噛みつき評論 ブログ版

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外交問題を感情で解決したい朝日新聞

2009-11-30 09:00:03 | Weblog
 普天間基地の移設が外交・防衛の問題として注目を集めているさなか、11月11日付の朝日新聞の天声人語は以下のように述べています(要約)。

 『ある日、沖縄戦後の日本人収容所の前に男が現れ「残った者が元気でないと死んだ人が浮かばれぬ。命(ヌチ)のお祝いをしよう」。だが、命のリレーはままならず、彼らの子どもらを再び悲劇が襲う。市立宮森小に米戦闘機が落ち、児童11人を含む17人が死亡、200人超が負傷して50年になる。戦争で踏みにじられた後も、この島は異国の戦に酷使されてきた。度重なる墜落事故や性犯罪で流された血涙は、同盟のコストといった乾いた言葉ではくくれない。普天間飛行場の問題も積年の我慢と怒りの先にある』

 「度重なる墜落事故や性犯罪で流された血涙」「積年の我慢と怒りの先にある」。激しく感情に訴えるという点では見事な、煽動文の模範のような文章なのですが、複雑な外交・防衛の問題が議論されているとき、50年前の事故まで出して沖縄の犠牲を感情に訴えるような新聞記事は果たして適切でしょうか。沖縄の犠牲を軽視するつもりはありませんが、犠牲をあまりに強調すれば、冷静さを奪い、最終的に判断を誤るという懸念があります。

 外交・防衛は重要かつ難しい問題で、周辺諸国との将来の関係まで見通すことが必要です。関係諸国の将来にわたる政治的安定性や方向性の変化、軍事力の変化などの予測が判断の要素になるでしょう。多くの要素のそれぞれにウエイトつけをする必要もあります。詳しいことはわかりませんが、一時の感情によって素人が判断していいような簡単なものでないことだけは確かだと思います。

 感情に訴えることにより政策への影響を意図することは、この新聞では珍しいことではありませんが、複雑な問題に感情的なバイアスを与えることによって生じる危険をきちんと予測しているのでしょうか。個人的な署名記事ならまだしも、公器を自称する新聞の一面に掲載されるのは疑問です。コラムといっても署名はなく、朝日新聞の意見として受けとられる可能性が高いと思われます。

 この記事は基地の県外・国外移設を主張する人々を勇気付けることになります。その延長線上には米国との緊張状態が生じることも考えられます。まあそうなれば朝日は中国に感謝されるでしょうが。

 「反日」というレッテルを何枚も貼られている朝日新聞がどんな意図を持っているかは知りませんが、政治に影響が及ぶ煽動記事は、中立を看板に掲げた公器としてふさわしいものとは思えません。逆に冷静な議論を呼びかけることが公器の役割です。このような泥臭い姿勢は洗練されたジャーナリズムとは言えません。

 一昨日(11/28)の朝日夕刊の記事「昭和史再訪」には第一次石油危機について書かれています。トイレットペーパーの買付け騒ぎによって店頭から商品が消えつつあるとき、朝日は「2年分を買いためた主婦を大きな写真入で掲載した」と恥じることなく紹介しています。

 どのような色付で書いたものかわかりませんが、普通に書けば騒ぎを促進する方に作用するのは明らかです。まあ報道の結果に責任を持たない姿勢はブレていませんけれど。

 天声人語といえば元執筆者・栗田亘氏が「新聞社の方針」に基づく記事の作り方について興味深い「告白」をされています。(参考拙記事 「街の声」の欺瞞)
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マスコミが幸福感を蝕む

2009-11-27 09:19:09 | Weblog
 温暖な気候と四季の変化に恵まれた自然条件、犯罪の少ない安全な社会、世界の中では高水準の所得や医療体制、トップレベルの平均寿命、これらは日本の特色と言えるでしょう。国連開発計画(UNDP)が発表した国民の豊かさを示す指標では、09年日本は8位から10位になったものの、まだまだ上位にランクされています。

 イザヤ・ベンダサンは「日本人は水と安全はタダだと思っている」と言いましたが、これは世界における日本の恵まれた状況を表しています。灼熱や酷寒の国、生命が危険にさらされている国、世界には厳しい条件の国がいっぱいあります。

 ところがOECDのFactbook2009によると、日本人の主観的幸福度は34カ国中、下から9番目という低さです。ヨーロッパ諸国が上位を占めるのはわかりますが、日本はロシア、韓国、ブラジルにも及びません。また別の調査もあります。

 「33カ国の人に、自分の国の評判はいいと思うか、と自己採点してもらった。すると困った日本。最下位である。ロシアも中国も南アもみんな上だ」。

 これは10月9日の毎日新聞「発信箱」の米レピュテーション・インスティテュート社の調査を紹介した福本容子氏の記事です。記事中の「自分の国の評判はいいと思うか」というのは他国から見た評判と誤解しそうな表現ですが、自己採点とあるので、日本人は日本国をもっとも低く評価しているという意味だと思われます。

 これらの調査結果は、日本は主観的幸福度も、国に対する評価もたいへん低いということを示しています。この両者は密接に関係していると考えられます。

 国民の豊かさを示す客観的な豊かさの指標と主観的な幸福度・国に対する評価になぜこんなに大差があるのか、実に不思議です。主観的な幸福度は言語の差もあって、所得統計などに比べると客観性に劣りますが、それでもこの大差は注目に値します。

 日本の経済が低迷する一方、貧困率が高くなり、閉塞感が社会を覆っている。腹黒い官僚や大企業が甘い汁を吸い、正直な一般国民は割りを食わされている。こんなイメージが広く浸透しているのではないでしょうか。

 多分、十数年前の国による国民生活調査だったと思いますが、国民の幸福感は景気の悪いときに上昇し、逆に景気の良いときに下がるという結果が出ていました。これは景気の悪いときには暗い話が多く報道されるために、自分の境遇が比較的恵まれたものに感じられることから説明できると思います。他人の不幸は蜜の味というわけです。景気の良いときは逆のことが起ると考えられます。

 幸福感は絶対的な生活水準によって決まる部分もありますが、相対的に決まる部分が大きいと思われます。自分自身の過去との比較、周囲の人間との比較、他国との比較によって規定されるわけです。それに加え、我々がどんな国、どんな社会に住んでいるかという認識も大きい要素だと思われます。

 我々が社会の状況を直接認識している部分は僅かで、大部分はマスコミ報道を通じた認識です。つまり我々が認識しているものの大部分はマスコミが制作したイメージです。例えば治安の問題では、犯罪が大きく減少しているにもかかわらず、そのような報道はほとんどされません(関連拙記事)。

 教育や福祉の問題では、常に引き合いに出されるのはフィンランドやスウェーデンといった最上位の国々であり、日本の「惨めな」状況が語られます。不幸の多くは国の施策の問題とされますが、そこではこれらの国の国民負担率が70%前後であることはあまり触れられません。

 食品偽装が問題となったとき、不安を煽る過熱報道が続き「いったい何を食べたらよいのでしょうか」といった食への不安が国全体を覆いました。ところが実際のリスクは交通事故などに比べると遥かに小さいものであり、海外では日本の食品は高価でも買われているように高い安全性が認められています。

 政府や企業に対する非難を繰り返し聞かされる読者は政治や社会に対する信頼性を徐々に失います。それは国に対する低評価の要因となることでしょう。

 すべてとは言いませんが、客観的な条件に比べ幸福感が異常に低い大きな理由はマスコミの姿勢にあると考えられます。自民党は選挙で大敗を喫しましたが、敗因のひとつはマスコミが長年ばら撒いてきた不満の種がついに結実した結果であると考えることができます。

 先に紹介した毎日新聞の記事には「(日本が最下位なのは)日本の新聞が悪い事ばっかり書いてるせいか。(中略) 悪い悪い病に益なし。復元の自信も勇気もまひさせる。もういいとこ目覚めましょ」と「自己批判」しています。でも福本氏のような人はごく少数で、大勢は「悪い悪い」と報道することが使命と心得ているようです。

 あたりまえのことですが、幸福感を高めることは最大の目標のひとつと言ってもよいでしょう。経済の豊かさが一定水準あるとき、幸福感の重要度は言うまでもないと思います。「悪い悪い」と言い続け、幸福感をひたすら下げる仕事は、すなわち国民を不幸に陥れる仕事であり、まことに罪深いことと言わねばなりません。

 マスコミは幸福度が低いことをまともに取り上げることすらしませんが、自らの報道のひとつの結果として、真面目に受け止めるべきでしょう。

 是は是として褒めることも必要です。非を指弾するばかりでは「坂の上の雲」はどこにも見えず、暗い日本の未来が見えるばかりです。
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仕分け人の態度と監獄実験

2009-11-23 09:51:28 | Weblog
 相手の言葉を平気でさえぎる、質問に対する簡単な答え以外の発言を許さない。事業仕分けのテレビ映像には、容疑者に対する訊問と見紛うような光景が見られます。このところの官僚バッシングを素直に信じ、官僚を悪と考える人たちにとって、仕分け人はたいへん頼もしく映ることでしょう。民主党の支持率が落ちないところを見ると素直な人が多いのかもしれません。

 一方で専門知識があるとは思えない人が極めて短時間に判断をするのを人民裁判にたとえたり、人気取りのための政治ショーと見る向きもあります。まあこちらの方があたっているように感じます。

 まあそれはともかくとして、私には仕分け人達の傲慢とも思える攻撃的な態度が印象に残りました。訊問された側の人たちはかなりのストレスをため込んだことでしょう。ところで、仕分け人となった人たちは元々あのような「非紳士的」な方々ではなかったと思います。なぜあのように変身したのか、手がかりになるのがスタンフォード監獄実験と呼ばれる心理学の実験です。

 1971年、スタンフォード大学で行われたもので、一般募集で集められた21人を看守役と受刑者役にわけ、2週間の予定で模擬刑務所内でそれぞれの役を演じることになりました。ところが看守役が凶暴化し、危険な状態になったため、実験は6日目で中止せざるを得ませんでした。演じる筈が実際の刑務所のような状況に陥り、看守役は囚人役を虐待し、禁止されている暴力まで振るって、囚人役は精神的にも危険な状況にまで追い詰められたとされています。

 実験の結果として、強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまうことが示されました(Wikipedia)。またこの実験からは、演じる人間がその役にふさわしい人間に変化することが読み取れます。役へのはまり具合には個人差があったようで、これは本来の人格が影響していたのでしょう。役に適した人はより過激に演じたものと思われます。

 とすると仕分け人たちの攻撃的な態度は主として「役」を演じたことによって出来上がったものかもしれません(むろん元々の人格の影響は少なくないでしょう)。悪しき官僚を成敗するというシナリオを誰が用意したのかは知りませんが。

 一方、こちら裁判員制度の話です。裁判員のなかには、被告を諭した、あるいは被告を叱った、などという言動が見られるように、ここには被告に対する裁判員の優越意識が感じられます。上からの目線といってもよいでしょう。

 裁判員は一般の人ですが、裁判が開かれる数日間だけは被告の運命を左右する権力をもっています。判事の「役」が優越意識をもたらしたと考えてもよと思います。

 裁判を経験した裁判員に対するアンケートでは「良い経験と感じた」が97.5%と圧倒的多数を占めるそうです。むろん裁判員制度を壊さないための裁判所の配慮も影響していると思いますが、肯定的な評価の裏には、演じた「役」が不愉快なものでなかったことがあるように感じます。

 上のスタンフォード大学の実験では、囚人役が報酬を返上してでも中止を望んだのに対し、看守役は続行を求めたそうです。僅かな期間であってもやはり権力は蜜の味なのでしょうか。

*ドイツ映画「es(エス)」はこの実験を元に作られました。
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砂上の楼閣

2009-11-20 10:36:40 | Weblog
砂上の楼閣

 先日、京都の知恩寺で恒例の古本祭りが開催されました。広い境内には多くのテントが設置され、幅広い年齢層の客で賑っていました。興味を惹かれたのは古ぼけた仏教関係書が置かれた一角です。分厚い本が多く、数千点はあろうかと思われるその量の多さに驚きました。

 むろん、ここに展示されている仏教関係書は一部であり、他にも多数ある筈です。多くはこの100年くらいに書かれたものでしょうが、著作のために使われたエネルギーはまことに膨大なものです。それを経済的に支えたものは多くの信者であったことでしょう。私のような門外漢にとって、それは同時に膨大な無駄の集積と思われます。

 いかに精緻な論理で構築されたものであっても、それが妄想の上に築かれたのであれば砂上の楼閣に過ぎません。妄想を持たない者、異なる妄想を持つ者にとってはなんの意味もありません。一般に仏教書が無心論者やキリスト教徒にとって意味を持つことがないように。つまり教義はその宗教内でだけ意味があるローカルなものにならざるを得ません。

 中世のキリスト教神学者トマス・アクィナスは神学大全を著し、キリスト教世界に大きな影響を与えた人物とされていますが、彼は死ぬ前年、自分が生涯、命を懸けて書いたものはすべて藁くずにすぎない、と述べたと言われています。

 世界には数多くの宗教があり、さらに多くの宗派があります。それぞれが正統を主張している姿は外部の目からは滑稽なものに映ります。正統がいくつも存在することは論理矛盾であり、ひとつだけ正統があるとすれば他はすべて嘘を言っていることになります。

 なぜこのようなものに夥しい努力が払われてきたか、というところに私は興味を惹かれます。仏教といっても多くの宗派があり、それぞれに教義があって、さらにそれらに対して複数の解釈がなされる、といった具合に対象が分散してきたことがひとつの理由でしょう。

 宗派が多くあるということは中核にあるものが曖昧で、いろんな解釈が可能ということを示しています。さらに言葉の定義の不完全性が考え方の違いを生むこともあったかもしれません。結局、数多くのローカルな袋小路が作られ、空しい努力が続けられたのでしょう。科学が高い普遍性を持ち、有効に機能していることと対照的です。

 出発点を十分吟味せず、論理の展開にばかり心を奪われるという傾向は宗教に限りません。どうやら我々にはそのような性質が備わっているようです。世に不毛な論争が絶えないのはそんなところにもあるのかもしれません。

これは蓮実重彦元東大総長の入学式式辞(1999)とも通じるように思います。
「そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです」

 難解なものは深遠で価値あるものだ、とわれわれは考える傾向があります。わざと難しく書かれた文章、聞いてもさっぱりわからないお経など、その傾向につけ込んだものと言えるでしょう。また空疎な内容を隠すために難解にしているということもあります。難解なものには空っぽなものが少なくないと疑ってみることも必要でしょう。

 難解なものを理解していると人に思わせることは知的な装飾品を身につけることでもあります。難解な数学用語を多用した理解困難な文章が特徴であるフランス現代思想、ポストモダニズムは知的な装飾品といった趣があります(リチャード・ドーキンスは高級なフランス風エセ学問と呼びました)。その「装飾性」が普及に一役買っていることは間違いないと思います。

 ふつう物は高いほど売れにくくなりますが、宝飾品などは高いほど売れる場合があります。これは顕示的消費、ヴェブレン効果などと言われていますが、難解なものが普及する現象と少し似ています。

 ニューヨーク大学物理学科教授のアラン・ソーカルがフランス現代思想の欺瞞性を暴露した「ソーカル事件」はたいへん興味深いものです。
(参考) Wikipedia ソーカル事件
    アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著 『「知」の欺瞞』

 このように砂上の楼閣が築かれる理由はいろいろあり、それに向けた努力はなかなか絶えそうにありません。
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新聞の科学リテラシー

2009-11-16 11:22:41 | Weblog
 電気自動車は環境負荷が小さいということで、脚光を浴び、新聞にもその解説記事は数多く見られます。11月2日の日経には「転換点の自動車産業」という編集委員によって書かれた記事が載りました。そこにガソリンとリチウムイオン電池のエネルギー密度を比較する記述があります。

「ガソリン1リットルが持つエネルギー量は電力換算で9300ワット時。これに対し、電気自動車に搭載されるリチウムイオン電池は同体積で200ワット時しかないエネルギー密度の差は航続距離などクルマの性能を規定する」→(エネルギー密度の比は46.5倍と計算されます)

 ガソリンエンジンと電池のエネルギー効率を無視しているので、この説明は誤りと言ってよいでしょう。ガソリンを燃やしてできるエネルギーは9300ワット時で正しいのですが、ガソリンエンジンは20%程度の効率しかなく、残りは熱となって無駄になります。それに対し、電池でモーターを駆動する場合は90%以上の効率が期待できます。

 従って両者の比較は9300と200ではなく、それぞれに効率をかけた1860と180とで行わなければなりません。実用的なエネルギー密度の比は約10.3倍となり、46.5倍とは大きな違いが生じます。

 私はここで日経新聞や記事を書いた編集委員(=優秀な人?)の揚げ足を取りたいわけではありません。この程度の科学の基礎知識のなさはどこの新聞社でもほぼ共通しているからです(私の印象では日経は他紙よりマシです)。これは新聞の理解力を象徴する事例として挙げただけです。

 理科の時間が約半分に減らされた「ゆとり教育」世代が社会に多くを占めるとき、この懸念はさらに強くなると思います。NHKのクロ現では、ゆとり教育を受け理科を十分理解できなかった教員が生徒にうまく理科を教えられないという問題を扱っていました。科学的理解力の低い人間の再生産が起こっているわけです。

 理科を軽視したゆとり教育を主導したのはきっと科学的理解力の低い連中であったのでしょう。またゆとり教育に対して有効な批判をし得なかったメディアにも同じことが言えると思います。教育という極めて重要なものが無知によって曲げられることはたいへん残念なことです。それにしてもこの時代に、理科の時間を半減するという無茶なことがどうして生まれたのか非常に不思議です。

 東京女子医大事件では「物理学の初歩もわきまえてない」と検察が強く批判されましたが、検察の低学力が重大な結果を招いた例です。

 50年前なら政治やマスコミは中学生レベルの科学的理解力でも十分であったでしょうが、現在はエネルギー、環境、教育、産業など科学的な理解力が必要な分野は数多く、支配的・指導的な部分を文系の人間がほぼ独占する旧態依然の体制では十分な対応ができるか疑問です。

関連記事:電動アシスト自転車の補助動力への誤解

(09/11/17 お詫びと訂正) 訂正前の記事ではエネルギーの単位を「ワット」とすべきであるとしたのですが、それは私の間違いで、「ワット時」が正しい単位です。
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「申告漏れ」という軽さ

2009-11-12 09:04:20 | Weblog
 「申告漏れ」という言葉はうっかりして漏らしたという響きがあり、意図的・積極的に税を逃れるという意味は感じられません。軽い響きの言葉に呼応するように、大勢の方々が「漏らして」いらっしゃるようです。

 今年6月までの1年間に税務調査を受けた法人の申告漏れ総額は1兆3255億円。業種別で不正発見割合が多かったのは7年連続1位のバー・クラブ(56.1%)、2位パチンコ(46.4%)、3位は廃棄物処理(37.0%)の順です。大阪国税局では12年連続でパチンコ業が1位を守っているそうです。はたしてこれらは「うっかり漏れ」なのでしょうか。

 かつては金融業も上位の常連であったのですが、グレーゾーン金利が否定されてから元気がなさそうです。申告漏れ法人とは別ですが、代わって目立ったのが一部の弁護士・司法書士です。調査対象804人の内、697人(86.7%)に申告漏れがあったとされています。不正発見割合は上記の上位3業種に比べても全く遜色ない「成績」です。

 その背景には消費者金融への過払い金返還請求がおいしいビジネスとなった事情があります。債務者への返還・取消し額は大手4社だけで5200億円(07年度)といいますからたいした金額です。金融屋が取っていた金の一部が弁護士と司法書士のポケットに移ったわけですが、元々この金は借りた人達から集めたものです。

 調査対象を選ぶ基準が同じでないかもしれませんが、法曹の一角がこのように最上位を占めることにはいささかの「感慨」を覚えます。調査対象だけで言えば「漏れまくり」状態です。「法」を商売のタネにしている方々ですが、税法には少し弱いようです。

 私が子供の頃、「弁護士って、どんな仕事をするの」と父に尋ねたことがあります。父は「弁護士とは曲がったものを真っ直ぐに見せる仕事をする人たちだ」と答えました。

 ということもあって、弁護士に対し高いモラルを期待しているわけではありませんが、この「成績」は想像以上です。これでは業界のイメージが損なわれ、真面目に仕事をしている人達がやりにくくなるのではないかと、他人事ながら心配になります。

 今をときめく脳科学者の茂木健一郎氏は約4億円の無申告が発覚しました。こちらは申告漏れではなく、もともと茂木氏の脳から「納税」という機能が漏れていたようです。

 深夜の公園で裸になった草薙剛氏は逮捕されただけでなく、社会的制裁を受けました。その片棒を担いだのはマスコミの大報道です。それに比べると茂木氏の件の報道は遥かに小さく、社会的制裁も僅かです。さて、どちらが悪質だと思われますか。

 他人の不正行為には苛酷なまでの厳しさを見せるマスコミですが、申告漏れ、つまり所得隠しに関しては何故か不思議なほど寛大であります。この疑問を解く鍵は以下の事実に・・・。

  朝日新聞09年2月 所得隠し約5億1800万円
  毎日新聞08年5月 所得隠し約4億円
  読売新聞07年4月 所得隠し約4億7900万円
   ・・・・・・
   ・・・・・・
    (以下略)

 「罪なきものは石もてこの女を打て」は聖書の一節ですが、さすがのマスコミも砂粒を投げるのが精一杯、というところでしょうか。
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マスコミが財政破綻を招く

2009-11-10 09:18:18 | Weblog
 11月4日の衆議院予算委員会で、斉藤鉄夫氏の質問に対し、管副総理は財政健全化の道筋を示す中期財政フレームを来年4月以降にまとめる、時期は来年の5、6月あたりを念頭においている、という意味の答弁をしました。

 現在の財政の深刻な状況を考えると、この中期計画の発表時期を明らかにしたことは極めて重要なことだと思います。信頼のおける中期的な財政再建計画の必要性はOECDの対日審査報告書(2009年版)でも指摘されているとおりです。

 しかし、この答弁は日経が小さく報道しただけで、他はほとんど取りあげていません。報道をしないということはマスコミが財政の継続性に対して危機感を持っていないことを示しています。それに対し国民の多くはある程度の不安感を持っているようですが、増税を受け入れるまでの認識があるかというと、ちょっと疑わしいと思います。

 大きく報道すれば政府に強い言質をとることができ、これ以上の先延ばしを避ける効果が期待できると思うのですが、マスコミの無関心ぶりをみるとあまり期待できそうにありません。また斉藤鉄夫氏の質問も意味もなくなります。

 財政破綻が避けられるかどうかは、櫻川昌哉慶大教授がアゴラの『財政の「破綻確率」』に書かれているように、増税という不人気政策が実施できるかどうかによって決まると言ってよいでしょう。増税は選挙の敗北をもたらすほどのインパクトがあることは数度の経験によって明らかになっており、それを避けたいがために財政規律が失われてきたという経緯があります。選挙対策のための、たび重なる先送りが現在の巨大借金を生んだと言えるでしょう。

 大平内閣が一般消費税を導入しようとしたときの、マスコミの激しい反対はいまだに忘れられません(結局、一般消費税は断念されました)。当時のマスコミがなぜ間接税にあれほど反対したのか、理解困難です。間接税の是非よりも、政権批判と読者への迎合による感情的な反対論が大多数であったと思います。

 増税が可能となるためには国民が増税の必要性を理解することが条件になります。国民の理解が得られるかどうかはマスコミの報道次第だと思います。マスコミが増税の必要性を説き、地ならしをすることが必須条件です。それは同時に危機感の薄い政府の認識をも変えるという効果を持ちます。

 民主主義の国では短期の人気取り政策に傾きがちで、長期を見据えた痛みを伴う政策は先送りになりやすい傾向があると言われます。必要であるけれど痛みを伴う政策が実施できるかどうかはその国のマスコミの見識に左右される問題でもあります。

 日本が先進国中、突出した額の政府債務を作り上げたのは、バブル崩壊という個別事情があるものの、マスコミの見識の低さ、長期的視点の欠如が関係しているのではないかと考えられます(バブル崩壊に見舞われたのは日本だけではありません。ついでながらバブルが巨大化したのには「財テクしない者は無能」と言わんばかりにバブルを煽ったマスコミの関与があります。バブルの成長は集団心理に深く関わるものですから)。

 中期的な財政再建計画の必要性を認識しないマスコミが財政再建に対して自主的に動くことはあまり期待できません。したがって、誰かがマスコミの尻に火を点けてまわることが必要でしょう。一旦火がつくと簡単に類焼し、一斉に火を噴いて大火になるのも日本マスコミの特徴です。

 もし日本が財政破綻をするようなことがあったならば、その責任の半分程度はマスコミにあると思います。マスコミが第4権力といわれる以上、それは当然のことかもしれません。ただし責任を一切とらない、都合のよい権力ですが。
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小沢政治への不安(2)

2009-11-05 07:43:17 | Weblog
 政党とは、先ず政治家や政治を志す者があり、彼らが共通の理念に基づいて政党を作る、あるいは既存政党に加入する、というのが私の理解です。これとは逆に、先に政党があって、政党が議員を作り、政党の意に沿うように育てられるとしたら、政党の意味は違ってくるわけで、これにはいささか違和感を覚えます。

 いま民主党で行われていることはまさに後者であり、とくに新人議員は議席の数のために存在するという観があります。政党の支配力の強大化によって、議員は政党の駒になっているようで、政治のあり方の変質を感じます。小沢氏が次の選挙に勝つことを最優先するよう新人議員達に伝えていることもこのことを裏付けています。

 先日の選挙で大量生産された小沢チルドレンと呼ばれる民主党の新人議員達は党によっていま厳しい教育を受けているそうです。文芸春秋11月号の立花隆氏の『小沢一郎「新闇将軍」の研究』には次のように記されています。

 『この選挙ではじめて議員になった一年生議員たちが上京して最初になされたのは、小沢から直接に議員としての生活のイロハを徹底的に叩き込まれることだった。実は新人議員のかなりの部分が「小沢一郎政治塾」の塾生出身で、すでに小沢イズムを叩き込まれた連中だが、そうでない議員も、このようにして、小沢イズムの洗礼を受けるわけだ。
(中略)小沢グループだけは自民党の派閥以上の固い統制を誇り、党内の選挙や決議などに際して小沢の指示通り一糸乱れず動いてきた』

 さらに彼らの多くは民主党の公認のおかげで議員という職にありついたわけで、党に対する反抗は次の選挙後の失職を意味しますから忠実にならざるを得ません。

 中央の意のままに動く議員を大量に抱える政党は強力になる反面、議員の発言力は低下し、権力は党中央に集中することになります。多くの議員を通じて、広く国民の意向を吸い上げるという政党の機能は損なわれることにならないでしょうか。

 小沢氏による人事の掌握、自党の議員立法の原則禁止、官僚の答弁禁止、官僚の記者会見禁止、陳情は幹事長室で一元化、三権分立の否定、これらにはもっともらしい理由がつけられているものの、いずれも権力集中の方向を示しています。

 不思議に思うのは、議員が政党の駒と化す事態を危惧する議論がマスコミにはあまり見られないことです。すぐに危機が訪れるというわけではありませんが、無視して良いこととは思えません。マスコミは政党政治のあり方の変質と権力の集中に関して鈍感なようです。三権分立は権力の集中を避けるための方法であったように、権力の集中は危険な側面を持ちます。

 また、マスコミは実質的最高権力者小沢氏の見解などをあまり報道しないため、小沢氏がどんな方向をめざしているかが明確ではありません。最高権力者の意図がはっきりしないのは異常なことであり、これはすこし不気味です。
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他人を判断する基準

2009-11-03 10:37:59 | Weblog
 「最速のインディアン」という映画があります。ニュージーランドの片田舎に住む初老の男(アンソニー・ホプキンス)がバイクのスピード記録を立てるために年代物のバイクと共にアメリカへの旅をするという、実話を元にしたお話です。貧しい旅の途中で出会う多くの人々に助けられてようやくレース場にたどりつくのですが・・・。

 登場人物が一癖も二癖もある、ややこしい人間ばかりという映画もまた面白いのですが、この映画はまるで逆で、登場人物の誰もがさりげない親切心を持ったごく普通の人達です。ホプキンスの演技も素晴らしいのですが、この映画のよく出来たところは「心暖まる」系でありながら偽善臭や不自然さが感じられないところです。

 おそらく、この映画の登場人物には制作者の心情が投影されているのでしょう。つまり、制作者は自分の心情を基準にして登場人物を作り出しているという推定することが出来ます(もっとも自分の心とは似ても似つかぬ理想を作っているのかもしれませんが、それはまあ措きます)。

 我々はしばしば他人の気持ちや考え方を推測する必要に迫られます。ある条件下で相手がどう行動するかを推測するとき、たいていは自分ならどうするだろうかと考えます。意識的でなくても、自分の考え方を基準にして、相手の思考や行動を推測していると思います。

 例えば、素直で邪心のない人は他人はみんな善人だと考えるでしょう。逆に邪心豊富の人は世には悪人が多いと考えるかもしれません。むろん、騙された経験など、学習によっても悪人が多いと判断することもあるので一概には言えません。

 他人を判断する基準が自分の心であるならば、ある人の人間や社会に対する考え方を知ることは、その人の内面を知る手がかりになることがあると考えてもよいでしょう。たいていの人は腹の中が黒いと考える人は、もしかするとその人の心が反映されているのかも知れません。
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