噛みつき評論 ブログ版

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嫉妬と公平さ

2011-01-31 09:42:57 | マスメディア
 オセロはイアーゴーの奸計にかかり、妻デズデモーナの貞操を疑い、嫉妬に狂って殺します。オセロはやがて真相を知り、自害します。これはシェイクスピアの劇「オセロ」の話ですが、シェイクスピアはここで嫉妬を、人の心を食いものにする緑の目の怪物と表現しています。とてもうまい比喩ですね。

 嫉妬に苛まれることは極めて不快であり、また他から見てもその姿はたいへん格好悪いものと映ります。ところで嫉妬には別の意味があります。広辞苑には①自分より優れた者を妬(ねた)み嫉(そね)むこと、②自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと、の二つが載っています(このような感情を表す字にはなぜか女偏が多いですね)。

 共産主義革命は民衆の嫉妬に基づくなどと言われますが、この場合は①の意味であり、オセロ場合は②の意味でしょう。両者とも暗い感情とされ、決して肯定されたり褒められたりするものではない点で共通しますが、両者は異なるものと考えられます。ここでは①の嫉妬について考えます。

 中には無頓着の人もありますが、多くは自分より恵まれた者、幸運な者に対して妬みや嫉みを感じ、彼らの不運を望む気持ちを抱きます。山本夏彦の言葉であったと思いますが「ひそかに愉しむ友の不運」というように。

 逆に不幸な者、不運な者に対しては、多くの人は同情して、彼らに幸運が訪れるようにと願います。この場合も無頓着、つまり何も感じない人がいるのは前と同じです。ただ両方に対して感じないということではなくて片方だけ、例えば他人の不幸には知らん顔だが妬みだけは強いという人もあり、またその逆もあるでしょう。

 つまり、自分より幸運な者に対しては不運を望み、不運な者に対しては幸運を望むという傾向があるようで、これは自分と他人とが公平でありたいという願望があるためだと考えられます。動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールは「共感の時代へ」の中で次のように述べています。

「人間と動物の利他的行為と公平さの起源については新たな研究がなされており、興味をそそられる。例えば、二匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪いほうサルは課題をすることをきっぱりと拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬ではも、もらえないよりはましなので、サルも人間も利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる。不公平な待遇に異議を唱えるのだから、こうした行動は、報酬が重要であるという主張と、生まれつき不公平を嫌う性質があるという主張の両方を裏付けている」

 生まれつき不公平を嫌う性質はおそらく集団生活をする上で何らかの役割を果たし、そのために備わってきたのだろうと思われます。おそらく嫉妬の感情はその性質に由来するものでしょう(私の推測に過ぎませんが)。イヌには嫉妬が顕著に観察されますが、ネコにはあまり見られません。これはイヌが集団を作り、ネコは単独行動で集団を作らないことにも符合します。

 これも私の推測ですが、嫉妬心をもたない集団では食べ物の分配などに極端な不公平が起こりやすく、より公平な集団よりも淘汰の圧力を強く受けたのではないでしょうか。

 このように不公平さを嫌うものと考えると、嫌われ者の「嫉妬」も集団生活を維持するために必要な性質として見直されてもよいかもしれません。

アメリカン・デモクラシーの逆説・・・書評

2011-01-24 10:42:02 | マスメディア
 現代のアメリカを理解する上で有用な、しかも刺激的な本(岩波新書)です。著者の渡辺靖氏は長年アメリカでフィールドワークをした方で、アメリカ研究や文化政策論が専門。アメリカの社会、政治、宗教などについて驚くような話が満載されていますが、その多くは書名に「逆説」とあるようにアメリカ社会の負の側面です。

 アメリカには様々な問題が山積しているという感がありますが、中でもゲーテッド・コミュニティは興味をそそられます。ゲーテッド・コミュニティとは高いフェンスで囲まれ、守衛が常駐するゲートで外部から遮断されている住宅地のことで、ゲーテッドタウンとも呼ばれます。現在これが5万箇所にまで急増し、居住人口は2000万人以上とされています。そして地域によっては新規計画型住宅の40%、50%にも達するそうです。

「ヨーロッパでは壁が次々と倒れていく時代にあって、ロスアンゼルスのあちこちで壁が作られているのだ」という言葉や、ゲートの中では人付き合いが極めて希薄あるという報告が紹介されています。

 この理由のひとつとしてセキュリティの問題、つまり犯罪数の多さが示されます。80年代以降、アメリカの監獄の収監者は急増し230万人を超え、これは人口比で日本の10倍以上といいます。さらにこの背景には貧富の格差の増大があるとされ、上位30万人の合計所得は下位1億5000万人とほぼ同じであり、また8人に1人はフードスタンプ(食料配給券)の受給者である事実が示されます。

 メガチャーチと呼ばれる大規模教会の急増も注目すべき現象です。中でも規模の大きいものはスモールタウン化し、学校、病院、銀行、ホテル、レストラン、図書館、スケートリンクなどを備えたものがあるとされます。

「そして、ゲーテッド・コミュニティが『新しい中世』の到来を想起させるとすれば、メガチャーチもまた然りである。どちらも新自由主義の過剰によってもたらされた公共性の貧困を補うかのように作られたセキュリティ空間であると同時に、まさにその生成・拡張そのものを新自由主義の論理と力学に負う、極めて逆説的なコミュニティである」

 また、規制緩和の流れの中で、「放送の公正原則」や「公共番組枠の義務づけ」といったガイドラインが撤廃され、それまで規制されていた企業によるメディア買占めが可能になった結果、少数の巨大企業のもとに集中する現象が顕著になったとし、一方でメディアに対する信頼度の低下が示されます。

 社会に於ける個人の問題にも触れています。

「かつてレヴィ=ストロースが『熱い社会』と称したような、社会的・文化的な移動性・流動性・変化が奨励される社会――に生きる個人は、自己と社会との間の絶え間ない緊張感や不確実性を背負わされた存在である」

「個人は、空間軸のみならず、時間軸においても、筋書きのない文脈の中に置かれていった」

 アメリカ社会に特有の問題もありますが、日本の未来の社会にも関係がありそうな問題も少なくありません。アメリカ社会だけでなく日本の社会の現在の変化を理解するためにもきっと役立つ本であると思います。

食糧自給率を金額ベースでという日経社説

2011-01-17 10:08:30 | マスメディア
 1月13日付日本経済新聞の社説は「食糧自給率 本当のところは?」と題するもので、以下のように述べています。

「TPPへの参加を巡る議論で、農業関係団体などの慎重派は食料自給率の低下を根拠の一つに挙げる。農産物の供給をこれ以上外国に頼れば、世界的な凶作などのときに危ない、と。しかし自給率の指標をつぶさに見ると、そうした主張にも疑問符がつく」

として、食糧安全保障を危惧する議論に対し、生産額ベースの食糧自給率を論拠に、以下のように反論しています。

「農林水産省が昨夏発表した2009年度の食料自給率は40%と、08年度より1ポイント低下した。だがこれは供給カロリー(熱量)に基づく数字だ。生産額の自給率で見ると風景は全く異なる。輸入も含めた国内総供給額に対する国内生産額の比率は70%と、08年度比で5ポイント上昇した。
政府の食料・農業・農村基本計画は20年度の自給率目標を熱量で50%、生産額で70%に置く。計画を決めた10年3月には、生産額の目標はすでに達成していたことになる」

 まず疑問に感じるのは食料安全保障に於いて、生産額ベースの食糧自給率がどれほどの意味を持つかということです。飢えないためには1人平均2000kcal程度のカロリーが必要とされます。高級野菜など、いくら高価であっても熱量の低いものでは腹の足しにはなりません。食料危機の場合、重要なのはカロリーベースでの自給量だと思われるのですが、金額ベースの自給率をもって問題ないとする理屈は理解できません。。

 もうひとつの問題は社説の説明には数量的な視点が欠けていることです。食料安全保障は軍事的安全保障と並ぶ最重要の問題であり、どのようなレベルの危機の可能性があるか、その場合にどんな対応が可能か、などをできる限り数量を含めて予測することが必要だと思われます。おおよそのシミュレーションしかできないとしても。

 社説は「ただし食料輸出国の干ばつなどで輸入が極端に細る非常時には、食のぜいたくをあきらめざるを得ない。その場合は完全自給でき、政府備蓄や民間在庫も多いコメなどで、生存に必要な栄養をかなりの程度まかなえる」と述べています。

 「食のぜいたくをあきらめれば完全自給できる」と述べる一方、「かなりの程度まかなえる」という表現は理解に苦しみます。完全自給なら十分まかなえると理解するのが普通です。コメの政府備蓄は約100万トンとされ、これは1ヶ月余りで消費される量であり、民間在庫は季節によって変わるのでいつも当てにできるわけではありません。

 数値抜きで都合のよい条件を並べ、カロリー充足率や賄える期間を示さず「生存に必要な栄養をかなりの程度まかなえる」という説明は十分なものとは思えません。あまり重要でない問題ならこれでもよいでしょうが、食料供給は生存にかかわることであり、「そのうち何とかなるだろう」ではちょっと困るわけです。

 戦後、非武装中立論が大きい力を持ちました。それが有効な議論であるためには他国の脅威はあり得ない、あるいは脅威があっても問題はないという論証が必要でが、残念ながらそれを聞いたことはありません。それと同様、この問題の議論では食料輸入が途絶する可能性、そうなった場合の具体的な対応策を示す必要があると思われます。

 日本のカロリーベースの食料自給率は最低クラスですが、先進国の多くは輸出補助金や所得保障、価格支持などにより農業保護政策をとり、高い自給率を維持しています。経済合理性から言えば安い輸入品で代替するのが得策ですが、そうしない主な理由は食料安全保障にあると考えられます。

 また世界の食料供給の余力は減少傾向にあり、また近年の気候変動の巾は拡大傾向にあるといわれています。国連食糧農業機関の02~04年を100とする食料価格指数は昨年12月には214.7になったそうです。2倍というのは大変なものですが、これは食料の需要増と天候不順を反映したものといわれています。

 世界の食料需給が厳しくなると予想されるなかで、またこれら先進国の政策から外れる形で、日本だけはカロリーベースの自給率が低くても問題ないというのであれば、その根拠を明確に示す必要があります。

 私は食料自給率低下に反対しているわけではありません。意見を持てるほどの知識がありません。しかし、影響力の大きい新聞が十分な根拠を示さずに重要な問題を方向づけようとするやり方には危惧を感じます。

 本来、緻密な見通しの上で判断されるべきことが、声ばかり大きいマスコミの、わかりやすいけれど不適切な論調に流されて判断されることの危険性を感じます。重要なことであっても合理的に決められるとは限らないわけで、以下はその例です。

 猪瀬直樹氏の「昭和16年夏の敗戦」によると、日米開戦直前の夏、総力戦研究所に集められたエリートたちがシミュレーションを重ねて出した結論は日本の敗戦でしたが、それが政策決定に使われることはありませんでした。開戦を方向づけたのは軍部の意思もあったでしょうが、社会の空気といったものが大きく影響したと思われます。新聞はその空気の醸成に大きな役割を果たしました。

JR西日本歴代社長の刑事責任

2011-01-10 10:19:41 | マスメディア
 JR西の歴代4社長が刑事責任を問われるという異例の展開となりました。この背景には、重大事故には事故の大きさに見合っただけの「大物」が責任をとらなければならないという、落とし前の考えがあるように感じられます。

 事故は運転士の速度超過とJRの管理上の過失によって起きたとされます。両者は、一方の責任を多く認めれば他方の責任は小さくなるという関係です。しかしこれまで、JRの管理問題にのみ焦点が当てられ、速度超過はあまり言及されなかったように感じます。

 検察側はJR幹部らは事故は予見可能であったからATSを設置すべきであったという考え方のようです。したがって事故を予見することができたかどうかが争点になります。ここでは運転士の速度超過は予見可能であったか、という点を考えたいと思います。

 予見可能性の有無については明確な基準があるわけではありません。常識的には、将来起きる確率が高いと考えられるものは予見して防止策をとる必要がありますが、確率が極端に低いものは仮に予見できても対策をとることが必要とは限りません。予見できたか、あるいは予見して対策をとるべきであったかどうかは起きる確率に左右される問題だとも言えるでしょう。では事故の最大の原因である運転士の速度超過はどのくらいの確率で起きるのでしょうか。

 電車は制限速度70km/hのところを116km/hで列車がカーブに進入し、脱線したと推定されています。速度は70km/hに対して116km/hですから1.66倍ですが、カーブ通過時に働く横方向の力(遠心力、転覆させようとする力)はその二乗の2.75倍にもなります(カントと呼ばれる線路の傾きは無視しています)。

 制限速度100km/hの高速道路を車で走る場合、1.66倍は166km/hになります。しかし我々の感じる速度差は1.66倍以上になるのではないでしょうか。速度が2倍になれば運動エネルギーは二乗の4倍になり、事故の場合の破壊力も4倍になります。速度に対する我々の感覚は速度の二乗に近いように思われます(私の経験上ですが)。感じ方が運動エネルギーや破壊力に比例するのは合理的と言えるでしょう。

 毎日おびただしい数のバスやトラックが高速道路を走っていますが、カーブで速度超過による転覆事故が起きない理由のひとつは速度差を運動エネルギー差のように増幅して感じる仕組みにあるのではないでしょうか(乗用車は重心が低いので横滑りする可能性が高い)。バスやトラックはハンドル操作があるので電車以上に前方を注視しなければならず、速度計を見る余裕は少ない筈ですが、横転事故がほとんど起きないのは前方のカーブを見るだけで速度の恐怖を強く感じる仕組みのおかげだと思われます。

 したがって1.66倍もの速度超過は極めて稀なケースであり、予見することは非常に困難だろうと思います。もし1.66倍程度の速度超過もあり得ることを前提にすればATSのない高速バスや路線バスなどの運行は危なくて成り立たなくなります。

一方、飲酒運転車の追突によって3人の子供が死亡した06年の福岡の海中転落事故、つい最近の7人が死んだ同じ福岡の池への転落事故、どちらも車両用のガードレールがあれば助かっていたケースです。JR事故はATSがあれば防止できたというのであれば、事故の原因となった運転者の責任と共に、事故を致命的なものに拡大した道路構造の管理者にも責任もあるはずです。車が海や池に転落することを予見できなかったとは言えないでしょう。

 マスコミはJR非難の報道を繰り返しましたが、これが処罰感情を煽ったことは否定できないと思われます。おそらく検察の姿勢にはこのような背景があるのでしょう。これは事故に対する世間(実はマスコミ)の反応によって責任の所在が変わるというご都合主義とも受け取れます。

メディアは中国の軍事的脅威を正しく伝えてきたか

2011-01-03 10:17:41 | マスメディア
 昨年末、12月30日の朝日朝刊一面トップ記事「中国軍が離島上陸計画」に驚かれた方は少なくなかったろうと思います。記事は従来の中国観の変更を迫るものだからです。恐らく記事の狙いもそうなのでしょう。詳しくはasahi.comの記事をご覧いただきたいのですが(そこには中国が管轄権を主張する広大な海域の図も掲載されています)、その要点を以下に引用します。

『空・海から奇襲…中国軍が離島上陸計画 領土交渉に圧力

 【北京=峯村健司】中国軍が、東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々と領有権をめぐって対立する南シナ海で、他国が実効支配する離島に上陸し、奪取する作戦計画を内部で立てていることがわかった。管轄する広州軍区関係者が明らかにした。現時点で実行に移す可能性は低いが、策定には、圧倒的な軍事力を誇示することで外交交渉を優位に運ぶ狙いがあるとみられる。

 作戦計画は空爆による防衛力の排除と最新鋭の大型揚陸艦を使った上陸が柱で、すでにこれに沿った大規模軍事演習を始めている。中国は南シナ海を「核心的利益」と位置づけて権益確保の動きを活発化しており、ASEAN諸国や米国が懸念を深めるのは必至だ。中国は沖縄県の尖閣諸島をめぐっても領有権を主張しており、尖閣問題での強硬姿勢につながる可能性もある。

 広州軍区関係者によると、この計画は昨年初めに策定された。それによると、空軍と海軍航空部隊が合同で相手国本国の軍港を奇襲し、港湾施設と艦隊を爆撃する。1時間以内に戦闘能力を奪い、中国海軍最大の水上艦艇でヘリコプターを最大4機搭載できる揚陸艦「崑崙山」(満載排水量1万8千トン)などを使って島への上陸を開始。同時に北海、東海両艦隊の主力部隊が米軍の空母艦隊が進入するのを阻止するという。
(中略)
 中国政府関係者によると、領有権を争う南シナ海のスプラトリー(南沙)とパラセル(西沙)両諸島のうち、中国が実効支配しているのは8島。ベトナムが28島、フィリピンが7島を支配するなど、中国が優勢とは言えない状況だ。(後略)』

 これを一面トップで報道したのが中国寄りと定評のある朝日新聞であることにまず驚かされます。またこれに関連する記事が『中国の離島上陸作戦で三菱重工に注目の目、来年の活躍期待』という東洋経済オンラインの株情報の記事だけで、後追い記事が全くないというのも意外です。

  この記事は中国の外交が軍事的威嚇による、あからさまな砲艦外交であることを示しており、日本にとって決して他人事ではありません。日本の安全保障に大きく関係する重大事だと思われますが、他のメディアの冷淡さがなんとも不思議です。日本のメディアは歌舞伎役者の喧嘩沙汰や芸能人の不倫などには大変な関心を示すようですが。

 中国の国防費は年率はこの20年で18倍になったといわれていますが、信頼できるとはいえない隣国の軍事的膨張は我国の安全保障にとって極めて重要なことであるにもかかわらず、現在までその重要性にふさわしい報道がされてきたでしょうか。

 2010年度の中国の「軍事費」は公表の「国防費」5321億元(約6兆9千億円)の約1.5倍に上る7880億元とされ、これは日本の防衛費の約2倍です。気がつけばお隣の国はいつの間にか世界第2位の軍事大国になっていたという印象があります。

 一方、日本の防衛費は中国とは逆に、この9年連続で減少しています。この背景にはメディアが近隣国の軍事的脅威を過小に報道してきたことがあるのではないかと疑われます。

 尖閣問題の折、東京で反中デモが数回ありましたが、大手メディアは黙殺しました。恐らくそれは日本の反中国ナショナリズムを刺激することを恐れたためだと考えられますが、産経までも含め、あまりにも足並みが揃っていたので、何らかの圧力が働いたのではないかと勘ぐりたくなります。

 非武装中立論、あるいは平和憲法を守れば平和が保たれるという考えが戦後大きな力を持ち続けました。そこには戦争とは日本からしかけるもので、他国から攻められることはないという非現実的な認識があったように思われます。左寄りのメディアはこのような非現実論を広め、防衛力増強の問題は議論さえも半ばタブー視されるような風潮ができあがりました。防衛力の必要を訴える者は軍国主義者と見られるような有様であったわけです。

 多くの日本のメディアは、他国の軍事的脅威に対して日本が軍事的に対抗する事態になることを極度に恐れてきたように思います。そのため、ナショナリズムを刺激する報道を避け、中国の軍事的脅威を過小に報道してきたのではないか、という疑念が生じます。他国の脅威を過剰に煽るのは危険なことですが、過小に思わせるのも間違っています。

 19世紀の帝国主義を思わせる、軍事力を急膨張させている隣国があり、しかもその国が軍事的威嚇を武器にする外交を目指しているとなれば、安閑としていられる情勢ではないと考えるのが普通です。防衛費を9年連続で減少させて大丈夫なのかと気になります。防衛力の整備は短期間で出来るものではありません。

 かつて多くのマスメディアは北朝鮮を実態を見誤り、「地上の楽園」と喧伝し、それを信じて渡航した数万人の人々の運命を狂わせました(むろん責任は一切とりませんが)。これはメディアが横並びで判断を誤り、重大な結果を招いた例です(この背景には共産主義に対する根拠なき憧憬があったものと思われます)。

 メディアの偏った認識が日本の安全保障の方向を誤らせれば取り返しのつかないことになる可能性があります。今後中国がどのような国になるかを確実に予測することができない以上、予測可能なあらゆる事態に備えることは当然です。この朝日らしからぬ記事は長期の安全保障を考える上で一石を投ずるものと思われます。