噛みつき評論 ブログ版

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立花孝志N国民党首の驚くべき本心

2019-09-29 23:24:56 | マスメディア
 以下は9月27日付の共同通信の記事である。そのまま引用する。

 NHKから国民を守る党の立花孝志党首が、増加する世界人口への対応に関し「ものすごくおおざっぱに言えば『あほみたいに子供を産む民族はとりあえず虐殺しよう』みたいな」と発言していたことが27日、分かった。動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開された対談で語った。直後に「やる気はないけど」とも付け加えた。
 ジェノサイド(民族大虐殺)を想起させる内容で、与野党から批判が出る可能性がある。
 日本から貧困国住民への教育支援に疑問を呈し「犬に教えるのは無理。犬に近い。世界中の人間には、それに近い人が圧倒的に多い」などと強調した。
(引用終わり)

 本当なら、公党の党首の発言としてとても看過できないものである。民族を虐殺、犬に教えるのは無理、など一発で政治家としての立場を失うこと確実の発言である(二重括弧内は立花氏の発言で、その前後の括弧内は共同通信記者の作文のように見えるがはっきりしない)。いくら何でもと思い、ユーチューブで検索するとすぐに見つかった。「神谷VS立花-戦争は必然?なくすべき?(第三夜)」
「神谷VS立花-ヒートアップする討論!人間は醜いと教育すべきだ!(第四夜)」である。

 神谷宗幣氏との対談であるが、立花氏の話を一言で言えば支離滅裂である。貧しい国の人たちに対して概略次のように述べる。「彼らには下等な教育をしたらいい。人間とは言えない、猫と変わらない。ご飯をあげたら繁殖するだけ。その人たちを減らそう。言ってきたのは、下等な人間に関してはもう潰してしまうという滅茶苦茶なことよ、やれっていうわけやないけど、ある程度の知識のある人でないとこの地球には残さない。やれと思えへんし、やるべきではないと思うし…自然にまかしたらいいのとちゃう。

 この後、自然にまかせるという意味を神という言葉を使って説明する。疫病や戦争で人間が大量に死滅することを自然の摂理だと言う。戦争が起きるのも神が人間をそのように作ったからだという意味である。ヒトラーもここまでは言わないだろうと思う。

 ばかばかしくて最後まで見る気がしないが、これが選ばれた公党の党首の言葉である事実に驚く。またそれぞれ約500件、700件を超すコメントが寄せられているが、立花氏を批判するものがほとんど見られないのも意外である。少数ならいいが、これが大きな政治勢力になれば恐ろしい。

 この人物を参院選挙で選んだのは我々である。N国の地方区での得票率は約3%であり、泡沫政党とは言えない。その党首の本心が以上のようなものだとすれば、驚くほかない。戦争で領土を取り返すという発言で有名になった同党の穂高議員や同じ会派に属する渡辺喜美議員、28人の地方議会の議員らは党首の考えをはたしてご存知なのかと、気になる次第である。

東電元幹部に無罪判決、東電の罪は他にある

2019-09-22 23:18:31 | マスメディア


 東京地裁は、検察審査会によって強制起訴された東京電力元経営陣3被告に対し、無罪を決定した。妥当な判決であると思う。検察側の主張は被告らは15.7mの津波の可能性を知りながら対策を怠ったというものだが、それが過失というなら防潮堤を管理する国や自治体も起訴されなければならない。防潮堤がより完全なら被害の多くは防げた筈だから。

 検察審査会による強制起訴は、有権者から選ばれた審査員11人が検察官が不起訴とした事件を審査する制度である。民意を反映するために、司法制度改革に伴い導入された。民意を反映するということはポピュリズムに影響されやすいということでもある。かつて強制起訴されたJR西日本の福知山線脱線事故では歴代3社長が無罪となった。事故の第一原因は運転士の非常識な速度超過だが亡くなっている。遺族の方々の無念を思えば、誰かが、できれば偉い人が罰せられないと納得できないという感情も理解できる。しかし法に従って冷静に対処するのが当然である。一方、強制起訴された被告という立場を2度経験することになり、長期間、精神的・経済的負担を強いられる。

 この無罪判決に対し、産経と読売の社説が肯定的であるのに、朝日は否定的である。原発に対する姿勢が判決に反映しているわけである。NHKは判決を不服とする人の「誰が責任を取ると言うのか」と怒る姿を取り上げていた。災害には誰かが責任をとらなければならないのだという姿勢を強調したかったようだ。判決を肯定する立場ではなさそうである。

 判決に対する評価をみると、ある傾向が見て取れる。原発に否定的な新聞やテレビは無罪判決に否定的である。つまり原発に対する考え方によって判決の評価まで変わっている可能性がある。そういう意見を持つのは自由だが、それを判決を否定する側ばかりを取り上げるような印象操作をしながら全国に報道するのは報道ではなく扇動というのが正しい。

 しかし東京電力に過失がないとは言えない。それはむしろ津波後の対処にあると思う。地震後しばらくして津波が到着し、原発は全交流電源を失い、冷却機能が働かなくなって炉心溶融に至ったとされている。この過程はいろいろと調査され、報道もされている。しかし1号機の初動対応の遅れが1号機の建屋爆発につながり、それが他号機への対処にも悪影響を及ぼした事実は、ことの重大性のわりには知られていない。

 ごく簡単に言うと、1号機には電源なして動作するIC(非常用復水器、イソコン)と呼ばれる非常用の冷却装置がついていたのだが、理解不十分のために途中でこれを手動で停止してしまった。直流電源の不安定さから計器が読めないなど、いろいろ事情があったと思うが、絶対にしてはならない過ちであった。停止していることが明らかになったのはICが停止してから8時間経っており、既に炉心溶融が始まっていた。ICが停止してから1時間で燃料棒が水面から露出し、さらに1時間で溶融が始まるそうである。簡単な計算でもわかる、絶対に必要な基礎的な知識である。一部の人は気づいていたが、これが共有されないかったために起きた事態だと言ってもよい。幹部が集まる免振棟でも1号炉の冷却にあまり注意を払っていなかったようである。細心の注意を向けるべきところなのにである。2号機、3号機にも非常用の冷却装置が用意されていたが、こちらも途中で停止し、十分に機能を活用できたか、わからない。

 この1号機の不手際がなかったなら原発事故がなかったとまでは言わないが、相当程度軽減された可能性があると思う。裁判を勧めるわけではないが、東京電力の過失というならこちらの方が適切ではないか。組織の問題や運転員の教育問題など問題点は少なくない。マニュアルはきっちり整備されているだろうが、マニュアルにない不測の事態に直面した時、頼れるのは広範な知識を持つ人間である。

参考記事前編
参考記事後編 -->

憲法学者が教育に口出しすると…

2019-09-15 22:07:43 | マスメディア
 世の中にはある問題に対し、まったく正反対の議論のあることが珍しくない。ゆとり教育では賛成派が押し切った形になったが、その失敗が明らかになるのまでに20年ほどの年月を要し、その間に教育を受けた世代の学力低下という深刻な結果を招いた。少し話が大きくなるが、ソ連で行われた共産主義政党による政治実験は数十年後に終了したが、巨大な悲劇をもたらした。これらは不適切な方の意見を選択した結果である。対立する二つの意見が何故、またどのようにして生まれるのか、興味ある問題である。今回取り上げるのは、大きい問題ではないが、いじめ問題である。それは意見が対立する場合の一般的な要素を含んでいると思われる。

 「いじめ防止対策推進法」に基づき文部科学省が決定したいじめの防止等のための基本的な方針は、学校は児童生徒に対して、傍観者とならず、いじめを止めさせるための行動をとる重要性を理解させる、ことであるそうだ。簡単に言うと、子供に傍観者となるな、ということである。これに対して憲法学者の木村草太氏は子供は傍観者となれ、と主張する。文科省と逆の議論であるが、どうしてこんなことになるのか、彼の理屈を見ることとしたい。

 『いじめ防止対策 権限に応じ大人の責任 子どもに「傍観するな」は見当違い』
これは沖縄タイムスに連載された記事である。木村草太の憲法の新手(110)というシリーズらしく、110番目の記事である。沖縄タイムスに記事を書くということから木村草太氏の思想傾向はお分かりだろうが、朝日にも書き、NHKにも度々出演されて、影響力もある方なのでこの問題を考えてみたい。以下、木村氏の主張の要約である。

『確かに、傍観者がゼロになれば、いじめはなくなるかもしれない。しかし、いじめ解消を子どもの責任にするのはあまりに危険だ。子どもには、学校で何の権限もない。「傍観者になるな」との指導は、責任感ある子どもたちを追い詰めるだけだろう。

 責任は、それを果たすだけの能力と権限がある者に課す。これが法の大原則だ。
何の権限も与えられていない子どもに求めてよいのは、「加害者になってはいけない」ということまでだろう。

 他方、いじめ防止の能力と権限を持った大人は、決して「傍観者」になってはいけない。大人には、それぞれが持つ能力・権限に応じて、果たすべき役割がある。

(1)強制力のない指導で解消するいじめへの対応は、担任や校長の責任だ。

(2)強制措置が必要ないじめは、教育委員会の責任で解消するしかない。校長・担任は、必要に応じて、いじめ状況を教育委員会に報告し、権限行使を促すべきだ。
(*加害者に対する強制的な出席停止処分は、教育委員会の権限とある)

(3)犯罪行為への対応は、警察に委ね、加害者の更生も、児童相談所等の専門機関の関与の下で行うべきだ。

 まず、一見すると論理的な整合性があるように見える。責任は、それを果たすだけの能力と権限がある者に課すとあるが、これは確かに原則である。この原則に基づいて彼はいじめへの対処法を示す。これはしかし原則であって、すべてに適用可能ということにはならない。まず、子どもに傍観者になるなということが必ずしも責任を負わせることにはならない。いじめの加害者に対し、それはよくないよと任意で意思表示をするだけでも効果はあるだろうし、それが責任を負わせることになるとは思えない。いじめの中にはクラスの子供たちだけで解決できる程度のものも多くあると思う。それは教育にも役立つだろう。

 木村氏はいじめを3つに分ける。担任や校長の責任である指導で解決するいじめ、強制措置の権限をもつ教育委員会の責任で対処するいじめ、警察が対処する犯罪行為になるいじめ、である。確かに明快である。しかしこんなに明確に分けられるものかと思う。そして最も多数を占める軽いいじめを担任や校長の責任で解決しようとすれば、忙しい担任や校長の能力を超えてしまうのではないか。

 傍観者になるな、という考えはこの多数であるが比較的軽いいじめに対処するのに有効な方法だと思われる。我々が街中で列の割り込みなどのマナー違反を見つけた時、木村氏はあなた方には何の権限もないのだから傍観者でいなさい、というのだろうか。マナー違反を注意する行為は僅かな危険を伴うが、称賛されるべきことだと思う。皆が保身を優先し傍観者で知らぬ顔よりはよほどいい。マナー違反への注意を奨励しても、責任を負わせることにはならないと考えるのが常識である。傍観者になるな=責任を負わせる、にはならない。一見、論理的に見えるが現実には誤りであると言ってよい。

 この議論に特徴的なことはいくつかある。いじめの分類が実態を反映していない。教員のキャパシティーなど現状に対する理解が足りない。いじめの内、2つの分類を強制的な処分で解決しようとしているが、これは教育の問題であり、すべて罰で解決できるほど単純な問題ではない。木村氏の考えからは罰などの処分で対応しようとする強権的な匂いすら感じられる。

 木村氏の論理自体に問題はない。しかしいじめ、責任、能力、権限、といった概念が単純化され、概念と現実との乖離がみられる。様々な概念があるが、どれも現実を正確に反映するわけではない。そもそも概念が正確であると考えることが誤りである。数学や物理学で扱う、厳密に定義された概念とは違うのである。木村氏のいじめの分類で見たように分類でさえ簡単にはできない。

 現実をよく理解せず、単純化した概念を用いて論理を進めるととんでもない結論が出ることがある。二つの意見が対立する場合、一方が現実を正確に把握していないことが対立の理由になることは珍しくない。木村氏が頭で描くいじめとは恐らくメディアで報じられるような悪質ないじめなのであろう。現実のいじめはもっと幅広いものであると思う。彼はこの出発点で誤り、文科省とは逆の結論を出した。このような例は机上の空論ともいう。木村氏は実によい見本を提供されたものと思う。感謝しよう!

韓国の暴走、その4 韓国的非寛容

2019-09-08 22:34:11 | マスメディア
 罠にかかったところを優しい翁に助けられた鶴が、人間の娘の姿になり、自分の羽根を抜いて美しい織物を織り、老夫婦に恩返しをする。

 これはご存知「鶴の恩返し」のあらすじである。動物の恩返しは我々の心を打つ。それは忘恩行為が世に多いことの裏返しでもあろう。「犬猫も3日飼えば恩を忘れず」という言葉もあるように「恩返し」は多くの物語のテーマになってきた。逆に「恩を仇で返す」というように、恩知らずや裏切りもまたひとつのよく使われるテーマである。恩返しも恩知らずも人間にはよくあることである。ただそれらは同じ人間に共存するというより、それぞれを得意とする人間がいると言うべきだろう。受けた恩を生涯忘れない人もいれば、3日で忘れる人もいる。

 韓国の大統領の末路は逮捕・投獄や自殺に追い込まれるなど、尋常ではない。まさにそれが伝統でもあるかのようである。世界広しと言えども、こんな国は珍しいのではないか。どんな大統領でも悪いことだけではなく、よい仕事もしていただろう。量から言えば功績の方が圧倒的に多いに違いない。元大統領が功績を評価されず、投獄されても韓国社会は強い異議を挟まないようである。むしろ元大統領を糾弾するのは国民のように見える。元大統領に恩を感じる人が少ないのだろうか。裏に反対派の策動があったにしても、国民多数によるローソクデモによって朴政権は倒れ朴槿恵元大統領は投獄された。

 日本の朝鮮統治時代、日本は悪行ばかりやったのではない。数千の学校を建て、識字率を向上させ、道路、鉄道、ダムなどのインフラの整備にも多くの実績を残したとされる。三・一独立運動の鎮圧など厳しい面もあったが、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPが4.10%という高成長であり、35年間の統治時代に人口は併合時の約2倍となったことを考えると、経済的にはかなり豊かになったと言える。日本は悪行ばかりとは考えにくい。欧米諸国の収奪的な植民地政策に比べてもかなりマシなのではないか。

 前大統領に対する過酷な仕打ちと数十年に及ぶ執拗な反日感情、両者には共通のものがあるのではないだろうか。韓国大統領にも、朝鮮・韓国に対する日本にも、功もあれば罪もあるだろう。功に比べ罪が十分小さければ、普通はまあいいかとなる。ところが韓国の国民は極めて厳格で、僅かな罪も許さないようである。反日は政治的な思惑などによって強められてきたが、その底には功には目を向けず、罪ばかりに注目するという性向があるのではないか。カエサルの寛容(Clementia Caesaris)あるいはローマ的寛容、という言葉があるが、韓国的非寛容とでも呼ぶべきか。とにかく、付き合いの難しい国である。

韓国の暴走、その3

2019-09-01 22:15:22 | マスメディア
 今、テレビでは韓国モノをやると視聴率が稼げると言う。そういう私もつい興味をそそられて見てしまう。その背景には長年にわたって、日本側から見れば理不尽とも思える要求が続いてきたという苛立ちがあるのだろう。その結果生まれた嫌韓感情が現在の同国への興味につながっているのではないか。好ましいことではないが、テレビの集中報道によって韓国に対する嫌悪感はより強くなるかもしれない。

 文在寅大統領の「一度反省を言ったので反省は終わったとか、一度合意したからといって過去の問題が、すべて過ぎ去ったのだと終わらせることはできない」という発言も各メディアで取り上げられた。これは言われているように、大統領自らが合意の無意味を宣言しているようなものである。つまり韓国との今後の合意も問題の解決になり得ないとという意味になる。合意は約束と同じで、その反故は合意がウソであったことになる。いくらウソの多い国柄だと言え、これからもウソをつきますよという宣言であり、大統領の発言としては耳を疑う。まあ、この発言だけはウソでないようだ。

 GSOMIA破棄の際には米国の理解を得ているとしていたが、実際は米国の意向を無視し、怒りを買った。理解を得ているはウソであったようだが、米国の反応も読み違えた可能性が高い。文政権は日韓の関係を決定的に悪化させ、米国との関係も危うくなっている。さらに、バカにされながらも卑屈に北朝鮮にすり寄っている。文政権は日米を信頼せず、北朝鮮や中ロを信頼しているようだ。なんとも不思議な判断である。韓国を危険な方向に導いているように見える。なぜ、こんなことが起きるのか、大変興味ある問題である。

 文在寅大統領は先を見通す能力が大きく欠けているのではないだろうか。先を見通す能力は現状を正しく認識することが基礎となる。現状認識能力が狂っていては見通しもおかしくなるのは当然である。現状認識能力を損なう最大のものは夢想、妄想であろう。それを引き起こす代表的なものはというと宗教や思想である。逆に言うと、冷徹に現状を認識できる目を持つものは宗教や思想にかぶれることは少ない。つまり宗教や思想に走る者はもともと現状を冷静に認識する能力が低いともいえる。

 文在寅大統領と鳩山元首相の類似、どちらも夢見る人だと前に述べたが、鳩山氏が夢から覚めて、まともになるとは誰も期待しないだろう。夢見る人は死ぬまで夢見る人であることが多く、転向者はごく限られる。現在、政治的な左右の対立は夢見る人と現実を見る人との対立と見ることができる。この構造が数十年変わらないのはそれぞれの支持者が固定されていることを示す。つまり夢見る人か現実を見る人かは生来の気質に関係している可能性が高い。

 このように考えると文在寅大統領が現実に即した合理的な政策を選ぶ可能性はあまりないと思われる。韓国の国益を損なう可能性の高い大統領とその周辺を国民がいつまで放置するかが焦点になる。これを左右するのはメディアであり、メディアが冷静に判断し文在寅大統領を交代させられるか、あるいは大統領と一緒に夢を見るか、注目したい。かつて圧倒的な支持をもって鳩山氏を首相にした日本と日本メディアにとっても、他人事と傍観することはできない。さらに民主主義の危うさ、不完全性も問われることになろう。