噛みつき評論 ブログ版

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裁判官は歴史まで決める?・・・沖縄の集団自決判決

2008-03-31 08:58:12 | Weblog
 沖縄の集団自決を命じたなどとする記述で名誉を傷つけられたとして、旧日本軍守備隊長と遺族が、「沖縄ノート」の著者の大江健三郎氏と岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決で、大阪地裁は28日、原告の請求を棄却しました。

 判決は軍の「命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じえない」が、軍が深く関わったと認定しました。軍命令の存在が認定できないということは、疑いだけがあるということです。その上での原告の請求棄却は「疑わしきは罰す」に通じるようで、この判決の論理が釈然としません。

 しかし、黒白をつけるのが裁判所の仕事とは言え、このような歴史問題を判断してよいものでしょうか。軍命令に関しては相反する意見・証言があり、誰もが納得する決定的な判断材料はない状況だと思います。将来もわからないままになるかもしれません。

 裁判官は歴史家ではありません。1人(または3人)の裁判官が短時間で資料を読んだ上での判断だと思いますが、それらの客観的条件は適切な判断をするには十分とは思えません。双方の主張する資料や証言の一つひとつについて信用性を調べる必要がありますが、少数の歴史の非専門家が短時間にその作業を完了するのは難しいでしょう。

 ならば、正直に「この問題は難しくて私には判断できない」とし、「沖縄ノート」の問題箇所には両論併記を命じる、といった判決の方が望ましいと考えます。

 決定的な証拠を欠き、しかも政治的に対立する問題の判断は判定者の主観に支配されることが多く、問題のある恣意的な判決を生みやすいと思われます。わからないことを無理やり判断せず、不明なことは不明のままにするのが誠実な態度でしょう。失礼ながら裁判官は神ではないのです。

 余談ですが、判決文に「認定することには躊躇を禁じえない」という表現が使われています。なぜこんなややこしい表現を使うのでしょうか(自信のなさの表れとも理解できます)。「躊躇」は否定的な意味ですから「禁じ」「得ない」と3重否定の文になっています。中学生程度の国語力で理解できるように、「認定できない」とすべきでしょう。

 司法改革は「裁判が身近で分かりやすいものとなる」ということが目的のひとつとして挙げられています。ならば、まず平易・明確に表現することに努力されては如何でしょうか。判決文は文学作品ではないですから、美文・名文はご遠慮願いたいものです。
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杉並和田中学の新しい試み「夜スペ」を結果も出ないうちから潰そうとする人々

2008-03-27 11:06:22 | Weblog
 『杉並区立和田中学校が、大手進学塾と提携して試験的に実施している有料の受験対策授業「夜スペ」をめぐり、同区の住民49人が24日、「夜スペ」は公共施設の目的外使用」などとして、区などに4月からの正式実施の中止を求める仮処分を東京地裁に申し立てた。
 申立人には、和田中の保護者は含まれていない。申立人らは、夜スペが大手進学塾1社と契約を結んでいることから、公共施設が一部企業の営利目的で使用されることになり、違法行為に当たると主張している』(3月24日産経新聞より)

 この49人の方々の目的が、「公共施設の目的外使用」を止めさせたいという順法精神あふれる動機のためと考える人はまずいないでしょう。夜スペを中止させるのが目的と考えてよいと思いますが、それにしても手間ひまをかけての行動を考えると、大変教育に熱心な方々と思われます。

 それほど教育にご関心がおありなら、この中学校が始めた新しい試みの成果が出るまで見守っては如何でしょう。試みの結果が気に入らなければ、それから中止を求めても遅くはないと思います。また49人の申立人には、和田中の保護者は含まれていないということなので、直接の利害関係者ではなく、外部からの余計なおせっかいという気もします。

 「夜スペ」を受けている生徒達の様子をテレビが伝えていましたが、「授業が面白い」という感想が多かったように思います。これは私の予備校での経験と一致します。予備校の講師は生徒を惹きつけることができなけば地位を失うという緊張感が常にあるわけです。まあ民間企業なら普通のことですけど。

 学校が塾と交流することによって、学校にもよい影響が出るかもしれません。やってみなければわかりませんが、悪ければやめればよいことです。教育は理論が確立した分野ではないので、結果の評価しながら試行錯誤を繰り返しことが必要です。49人方々の行動は試行を拒否し、全国学力テストに反対する方々は教育成果の評価に反対します。

 あたりまえのことですが、教育はあくまで生徒達のためのものです。教育の試みさえ否定する態度は、生徒達の利益を第一に考えたものとは思えません。反対にはいろいろと理由はあるでしょうが、生徒達の利益を軽視してはならないと思います。

 申立人は「夜スペ」の中止を求める理由を「公共施設の目的外使用」としていますが、「教育の機会均等が失われる」などと、なぜ正面から挑まないのでしょう。法的な争いでは、勝つためには手段を選ばす、が常態であることは知っていますが、恐らくは大義をかざしたであろう申立人の行動に、このような側面攻撃はいささか姑息な印象があります。

 東京都教委は学力向上という公共の利益を優先して、「夜スペ」を認めました。東京地裁が公共の利益を優先するか、それとも重箱の隅をつつくようにして違法箇所を優先するか、結果に注目しています。

 もし裁判所が「公共施設の目的外使用」は違法と認めれば、すべての公共施設内の自動販売機や売店も撤去されて不便になりはしないかと素人ながら気になります。
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歴史に残るワースト判決・・・医療崩壊に決定的な役割を果たした大阪高裁判決

2008-03-24 11:43:41 | Weblog
 『救急医なら知らぬ人がいない判例がある。大阪高裁が03年10月、奈良県立五条病院に対し、救急患者の遺族に約4900万円の支払いを命じた判決。事故で運ばれた患者は腹部出血などで亡くなり、病院側は「当直の脳外科医が専門外でも最善を尽くした」と主張したが、裁判所の判断は「救急に従事する医師は、専門科目によって注意義務の内容、程度は異ならない」だった。
 白鬚橋病院長で都医師会救急委員長の石原哲は訴える「どんな優れた医者でも、何でもできるわけではない。専門外まで対応できなければ過失があるというのなら、受入れを制限せざるを得ない」』(08/02/08朝日新聞より)

 この判決のあと、当直医の専門外の患者に対する受入れ拒否の動きが起こったのは当然です。その結果、救急搬送された患者が医療機関から受け入れを拒否されるケースが、都市部を中心に激増しました(参照)。

 この判決のため、受入れ拒否に遭い、命を落とした人がいるかもしれません。医療機関側も防衛的な医療を余儀なくされ、そのためによりよい医療機会を失った人もいるでしょう。

 判決は救急医療機関にあらゆる専門医を待機させることを要求するものであり、医療資源の有限性や現状を理解しない空論に基づくものと思われます。問題はたったひとつの不適切な判決が社会にきわめて重大な影響を与えたこと、それを回避する有効な手段がとられなかったこと、あるいはとり得なかったことです。

 他の例としては1966年の旭川学力テスト事件があります。旭川地裁は全国学力テストを違法とする判決を下し、これ以降40数年間の学力テスト空白期間のきっかけになりました。テストの意義よりも、細かな法の解釈を多分恣意的に優先した結果、日本の教育界は教育の成果を確認する手段を失いました。成果を見ずして正しい方針がどうして決められるでしょう。ひとつの無思慮な判断が国の教育を左右したわけです。

 これらの判決を下した裁判官の見識と判断能力には疑問をもたざるを得ません。また、そのような人物が影響の大きい重要な職にとどまり、新たな判決を出し続けるのであれば、その体制も問題だと思います。映画「それでも僕はやっていない」は冤罪の怖さと共に裁判官の資質の差を問題にしています。

 福島県立大野病院産婦人科の医師は業務上過失致死に問われました。しかし裁判官は死刑判決を出し、執行後に誤判が判明した場合でも業務上過失致死に問われた話は聞きません。事実上、冤罪による理不尽な死や損害に対しては誰も責任を負わなくてよいシステムです。

 裁判官達にとっては大変幸せな仕組みですが、反面、この仕組みは不適格者を排除する機能が弱いことが問題です。問題ある判決を連発する裁判官は出世の道が閉ざされるという程度のことはあるでしょうけど、余程のことがない限り、野放しを防ぐことは無理でしょう。

 形式的には裁判官弾劾裁判所がありますが、戦後行われたのは7回に過ぎず、理由も児童買春、破産管財人からの物品供与などであって、判決内容に関するものは皆無です。

 裁判が外部の力によって影響されないために、裁判官の独立性が必要なことはわかりますが、独立性が強すぎると問題のある裁判官が温存されることになります。 できれば法曹以外の立場からのチェックが必要ではないでしょうか。

 一般論ですが、無責任な組織は緊張感のない仲良しクラブになりがちです。責任を追及されなければ、不適格者を排除するという強い動機は生まれません。不適格者が強い権限をもつ と大きな不幸を周囲にもたらします。

 多くの裁判官は人を裁くという重要な仕事に高い職業倫理をもって臨んでいると思います。その点、人の命を預かる医師も同様だと思います。しかし医師を告発する裏に、すべての医師が信頼できるわけではないという前提があるのなら、裁判官にも同じ前提があってしかるべきでしょう。

 素人考えながら、裁判の判決をチェックし、それが裁判の質にフィードバックされる仕組みがあってもよいと思います。もっとも司法の独立性の一部に制限を設けるような仕組みは法曹界みずから提案することはないと思いますが。

 それともモンスター級の判決も、裁判官の独立性に伴う、仕方ないものとして甘受するしかないのでしょうか。

 独立性とチェックシステムは二律背反の関係ですが、中間の適正解を求める努力があってもよいと思うのです。
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ALS ある患者の声・・・延命措置を推進する日本独特の事情

2008-03-20 13:10:21 | Weblog
 3年近く前になりますが、ある一文に強い印象を受けました。文春05年7月号の巻頭に載った「ALS ある患者の声」と題する、元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章です。鳥羽氏はその前年、ALSとの告知を受けました。

 ALSとは筋萎縮性側索硬化症とも呼ばれる難病で、全身の運動神経が次々と侵され、多くは発症から3~5年で呼吸筋が侵され致死的な呼吸障害を起こす。そのとき気管切開・人口呼吸器装着による延命措置を実施すれば余命は何年も延びる、と説明したうえで、鳥羽氏は次のように述べます。

「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めている。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自然死選択と対比して、且つ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」

 鳥羽氏は日本で唯一の患者支援団体に入会されたわけですが、そこで延命措置を選択しないことがわかると、会員から「あきらめてはダメですよ!」「生きてさえいたらきっと良い事があります」という言葉を一斉に浴びせられたといいます。

 また「患者の闘病記や医師の体験記など、ほとんどすべてが『命の尊さは何ものにも替え難い』式の生命倫理観に基づいて、延命措置を指示する立場で書かれている」と記されます。

 鳥羽氏は、日本で人口呼吸器装着による延命を選択するALS患者は20~30%と推定され、これは欧米の2%程度に対して突出しているとし、日本で唯一の支援団体が延命措置推進一辺倒で患者に接しているのは問題だと指摘します。米国ALS協会は延命措置には中立で、個人の選択する権利を擁護する立場を貫いているそうです。


 確実に訪れる死を覚悟した上での、鳥羽氏の冷静な言葉は説得力があり、当事者ならではの重みを感じます。「命の尊さは何ものにも替え難い」式の主張はヒューマニズム溢れるものに見えますが、そこには個々の事情に配慮しない一律さ、単純さが潜んでいるように思います。

 延命措置の選択が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状を理解する上で、鳥羽氏の言葉は示唆に富むものです。欧米の2%が良いということでは決してありませんが、日本では個人が決定すべき領域の問題に対して、善意による口出しが多すぎるのではないかという気がします。

 鳥羽氏が指摘された問題の背景には日本独特の事情があるように思います。それは原則や理念に対する過度の「信仰」と異論に不寛容な風潮であり、すぐに一色に染まるメディアの体質がそれらを加速します。「命の尊さは何ものにも替え難い」という考えに僅かでも触れる言動は厳しく非難されます。

 今はそれほどではないようですが、少し前までは、死を目前にして苦しむ患者にも延命措置をして「頑張れ!」とやるのが普通であったと言われています。命を最大限尊重した行為と引換えに患者は余分な苦痛の時間を味わうことになりました。現在でも心肺蘇生措置の拒否(DNR)の同意をとっていなければ、見込みのない末期患者に対しても最後に気管挿管と心臓マッサージなどをするそうです。

 命の尊重は大事な原則ですが、その原則を無条件に最優先する考えには疑問を感じます。少なくとも自分の命に関してはもっと自由に考え、決定できる環境があってよいと思います。

 原則はあくまで原則に留めるべきで、現実の複雑な世界すべてに原則を適用できるという考えはわかりやすいですが、さまざまな弊害を生みだすことを理解すべきでしょう。原則や理念に対する過信・盲信があるとさらに問題が深刻になります。集団主義や付和雷同気質とも重なりますが、逃れられない国民の特性なのでしょうか。
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教え子を脅迫した校長逮捕事件の報道

2008-03-17 10:46:41 | Weblog
教え子を脅迫した校長逮捕事件の報道

 教え子だった女性に交際を強要する脅迫のメールを送った疑いで、公立高校の校長が逮捕された事件がありました。

 逮捕直後の3月9日のアサヒコムには「女性が在学中だった02年1月にみだらな行為をして以降、女性が嫌がっているにもかかわらず、計5年間にわたり関係を迫ったとされる」「校長室のパソコンからメールを出した」「メールの数は数十回に及んだ」などと、悪質な脅迫者像を伝えている印象があります。

 勤務中に私用メールを出すことはわざわざ非難するほどのことでもないと思うのですが、これを書いた記者はきっと聖人のような清廉潔白な人物なので許せないのでしょう。

 容疑者が脅迫の容疑を否定している状況では、警察発表は女性側の言い分が中心になっていると考えられます。報道は警察発表の中から取捨選択し、まとめられたものでしょう。警察以外の取材からは教育熱心な評判のよい先生という矛盾する事実だけが報道されています。

 容疑者側の言い分は犯意を否定したということしか載っていません。容疑者は悪質な犯罪者であるという予断に基づいて記事が書かれたということはないでしょうか。事実は起訴、裁判を経て明らかになるでしょうが、裁判で有罪が決まるまでは犯罪者ではなく容疑をかけられただけの状態です。

 この種の事件では、有罪となって刑事罰を受ける前に、社会的な制裁を受けるケースが多く見られ、被疑者にとってはその方がより大きい痛手になりがちです。逮捕段階での報道によって被疑者は回復不能な罰を受けてしまいます。メディアがろくに調べもせず、裁判より先に容疑者を裁いてしまうのです

 この2月の沖縄の米兵による暴行事件では米兵が強姦を一貫して否定しているにもかかわらず、強姦を前提とした記事が全国を駆け巡りましたが、結局、告訴取り下げになり、真偽は不明のままということになりました。しかし、容疑者の主張どおり「体にさわっただけ」であれば彼は理不尽な扱いを受けたことになります。

 そして昭和50年5月、ある銀行の支店長が2歳になる知恵遅れの幼女を餓死させた、として逮捕され、9ヵ月後、有罪判決を受けたあと彼は自宅へ戻ることなく電車に飛び込んで自殺した事件を思い出します。後に、誤認による朝日の悪意ある報道が彼を死に追いやったとする朝日内部の調査報告が作られました(「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」参照)。この報告を知らない人にとって、彼は死後も鬼のような父親のままです。

 「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」には次のように記述があります。
「情報の味付けによって記事の扱いが大きくなれば、それが広報担当者ないしは警察幹部の点数になるのである。東京の各警察署は警察記事の切り抜きにはげみ、扱い件数の多さと扱い段数の大きさを競っている」

 警察の発表に、既に事件のストーリーが作られていることが多く、またメディアは記事を短くまとめるときにわかりやすいストーリーが必要になります。したがってストーリに矛盾する事実は省略されがちになります。わかりやすいストーリーで世間を驚かしたいという動機は警察とメディアの双方が持っているわけです。

 問いたいのは、逮捕直後、双方の言い分が食い違っている段階で、警察発表に基づく一方の言い分によりかかっただけの安易な報道を大々的にしてよいのかということです。もし間違っていれば、容疑者に取り返しのつかない被害を与える危険を冒してまで報道することに果たして意義があるのでしょうか。せめて確証が得られるまでは抑制した報道にすべきではないでしょうか。
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「一斉学力テストは違法」と、日弁連の世迷いごと

2008-03-13 20:25:51 | Weblog
 『日弁連は文科省が昨年、小中学校を対象に実施し、今年4月に予定している全国学力テストについて「学校に過度の競争をもたらし、教師の自由で創造的な教育活動を妨げる」として、教育への「不当な支配」を禁じた教育基本法に違反する疑いが強いとの意見書を、渡海紀三朗文科相に提出した』(2008.3.5 MSN産経ニュースより)

 全国学力調査は1966年、旭川地方裁判所が国による学力調査は違法と認定したため、この年を最後に中止されました。その後の最高裁判決では違法性なしとの結果になりましたが、全員学力調査がようやく再開されたのは学力低下が鮮明になった2007年であり、43年間の空白が生じました。旭川判決は日本の教育評価システムをぶち壊した画期的な判決だったわけです。

 最高裁判決では違法性なしとされた問題をなぜこの時期に蒸し返すのか、日弁連の意図が理解できません。学力テストは教育における様々な試みを評価し、将来への方向を探るための重要な手段であります。

 近年の学力低下は教育界が自ら気づいたものではありません。前回述べたように「分数ができない大学生」という本やPISAの調査結果という、外部からの指摘で判明しました。学力だけでなく、科学技術に対する関心の低さという深刻な事態もPISAの調査で明らかになりました。

 日本の教育界は自分でやってきた教育を評価できないという無能ぶりが明らかになりました。理由のひとつに学力テストの廃止がありますが、問題はむしろ廃止そのものより、廃止してもかまわない、教育の評価など必要ないという極めて無責任な考え方が教育界を支配していることだと思います。

 全日本教職員組合は一斉学力テスト反対運動をしており、日教組でも地方組織での反対運動が目立ちます。これに日弁連が加勢することは何を意味するのでしょう。日教組のホームページには「政策提言 61 司法制度改革」として、「司法制度改革審議会意見書の理念に沿った改革を実現すること」という文言があり、両者の協調関係を示唆しているようです。

 日弁連が一斉学力テストに反対する理由は「学校に過度の競争をもたらし、教師の自由で創造的な教育活動を妨げる」というものです。そのような弊害も皆無とは思いませんが、教育の成果を評価する重要性に比べると取るに足らないものではないでしょうか。教育の公共性が優先されるべきでしょう。

 日弁連の意見書は教育全体を十分理解したものとは思えず、特定勢力に加担するものと理解される可能性が高いもので、公的な性格をもつ組織としてふさわしい行為とは考えられません。
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授業時間を増やすと学力が向上するか、の問いに答えられない教育界の無責任度

2008-03-10 21:39:59 | Weblog
 3月8日、NHKで放映された日本人の学力に関する特別番組では出演者と視聴者に対していくつかの質問が用意されていました。最初の質問は「授業時間や教える内容を増やすことで学力が向上すると思いますか」というものでした。

 驚いたのは日本の教育界がいまだに授業時間と学力という基本的な関係に答を見つけていないという現実です。それが直線比例のような単純な関係でないことは私にもわかります。しかし授業時間増加に否定的な佐藤学日本教育学界会長が「学力の高い国は授業時間が少ない傾向がある」と説明したことから、他に有力な根拠がないものと推定できます。

 以下、教育に無知な素人の立場からに過ぎませんが、素朴な疑問を述べたいと思います。

 学力低下が大きく注目されるようになったきっかけは「分数ができない大学生」という本であったと思います。著者の岡部恒治氏と戸瀬信之は数学者、西村和雄氏は経済学者であって教育学者ではありません。もうひとつのきっかけはPISAの調査結果ですが、いずれも日本の教育界の外部からもたらされました。

 もしこのような外部からの要因がなければ、日本の教育は批判にさらされることなく、ゆとり教育を「悠々」と続けていたかもしれません。さらに授業時間を減らしていた可能性だってあるでしょう。日本の教育界は果たして、教育の現状を調査・評価し、よりよい方向を目指すという機能をもっているでしょうか。

 教育界の事情ですが、基礎資料を得るための全国学力調査は1966年に中止され、全面的に再開されたのは学力低下が問題になった2007年とされています。一方、2006年には1966年以来40年ぶりに教員の勤務実態調査の全国調査が決まりました。

 学力調査は学校間の過当競争になるという理由で、勤務実態調査は管理強化につながるという理由で、どちらも日教組の反対によって中止されたと言われています。

 言うまでもなく教育は理論通りにはいかない分野ですから、その成果を評価しながら試行錯誤を繰り返し、方向を見つけ出すという作業が常に必要です。教育の目標は学力だけではないにしても全国的な学力調査が重要な意味を持つのは自明でしょう。

 授業時間と内容を大きく減らす、実験的な「ゆとり教育」を実施する以上、その評価の仕組みは当然必要と考えられます。仕組みがなかったのか、あったけれど機能しなかったのか、知りませんが、外部から学力低下を指摘されるまで表面化しなかったという事実は教育界に当事者能力にかかわる深刻な問題があることを示唆しているように思います。

 教育の結果を評価するための調査を否定・軽視してきた人々に教育全体に対する責任感があったのでしょうか。みずから結果を評価するという基本機能の欠如を温存してきた現在の教育システムを見直す必要はないでしょうか。

 出席者の1人、杉並区立和田中学校校長の藤原氏の話は興味深いものでした。藤原氏による革新的な試みは一部に反対があるものの、高い評価を受けつつあります。これが教育界ではなく民間出身の校長によって行われたという事実にも注目したいと思います。

(初めに掲げた質問の結果は「思う」が54%、「思わない」が46%であったのですが、これは授業時間の増加に81%が賛成という別の世論調査の結果と大きく矛盾していて、調査方法に疑問が残りました)
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「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」-本の紹介

2008-03-06 10:18:59 | Weblog
 朝日新聞を代表する記者と言われた疋田桂一郎(1924-2002)について書かれた本である。本書の大部分はかつて疋田桂一郎自身が新聞などに書いた文章であり、数人による解説文が挿入されている。

 第1章は1950年代~60年代、第2章は70年代、第3章は70年代後半から80年代と年代別に構成される。第1章は三井三池争議などの事件記事、世界各地で取材した紀行ものが主であるが、注目したのは自衛隊を描いた連載記事の抜粋である。

 この記事は朝日らしくなく、中立的な立場で書かれたもので、自衛隊賛成派、反対派の双方から高い評価を受けたという。ほとんど知られていない自衛隊の実情をわかりやすく伝える優れたもので、いま読んでも面白い。

 第2章は3年間担当した天声人語の抜粋である。いいとこ取りとはいえ、昔の天声人語はこんなにレベルが高かったのか、と思った。

 「新聞のあり方を問う」という副題のある、第3章は本書の圧巻である。この章の冒頭に収められた「ある事件記事の間違い」は、朝日の記事が当事者を自殺に追いやったのではないかと考えられた事件について綿密な調査をした記録である。事件の概要は次のようなものである。

 昭和50年5月8日、ある銀行の支店長が2歳になる知恵遅れの幼女を餓死させた、として逮捕された。それから9ヵ月後、有罪判決を受けたあと彼は自宅へ戻ることなく電車に飛び込んで自殺した。

 逮捕時の朝日の記事の中で、容疑者に対する悪意が感じられるものは以下に示す。

「知恵遅れの幼女を寝室のベビーベッドに10日間もとじ込めて餓死させた」
「3、4日目には、音を立てて指をしゃぶっていたが、心を鬼にしてほうっておいた」
「直子ちゃんはホオがこけ、芽が落ちくぼみ、あばら骨が浮き出、しゃぶり続けていた右手の親指は皮膚がはがれ、その悲惨な姿に捜査員も言葉を失ったという」

 疋田はこの記事の元になった警察から聞き出した事実と、捜査報告書、警察・検察庁の供述調書などの公判記録を詳細に調べ上げ、記事の誤りとその原因を追求していく。

 幼女は10日の間、終始昏睡状態であり、ベビーベッドにとじ込めるという表現はおかしい、つまり動かないからとじ込める必要はない。また、食物を受け付けない拒食症にかかっており、食物を口に持っていっても食べないのだから、心を鬼にしてほうっておいたという記述も変である。などと次々に記事と食い違う事実が出てくる。

 5月末保釈され1ヶ月ぶりに支店長は自宅に帰ったが、新聞や雑誌を見て、すべての力が抜けたようで、生きる力をなくしたようでした、と妻は供述している。彼が自殺した直後、妻は同じことを取材に来た記者に言ったが、記者はその部分を送稿しなかった。

 この事件は警察官の「東大法学部卒、大銀行のエリート社員」に対するコンプレックスと反感と軽い悪意が悲劇の父を容疑者扱いする予断を生み衰弱死を計画的な冷酷な犯行に塗りたてていった、と巻末の解説にある。

 「このような事件報道が人を何人殺してきたか、と思う」と疋田は述べている。私はトリインフルエンザ事件で自殺に追い込まれた浅田農産会長夫妻を思い出した。報道が人を死に追いやっても、誰も責任をとらない。

 また、「我々が記者として新聞で描いている世界の姿、あるいは世間像と、世界で実際に生活者が感じたり考えたりしている世界像との間にすき間があるんじゃないか」、
 「今日我々は、新聞に対する読者世間の信頼が揺らいでいる時代に生きているということです」と述べ、

 新聞のあり方についての現在の課題が既に存在していたことを指摘している。逆に言うと26年前に疋田が指摘した問題は未だ改まっていないと私には感じられる。
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沖縄の暴行事件、少女側が告訴取下げ・・・今度は過少報道

2008-03-03 11:12:57 | Weblog
 女子中学生に対する強姦容疑で2月11日に逮捕された海兵隊員は少女側が告訴を取り下げたとして不起訴処分になり、同29日釈放されました(asahicom03/01から要約)。

 海兵隊員は一貫して容疑事実を否定していましたが、報道は強姦が事実であるかのように大きく伝えていました。もし容疑者の言うとおり「体にさわった」程度の認識なら大きい報道になり得ない筈です。

 事実はどうであったのか、知る由もありませんが、大きな報道、しかも調査段階での予断を含んだ報道に世の中が大きく影響を受ける事態を憂慮します。このパターンはイージス艦の衝突事故も同じです。この場合のマスコミは傍観者ではなく当事者です。

 数年前、韓国では米兵が起こした交通事故のために、米韓関係は大きな影響を受けました。外交関係は国の命運をも左右する重大事ですが、それが偶発的な事件のために影響を受ける事態をマスコミはどう考えているのでしょうか。

 今回の海兵隊員の不起訴処分についてのマスコミ報道は、事件が起きたときの大報道に比べ不釣合いなほど小さいもので、NHKは昼のテレビニュースで黙殺しました。報道の後始末をつける気持ちが感じられません。

 告訴取り下げは、少女側の「そっとしておいて欲しい」という理由によるものとされています。しかし3/1日付け朝日新聞には次のような記事が載ったと教えられました。

「関係者によると、米兵が釈放されたのは、米兵と少女の間で示談が成立し、少女が告訴を取り下げたためだという。米兵は少女の意思に反した行為はしたものの、それらが明確な暴行や脅迫に当たるかが微妙で、強姦罪の起訴要件を満たすかどうかは疑わしかった。米兵側と少女側の双方の弁護人が話し合い示談成立に至ったという。」

 この記事は朝日の大阪版には見つからず、他のメディアもあまり取り上げていないようです。示談成立の事情は、強姦を前提にしてきた過大な報道に疑問を突きつけます。

 告訴取り下げによって、少なくとも日米関係への影響が緩和されたという見方もできるわけで、それは小さな報道にふさわしいニュースとは思えません。報道の非対称性、無責任性の見本のような現象です。

 沖縄6団体はマスコミ報道を信じて、3月23日に抗議の県民大会を開く予定でしたが、お気の毒にも、はしごを外された形となりました。その関係者に配慮しての「控えめ報道」なのでしょうか。

 米軍や自衛隊に対する過大な報道は野党勢力を元気づけ、政争の具を提供するという効用がある反面、国会の混乱の種になり、外交や国防上で失うものがあるということをNHKはじめマスコミの方々に知っていただきたく思う次第です・・・無駄とは思いつつも。

 予断による報道の弊害が露呈した今、「そっとしておいて欲しい」のはマスコミの本音でしょうけど。
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