噛みつき評論 ブログ版

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パワーシフト理論と日中戦争

2014-11-24 09:09:16 | マスメディア
 南シナ海の南沙諸島で中国が滑走路や軍事用の港湾施設を建設しているようだと、朝日新聞以外の主要メディアは11月21日から22日にかけて報じました。航空基地ができれば戦闘機の行動半径である半径1000km程度の制空権を得やすく、制空権の下に制海権も手に入り、地上軍の輸送や物資補給が可能になるとされます。航空基地の設置は軍事力に大きい変化をもたらし、将来、日本のシーレーンにも影響を与えかねない重要ニュースです。

 このことを理解する上に参考になる記事があったのでご紹介します。産経電子版(11/10)に載った村井友秀防衛大教授の「東アジアの戦争と平和」と題する講演です(村井友秀氏は「失敗の本質ー日本軍の組織論的研究 1984」という高い評価を受けた本の共著者です)。戦争の原因を客観的かつ現実主義的に分析したもので、右翼や軍事マニア以外の方々にも一読の価値があると思います。冒頭部分を紹介します。

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■軍事力の変動から説くパワーシフト理論
 戦争が起こる仕組みをパワーシフトの理論を使って説明したい。この理論は過去500年間に欧州で起きた200件の戦争について言えることだ。 仮に今、Bという国がAという国よりも軍事力の点で優位で、B国がA国に追い付かれそうになっているとする。この状態でB国がA国に仕掛ける戦争を「予防戦争」と呼ぶ。逆にA国がB国をすでに追い越し、追い越したA国が自国の優位を固めるためにB国に起こす戦争を「機会主義的戦争」と呼ぶ。戦争は軍事上、強い方が始める。 予防戦争の例を挙げると、1941年の日米戦争が当てはまる。当時の国力は米国を5とすると、日本は1。それなのに、なぜ日本は戦争を仕掛けたのか。日本の方が強いと思ったからだ。なぜか。太平洋に展開できる海軍力は日本の方が上だったからだ。
■米中間のパワーシフト
今、米国と中国の間でパワーシフトが起こっているといわれている。この理論において、戦争が起きやすい軍事力の差はプラスマイナス20%ぐらいといわれている。圧倒的な差が付くと戦争は起きない。戦争をしなくても圧倒的な差があれば、弱い方は言うことをきくからだ。 米中間のパワーシフトを考える上で重要なのは、どの場所で衝突が起こるかということだ。(米ハーバード大教授の)ジョセフ・ナイ氏は「米中間のパワーシフトは起こらない。今の実力は米国を10とすると中国は1。軍事力が将来にわたって逆転することはない」といった。しかし、この議論は雑だ。これでは日米戦争を説明できない。 これを説明するには、軍事力は距離が遠くなればなるほど落ちるLSGという理論が必要になる。制空権は距離の2乗に反比例するといわれている。 日本周辺の東シナ海、西太平洋でみると、米国の場合、軍事力はあまり下がらない。制空権がなければ制海権はなく、制海権がなければ、上陸(地上戦)はできないとされるが、米国の特徴は、航空母艦を多数抱え、肝の制空権が下がらない点だ。9万トンの空母なら90機、6万トンなら60機の軍用機を載せられる。これは動く飛行場で、9万トンの空母が3隻あれば日本の航空戦力(約200機)に匹敵する。米国の空母は原子力で動くため航続距離も長いから、距離が離れても軍事力はほとんど下がらない。
 続きはこちらに転載されていますのでぜひお読み下さい。
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 理想主義や期待に彩られた議論はあっても、このような現実的、軍事的な分析が一般のメディアに載ることはまずありません。その妥当性はともかく、これは安全保障を考える上で最も基本的なことであり、このような認識を無視して集団的自衛権などを議論してもあまり意味がないと思われます。

 村井友秀氏の話を読むまでもなく、中国が南沙諸島で滑走路を建設しているというニュースは重要ですが、朝日新聞はこれを黙殺しました(23日現在。そしてあろうことか、逆にこの問題に対する中国側の弁明を独自掲載。一体どこの国の新聞なの?)。集団的自衛権行使に反対してきたので、他国の軍事的脅威という都合の悪いことは隠しておきたいのでしょう。必要な事実を過不足なく伝えるというのが報道機関に求められる役割です。相変わらず事実の報道よりも自己の考えを優先する姿勢です。吉田証言などの虚報事件の後も体質は微動だにせず、ですね。「驕る朝日は久しからず」と望みたいところですが、道はまだ遠いようです。

嘘とモラル

2014-11-17 09:29:04 | マスメディア
 セウォル号の沈没事故では関係者による様々な嘘(ウソ)が目立ちました。そういうお国柄もあるのかと思い、「嘘」と「韓国」で検索したところ、いろいろ出てきました。主観的なものが多い中で、朝鮮日報(2012/2/2)の「偽証天国からの脱却には司法妨害罪の導入を」と題する社説は客観的で信用できそうです。その一部を引用します(朝鮮日報の記事は消え、複数のブログなどに転載されていたものです)。

『韓国は法廷で虚偽の証言をする偽証や、他人によるうその告訴・告発により、いわれのない事件に巻き込まれるケースが世界で最も多い。2007年に日本では偽証罪で138人が 立件され、9人が起訴されたが、韓国では 3533人が立件され、1544人が起訴された。 虚偽告訴罪も、日本は133人の立件に起訴が10人だったが、韓国は立件が4580人、 起訴が2171人だった。起訴された人数を基準にすると、偽証罪は日本の171倍、虚偽告訴罪は217倍だ。日本は人口が韓国のほぼ2.5倍であることを考えると、実際は偽証罪が 427倍、虚偽告訴罪は543倍に達する。(中略)
「息を吐くように うそをつく」などといわれるような社会の雰囲気を作り上げているのだ。』

 これは大手紙が社説で韓国の嘘の多さを認めたもので、たいへん嘘に寛容な社会であることがわかります。嘘に対する寛容さは国や文化によってかなり異なるようです。共通の文化を多くもつ北朝鮮も恐らく同じなのでしょう。日本は北朝鮮の嘘に振り回されていますが、彼らにとっては自然なことなのかもしれません。

 嘘は所詮、人をだますものですから良いわけがありません。嘘が「普及」すると互いに信用できなくなって、争いが増え、社会の諸機能に悪影響を与えます。だから多くの社会では子供の頃から嘘は悪しきものと教え、基本的なモラルになったと考えられます。モラルによる規制は、それを破れば良心の痛みが生じるという内的な規制です。嘘の多少はその社会のモラルの反映であると言えるでしょう。

 さて朝日新聞ですが、慰安婦問題と吉田調書に関する虚報、つまりウソがバレて大騒ぎになりました。なぜ国や国民を貶めるような虚報をしたのか、ということについて様々な解説がなされました。その理由を独善や驕りに求めたものが多かったように思います。私はそれらに加えて虚報、つまりウソについてのモラルの低さを挙げたいと思います。

 もし朝日がウソをつくことに良心の呵責を強く感じるような体質であったならば、こんな虚報事件は起きなかったと考えられるからです。少なくともだましたまま30年以上も放置するようなことはできなかったでしょう。

 新聞のウソは巨大です。数千万の国民だけでなく、世界までだまし、しかも是正が困難です。場合によっては戦争の火種にもなり得ます。それだけに新聞はウソについてより厳しいモラルが要求されます。にもかかわらず朝日のモラルがなぜ低いのか、非常に気になる点です。

 ウソについてのモラルが低い点で、韓国と朝日は共通しています。不思議な一致です。朝日新聞は韓国の新聞かと思えるほど韓国側に立つ姿勢が目立ちました。寄り添うあまり、モラルまで韓国に同化してしまったのでしょうか。それとも「類は友を呼ぶ」でしょうか。

84歳の強欲

2014-11-10 09:09:55 | マスメディア
『認知症の高齢女性が、遺産相続を相談していた京都弁護士会の柴田茲行弁護士(84)に6億円相当の遺産を譲るとした遺言書の有効性が争われた訴訟の控訴審判決で、大阪高裁は10月30日、1審・京都地裁判決と同様、遺言書を無効と判断した。志田博文裁判長は「弁護士が女性の信頼を利用して遺言書作成を誘導しており、公序良俗に反する」とし、原告である女性のめいを相続人と認めた。 控訴審判決によると、女性は京都市内で呉服店を経営していた2003年12月、「私のいさんは後のことをすべておまかせしている弁ご士(柴田弁護士)にいぞうします」とする遺言書を作成し、09年に92歳で死亡。柴田弁護士は遺言書に基づき、預貯金など計約5億円と、株式など約9400万円相当の贈与を受けた。 (中略)
作成の約1か月前、柴田弁護士が女性に遺言書とほぼ同じ例文を書面で示して記載内容を誘導したと指摘。「高齢で思考力が低下した女性に弁護士としてなすべき助言、指導をせず、自己の利益を優先した。著しく社会正義に反する」とし、柴田弁護士の控訴を棄却した。柴田弁護士側は上告する方針』(14/10/31 読売オンライン)

 この柴田弁護士は84歳、6億円を何にお使いになるのか知りませんが、その強欲ぶりには脱帽します。本当のことはわかりませんが、一審、二審とも柴田弁護士の敗訴なので「著しく社会正義に反する」という判決を信用するとします。賢い方々が十分に検討された結果でしょうから。

 また、女性が亡くなる前の05~09年、柴田弁護士が女性の預金口座から計約1億7000万円を引き出したと姪側は主張し、返還訴訟を京都地裁に起こして係争中だそうです。先にしっかり使い込んでおられたというわけです。この事件から二つの問題が見えてきます。報道の恣意性と弁護士懲戒の問題です。

 財産を守るはずの弁護士に財産を奪われるのは、救いを求めた警官に強姦されるようなもので、その対比の面白さによってメディアは大きく取り上げるのが常ですが、なぜかメディアの反応は低調です。検索した限りですが毎日は弁護士を匿名で報じ、朝日は黙殺したようです。

 柴田弁護士は左翼の自由法曹団京都支部の結成に加わった人物で、左翼の有力弁護士とされています。市民の自由と人権を守るのが看板です。その看板と今回の事件の鮮やかなコントラスト、美辞麗句と不正義との著しい矛盾。左派メディアにとってはあまり知られたくない事件だとは思いますが、報道の必要性は決して小さくありません。

 84歳になって「著しく社会正義に反する」と言い渡された柴田弁護士ですが、それまでの数十年間、社会正義に反しないことばかりやってこられたとはちょっと考えにくいです。そのような急激な性格の変化は稀だと思うからです。

 柴田弁護士は一審の敗訴から約1年半が経っているのに懲戒処分を受けたとは聞きません。「著しく社会正義に反する」弁護士が堂々と業務ができるわけです。もし弁護士懲戒制度が有効に機能していればこのような事件は防げたかもしれません。

 日本は完全な弁護士自治であり、懲戒は弁護士会だけが行うこととなっています。身内での判断であり、甘くなったり、有力な弁護士には腰が引けたりして公正さが期待できないという指摘もあります。このような弁護士を野放しにしている背景には弁護士自治の問題があるような気がします。

子供の声は騒音?

2014-11-03 09:01:57 | マスメディア
 保育園や幼稚園から発生する「騒音」があちこちで「騒動」になっているそうです。騒音とは子供の声のことです。中には子供の姿さえも見たくないという近隣住民の要求に応じて窓をカーテンなどで遮蔽している保育園もあるそうです(10/30クローズアップ現代より)。

 たいていの生物は子供を大切にします。子供を大切にしなければ子供の生存率は低下し、やがてその種は滅んでしまうからでしょう。一般に哺乳類の子供は親が可愛いと思えるような特徴を備えているとされます。顔に対して大きく愛らしい目、可愛く高い声などです。もし赤ちゃんがおっさんのような低い声で話したら不気味です。

 子供の声も騒音には違いないのですが、それをエンジン音などと同じ騒音と捉えないのは、子供は皆で保護すべきものであり、声はその成長に必要なものだという意識があるからだと思います。

 従って、保育園などの子供の声が紛争の種になるということに少し違和感があります。紛争が多発している背景には子供に対する意識が徐々に変化しているのかもしれません。

 また「保育園が必要なことはわかります。でも、なぜ私の家のすぐ近くに設置するのですか」というのが反対者によく見られる意見です。これは他の場所に設置してくれということと同じ意味です。要するに嫌なものは他人のそばにということで、単なる利己主義です。

 浅草聖ヨハネ教会では食べ物にもこと欠く人たちに炊き出しをしていましたが、「近所に座られると困る」「ごみを落としていく」として地域住民から炊き出しの中止を求められました(*1)。他人が飢えることよりも自分達の美観が大事だと、堂々と主張する度胸の良さには脱帽しますが、自分の権利だけを主張するという点で保育園の騒動と同様です。戦後教育の重要な成果のひとつなのでしょう。

 反対している人たちもかつては子供時代があり、大声を上げて育ってきたわけですから、もう少し寛容になれないものかと思います。番組では保育園と近隣住民が話し合い、協調的な関係が生まれて、問題が解決した例が紹介されていました。良い関係が生まれれば同じ子供の声でも気にならなくなるわけです。逆に関係が悪化すれば声だけでなく姿を見るのも嫌ということになります。音は聞く人の気持ちによって騒音にも快い音にもなるようです。

 公と私のバランスは時代によって変わります。戦前の一時期は、国家つまり「公」に大きく重心が偏りました。戦後はその反省から「私」が強調されましたが、少々やり過ぎたようです。「国のため」という言葉は禁句になった感があります。

「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」

 これはジョン・F・ケネディが1961年の就任演説で言ったことですが、今の日本には新鮮に響きます。もし日本の政治家がこんなことを言えば左派メディアに袋叩きにされるでしょう。あたりまえのことが言えない世の中が出来上がったようです。

(*1)参考記事 教会の炊き出しに反対する住民さま