噛みつき評論 ブログ版

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新自由主義は富める者の免罪符

2012-03-26 10:01:00 | マスメディア
 富める者が天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい、とは聖書にある話ですが、これは富める者を否定し、貧しい者を肯定する逆転の考えです。いつの世も貧しい者は多数を占め、貧しい者が救われるという価値観の逆転によって、キリスト教は貧しい者に支持され、多くの信者を獲得することができました。まあ昔も今も、経済格差は大きな社会問題であるようです。

 一方、新自由主義はキリスト教とは逆で、富める者を肯定する思想でありましょう。規制を減らし、所得の再分配を減らし、できる限りの自由を求める立場です。それは才能と努力の結果としての格差を肯定する立場でもあります。実はそれには運が大きく影響しているのですが、それは都合が悪いのであまり問題にされません。

 恵まれた人の中には身近に貧しい者を見てもまったく平気であったり、さらには優越感を楽しむ人もいるかもしれませんが、多くの人は居心地の悪さ、後ろめたさを感じることでしょう。新自由主義は多くの恵まれた人に正当性(という感覚?)を与えてくれるたいへん便利な代物です。いわば免罪符の役割を果たしていると言えるでしょう。

 自分の立場をそのまま肯定してくれるような思想は不快である筈がなく、これは思想が普及する重要な条件であると考えられます。それを信じるだけで自分の立場を擁護してくれるわけですから、まさに「信じるものは救われる」というわけです。ある思想や主義が自分の立場を肯定するかどうかという点はそれらがもつ論理的な整合性などより、重要な要素ではないかと思います。

 思想も宗教も絶対的なものであるわけがなく、時代や地域によって様々なものがあり、生滅を繰り返してきました。絶対的なものだと勘違いしているのは信じこんでいる者だけでしょう。信じる場合もそれを徹底して理解した結果ではなく、ただ風潮に流された結果であることが多いことと思われます。思想と宗教を一緒くたにすると怒られそうですが、神の有無を除けばまあ似たようなものです。

 自由な市場のもつ機能はたいへん重要なもので、欠くことのできないものです。しかし、単なる道具である市場を神のごとく崇拝する連中が出てくると話がおかしくなります。市場原理を万能と信じる如きは宗教に近いと言えるでしょう。

 格差拡大の原因とされたり、金融市場のコントロールに失敗するなど、このところいささか色褪せて見える新自由主義ですが、上記のような観点からすれば、一部の人たちには依然としてそのご利益が続いていると言えるでしょう。格差の肯定を正当化する新自由主義は、一部の人々の精神の安定に役立つという側面があります。けっこうなご利益があるわけで、これも宗教と似ていますね。

日米証券会社「文化」の共通性

2012-03-19 09:55:46 | マスメディア
 米大手証券のゴールドマン・サックスの元中堅幹部が顧客を食い物にしている同社の社内「文化」を批判した記事がニューヨークタイムズに掲載され、ウォール街で波紋を広げているそうです。(3/27日経など)

 寄稿者のグレッグ・スミス氏は顧客を「操り人形」と呼んでいるなどの実態を暴露したそうです(操り人形とはカモになるということです)。かつてゴールドマンは金融危機のさなかに顧客に「くず」と呼ぶ証券を売る一方で、会社はそれを空売りして儲けた事実が米議会証言で明らかになったと、日経の記事は解説しています。

 私は小物の客として日本の証券会社と40年近く付合いがあり、多少のことは知っているので、これが日本の証券会社のことであったとしてもまったく違和感がありません。証券会社の「文化」が日米で似ていることに改めて納得した次第です。

 バブル華やかなりし頃、大手証券会社では預かり資産5000万円以下の客を「ゴミ」と呼んでいたことがバレて、その「文化」の一端を見せられました。証券界では「客の3人も殺さなければ一人前ではない」とも言われていました。殺すとは食い物にして破滅させることです。「操り人形」や「ゴミ」に「くず」を売りつけて自分は空売りして儲ける。彼らの文化からすれば、これらの手口は驚くにあたりません。

 最近、天下にその名を馳せたAIJ投資顧問の浅川和彦社長、昨年のオリンパスの巨額損失隠し事件での4名の外部協力者、奇妙なことにいずれも野村證券の出身者達です。まさに目覚しい活躍ですが、野村證券はこのような逸材を輩出する優れた養成所なのでしょうか。

 AIJの浅川社長は知人に「嘘はいけない」と誠意の大切さを説いていたそうです。あきれますが、この世界で頭角を現すにはこれくらいの「資質」が必要なのかもしれません。むろん本当に誠実な営業の人もいると思いますが、そういう人が簡単に出世できるような環境ではないと思います。

 私事になりますが、若い頃は営業マンの言うことを真に受けて何年間かは損失を出しました。そのうちにいろんなことがわかるようになり、以後、彼らのアドバイスは無視し、自分の判断で行った結果、ほぼプラスを持続できるようなりました。多少の努力はしていますが。

 多くの自治体が仕組み債で巨額の損失を出したり、年金基金がAIJに引っかかったりしましたが、その背景には証券業界の「文化」に対する認識が十分でなかったことがあったのではないかと思います。オリンパス事件で、彼らが受け取った報酬は数十億円とも言われますが、この巨大さも「文化」の異質性を示しています。

 ニューヨークタイムズの記事は米証券界から批判されているようですが、証券界の「文化」を広く知らせるという点で大きい意味があると思います。日本でもその「文化」が広く知られているとは言えず、一般の認識とに大きい差があると思います。

 この「文化」の認識ギャップは一般の個人にとっても大きい問題です。認識ギャップを少しでも埋めるような記事を日本のマスコミに期待したいのですが、難しいでしょう。直接的なものでなくても、例えば一般の購入者に対して、投資信託などの投資結果をアンケート調査し、実態調査を発表するだけでも有効です(数千本のうちのベスト10とか20は時折発表があるのですがワースト10や平均の発表はみかけません。期間にもよりますがおそらく惨めな結果が出ると思います)。

参考記事
オリンパスの「飛ばし」指南役を務めた野村證券OBたちの"外資渡り鳥"人生

また野村證券OBが!AIJ投資顧問事件の主役たち

忖度というゴマすり・・・国歌不斉唱の口元チェック

2012-03-15 11:03:20 | マスメディア
 大阪府立和泉高校の卒業式で、国歌斉唱の際、教職員が本当に歌ったかどうかを確認するために校長が口の動きを監視していたことが話題になっています。3人が校長室に呼ばれ、認めた1人について処分が検討されているそうです。3人の行動も理解しがたいものですが、些細なことであり、ずいぶん大人気ない話です。そんな暇があったら他の仕事をすればいいのにと思ってしまいます。

 中央集権的な組織ではトップの命令が下部に伝えられるに従ってその命令が厳格さを増すことがあります。中間にいる者は命令を確実に遂行する責任を負うので、下部に対してより厳しく命じるという動機が生じます。さらに命令の趣旨に沿うものであれば、それが命令の範囲外のことであっても、より徹底してやった方が上役の覚えがよくなり、自分の立場が有利になると考える者も出てくるでしょう。

 校長先生の「口元の監視」行為は橋下市長の賞賛を受けたそうで、彼の意図は大成功というわけです。強い中央集権制の組織ほど、このような人物が輩出する可能性が高くなると思われます。

 近頃の厳罰化傾向を反映してか、交通事故を起こした運転者が簡単に逮捕されるようになりました。今月初め、山口県で犬を膝に乗せて運転していたとして運転者が逮捕されるという事件が報道されました。免許証の提示を拒否したなどの理由があったそうですが、いくらなんでもこの程度のことで逮捕とは驚きます。

 酒酔い運転など、重大事故に結びつきやすい違反を厳しくするのは合理性がありますが、「ついでに」とばかり軽度の違反まで厳しくするのは根拠が薄弱です。上部の意向を過度に忖度するという組織の特性が働いているのではないでしょうか。

 軍隊は戦争遂行が最優先の組織であり、強力な中央集権制がとられ、上官は下位の者に対して絶対的な権限をもちます。旧日本軍で、士気を鼓舞するための精神主義が下部にいくほど苛烈になり、兵士の命よりも優先されることになったのは、このような組織の力学と無縁ではないと思われます。

 まあ時には厳しさも必要でしょうが、原理主義のようにあまり細かいところまで厳格にされると居心地が悪くなります。適当にゆるい、いい加減な部分のある社会がよろしいわけで、原理主義が支配する社会にだけはなってほしくありません。

他人の不幸は蜜の味

2012-03-12 10:13:37 | マスメディア
 ソートン・ワイルダーの代表作「わが町」は平穏な日常の価値を主題にした1938年の作品です。1940年公開の映画(邦題 我等の町)は古色蒼然たるもので誰にでもお薦めできるものではありませんが、地方都市に住むある家族の平凡な生活を数十年にわたって描いたものです。朝、いつものように近くの牧場から牛乳配達がやってきます。ミルクを小さな容器に移すとき、床にこぼれたミルクをいつものように猫が舐めるシーンが私にはとても印象的でした。

 東日本大震災の後、約3割の人が幸福感が上がったと回答したそうです。昨年の6月に実施され、4109人が回答した調査結果に基づく記事が3月2日の日経・経済教室に載りました。お読みになった方もおられるかと思いますが、興味深いものなので要点を紹介します。

 調査は震災前の2月と調査時点の6月で幸福感や利他的な価値観がどう変化したか、を尋ねました。回答者を全国、被災の中心地である岩手・宮城・福島、その周辺の青森・秋田・山形の3つに分けで分析しています。

 幸福感について震災後に変化なかった人は全国では約68%、下がった人は約4%、上がった人は約28%であったのに対して、被災の中心の3県では変化なしが約45%、下がったが約20%、上がったが約35%でした。被災の中心で下がった人が多かったのは直接被害を受けた方が多かったためでしょう。しかし上がった人が約35%と多いことが目立ちます。周辺の3県では全国とほぼ変わらない結果でした。

 利他性の水準については震災後に変化しなかった人は全国で約60%、下がった人は約4%、上がった人は約35%に対し、被災中心の3県では変化なしが約47%、下がったが約9%、上がったが約44%となっています。

 幸福感が低下している人より向上している人が多いことについて、著者らは「過小評価していた平穏な日常がいかに大切なものであるかを改めて実感したとみられる」と述べていますが、まさにその通りだと思います。これは病気になってはじめて健康の価値の大きさに気づくのと似ています。

 一方「他人の不幸は蜜の味」という言葉があります。これはあまり上品な表現とは言えず、新聞では使いにくい言葉だと思われますが、幸福感が相対的なものであることを示すものであり、上記の調査結果の別の側面を表したものといえましょう。

 記事はこの調査結果を統計分析し、「現段階での一つの有力な解釈は、震災を契機に利他的な価値観が強まった人たちはむしろ震災後に幸福感が高まったというものである」とも述べています。

 幸福感が増し、利他的な価値観が強くなるという変化はまことに喜ばしいことです。しかしそれが震災という膨大な犠牲を代償としてもたらされたとはなんとも皮肉なことです。ともあれ平穏な日常の価値が見直されるのはいいことです。

 我々は平穏な日々がしばらく続くとその価値を忘れると共に、これから先もずっとそれが続くように思ってしまいがちです。60年あまり平和が続いていても、あるとき突然破られないとも限りません。

 著者の一人、大垣昌夫氏の専門はマクロ経済学・計量経済学、もう一人の著者、亀坂安紀子氏は行動ファイナンス・行動経済学で、経済学の領分もずいぶん広くなったようです。

恥を知らない逃亡者

2012-03-05 10:07:53 | マスメディア
 スティーブン・スピルバーグの映画「ジュラシックパーク」には、襲いかかるティラノサウルスに対し、危険を顧みず子供たちを助けようとするグラント博士らと共にもうひとりの個性的な人物が登場します。恐怖に怯え、子供たちを置いてひとりで逃げるジェナーロです。ジェナーロは利己的で恥知らずな人物として描かれ、ヒーローと違いが際立ちます。映画ではクライトンの原作と異なり、ジェナーロはテラノサウルスの栄養となります。これはスピルバークの子供たちへのメッセージなのでしょう。

 童話や漫画でもジェナーロのような卑怯な人物はしばしば登場します。我々は子供の頃からこのような話によって利己的な行動がいかに格好悪く卑怯なものであるかを繰り返し教え込まれました。これは共同体を維持するために必要なモラルです。しかし私が受けた戦後教育ではこのようなことを教えられた記憶はありません。

 次は現実の話で、3月2日の朝日新聞天声人語に載ったものです。
「青森の雪を自衛隊が沖縄に運び、子供に楽しんでもらう恒例行事が中止された。原発事故を逃れ、本土から越してきた住民の抗議ゆえだ。南の果てまで行かせた不安感はいかほどかと思うが、放射線は検出されなかった」

 原発にとどまり、危険を冒して危機回避作業に従事した人々は「フクシマ50」と呼ばれました。彼らをヒーローとするならば、職務を果たすため地域にとどまる大多数の人々を尻目に南の果てまで逃亡する人々はジェナーロを思わせます。また、懸命の作業に追われる第一原発から鮮やかな逃亡に成功した原子力安全・保安院の方々もジェナーロ氏のお仲間に入っていただきましょう。

 事故の際、素早く現場に駆けつけ助言などをすることが保安院の仕事だと思っていたので、素早く退避するものとは不覚にも存じ上げませんでした。まあ現場に留まっても役に立たず、ただ足手まといになるだけだ、という殊勝な自覚があったのかもしれません。

 それにしても本土から逃げてきた住民は原発から遠く離れた青森から持ってくるわずかな雪が健康に影響を与えるというのでしょうか。だとすれば青森や岩手、原発のある福島に留まっている人々をどう考えているのでしょう。天声人語は「南の果てまで行かせた不安感はいかほどかと思うが」と述べ、奇妙なことに根拠のない不安感に同情しています。

 続いて、天声人語はがれき処理に触れています。
「案の定、がれきの処理も進まない。(中略)いち早く受入れを表明した静岡県島田市は、岩手県から運んだがれきを試験焼却した。放射線レベルに変化はなかったが、それでも反対の声は収まらない。市長は粘り強く説得するしかない」

 これら文からは反対に対する批判的な気持ちが感じられますが、しかしそれはたしなめる程度の表現でしかありません。「市長は粘り強く説得するしかない」と書いていますが、本気で説得できると思っているのでしょうか。たとえ100年かかってもこんな人たちを説得できるとは思えません。その間、無意味な時間が過ぎるだけでしょう。

 市としては一部の反対を押し切って実行するか、受入れを拒否するしかありませんが、朝日は非難を恐れるためか、どちらとも言えず、粘り強く説得するなどという実効性のないきれい事で誤魔化しているように見えます。これなら何も言わないのと同じです。

 沖縄へ逃亡した人々など、妄想によるものとしか理解できません。根拠のない不安は妄想であるとして明確に否定しない態度は彼らに加担することになります。とても対話や説得が可能な相手とは思えません。神学論争の相手にはなるとしても。

 それにしても自らの安全・安心のために他を尻目に沖縄まで逃げてきた人たちが沖縄の子供の雪遊びに堂々と口出しし、強硬に中止させる神経には驚きます。恥ずかしいという気持ちなどまったくお持ち合わせではないのでしょうか。少しは引け目を感じて静かにしていただきたいと願うばかりです。どんな権利をも声高に主張することは戦後教育の大きな成果なのでしょうか。