噛みつき評論 ブログ版

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「全員死に至るまで抵抗せよ」

2012-01-30 10:25:12 | マスメディア
「全員死に至るまで抵抗せよ。降伏を考えてはならない」
これは1942年1月、日本軍の攻撃にさらされたシンガポール守備軍に対して、チャーチル英首相が出した命令です。(第二次大戦回顧録より)

 全員死ぬまで戦え、などという苛酷な命令を下すのは日本だけかと思っていたので、このチャーチルの命令は意外でした。チャーチルはその代償として兵士たちは永遠の栄誉を得るとしています。

 指導者は栄誉や名誉というタダ同然のもので兵士に命を提供させ、兵士は勇敢にそれに応え、勇敢さは賞賛されます。戦争になればどの国も似たり寄ったりだという気がします(しかし実際には兵士の命に対する扱いのレベルに大きな差があったのは周知のとおりです)。

 戦争は言わば殺し合いです。人間は部族間で、あるいは民族間、国家間で争いを続けてきました。勝利を得るためにはそれぞれの構成員が集団として力を合わせて敵と戦うことが必要です。猫のように個々がバラバラな集団は淘汰されるでしょう、戦争に対するそうした適性を備えている集団だけが生き残ってきたと考えられます。

 とはいえ、戦争が悲惨なものであることに変わりはありません。兵士には徴兵を拒否する自由はなく、意に反して兵士に仕立て上げられた者が大半です。死亡率の高い突撃でも拒否することができない仕組みが作られ、アッツ島や硫黄島の突撃ではほとんどの兵士が命を落としました。

 昔、ロシアでは敵前で逃げたりすれば後ろから味方に撃たれるので、前進する方がまだ生きるチャンスがあったという話を聞いたことがあります。まあそうでなくとも敵前逃亡は重罪です。

 話がそれますが、大変な犠牲を払わされた兵士ですが、少なくともマスコミでは民間人の犠牲ほどには取り上げられていないような気がします。一部の職業軍人以外は無理やり戦闘員にさせられた人たちであり、多くが過酷な戦場で長期にわたり塗炭の苦しみを舐めました。犠牲者の数においても、その悲惨さのレベルや時間の長さにおいても民間人を凌駕することでしょう。

 話を戻します。先日、中国の世論に関する、気になる報道がありました。中国は南シナ海をめぐってフィリッピン、ベトナムなどが争っていますが、中国の人民日報系の環球時報がネットで約23000人に南シナ海問題の解決法を尋ねると83%が軍事力を挙げたそうです。軍事力で解決とは戦争による解決であり、国民の83%が戦争を支持するということです。背景には軍事的に優位であるという意識があるのでしょう。隣国にとって、これはとても恐ろしいことです。

 これは1月25日の朝日新聞「中国軍解剖」という連載記事の中に小さく載ったのですが、お隣の国の戦争に関する考え方を知る上で大きい意味を持ち、日本の安全保障に重大な影響を与える可能性があります。そのわりには記事があまりにも小さいことが不自然に思われます。

 第二次大戦に敗れた後、日本ではもう戦争は懲り懲りという気分が広がり、非武装中立などという妄想までが広がりを見せました。しかし他国もそうとは限りません。現在、多くの国では政治的、あるいは経済的、道義的な理由によって戦争は抑制されています。しかしナショナリズムの台頭などで抑制が外されれば好戦的な本性が目覚める可能性があります。それどころか国民の83%が戦争を望む国すらあります。

「全員死に至るまで抵抗せよ」などという命令が出される日が来ないことを願いますが、それを未然に防ぐには抑止力が重要であることは歴史が教えています。急速に軍事力を強める中国とは逆に、日本は防衛費を減らす一方です。マスコミは防衛費の増加を抑えてきた主役であり、攻撃される可能性など、まったく考えていないようですが、そのような認識が後の世に無責任といわれることがないでしょうか。
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"絆"という言葉の不快感

2012-01-26 11:11:56 | マスメディア
 旧知のおっさんと世間話をしたときのことです。震災後に広まった"絆"という言葉の不快さが話題になりました。そのおっさんは歯の浮くような感じがあるといいます。私も"絆"という言葉は恥ずかしくて口にできず、多くのマスコミが"絆"という言葉を恥じらいもなく連発するのを、不快感をもって眺めていました。

 世の中にはストーカーや腐れ縁のような、困った"絆"もありますが、"絆"は一般的にはよい意味で使われます。それなのにこの言葉に対して不快感をもつ人が少なくないのはなぜでしょうか、

 野口悠紀夫氏は著書「超 文章法」の中で不快感を与える表現として、"ふれあい"や"共生"などを挙げています。私は"絆"や"癒し"をその仲間に追加したいと思います。

 "絆"、"癒し"、"共生"は依存性を強調し、自主性を軽視するから嫌だという人もありますが、まあそれもあるでしょう。しかし私はむしろそれらの単純な言葉がものごとの一面だけを強調して、全体をよく見せようとする欺瞞が潜んでいるような気がしてなりません。きれい事で誤魔化そうという態度です。ここにはひとつのキーワードで全体を特徴づけようとする態度に共通するいい加減さがあります。

 また"愛してる"などという言葉を従来の日本人はほとんど使いません。日本にはそのような気持ちは言葉で表すものではないという文化があり、"絆"にも似たような感覚があります。「あなたとは強い絆で結ばれている」などと無理に言おうものなら強い恥ずかしさに耐えなければなりません。

 さらに、それらのはやり言葉を臆面もなく使う人間の、言葉に対する無神経さ、軽さのために言葉のイメージが悪くなってしまったという部分もあるでしょう。

 むろんそれらの言葉を平気で使う人が少なくないように、素直に受け入れる人も多くいることでしょう。私などが単にひねくれ者であるだけのことかもしれません。まあどうでもいいことをあれこれと書き連ねました。
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パンクで横転事故、即逮捕、厳罰化進む

2012-01-23 10:16:35 | マスメディア
 昨年の12月20日午前4時15分ごろ、阪和自動車道の内畑第一トンネルで、乗用車が道路中央のガードレールに接触、弾みで横転した事故がありました。乗車していた男性5人のうち2人が死亡、運転者は現行犯逮捕されました。走行中にパンクしたのが原因とされているようです。

 もうひとつの例。これより少し前の17日午前3時10分ごろ、滋賀県甲賀市信楽町黄瀬の新名神高速道路上り線で、事故で停車していた乗用車に大型トラックが追突し、大破した乗用車の男性1人、女性2人が死亡しました。県警高速隊は大型トラックの運転者を現行犯逮捕。乗用車が別のトラックに追突して走行車線で停車していたところに大型トラックが突っ込んだらしいということです。追突された乗用車は無灯火で、車体は黒色でした。

 最初にあげた例では事故の原因はパンクとされています。パンク事故まで逮捕に値する過失にされてはかないません。これを大きい過失とするなら、普通の運転者は高速時のパンクでも安全に止められるということが前提になります。そのためには運転免許の試験で高速走行時に予告なくパンクさせ、安全に停止できるかをチェックする必要があるでしょう。

 次の例ではトラックの運転者が前方をよく見ていなかったのでないかという疑いをかけられているようですが、深夜の高速道路に黒い物体が置かれていれば誰かが衝突するまでにさほどの時間はかからないことと思います。運転者に大きな過失があると主張する人は黒い服を着て深夜の高速道路に立ってみればよいと思います。衝突する車が決して珍しくないことがわかるでしょう。雨天時のカーブなら最高の条件です。

 余談ですが、昔ドイツの会社が自動車の色と事故の関係を調べて発表したことがあります。当然、明るい色の方が安全だということであったと記憶しています。他の調査でも黒は事故率の高い色とされているようです(異なる結果の調査もあり)。

 2007年6月の朝日の記事「交通事故逮捕 基準はどこに」には次のような記述があります。

『逮捕されると、20日間以上にわたって身柄を拘束され、取り調べを受ける可能性がある。被害者の人生ばかりでなく、運転者側の生活にも大きな影響が出るのは必至だ。
 逮捕について定めた刑事訴訟法によると、逮捕は証拠隠滅や逃亡のおそれがある場合に限ると規定されている。
 実際の運用はどうなっているのか。(神奈川)県警交通捜査課によると、飲酒運転による事故やひき逃げの場合は逮捕、被害者が死亡したり、運転手の過失が大きかったりする場合も原則逮捕という。しかし、判断に迷うケースも少なくなく、そうした場合は現場にゆだねられるのが実情のようだ。
 同課の松原敏勝課長代理は「近年は交通事故の被害者が厳罰を求めるケースが増えている。警察も、交通違反者に対して厳しい姿勢でのぞむ傾向にある」という』

 被害者が加害者に対して厳罰を求める風潮を煽ったのは正義面をしたマスコミですが、警察が過失の少ない者まで生贄(いけにえ)にして迎合するのは、情けないことです。警察はマスコミの下請け機関になり下がっているかのようです。

 厳罰化傾向を推し進めたのは2006年に起きた福岡の飲酒運転事故だといわれています。しかしこの事故はきっかけに過ぎず、厳罰化を推進した主役は事故を大々的に報道したマスコミであります。

 読者・視聴者の歓心を買うために、マスコミが正義(偽善?)を振りかざし、悪を糾弾し続けることによって、社会からは寛容さが徐々に失われていくように思います。おそらくそれは皆が望んだ結果ではないでしょう。
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マスコミは褒めるのが大嫌い?

2012-01-19 13:32:18 | マスメディア
 1月17日のNHKクローズアップ現代は184人全員が津波から逃れた釜石小学校を取り上げました。地震直後、100人近い子どもたちが津波で浸水した場所で遊んでいたのですが、全員が各自の判断で安全な場所に逃げたということでした。学校の管理下で全校児童108人の約7割が犠牲になった大川小学校の悲劇と対照的な結果となりました。

 番組は子供たちの的確な判断と行動に賛辞を送る内容となっています。子供たちは「津波てんでんこ」つまり、てんでんばらばらに自分で責任を持って逃げろという教えに従って行動したとされています。しかし、誰がどのようにその教育を行ったか、なぜこれほどまでの教育効果が実現したか、などついては残念ながら触れられていません(*1)。

 子供たちを英雄視するのは筋違いです。子供たちを救った本当の功績者はこの教育を実施した方々でありましょう。子供たちは役所が作ったハザードマップを信じるな、とまで教えられていたそうですから、この教育方針を作った人物はただの凡人ではなさそうです。

 子供たちを主人公にした感動ものに終わるのでなく、この教育を実施した方々に対する評価や教育方法の紹介があって当然だと思われます。評価されれば、当人も報われ、さらに広範囲で好ましい影響も生まれることでしょう。優れた題材だけに残念です。

 釜石小学校の津波教育についてほとんど言及しなかったのは、それを褒めたくなかったからだ、とまではいいませんが、マスコミには褒めるのを嫌う傾向があるようです。前横浜市長の中田宏氏の著書「政治化の殺し方」には「阿呆なマスコミが日本を滅ぼす」という一節があります。節の最後の部分を引用します。

「我々を褒めてくれと言っているのではない。我々も他者のいい事例をもっと知りたいのだ。いい取り組みが報じられれば、それが共有されて、次の事例につながる善循環になっていくはずだ。しかし、現実には悪いことしか報道されない。悪いニュースで溢れる日本は、悪循環のスパイラルにあるように思えてならない。」

 マスコミは活躍したスポーツ選手を手放して褒めることはあっても、政治家を褒めることはまずありません。「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する」という言葉があります。だから権力など力を持つ者を常に監視するのが自分たちの役割だと思っているのでしょう。そこには権力者は悪、という観念が染みついているように思います。

 こういう観念に支配されていると暗い記事が多くなります。皮肉や揶揄、ユーモアもなく、クソ真面目一辺倒の批判記事ばかりでは面白くもなく、こちらまで暗くなります。それは叩かれるばかりの政治家にも好ましくない影響を与えるのではないでしょうか。

 子供は叱るだけでは駄目で、褒めることも必要だと言われます。良いことを褒められれば、好ましい方向への意欲が生まれます。これは大人も、政治家も同じでしょう。人は衣食住に満足すると名誉が欲しくなると言われます。褒められることは名誉欲を満たすことです。

 政治家が叩かれるばかりで、名誉心を満足できなければ、名誉を重んじる人間は減り、権力志向の人間が増えるでしょう。金や権力を追い求める政治家より、名誉を求める政治家の方がまだマシです。尊敬されるような政治家が少ないのは「阿呆な」マスコミの暗い姿勢と無関係ではないと思っています。

(*1)片田敏孝群馬大学大学院教授が、長年釜石市の小中学校の生徒に対して教育指導を実施していたことが番組の中で報じられていたというご指摘をいただきました。私が見逃してしまったのかもしれません。お詫びして訂正します。
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複雑化は利益の源泉、けれど迷惑

2012-01-16 10:35:02 | マスメディア
 世の中が便利になるにつれ、複雑化することはある程度止むを得ないことかもしれません。しかし中には故意に複雑化しているように思われる業種があります。

 例えば、携帯電話を購入するとき、数十ページの説明書を読んで契約内容を理解するのは一苦労です。様々なコース、様々な割引制度が用意され、店頭で説明する担当者も大変で、1人の客に長い時間を要します。一見それは利用者の利便を図っているかのようにも見えますが、複雑化によって他社との比較を難しくして、価格競争を避ける狙いがあるのでしょう。利用者にとっては迷惑な話で、高齢者など十分理解せずに契約する人は少なくないと思います。

 生命保険や投資信託も複雑になりました。生保の本来の目的は掛け捨て保険にありますが、それに貯蓄を混ぜ合わせ、その混ぜ方やオプションなどにより無数の組み合わせを用意しています。その目的のひとつは複雑にして他社と比較しにくくすることですが、理解が難しくなります。そして販売などに手間暇をかけるため、高いコストがかかり、支払われる保険金は支払った掛金に対して5割とか6割の水準だと言われています。

 第三者の立場で助言する保険コンサルタントという妙な商売があります。生保の勧めるままに契約すれば「してやられる」という気持ちが背景にあるのでしょう。こんなものが成り立つのは、生保会社の資料を見ただけでは判断できないように複雑化されているからであり、そして生保の営業は顧客の利益より自社の利益を優先するという評価が浸透しているためでしょう。

 保険コンサルタントの存在自体、生保の営業方法に対する不信感を表すものであり、恥ずべきことです。また利用者は保険コンサルタントがどこかの生保のひも付きでないかということにも神経を使うことになります。

 証券会社が売っている投資信託や仕組み債も同様で、複雑な仕組みを用いて、購入者が評価することは困難です。とりわけ仕組み債ではリターンとリスクの妥当性を素人が判断するのが難しく、運用コストや手数料が適切かどうかもわかりません。だからハイリスク、ローリターンの仕組み債が売れるという不思議な現象も起きるわけです。多くの自治体が証券会社の口車に乗せられて仕組み債を購入し、巨額の評価損を出したのは最近の話です。

 簡単に理解できないように複雑化すれば客を手玉に取ることができ、高齢者や理解能力の低い人、欲の深過ぎる人は格好のカモになります。理解力のある人でも、細かい字で書かれた説明を注意深く読まねばならず、時間の浪費を強いられます。

 これらの業界における競争は極言すれば、いかによいサービスを低価格で提供するかというよりも、いかに客を騙しやすい商品を開発するか、という点で競われているかのようです。明らさまなウソをつかずに、リターンを大きくリスクを小さく見せ、有利と思わせる商品の開発に努力を傾けます。しかしリターンとリスクは比例しますから、うまい話はないと考えるべきでしょう。

 豊富な情報を持つ売り手と情報が不足する買い手の間に公正な取引は期待できません。経済学でいう情報の非対称性なんて小難しい話を持ち出さなくても、知らない方がカモられることは明らかです。そして複雑さのためにかかるコストは結局利用者全体の負担となるわけで、実に迷惑な話であります。
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朝日新聞は性悪説?

2012-01-12 17:37:41 | マスメディア
 元旦の朝日の一面トップ記事には少し驚きました。年初のトップ記事とはその年の抱負や展望などを含む大局的見地に立ったもの、という期待があったのですが、朝日のトップ 記事は「原子力安全委側に8500万円」「計24人、業界から寄付」。年頭の記事にしてはずいぶん卑小という印象を拭えません。

 寄付によって原子力行政が歪められた可能性を匂わせる内容でしたが、後追いしたメディアはほとんどなく、単発で終わりました。他紙が無視する程度のネタを、元旦にふさわしい記事を排除してまでトップ報道したことから感じるのは、この種のネタに対する朝日の並々ならぬ意気込みです。恐らくこの記事は偶発的なものではなく、体質を反映した象徴的なものと考えてもよいでしょう。

 世の裏側には様々な利権などで結びついた不正な関係がいっぱいあり、それが歪んだ世をつくり出しているいう見方は間違っているとは思いませんが、そのような見方が強すぎるのは問題です。「人を見れば泥棒と思え」という言葉があります。これは性悪説の立場ですが、犯人を捕えるのが商売である警察には必要なことかも知れません。しかし一般の人がそう思えば、互いに疑心暗鬼になり、住みにくい世の中になってしまいます。

 朝日は警察でもないのに、裏側の不正行為に異常な興味を持っているように感じます。マスメディアが性悪説の立場をとれば不正を見つけるのには好都合でしょうが、それが行き過ぎれば、強調された報道を通じて性悪説を世に広めることになると思われます。

 「読者が気に入った新聞を選んでいるのではなく、読者が新聞によってそのように変えられているだけだ」といわれます。朱に交われば赤くなるというように、日常的に接するメディアの見識や価値観は知らないうちに伝染します。私見ですが、朝日の読者は社会を悪く、あるいは悲観的に見る傾向が強いように感じます。購読紙による考え方の違いを明らかにするような調査があれば面白いと思います。どの新聞が世の中を暗くしているか、わかるでしょう。

 政治不信は既に定着した観があります。むろんその責任の大半は政治そのものにあると思いますが、メディアの姿勢がそれを助長したことは否定できないでしょう。政治だけでなく、医療や食品などにまで不信感が広がりましたが、メディアはその片棒を担ぎました。希望ならいいのですが、不信に満ちた社会など誰にも歓迎されないでしょう。

 性善説をとる人もいれば、性悪説をとる人もいます。どちらに傾くかはその人の境遇や経験によるところもあるでしょうが、自分自身の心を観察した結果によるところが大きいのではないかと思われます。自分の心はわかるけれど他人の心はわかりにくいからです。

 とすれば朝日が性悪説の立場をとるのは、自らの心を観察した結果ということになります。さすがにそこまで言うつもりはありませんけれど。
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LEDシーリングライトは1.8倍も電力を食う [訂正とお詫び]

2012-01-09 11:14:07 | マスメディア
[訂正とお詫び]

元記事では、LED式シーリングライトのエネルギー消費効率は蛍光灯式よりかなり低いという指摘をしましたが、LEDシーリングライトと蛍光灯シーリングライトではエネルギー消費効率の算出式が異なるため直接比較できるものではないというご指摘をいただきました。ご指摘のとおり、私の方が誤っていました。

蛍光灯シーリングライトでは蛍光ランプの全光束を定格消費電力で除した値を使うのに対し、LEDシーリングライトでは照明器具から放出される全光束を定格消費電力で除した値を使うことになっています。蛍光灯シーリングライトの場合、器具から放出される全光束は蛍光ランプの全光束より少なくなるので、実際の明るさは表示より小さくなります。

[元記事]

 天井に取り付けるシーリングライトは蛍光灯が中心でしたが、そのLED化が急速に進み、2011年の12月には販売数量の47%を占めたそうです。これは1月7日の日経に載った記事によるものですが、その記事には「LEDタイプは従来の蛍光管タイプに比べて消費電力が2~3割少ない」と書かれています。

 これはまったく逆で、シーリングライトに関して言えば、LEDは蛍光管より大きく見劣りします。つまりLED式シーリングライトのエネルギー消費効率は蛍光灯式よりかなり低いと言うわけです(エネルギー消費効率はlm/W、つまり消費電力1Wあたりの全光束で表します)。

 価格.comの絞込み機能を使えば両者を簡単に比較できます。家電→照明器具のシーリングライト→すべてのメーカー→「シーリングライト 詳細スペック検索」と進み、 ここで絞込条件を光源はLED(または蛍光灯)、並び順を「発売日の新しい順」として検索します。

 LEDの検索で表示されるのは163件、新しい順の60件のエネルギー消費効率は約60~85lm/Wの範囲で、65ml/W程度のものが多くを占めています。これに対し蛍光灯での検索では2626件表示され、同様の60件は87~127lm/Wの範囲で、118m/W前後のものが多くを占めています。

 65ml/Wと118m/Wをそれぞれの代表値と考えれば、LEDと蛍光管のエネルギー消費効率の比は実に約1.8倍となります。将来、LEDの効率は改善される可能性があるでしょうが、現在のシーリングライトは、世評とは全く逆で、蛍光灯に大きく劣ります。

 上記は最近の機種を取り上げているので蛍光管は高効率のものが使われています(寿命も20000時間程度あります)。しかし古いタイプのものでも70ml/W程度の効率のものが多く、これでもLEDとほぼ同等です。記事にある「従来の蛍光管タイプに比べて消費電力が2~3割少ない」という記述はごく一部の低効率のものを基準にした場合にだけ言えるもので、このような表現は実質的にはインチキです。

 LEDを無条件で省エネに貢献するものであると無知なマスコミが宣伝した結果、1.8倍も電力を食い、しかも2~4倍もする高額のものがよく売れるという奇妙なことになりました。シーリングライトは比較的使用時間が長く、こんなものが普及すれば原発1基分程度の電力が余分に必要になるかもしれません。

 たとえば1リットルのガソリンで10km走る車と18km走る車があれば、その差はすぐ理解できます。照明の場合も同じエネルギー効率の問題であり理解は簡単です。しかしマスコミが伝える話からは、彼らはまったくわかっていないということが推測できます。その結果、節電とは逆の方向へと導きかねません。

 現在、エネルギー効率はとりわけ重要な要素です。中学生でも理解できるものにもかかわらず、何万というマスコミの方々がそろいもそろって理解し検証しようとしないのは実に不思議なことですが、このような理解力の方々が大真面目にエネルギー問題を論じ、国の政策にも影響を及ぼすというわけです。

 LEDのエネルギー効率など、ちょっと調べればわかることで、裏も取らずに報道するのは彼らの怠慢のためなのか、それとも科学的な思考能力の低さのためなのでしょうか。あるいは殺人事件や事故、政治家や芸能人の不祥事だけに関心を持つように彼らの頭が「特化」されているためなのでしょうか。恐らくこの三つすべてが該当するのではないかと私は思っています。
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猫と方丈記

2012-01-05 10:43:47 | マスメディア
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」

 言うまでもなく鴨長明の方丈記の最初の部分です。実は昨年、もっともなついていたネコが死に、それとほぼ入れ替わる形で、2匹の子猫を飼うことになりました。ネコは寿命が10年余りですから、一緒に暮らしていても、やがて死に別れの時がやってきます。何度もネコの死に遭い、そのたびに裏庭にある小さなネコの墓が増えていきました。このようなことを繰り返し経験するたびに、方丈記のこの一節が思い浮かびます。

 そして先日、ラジオで方丈記の朗読を偶然耳にし、中でも災害を記述した後半部に興味をそそられ、改めて読みました。たしか高校で習ったと記憶していますが、長い経験に基づいて老齢期に書かれた作品を若者が簡単に理解できるとは思えません。少なくとも私にとっては猫に小判でした。

 方丈記の成立は1212年とされ、ずいぶん昔のことです。上記の一節では、人の一生はよどみに生滅する無数のうたかた(泡沫)に例えられています。無常観が色濃く感じられ、これを仏教の影響であるとする説が多いですが、実のところはわからないと思います。仏教を知らなくても、生物の生死を長大なタイムスケールで観察すれば、無常観のような理解はさほど難しいことではないからです。方丈記は鴨長明の晩年の作ですから、そういった理解も可能であったでしょう。

 ちょっと意外なことですが、方丈記には京都を襲った大火や地震、飢饉を観察した記述が多くを占めています。具体的で、生々しいものもありますが、冷静で科学的ともいえるような客観性に富む一面もあり、それは信頼性の高さを示していると思われます。鴨長明は優れた世の観察者でもあったようです。

 教育が普及した現代でも、主観によって歪められた信頼性の低い文章が世にあふれていることを考えると、方丈記の価値はいっそう際立つようです。

 全部で1万字程度のもので、比較的読みやすく書かれています。古文が苦手な私でもおおよその意味は理解できます。全文が掲載されているリンク先はこちらです。面倒と思われる方のために初めの部分をもう少し引用しておきます。

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『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。・・・』
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政治家という職業のミスマッチ

2012-01-02 10:21:33 | マスメディア
 2004年に表面化した米国カトリック教会性的虐待事件では過去52年間で神父4450人に疑いがあり、件数は約11000件に上ると報じられました。日本でも聖職者による同様な事件が何件かありましたが、これには彼らの資質に問題があったと考えられます。

 そもそも異常性欲者や過剰性欲者を聖職に着かせたのが間違いだったわけです(聖職でなく性職ならよかったのでしょうけど)。これは性格と職業とのミスマッチであるといえるでしょう。少し大雑把ながら、性格と職業という観点から政治家を考えてみたいと思います。

 「政治家に正直や清潔を求めるのは、八百屋で魚をくれというに等しい」・・・これは警視総監や法相を務めた故秦野章氏の有名な言葉です。時代の差を感じますが、なにぶん正直すぎて、当時でも物議を醸したそうです。少し時代を遡るともっとすごい人物がいます。55年の保守合同の立役者、三木武吉です。以下、彼の発言をWikipediaから引用します。

『戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。』

 対立候補に対する切り返しも見事で、ユーモアと自信、政治家としての有能さの一端が伺えます。しかし現在では、このようなタイプの政治家が当選し、頭角を現すことは恐らく期待できないでしょう。

 むろん相対的な話ですが、清廉潔白の人は学者や教育者には向いていても政治家には向かないように思います。政治にはきれい事ではすまない部分、表には出せないことがあるわけで、それらを適切に処理する能力と清潔さは相反することが多いからです。秦野章氏の言葉はそのあたりの事情をうまく表しています。

 年金未納問題や事務所経費の使途といった些細な問題をマスコミが針小棒大に取り上げ、選挙結果に重大な影響を及ぼすようになりました。このようなマスコミの姿勢が清潔ではあっても能力の足りない政治家を輩出する一因になったと思われます。まさに「角を矯めて牛を殺す」の模範例と言えるでしょう。

 ところが、年末に載った朝日の世論調査ではちょっと意外な結果が出ています。首相に求められるものは何か、9つの選択肢から重要と思われる資質を選ばせる設問では、「決断力」が63パーセントで断トツの1位なのに対し、クリーンさが最も少なく5%となっています。裏返すとクリーンではあるが決断できない政治家像が見えてきます。

 クリーンさがたったの5%ということはある程度のダーティさに対する寛容を示すものであり、政治家の些細な不祥事を「食い物」にしてきたマスコミの姿勢に対する批判とも受け取れます。そこにはマスコミに乗せられた結果、今の政治状況になったという認識があるのかもしれません。まあこれは私の希望的観測に過ぎませんが。
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