噛みつき評論 ブログ版

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偽装企業の多くは破綻、そして失業・・・内部告発者の望みなのか?

2008-06-30 08:50:36 | Weblog
 ミートホープや吉兆など、内部告発がきっかけになって破綻に至った会社は少なくありません。経営者と告発者、同僚の社員すべてが職を失うという結果となりました。破綻に至った過去の例を知っての告発であれば、告発者の望むところとも考えられます。

 正義感が告発に向かわせた例もあるでしょうが、多くは会社側に対する不満のためであるように思います。どちらにせよ、もっとも理不尽で不幸なことは不正に関係のない従業員までが失業に追い込まれたことです。そして漁夫の利を得たのはマスコミでしょう。

 マスコミによって不正行為を大きく報道された会社の多くは破綻しました。会社が存続できるかは報道の仕方次第とも言えます。健康被害のない偽装表示などの不正行為をやめさせるためにそれほどの犠牲を払う必要があったのか、疑問に思います。保健所の指導では無理なのでしょうか。

 むろん根本に企業側の違法行為があるのは当然ですが、その悪質さの程度はマスコミによって実態以上に大きく印象付けられている可能性があります。マスコミはバッシング効果を高めるために基準を高くするのが通例だからです(参考:不二家事件)。

 会社に強い不満をもつ告発者とマスコミは利益が一致します。マスコミは常に告発・密告ネタを歓迎していて、対象が有名企業ならさらに大歓迎です。しかし発生するかもしれない失業には無関心であり、自らが破綻に手を貸したと認めることはありません。

 自分の属する組織を裏切ることは仲間を売ることであり、昔から不道徳なこととされてきました。たとえ正しい動機であっても裏切りを安易に認めてしまうと、組織内の信頼を保つことが難しくなります。公益通報者保護法は告発者を組織内で保護するためのものですが、保護の条件を厳しく制限することで、従来の倫理観との衝突を避けています。

 従業員が私怨を晴らすために内部告発をし、それにマスコミが飛びつくという構図では、マスコミは告発者を不道徳な人間として扱いません。そんなことをしたらネタをもらえなくなります。ですがこんなことが繰り返されれば、社会の信頼関係が悪影響を受けるのではないかと心配です。

 過大な報道は必要のない失業を生み、また仲間を売る行為を奨励することはモラルの低下を招きます。TBSの「朝ズバ」では不二家を虚偽の事実で告発する元従業員まで現れましたが、二重の意味でモラルを欠いています(そのまま放送した局も情けないです)。告発者が堂々とテレビに出ているのを見ると、告発行為を恥じる気持ちが薄れている気がします。(さすがに顔を隠すことはありますが)。

 幸い、今回の食肉卸売会社「丸明」の事件や、ウナギ産地の偽装事件では連日トップを飾るという過大報道はありませんでした。珍しくまともな判断だと思います。もっともマスコミ自身が偽装事件に飽きたのかもしれません。

 余談ですが、それまで贋物と知らず、美味い美味いと満足して食べていた消費者にとって食品のブランドって、どれほどの意味があるのでしょう。自分の舌よりブランドの方が信じられるということでしょうか。

鳩山法相を"死に神"呼ばわりした朝日新聞の見識

2008-06-26 09:40:38 | Weblog
 『永世死刑執行人 鳩山法相。「自身と責任」に胸を張り2ヵ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神』(18日の朝日夕刊コラム「素粒子」より)

 少し冗談が過ぎたようです。法相に対する非礼、死刑執行を揶揄のネタにした不謹慎さは批判を免れないでしょう。一流紙の記者としての見識が疑われるところです。

 前日の17日朝日夕刊と18日朝刊から死刑に関する見出しを拾って見ます。見出しは記事の裏に隠されて新聞社の主張をよく反映するからです。

「宮崎死刑囚に刑執行」「鳩山法相計13人」「こんなに早いとは」「死刑粛々と加速」「鳩山法相計13人執行」「国会『終身刑議論無視か』『当然のこと』」

 宮崎死刑囚の刑執行を「利用」して死刑制度に反対していることが推定できます。正面から堂々と反対論を述べず、客観を装いながら、こっそり自論を記事に仕組むという、アンフェアなやり方です。印象操作ができるにもかかわらず、非難を受けることがなく、無論、責任をとらされることもありませんから、新聞の手法としてすっかり定着した観があります。

 17日夕刊には過去の法相ごとの執行人数の表が載っています。鳩山法相は最上位の13人であり、記事の意図とは逆に、まじめな職務遂行ぶりがわかります。刑事訴訟法によると法相は死刑確定後6ヵ月以内に執行を命令しなければならないそうです。6ヵ月は過ぎているとはいえ、ずいぶん短縮されたわけですから、評価されるべきです。

 法を守らせる立場でもある法務大臣が法を蔑(ないがし)ろにしてよいわけはありません。執行の覚悟がない人は初めから法相を辞退すべきです。死刑執行をやめるなら法を変えるのが筋です。

 日頃食品の表示違反など、僅かな違法行為を取り上げて叩く朝日新聞が死刑執行に関しては"違法を"黙認し、逆に死刑執行という"適法"を批判するのはご都合主義、ダブルスタンダードであります。

 また世論調査によれば、死刑制度に反対する人は少数であり、圧倒的多数は容認で、しかも増加しているのが現状です。いつも"民意"を大切にする朝日ですが、ここでは何故か"民意"には一切触れられません。

 誰だって死刑執行などしたくありません。大変強い精神的負担を強いられることでしょう。大多数が死刑容認の国民の下で、法に従って執行すれば、評価されるどころか、"死に神"呼ばわりではあまりに気の毒です。まあこんな調子では、政治家を志ざすまともな人がいなくなるのではないかと心配になります。

 死刑制度と直接の関係はありませんが、きれい事で済ませようとする方々には次の文がお薦めです。まあ当たらずとも遠からずと思いますので・・・。

「平和主義者。 彼らが暴力を放棄できるのは、他の人間が彼らに代わって暴力を行使してくれるからだ」-ジョージ・オーウェル

テレビの煽動番組が韓国の危機を招く・・・対岸の火事ではない

2008-06-23 09:37:38 | Weblog
 『韓国MBC放送の看板情報番組「PD手帳」は、今年4月29日放映の「米国産牛肉は狂牛病から安全なのか」の中で、米国のある20代女性が狂牛病と疑われる症状で死亡したと報じた。しかしこの女性の実際の死亡原因は、狂牛病によるものではなかったことが後になって分かった。
 「PD手帳」は、この女性本人へのインタビューを14分も放送した。さらに女性の母親が「娘はクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)で死亡した可能性がある」と発言した内容を、「変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)」と翻訳して字幕を出した。「クロイツフェルト・ヤコブ病」は牛とは何の関係もない病気だ。このように「PD手帳」は牛肉とは関連のない病気で死亡した人物を取り上げ、あたかも牛肉を食べて死んだかのようにでっち上げて放映したのだ。
 「PD手帳」が放映したこの女性へのインタビューや、歩行困難になった「へたり牛」の様子は、10代の若者たちに対して、「自分たちが成人になったら狂牛病で死んでしまうのではないか」との不安を抱かせ、ろうそくを持って街頭へと飛び出させた決定的な理由となった』

 以上は6月18日付朝鮮日報社説(livedoor転載)の要約です。この番組が連日のデモの原因なり、政権を危機に追い込んだのは周知の通りです。さらに米国との懸案の交渉がほぼ全面的に中断していると言われ、外交にも影響がでています。BSEのリスクが無視できるレベルであることはBSEが発端の韓国政権危機を参照下さい。

 一方、韓国の農林水産食品部は17日、MBCテレビの報道番組『PD手帳』が米国産牛肉の輸入に伴う狂牛病リスクを誇張し、政府交渉団の名誉を傷つけたとして、検察に捜査を求めるとともに、損害賠償訴訟を起こすなど民事、刑事の両面で局側の責任を問う方針だと、同日の朝鮮日報は伝えています。

 かつての所沢ダイオキシン騒動を思い出します。テレ朝が不適切な方法でダイオキシンの不安を煽ったことが風評被害を招いたとして訴訟を起こされました(テレ朝が1000万円支払うことで和解)。危険を針小棒大に伝えるだけではもの足りず、虚偽や歪曲に手を染めてまで不安を煽るのはどうやら両国のマスコミに共通するようです。

 韓国の騒ぎは幸い流血の事態には至っていませんが、条件次第では発展する可能性は否定できません。日本の場合も決して影響は小さくありませんでした。一連の誇大なダイオキシン報道は政府を動かし、数千億円の税金が焼却炉などの設備に投入されました。

 当時、ダイオキシンは最強の猛毒と騒がれ、子供のキャンプファイヤーを禁止したバカ(こちらの方が有害です)まで発生しましたが、今では過大な毒性評価にも疑問が出され、すっかり過去のものになりました。

 今回の韓国のケースは他人事(ひとごと)として済ますべきではありません。日本のマスコミの体質が変わったわけではなく、原発や食品の安全問題など、不安のタネさえあれば韓国と同じようなことが起こる可能性があります。根拠のない妄想のために社会が動かされる危険は常に存在すると考えます。

人の命には軽重がない?・・・形式論の欺瞞と罪

2008-06-19 09:08:53 | Weblog
 高齢者の医療が問題になっています。その中で「今の高齢者は豊かな日本を築いた世代であるからもっと手厚い医療を提供すべきだ」という有力な主張があります。大変もっともな主張に聞こえます。しかし命を守るのが医療だと考えると、この主張にはいくつかの問題点があります。

 ひとつは今の高齢者を1個の等質な集団とみなしている点です。現実は社会に貢献した人、迷惑をかけた人など、様々な人の集合ですから、この世代をまとめて云々するのは大変粗雑な議論です。

 2番目は高齢者の医療問題は詰まるところ、医療という有限な資源の配分の問題です。上記の主張は医療資源を高齢者に配分する分だけ、子供や成人の医療を減らすことになりますが、それには触れません。

 3番目は、豊かな日本を築いた人、つまり社会に貢献した人の命を大切にするという考えが読み取れますが、これは逆に言うと社会に貢献しない人の命はそれほど大切にしなくてもよいという意味です。ここで取り上げたいのはこの問題です。

 この解釈から導かれるのは命の軽重を社会への貢献度にリンクさせようという考えです。むろん社会に貢献した人に社会から手厚い医療を提供するという考えはごく自然なもので、恩を返すという倫理観とも一致します。しかし、これは「人の命に軽重はない」という考えと対立します。

 「人の命に軽重はない」という命題を徹底すれば社会に多大の貢献をした者の命も、凶悪な殺人者の命も等しく扱わなければなりません。現実の医療に於いては、余命が限られた高齢者にも若者と同様、延命を最大の目的とする医療を施さねばなりません。これはやはり不自然だ思われます。

 「人の命は地球より重い」と言ってテロリストの要求に屈したのは福田赳夫元首相でした。しかし世界から非難を浴びたこの決定の裏には日本社会が共有する「命の重さは絶対」とする形式論があったわけで、首相だけを非難するのは酷な気がします。

 命の重さに関しては、「命は鴻毛より軽し」とされた戦前からまさに180度変ったわけで、共にひどい極論であり、どちらも信用できません。

 80歳の人に、30歳の家族を養っている人と同じ医療資源を配分すべきでしょうか。80歳の人はすでに平均寿命分生きたわけですから、30歳の人は寿命の公平、あるいは家族に対する責任という点からより多くの配分を要求すべきだと考えることもできます。等しい配分は寿命の差を固定するものです。

 「人の命には軽重がある」とはっきり言う人はまずお目にかかりません。もし言えば、激しい非難を浴びるがわかっているからです。しかし現実の社会はそれを前提にしている部分が多くあります。実際の医療の配分もフラットではありません。ただこの形式論があるために本音による現実的な議論ができないことが問題です。

 ALS患者で人工呼吸器装着による延命措置を選択する率が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状はこのような命に関する形式論に依拠しているように思います(延命措置を推進する日本の事情)。

 形式論はたいてい有効範囲が限られますが、現実はそんなものは無視され、わかりやすく単純な考えが蔓延(はびこ)ります。公害事件などで健康被害が起きるたびにマスコミは「命の重さ」を振りかざして相手を叩くのが通例です。この方が強烈に叩くことができるからです。マスコミのこの姿勢は極端な形式論が力を持つに至った要因であると思います。形式論は反対や批判のための道具としては便利ですが、正しい解決を導く上の障害になり得ます。

 命に優先順位をつけざるを得ないことが現実にはよく起こります。「人の命に軽重はない」「人の命は地球より重い」という硬直した形式論がある限り、終末期医療のガイドラインや安楽死の法制化などはなかなか進みません。このあたりで形式論の害を疑ってみるのもよいかと思った次第です。

秋葉原通り魔の責任はマスコミ、と毎日新聞・・・テレ朝との興味ある対比

2008-06-16 09:38:14 | Weblog
 大事件があると、直後からマスコミは犯罪などの専門家や"専門外"コメンテーターを動員して大量のコメントを撒き散らすのが恒例となっています。秋葉原事件では容疑者がなぜ事件を起こしたのかが興味の中心になりました。しかし事件に関する情報が限られた上での素人の論評のほとんどは意味がありません。

 むろんすべてがいい加減というわけではなく、中には的を射た意見もあります。双方の興味深い例を紹介します。いい加減な例は6月11日のテレ朝のスーパーモーニングでの、鳥越俊太郎氏と、円周率を3にした「ゆとり教育」の推進者である寺脇研氏、著名なご両人の放言です。

 鳥越氏は、長い時間を使って、事件の核心は労働者派遣法の改正にあると主張します。つまり原因は将来に希望をもてない派遣社員だという立場だというわけで、責任は政府にあるとします。

 これに対し寺脇氏は、容疑者は学力一辺倒の時代に教育を受けた世代であり、「ゆとり教育」をもう少し早くやっていれば防げたかもしれないという意味の話をしました。つまり原因は「ゆとり教育」以前の教育にあるというわけです。

 要するに、ご両人はこの事件を利用して、従来からの自説を披露されているに過ぎません。事件を起こした要素のひとつである可能性は否定できませんが、関連が希薄であり、かつ関係性を裏付ける資料もないままに原因として強調するという思考方法は、凡人の理解を超えるものであります。真面目な顔をして、ただの思いつきのをしゃべっているのでしょう。

 彼が事件を起こした背景には様々な要素が複雑に絡み合っていると思われます。大きな影響を与えた要素も、小さな要素もあるはずです。数多くある要素の重要度を調べて比較することなく、自説に都合のいいものだけをとり上げる方法は、教養ある人間のやり方ではありません。不誠実かつ非論理的であり、誤った考えを広める危険があります。

 この種の事件は、時間をかけて調査しても事件の原因や背景が明確になることはなく、ある程度の推論ができる程度でしょう。したがって、いい加減な意見を言ってもあとで責任をとらされる心配はありません。それをいいことに、思いつき程度のことを国民に向かって放送することは有害です。

 なぜなら、テレビと著名人というだけで信用できると勘違いしている人々が少なからず存在するからです。彼らはテレビを見ながら誤った知識を身につけてしまいます。

 次はまともな例で、6月12日の毎日新聞 発信箱に載った、与良正男記者による「甘えの構造」というコラムです。一部を引用します。

「責任の一端は私たちマスコミにもあるのかもしれない。私たちはともすれば、何かことがあるたびに、社会が、政治が、教育が悪い--と、安易に、かつ漠然と結論づけてこなかったか。それが「自分は被害者」という甘えの構造、あるいは厳しい現実からの逃げ道をつくる要因になっているように思えるのだ」

 むろんこの意見にある、マスコミとの関連の程度は不明であり、その点は上記の批判を免れません。しかしこの記者の主張には大変興味深いものがあります。マスコミが、政治が悪い、教育が悪いと言い続けてきた結果、悪いのは自分でなく、社会が悪いのだという発想を広めたということですが、上記の鳥越・寺脇両氏の主張はまさに政治が悪い、教育が悪いという類の主張なのです。

 つまり、皮肉なことに鳥越・寺脇両氏のような考えを広めたことが今回の事件の要因のひとつになったというわけです。与良記者の自省を込めた主張を高く評価したいと思います(但しコラムの引用部のみ)。

 残念なことに、鳥越・寺脇両氏の発言を承認したテレ朝をはじめ、マスコミの主流は未だに「悪いのは自分ではなく社会」式の発想をせっせと育てているように思います。たしかに「悪いのはあなたではない」と言われれば気分がよくなり、自分を反省する気持ちもうせます。しかしその分、社会に対する不満が積み上がります。

 不満が限界点に達すると爆発するのは自然なことです。世の中はいろんな人間がいて、爆発の臨界点が低い連中も存在します。マスコミは不満レベルの上昇に一役買っているのは確かだと思いますが、その大きさ、寄与度はわかりません。

 少年の非行は教育が悪いからだ、病気が治らないのは医療が悪いからだと、マスコミに乗せられた人々は考えます。それは社会に対する要求水準を押し上げる方向に作用し、学校に過大な要求をする親など、各種のモンスターを生む一因となり得ます。医療の世界では訴訟の多発を招き、医療崩壊の原因のひとつになっています。

 マスコミの力はたいしたものであります。しかし始末が悪いのは、マスコミに加害者の自覚がほとんどないことです。

日本水泳連盟とメーカー3社の関係・・・不公正な護送船団方式では?

2008-06-12 09:05:51 | Weblog
『日本選手もLRを着て泳いでいれば何の問題もなかったが、日本固有の「壁」が立ちふさがった』-6月8日の毎日新聞社説はこのように述べ、日本水連が使用水着を決定するシステムを日本固有と表現しています(水着の選択は、ドイツはアディダス社から、米豪は自由だそうです)。しかしこのシステムに対する論評は何故か皆無です。

 ジャパンオープンの3日間でスピード社の優位性は明らかになり、日本水連はやむなく北京五輪限定で3社以外の水着使用を認める措置を決定しました。北京以外の大会については今後検討するということですが、水連の方針に背けば出場させないとはなんとも強い支配です。

 3社は日本水連の依頼を受け、改良された水着を短期間で準備しましたが、成果は確認されず、スピード社との技術水準の差が明白になりました。

 3社は1社につき500万円の契約金、大会などの支援などを含めると数千万円を負担していると言われています。そして日本水連は主要大会で、3社以外の水着の着用を認めませんでした。日本水連は特権を3社に与えてきたわけです。

 おかげで3社は激しい競争にさらされることなく地位に安住できたわけです。しかしそのために開発の努力を怠り、外国メーカーに差をつけられた可能性はないでしょうか。護送船団方式と呼ばれた、手厚い保護行政に守られた銀行が競争力を失ったように。

 3社からの金品などの提供の見返りに他メーカーを排除し、競争を制限することは不公正であるだけでなく、歪みをもたらします。このような日本水連と特定メーカーとの関係は、日本水連とメーカーとの癒着の温床にもなり得ます。もちろん現在の日本水連は、不祥事を起こしたスケート連盟とは異なり、1点の曇りもない潔癖な方ばかりだと信じていますが。

 日本水連は文部科学省所管の財団法人です。予算規模は約13億6000万円(07年度)、日本の水泳界の頂点に立つ組織で、補助金も約2億2000万受けています。大会への出場の可否など、選手に対して優越的かつ独占的な位置を占める公益法人であり、公平・公正さが強く要求されます。それだけに選手の選択の自由を奪ってまで特定企業を優遇するやり方には違和感があり、またスポーツの商業化にも一役買っているものと思われます。

 不思議なのは、マスメディアはスピード社の水着問題を大きく取り上げているにも関わらず、「日本固有」のシステムに対して何の問題意識も示さないことです。選手が自分で水着を選択することが許されないシステムはあたりまえで、それはメディアの世界でも常識なのでしょうか。

 このシステムに違和感を覚えるのは部外者だけなのでしょうか。選手が自由に選べることこそ「あたりまえ」だと思うのですが。

BSEが発端の韓国政権危機・・・テレビとネットが果たした役割

2008-06-10 09:17:29 | Weblog
 5月31日夜、ソウルの市庁前広場はろうそくを手にした4万人が埋め尽くした。韓国政府が、BSE問題で導入した米国産牛肉の輸入制限撤廃を打ち出したことが発端で、国民の健康を売り渡したとの批判が爆発した。連日の集会では中高生が目立ち、「食への不安」はBSE感染の危険を警告したテレビ番組の影響も手伝って、瞬く間にネットを駆け巡り、「給食で米国産牛肉を食べたくない」とする中高生を駆り立てた。批判は「反牛肉」から「反政府」へと向かい、李政権は支持率が20%前後に落ち込み、危機に瀕している(6月3日の朝日新聞から要約)。

 ここにはマスメディアとインターネット、世論との間に興味ある関係が見られます。テレビがBSE感染の危険を(多分大袈裟に)警告し、ネットがそれを拡大して、若年層を中心に過激な世論が形成されたと、記事からは推定できます。注目すべきは、発端になったBSE感染の危険というものが極小の、無視できる程度のものに過ぎないということです。そしてそれが実際に政権を危機に追いやる力のひとつになったという事実です。

 BSE問題のリスクに関しては、同じ韓国の中央日報の日本語サイトの社説(5/7)が取り上げています。冷静、的確な意見であり、日本のBSE問題にも参考になるので前半を要約します。

 『1986年から96年の間、英国では約300万頭のBSE汚染牛が食べられた。それから10年後、初めて人型BSE患者が発生、一昨年まで165人が発病し、全員が死亡した。 新たな患者数は2000年をピークに減り続け、昨年は1人も出なかった。
 最近、国際獣疫事務局は、米国でBSEが発生する確率は100万頭当たり2頭という数値を発表した。 これらのBSE牛が米国内で摘発されず、食肉処理された後、韓国に輸出され、これを食べた韓国人が人型BSEにかかる確率はどれぐらいか。
条件1:英国ではBSE牛300万頭を食べて165人の患者が発生した。 条件2:韓国人はBSEに脆弱である可能性が高い遺伝子型を英国人の2.3倍持っている。 条件3:英国人1人当たりの年間牛肉消費量は韓国人の約9倍と想定する。
 発病の確率は1億分の1にもなるだろうか。』

 発病の確率が無視できるレベルであることは日本でのいくつかの試算とも一致します。しかし日本においてもBSEに関する冷静な意見はほとんど報道されることなく、危険を煽る報道が大きな不安を社会に与えました(参照)。メディアにおいて、恐怖を煽る過激な意見が冷静な意見を圧倒したことは両国に共通します。

 日本では政権を揺るがすほどの騒ぎにはなりませんでしたが、韓国では「反政府・反米闘争を狙う少数集団の‘脳にスコンスコン、穴がパカッ’という言葉」や、有名な女優の「牛肉を口にするなら毒を口にする方がまし」という言葉がネットを通じて広がり、政権の危機へと発展したようです。

 とるに足りない危機を評価能力の低いテレビが針小棒大に伝え、それがネットを通じて拡がるうちに、反政府勢力の関与もあって、より過激になったと推定できます。誤解や妄想によって政府が政策の変更を余儀なくされたり、政権が崩壊したとすれば、大変不幸なことです。

 インターネットは中心を持たない網状の組織です。不特定多数に情報を発信する機能を持つ点はマスメディアもネットも同じですが、マスメディアには発信の中心があり、情報のコントロールが可能なのに対し、ネットは中心がなくコントロールは極めて困難です。

 したがって依然として重要なのはテレビを含むマスメディアであり、その見識、情報の評価能力が重要な意味を持ちます。もしマスメディアが誤った言説を流せば、ネットはそれを無批判に拡大し、影響をさらに強める可能性があります。ネットがマスメディア批判の機能を持つことが期待されますが、組織化されないネットは逆に増幅する危険性をもつと思われます。

「1万円でも満タン届かず」・・・朝日の印象操作記事

2008-06-05 09:58:32 | Weblog
「1万円でも満タン届かず」・・・朝日の印象操作記事

 6月2日の朝日新聞朝刊の1面トップの見出しは「ガソリン急騰 恨み節」で、ガソリン値上げを大きく取り上げています。小見出しの「1万円でも満タン届かず」を読むと、「そんなに値上がりしたのか」という印象を与えられます。しかし実際の値上がり率は7%程度です。

 史上最高の価格のように言われていますが、それはガソリン価格の統計を取り始めた1986年以来ということです。82年の第2次オイルショック時には、東京都区部平均で177円/Lを付けたことがあるそうです。私も160円台の記憶があります。当時の物価水準からすれば影響は今回の比ではありません。

 「1万円でも満タン届かず」については本文に説明があります。1万円でハイオクを満タンにできなかったという男性の話です。「ガソリンがなくなったので仕方なく入れたが、さらにお金を入れて満タンにしようとは思わない」とあきれたように話した、と書かれています。この程度で「あきれる」ものでしょうか。もっとも「あきれる」は記者の主観による「付け足し」で、記事の意図が見えるようです。

 記事にはハイオクの価格例として181円が載っています。それなら1万円では約55リッター買うことができます。ハイオクを55リッター入れても満タンにならない車、恐らく大型の高級車でしょう。1万円で満タンにできない車は少数です。なぜ一般例を出すべきところに、特殊な例を使うのでしょうか。あるいは、朝日の静岡総局長55歳で年収2,100万といわれるように、朝日記者にとっては「普通例」だと勘違いされているのでしょうか。

 5月2日の朝日新聞は「ガソリン税 地方の嘆息」と題する記事を大きく掲載し、月22万円のガソリンを消費する家族を紹介しています(参照)。これも同じように極めて特殊な例を取り上げてガソリン価格変動の影響を誇張しています。

 今回の記事は、本文を細部まで読む人が少ないことを承知した上で、誤った認識を与えるという意図を感じます。少なくとも事実を過不足なく伝えようとする誠実さをこの記事から感じることはできません。

 この記事自体は些細なことかもしれません。しかし新聞社の姿勢を表すものであり、見過ごすべきではないと思います。7%程度のガソリン値上げを1面トップに取り上げるという見識、特殊例までもってきて過大な印象を与える手法、これらはインパクトはありますが、誤解を招き、読者の不満感情を煽ります。不満の拡大を意図しているように見られても仕方ありません。

 如何なる意図によるものであれ、サンゴ事件のように事実を曲げたりせず、正確に報道するというのがメディアが信頼される基本条件です。これらの報道を見ていると、朝日の読者信頼度が3位に転落(参照)したのも無理からぬことと納得しています。

ドリオンの薬・・・自殺用常備薬

2008-06-02 09:21:57 | Weblog
 1991年、オランダのハイブ・ドリオン元最高裁判事は「高齢者が自殺薬を保持する権利」を求める論文を発表しました。「75歳の人間は20歳の人間より、将来の人生についての予測が可能である。その分、死を自分で決定する権利を持ってもよいではないか」という主張です。「自殺薬常備」は「ドリオンの薬」呼ばれ、やがて「高齢者の自殺権」を指すようになりました。

 「そのような薬があったら是非欲しい」という人を私は何人か知っています。ガン末期の苦痛に襲われたとき、あるいは様々な理由で生きる意味を失ったとき、ドリオンの薬は本人に選択の自由を提供します。

 個人的には必要性を感じていても、「命の尊さは何ものにも替え難い」式の建前論、観念論が根強いわが国では、残念なことに上記のような議論すら自由にできないような空気があります。

 オランダではドリオンの薬の法制化はまだ実現していませんが、必要な要件を満たせば安楽死が認められおり、年間死者の2~3%は積極的な安楽死、つまり医師による致死薬の投与などが選ばれています。

 77年のダッカ・ハイジャック事件で、政府は身代金600万ドル(当時のレートで16億円)と服役中の赤軍派幹部9人を釈放しました。テロリストは資金と有力メンバーを得て、弱腰の「超法規的措置」は世界の非難を浴びましたが、その背景には、福田総理の「人命は地球より重い」との見解がありました。

 もし強行策を実施して、人質に犠牲が出た場合、マスメディアなどから「命の軽視だ」と強い非難を浴びることを政府は恐れたのでしょう。日本が命をもっとも大事にする国だからでなく、命に関する建前論が強いために、この措置が採られたのだと理解すべきでしょう。

 「命の尊さは何ものにも替え難い」式の建前論からは自殺に関しても現実的な議論は出てきません。すべての自殺を避けるべきもの、してはならないものと単純に考え、命の決定権を本人が持つことを一律に認めない考え方は、硬直な建前論であり、より適したものへの変革を妨げる要因になります。

 自殺用常備薬の提案がなされ、それを本音で議論できるオランダの社会、それに比べるとわが国の社会はずいぶん硬直的に映ります。いや、硬直的なのはわが国の社会というより、建前論の好きなマスメディアなのかも知れません。

 消費期限が1日すぎた原料を使ったというだけで連日1面トップを飾るほどの糾弾は、建前論なしでは無理でしょう。安全性には問題がないという現実論ではここまで非難することはできません。建前論や形式論は他を非難するときに大変便利なものなので、メディアは多用するうちにすっかり身についたのだと思われます。

 建前論・形式論は石頭と同様で、柔軟な適応能力を社会から奪います。せめて本音の議論だけでも自由にできる社会であってほしいものです。