になっていたかもしれません。マニュアルに想定されていない事態が起きたときの判断能力が十分であったか、私には疑問です。

 3mという具体的な数値は信頼性のあるものという誤解を与えます。岩手県大船渡市では故意に3mという数値を抜いて津波の警報を放送し、被害の拡大を抑えたそうです。恐らくマニュアル(あったとしたら)から外れた、実に見事な判断です。そこには気象庁は信用できないという卓見があったのかもしれませんが。

B級政権はB級マスコミから生まれる

2011-06-27 10:27:54 | マスメディア
『国民は程度に応じた政府しか持てない、と古来言う。だが日本国民の程度からすれば、もう少しましな政治はもてないものか』

 これは6月24日の天声人語の一節です。前段の、国民の程度に応じた政府しか持てない、という言葉はよく言われることですが、後段の、日本国民の程度からすればもう少しましな政治はもてないものかという指摘に納得される方は多いことと思います。

 選挙を通じて国民が政府を選択するという仕組みがある以上、国民のレベルが政府に反映するのは当然のことです。しかし後段では政府のレベルが国民のレベルより低いことを嘆いています。そうだとすると国民が政府を選ぶ過程に問題があることを示しています。

 マスコミの好意的報道に支えられて誕生した民主党政権ですが、2年近く経ったいま、マスコミも国民の多くも民主党政権に失望しているようです。国民は総選挙で大きく選択を誤り、B級政権を誕生させてしまいました。まあ国民は見事に騙されたという他ありません。

 首相と前首相がペテン師だの嘘つきだのとやりあっておられましたが、もともと民主党そのものがペテン師のようなものであったというわけであります。お二人の争いはペテンをかける相手が国民から仲間同士にかわっただけということなのでしょう。

 騙したのは民主党ですが、まず騙されたのはマスコミの連中です。不偏不党、中立を標榜するマスコミが民主党の宣伝機関となり果て、国民にB級政党に投票させるようそそのかしました。その結果が現在の政治状況ですから、マスコミの力はまことに「偉大」であります。国民のレベルに対し、低レベル政権の誕生はB級マスコミのおかげと考えてよいでしょう。

 昨年11月28日の毎日新聞のコラム、反射鏡における与良正男論説副委員長の発言がこのあたりの事情をよく表しています。
「政権交代から1年2カ月。臨時国会は、閣僚の失言、陳謝、撤回のオンパレードで、確かに菅内閣の体たらくは目を覆うばかりだ」とした上で、
「『日本の政治には政権交代が必要』と長年書き続けてきた私も自省を続ける毎日である」

 しかしこのようなマスコミ自身による懺悔の言葉は極めて例外的であります。B級政権を生み出した責任は大いにあると思うのですが、反省の弁はほとんど聞かれません。これはコラムなどではなく、一面に載せた社説で「堂々」と不明を恥じ謝罪すべきレベルの大罪です。B級政権が4年間も政権を担当すれば国の損失は計り知れないものになります。

 ついでながら、シリコンバレーではこんな「格言」があるそうです。
『Aクラスの人はAクラスの人と一緒に仕事をしたがる。Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる』

 Bクラスの人は自分より優秀なAクラスの人を採用すると自分の無能がバレる、あるいは自分の地位が危うくなるため、Cクラスの人を採用するというわけです。これを現在の菅首相にあてはめて考えると納得できるところがあるのではないでしょうか。

 人事権のある首相は是非ともA級人間でないといけないことがわかりますね。党内にB級人間しかいない場合はどうしようもないともいえますけどね。もしそうなら、首相が代わってもあまり代わり映えしないということになりましょうか。

関連記事 マスコミの政治責任

文明国の感性とは

2011-06-23 09:34:21 | マスメディア
 小笠原諸島では希少鳥類を襲う野ネコが問題になっていますが、猫を捕獲し、人間に慣れさせた上で飼い主を見つけるという活動がテレビで紹介されていました。既に2百数十頭が新たな飼い主に引き取られたそうです。

 中でもカツオドリを食べている姿を自動撮影で撮られたトラ猫が捕獲され、獣医師によって飼われて、変化していく様子はとても興味深いものでした。捕獲直後は檻の中から牙を向いて飛びかかろうとした猫が、今では獣医師に甘えてゴロゴロ。表情も穏かに変わっているのが印象的でした。人によくなつくのは猫の生来の性質であり、他の動物ではなかなかこうはいきません。私も野良猫を飼いならすことを何度も経験していますが、警戒心の強い猫でもたいてい数ヶ月で馴れます。かなり根気は要りますが。

 話がそれましたが、捕獲した猫を処分せず、大変な手間暇をかけて飼い主を探すなんて、我国もなかなかの文明国だという気がします。生産力に余裕がある社会でこそ文明は育つわけで、食べるだけで精一杯という状態では困難です。また生産力に余裕があっても贅沢三昧だけを目指すような文明は洗練されたものとは見られません。

 この野生猫の扱い対して、和歌山県太地の鯨漁やイルカ漁は、残念ながら文明国のやり方とは思えません。漁は伝統的なものだから認めろという地元と、それは高い知能を持った哺乳動物を殺す残虐行為だとするシーシェパードなどの環境保護団体の対立は平行線をたどっています。

 先日、オーストラリアはインドネシアの一部食肉処理場の牛の殺し方が残酷との批判が国内で高まったことを受け、インドネシアへの生きた牛の輸出を全面的に停止したという報道がありました。オーストラリアは年間約260億円の輸出という金儲けより、残酷という自国の国民感情を優先したわけです。「残酷」に対する両国の感性の違いを感じます。

 犬を食べる地域もあるように、何を残酷と感じるかはその地域の文化によって異なります。オーストラリアなど、現代の先進国に住む多くの人の感性はイルカ漁を残酷と感じるようです。イルカ漁の是非については伝統や地元民の生計など様々な理由が議論されていますが、結局のところ「残酷さ」に対する感性の問題に帰するのではないかと思います。

 そして残酷さに対する感性は時代と共に敏感な方向へと変化してきて、時の流れはイルカ漁に反対する勢力に味方します。イルカ漁による経済的利益がどれほどのものか知りませんが、オーストラリアの260億円には遠く及ばないと思われます。その代償として、日本人の残酷に対する感性は西欧人とは違うという評価を受け続けることになるでしょう。

 野生猫に対する日本の優しい扱いなどはあまり知らされず、残酷なイルカ漁が映画などによって広く世界に知らされることは日本のイメージダウンにつながります(これが保護団体の狙いですが)。ほとんどの国がイルカ漁をやめている現在、いつまで頑張るつもりなのでしょうか。

思想と性格の関係

2011-06-20 09:58:32 | マスメディア
「貧しき者は幸いなり」「金持ちが天国の門をくぐるのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」とキリスト教は教えます。金持ち(強者)よりも貧しい者(弱者)の方が幸せであるというわけです。これは価値観の逆転によって弱者を強者に優越させるものであり、その根底には強者に対する弱者のルサンチマン(嫉妬や憎悪の鬱積)があると、嫌われそうなことを言ったのはニーチェであります。

 当時大多数を占めていた貧しき者にキリスト教が広く浸透した理由のひとつは、その教えが貧しき者の立場を価値観の逆転によって積極的に肯定したからでありましょう。

 宗教を例にとりましたが、主義や思想がその人の立場と密接な関係があることはよく経験します。もう過去の話になりつつありますが、資本主義が労働者階級から広く支持されることはなく、共産主義が資本家階級から支持されることは稀でした。

 宗教や思想が選ばれるのは、それを正義や公正の基準に照らしてというよりも、むしろそれが信奉する人の立場を肯定するかどうかによるのではないでしょうか。そうして選ばれた宗教や思想はその人の立場を擁護し、労せずして安心を与えてくれます。人が思想や宗教に魅せられる理由は案外こんなところにあるのかも知れません。

 以上は思想と社会的立場の関係ですが、私は思想と個人の性格にもある程度の関係があるのではないかと思っています。むろん勝手な推測に過ぎませんが。

 例えば、経済学の世界では分配を重視する立場と分配より自由を重視する立場があります。後者は新自由主義、あるいは市場原理主義とも呼ばれるもので、効率を重視する反面、それによって生じる経済格差には「寛大」な傾向が見られます。

 新自由主義では分配が少なくなり、税率も低くなりますから、分配をさせられる側、つまり経済的な強者には有利に、弱者には不利に働きます。したがって比較的高い所得を得ている者は新自由主義を志向する傾向があると思われます。

 しかし、高所得層がすべて新自由主義に賛同するわけではありません。これには個々の人の性格が多少なりとも関係しているのではないでしょうか。

 世の中には同情心に富み他人のことをわが身のことのように心配する人がいる反面、他人を踏み台にしたり不幸に落としても平気な人がいます。人間には利己心と利他心が共存していますが、両者の比率は人によって大きく異なるようです。また共感能力にも大きい差があります。

 利他心に富み共感能力に優れた人は分配を重視し格差の縮小を望む可能性が高く、新自由主義との親和性は低いと思われます。逆に新自由主義を好む人は・・・これ以上言うと嫌われそうなので遠慮することにします。

 もうひとつ言えることは、思想上の対立が個人の性格に由来するものである場合、容易に解消することはないということです。以上は菅首相のような思いつきに過ぎませんが、他の思想や宗教と性格の関係を調べるとおもしろい結果が得られるかも知れません。

「人の受難を消費財となす」

2011-06-16 09:33:19 | マスメディア
 12日の朝日新聞天声人語は世界報道写真展について書かれたもので、いろいろな意味で読み応えがありました。

『今年の大賞は、正視するのがつらい。鼻を切り落とされたアフガニスタンの若い女性が、おびえと悲しみを湛えた目を、しかし決然と、レンズに向けている」「暴力をふるう夫から実家へ逃げ帰ったが、反政府武装勢力タリバーンに「逃亡の罪」を宣告され、夫に鼻と耳をそぎ落とされた-と説明がある』

 そして長崎で被曝し、顔の半分にケロイドが残った女性の50年前の写真を例に挙げ、写真展を見ると世界を覆う悲痛の多さに胸が痛む、と述べます。ここまでは報道の大切さを教える適切な説明です。しかしそれに続く最後の一節はどうでしょうか。

『報道の使命と、人の受難を「消費財」となす錯誤は、ほとんど一歩のきわどい距離にあろう。その一歩の逸脱なきや。自戒しつつの、日々のコラム執筆となる』

「報道の使命と、人の受難を消費財となす錯誤・・・」という一節は、報道人としてたいへん立派なお心がけに見えます。人の受難を消費財とするとは、ひらたく言えば人の不幸を食いものにすることです。

 しかし、数ヶ月前のカンニング報道や、芸能人が深夜の公園で裸になったときの集中報道などはどう考えても報道の使命から生じたものとは思えず、この「立派なお心がけ」とは一歩どころか、私には数千歩の距離があるように思えるのです。

 また「人の受難を消費財となす錯誤」とありますが、錯誤とは間違いという意味で、どちらかというとうっかりミス、過失というニュアンスがあります。メディアが人の受難を食いものにするのは決してうっかりミスなどではなく、とうの昔から故意の、確信に基づくものがほとんどだと思われるので、錯誤という言葉はふさわしくありません。

 むしろ「人の不幸を食いものにする誘惑」と言うのが適切でしょう。錯誤という言葉は故意を過失と言い換えるもので、身内に甘い自己弁護のお気持ちがしっかりと感じられます。朝日を代表する執筆者が言葉を誤用するとは考えられず、これは「故意の粉飾」と理解するのが自然です。

 しかしそうは言っても、看板コラムである天声人語が、人の受難を食いものにするというメディアの側面に本音で言及したことは評価できます。この立派なお心がけが全社に広まり、現実の紙面との距離が「一歩」でも近づくことを期待する次第です。

携帯電話で脳腫瘍・・・誤解を生む報道

2011-06-13 10:04:43 | マスメディア
 世界保健機関(WHO)の国際がん研究機関(IARC)が携帯電話の電磁波と発がん性の関連について、限定的ながら「可能性がある」と発表したことについて波紋が広がっています。なかでも「1日30分、10年以上の携帯使用によって神経膠腫(グリオーマ)の危険性が40%増加するという報告があった」という記述を気にされる方が多かろうと思います。

 朝日新聞がこの記事を解説つきで一面に載せたのをはじめ、他でもかなり大きく報道されました。しかし、この発表内容はかなり曖昧で、「神経膠腫の危険性が40%増加するという報告」の信頼性も不明であり、誤解を招く可能性があります。そしてこれを伝える報道は誤解をさらに助長したと考えられます。

 読者が知りたいことは携帯電話の使用はどの程度の危険性があるのか、ということでしょう。したがって「神経膠腫の危険性が40%増加」という文言はかなり危険なものという印象を与えます。

 しかしここには元々の神経膠腫の発生数についての記述がないため、40%増加といわれても増加する絶対数が不明です。例えば胃ガンのように年間発生数(罹患数)が10万人あたり100人前後のものであれば40%の増加は10万人あたり40人の増加になり、これはかなり大きいリスクと言えるでしょう。

 ところが脳腫瘍の発生率は10万人あたり3.5人、神経膠腫はそのうちの28%を占めるので、その発生率は10万人あたり0.98人となります。これが40%増加すれば増加分は約0.4人です。胃ガンの場合とは約100倍の差があります。

 神経膠腫の罹患率を知っている人はあまりいないと思われるので、「神経膠腫の危険性が40%増加」ということだけを伝えると読者はリスクを正しく判断することができません。恐らくリスクを過剰に捉えることでしょう。基準値を示さず、増加率だけを知らせるやり方は煽動には好んで使われますが、まともな報道とは言えません。

 主なメディアの記事にざっと目を通しただけですが、神経膠腫の罹患率について解説している記事は皆無でした。WHOの発表内容の意味、リスクの大きさを正しく読者に伝えようとする気持ちがメディアに乏しいのか、あるいはメディア自身が意味・リスクの意味をよく理解できないのか、わかりませんが、まあどちらにしても困ったことであります。

今漏れている放射性物質の量が知りたい

2011-06-09 08:40:41 | マスメディア
 福島第一原発の事故発生から数日間に大気中に放出された放射性物質の量は77万テラベクレルであったとする解析結果が原子力安全・保安院によって発表されました。しかし過去に放出された放射性物質の量を教えていただいても我々にとってはあまり役に立ちません。

 もっとも知りたいのは現在、どの程度の量の放射性物質が環境中へ出ているのか、またそれが事故以来どのように変化してきたのか、ということです。それがわからなければ収束の見当がつきません。

 収束の条件として原子炉の温度が100℃以下となる冷温停止や循環式の冷却装置の稼動などが挙げられていますが、要は放出される放射性物質の量が問題であり、その動向がもっとも気になるところです。

 原子力安全・保安院はプラント関連パラメータ、温度に関するパラメータと共に、現地モニタリングデータ(発電所周辺の詳細な放射線量測定データ)を毎日発表しています。これらのデータから放射性物質の放出量を推定することは可能ではないかと思われます。

 政府が放出量の推移を伏せたままで、退避地域や警戒地域の指定・解除などの判断だけを示すのであれば納得できない人も多いことと思います。信用のある政府であれば話は別ですが。

 また、マスコミがこの点について関心を持たないのも腑に落ちません。知りたい情報を引き出してくるのが質問権を持つマスコミの仕事である筈です。日本のマスコミは記者クラブを通じて政府などから発表されるものを伝える記事がほとんどである、という批判が以前からありますが(だからよく似た内容になる)、そのクセが抜けないのでしょうか。

ペテン師と嘘つきの見苦しい対決

2011-06-06 09:54:11 | マスメディア
 菅首相の辞任時期をめぐって見苦しい争いが始まりました。一方はなんと日本国の現首相、他方は前首相、共に政界の頂点を極め、1億3千万人の代表に選ばれた人物です。「最高」の役者による最悪の見世物といえるでしょう。

 菅首相を「ペテン師」と誹謗する鳩山前首相もなかなかの人物で「首相を辞めれば議員も辞める」「トラストミー」「普天間問題の解決には腹案がある」などと嘘を重ねてこられた実績をお持ちです。また首相という徴税側のトップにありながら巨額の贈与を申告せず「平成の脱税王」の異名を贈られています。脱税とは税務当局を騙すことです。

 共通の目的(政権獲得)を達成すると仲間割れが始まるのはよくある話です。両者は民主党結成以来の同志であり、「仲間割れ」はそれまでの同志の関係が互いに相手を利用するための一時的なものであったことを示唆します。まあどこから見ても見苦しいことに変わりません。

 また不信任案採決の前日まで賛成の意思を公表した多くの議員のうち、信義を通したのは僅か2人、多くの議員は恥ずかしくも手のひらを返したように反対票ほ投じました。上からの「指令」によってこうも見事にひっくり返るのなら、個々の議員の意見などないに等しいような気もします(大事なのはアタマ数だけ?)。

 それにしても泥仕合をする首相と前首相、堂々と変節する議員連中、彼らはもはや恥や信義といった概念をお持ちではないのでしょうか。とりわけ首相と前首相は数多くの民主党議員の中から選ばれたもっとも優秀な人物である筈です。それがこの体たらくでは議員の変節など取るに足らないことかも知れません。

 彼らを選挙で選んだのは国民ですから、国民にも責任があります。しかしそれ以上にマスコミには大きい責任があります。国民はマスコミの提供する情報によって投票したに過ぎず、その情報が間違っていたのですから。(関連記事 マスコミの政治責任)

 とすると、まず民主党のペテンにかかったのはマスコミということになりましょう。騙した方も悪いが騙された方も悪い、と言われますが、少なくとも騙された方は愚かだったということができるでしょう。

「武士に二言なし」とは、武士は一度言ったことを翻すようなことはしない、信義を重んじるという意味ですが、「政治家には二言も三言もあり」と思わねばならないようです。

 石原東京都知事は民主党を「未熟な人の集まり」と評されましたが、これは珍しく控えめな表現だと思います。既に中高年に達した人がさらに成熟することはあまり期待できません。「驢馬は旅に出ても馬となって帰っては来ない」(*1)といいますから。

(*1)イギリスの諺 本質はそう簡単に変わるものではないという意味(別の解釈もあり)

5号機冷却ポンプ停止、人がいなければ気づかないの?

2011-06-02 10:13:33 | マスメディア
『東京電力は29日、冷温停止中の福島第1原発5号機で、原子炉と使用済み核燃料プールを冷却するための仮設の海水ポンプが28日に故障したと発表した。モーター部分の絶縁不良が原因とみられる。原子炉とプールの冷却機能が15時間程度失われた結果、原子炉冷却水の温度は29日午後0時49分に94・8度、プールは正午現在で46・0度まで上昇した。東電は同日午前8時過ぎから予備ポンプに切り替える作業に着手。同日午後0時31分、予備ポンプが起動し、午後0時49分、冷却を開始した。その結果、午後4時現在で原子炉冷却水は64・9度となった。
 東電によると、故障したのは「残留熱除去系」と呼ばれるポンプで、原子炉とプールで熱くなった水を、海水を引き込み12時間ごとに交互に冷やしている。28日午後9時14分、冷却先をプールから原子炉に切り替えるため作業員がパトロールしている最中に停止しているのを見つけた』(毎日新聞 2011年5月30日より)

 あまり注目されることのない小さな記事ですが、ちょっと驚くようなことが含まれています。それは海水ポンプの故障が作業員のパトロールによって発見されたという事実です。なぜなら、このような重要機器の場合、故障すれば直ちに制御室などに警報が出るように設計するのが常識だからです。そして異常警報はモーター電流の変化やポンプの吐出圧力、水の流量など、複数の箇所から異常を検出して万全を期すのが普通です。

 このポンプは原子炉とプールの冷却水を冷却するための熱交換器へ海水を送るためのものらしく、停止してもすぐに危機的な状況になるわけではありませんが、たとえ仮設ポンプであっても人間が見にくるまでわからないシステムというのは実に不可解です。

 実際は「難しい諸事情」があって素人には理解できないという可能性もあるかもしれません。しかし新聞記事を見るかぎり、この東電の人海戦術に頼る管理体制には強い不安を感じます。津波の数日後、炉心に冷却水を送り込むポンプ車の燃料が切れ、1時間ばかり冷却水が途絶えたことがありました。このときも管理体制が心配になりましたが、混乱時なので止むを得ない面もあったでしょう。しかし今回は2ヵ月以上経っています。

 一方、重要な機器の故障が監視装置ではなく、パトロール中の作業員によって運良く発見されたことに対し、記者の誰ひとりとして疑問を持たなかったことはマスコミの理解力の低さを物語ります。

 数多(あまた)の情報の中から重要なもの、必要なものを選別して読者に伝えるのがメディアの仕事です。内容を理解できない人達が選別作業をしているとなれば、こちらも大きな不安材料であります。はたして必要なことが適切に伝えられているのかと。