噛みつき評論 ブログ版

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テレビ階級

2017-11-26 23:40:28 | マスメディア
 テレビの報道番組は依然として横綱の暴行問題に占領されている観がある。新聞はまだマシであるが、週刊誌はどうかと思い、ちょっと調べてみた。信頼度が高いとは決して言えない週刊誌であるが、意外な結果であった。現在の最新号で横綱暴行問題をどれくらいのページ数で取り上げているかというと、おおよそであるが、
週刊文春5ページ、週刊新潮7ページ、週刊現代3ページ、週刊ポスト4ページ、週刊朝日2ページ、サンデー毎日1ページと意外に少ない。一冊で百数十ページあるのだから、これはずいぶん低い割合である。テレビとの差が際立つ。月に4百円ほどで百数十種類ほどの雑誌が読めるサイトを使った。

 仮に数十ページもの横綱暴行特集を組んでも、とても読んでもらえないだろう。テレビ視聴と違って活字を読む行為は多少の努力が必要であり、ある程度の内容が要求される。もしテレビの報道番組を埋め尽くしたようなくだらない内容を数十ページにわたって掲載したら読むのを投げ出したくなる。また週刊誌側も活字である以上、知識も見識も乏しいコメンテーターの発言のようなものを長々と載せるのは気が引けるたろう。

 すべての放送局の報道番組が特定のテーマに集中する現象はしばしば見られる。集中報道に値するテーマであればいいが、たいていはそうではない。この現象はテレビの病める性格と言ってもよく、他の報道すべきニュースを知らせないだけでなく、集中報道のテーマの意味を過大に思わせてしまう。それがスポーツのような毒にも薬にもならない問題ならよいが、事務所経費のような政治問題であれば、民主党政権の誕生といった愚かな選択に道を拓く。

 テレビ側からすれば集中報道をするのは、それが視聴率に結びつくという理由があるのだろう。ならばそれを好んで視る視聴者にも責任の一端はある。朝から夕方にかけての報道番組の主な対象者は仕事を持たない女性と高齢者であろう。この階層は数が多いので選挙の結果を大きく左右する。

 司馬遼太郎は読書階級という言葉をよく使った。それは武士階級を中心とする知識階級を指す。人口構成比は1割以下であるが、政治には強い影響力を持った。しかし現代は民主化によってそのような構造は大きく変わった。現在、政治に強い影響力を持つのはエリートの知識階級ではなく、数が多くテレビの影響を素直に受ける「テレビ階級」ではないだろうか。これが現代の民主主義なのである。テレビが政治を左右するのなら、放送局の社長やプロデューサーも選挙で選んだ方がよいかもしれない。

横綱が品行方正とは限らない

2017-11-19 23:57:03 | マスメディア
 このところメディア、特にテレビは日馬富士関の暴行問題一色の観がある。目撃証言の食い違いがあったり関係者の行動が不自然であったりと、謎が多いことも話題性が強くなり、不手際の続出は相撲界の管理体制にまで波及し、メディアにとってますます好都合なネタになったようである。それにしてもこれは騒ぎすぎであろう。民放はともかく、NHKまでもがメディアスクラムである。

 メディアには、横綱は角界の頂点に立つ者であるから暴力沙汰などあってはならない、国技の品格を損なうといった意見が多い。概ね同工異曲、付和雷同であり、そのような意見を何度聞かされてもあまり意味はない。

 相撲界でもっとも重視されるのは強さであろう。昇進の際にも当然強さが重視される。あの力士は弱いけれど品行方正だから横綱になった、とは聞かない。逆に問題行動が多いとされた朝青龍でも横綱になれる世界である。過去には賭博問題や暴行による死亡事件もあった。どんな業界にも不祥事はあるだろうが、相撲業界は数百人の力士で構成される少人数の世界であり、その発生割合は決して低くないと思われる。

 検事が暴力事件を犯したり、教師が強姦(強制性交等)すれば、そのコントラストの鮮やかさから世間の注目を集める。では横綱も同様であろうか。私はそうは思わない。相撲は格闘技のひとつであり、いわば規制のある暴力競技である。規制が守られなければ今回のような暴力事件となる。両者の距離はさほど遠くない。

 暴力事件を認めるわけではないが、これ程の大騒ぎをするようなことではないと思う。横綱はスターである。我々はスターに強さ以外のものを求めすぎているのではなかろうか。ある野球の有名選手はドリンク剤のCMに出るが、かれはドリンク剤に詳しいわけためではないだろう。また飲用しているとも限らない。有名な俳優が軽自動車のCMに出ていた。おそらく俳優はその軽自動車に乗っていないと思う。スターに宣伝効果があるのは知らない間に感情移入しているからだであろう。米国では自分が使ってもいない商品の宣伝には協力しないというモラルがあるそうだが日本ではなんでもOKだとも言われている。

 マスメディアはスターに実際以上のイメージを作り上げる。出来上がったスターは話題を提供してくれるので、メディアにとってもありがたい存在である。いつの間にか横綱にも品行方正な理想像が出来てしまったのだろう。本人が知らぬ間に期待値が高くなってしまったというわけである。スターのイメージは実態と乖離しているのが普通である。悪いところは伏せ、良いところだけを見せることによって作られた幻想と言ってもよい。

実在の悪魔

2017-11-13 09:04:04 | マスメディア
 悪魔や鬼は想像の産物である。宗教の信者には現実と見えるかもしれないが、所詮は妄想である。想像上の悪魔は怖くないが、悪魔人間は怖い。9人の若者を殺害した男は悪魔と呼ぶにふさわしい。どんなに強い非難の言葉もこの男には十分ではない。悪魔のイメージは稀に出現する今回のような殺人犯をモデルに作られたのかもしれない。

 このような異常な事件が起きると、教育評論家や心理学者があちこちに出現して幼少期の心の傷が事件の原因だなどと、まことしやかな意見を述べるのが普通である。しかし今回の事件では評論家たちをあまり目にしない。私の推測だが、今回の犯行は育った環境などではとても説明がつかないのではないか。

 戦後、犯罪は貧困などの悪い環境が生み出すもの、つまり社会が作り出すもの、という考えが支配的になった。人の性格を決定するものは遺伝か、環境かという長い間の論争において、環境がより重視されるようになった流れをうけてのことである。環境が重要な要素でなければ、教育そのものが否定されるという事情もあったかもしれない。

 この9人殺害事件に関しては、有名な教育評論家でも説明がつかないのではないか。白石容疑者はサイコパスではないか、という指摘がある。サイコパスとは精神病質、反社会性人格障害などの人格の所有者で、同情や共感、良心や罪悪感を持たず、よく嘘をつく人たちであるされる。そして発現は遺伝によるところが大きいと言われている。白石容疑者がサイコパスかどうかは知らないが、犯行の特異性から見ると十分ある得ることだと思う。その場合、更生の可能性は低いとされる。

 1回だけの快楽と僅かな金のために何人もの若い命を奪うという理不尽、信用させてからそれを裏切り殺すという卑怯、社会経験が少なく弱い女性を狙うという卑劣、被害者の方々やご遺族の無念さは計り知れない。また死刑になったとしても一回の死刑だけではとても釣り合いが取れないと思う。死刑廃止論者はお困りのことと思うが。

 米国の場合、サイコパスは25人に1人の割で存在すると言われている。4%であるから意外に多い。日本などの東アジアはその10分の1程度らしい。サイコパスと言っても正常との中間的な人もいると思われるのでその線引きが難しいが、それは措くこととする。しかし多くのサイコパスはまともな市民として普通の生活を送っているそうである。ある程度の知能があれば、社会のルールを学習し、それから外れない生き方ができるわけである。

 我々の子供時代は、弱いものをいじめる、大勢で一人をいじめる、あるいは背後から刺すような行為は卑怯な行為とされ、最も恥ずべきことだと教えられた。それをしたものには強い非難が浴びせられた。現在、こうした倫理観はずいぶん弱くなっているように感じる。試しに「道徳教育」「卑怯」「卑劣」をキーワードにして検索しても意味のあるものは出てこなかった。死語になっているのだろうか。

 倫理観がサイコパスの犯罪を防ぐことができるかどうかわからないが少しは役に立つかもしれない。戦後の教育はこうした倫理を戦前の軍国主義に利用されたものとして排斥したと思う。天皇のために死ね、と言った考えなどと十把一絡げにして否定したのであろう。幼稚な単純思考の結果である。

 弱い立場の者を集団でいじめるのは卑怯な行為だと述べたが、それはメディアの得意技でもある。メディアスクラムとも呼ばれる。社内規定の消費期限が1日違っただけで大バッシングを受けた不二家、食中毒事件を起こした雪印乳業、他にも経営が揺らぐほどの、あるいは倒産するほどのダメージを受けた企業は少なくない。自殺に追い込まれた経営者もいる。犯した罪の大きさとバッシングの大きさが全然釣り合わないことが多い。だから弱い立場のものを集団でいじめる卑怯な行為を批判できないであろう。これでは学校でのいじめもなくならないだろう。社会をリードするメディアがこの体たらくでは、卑怯や卑劣の禁止が重要な倫理として重視されることは期待できそうもない。

二流の証明

2017-11-06 09:05:06 | マスメディア
 今回の衆院選挙では様々な政治家が登場し、知られていなかった顔を見せた。危機の時、あるいは重大な選択を迫られる時、人は常には見られない姿を見せることがあるようだ。民進党分裂の立役者、前原誠司氏は野党第一党の代表という立場にあったから、それなりの評価を得ていたのであろう。しかし希望の党への合流という一大事を、甘い見通しと甘い交渉で行い、政治家だけでなく人間としてまでの信用を失ってしまった。二流であることが十分に証明された。にもかかわらず、当選したのが不思議である。メディアの批判が何故か甘かったのが気になる。

 次に小池百合子氏、一時は総理大臣候補とまで言われていた人物であるが、とんでもない誤解であったことがわかった。都議選の時は自民党に対抗する人物として、メディアの好意的な報道に支えられて大勝した。将来の総理大臣候補と持ち上げたメディアもあったほどである。今回の衆院選挙でも当初の報道は好意的に見えた。しかし「排除」発言以後、メディアの態度が変わったように感じられた。「排除」発言に驕りが見えたこともあったかもしれない。しかし希望の党が憲法改正や安保法制容認を明確にしたために左派メディアの機嫌を損ねたのが失速の大きな理由なのではないか。

 小池氏は「緑の狸」という異名をとったが、これは腹黒さを思わせるものでうまい命名である。選挙で見えたのは彼女の野心家という側面である。自己顕示欲や権勢欲は一流であるようだ。しかし政治家としては二流と言ってもよい。政治家にもっとも必要な将来の目標、ビジョンが見えてこないからである。

 立憲民主党は期待された以上に躍進したとされる。枝野氏らは意志を曲げず、男を上げたと評価されている。しかしちょっと違う。希望の党との合流が表明された両院議員総会では合流に満場一致で賛成した人たちである。もしその場で反旗を翻していれば男を上げたことになろう。しかし排除されることが明確になってからの決断であり、新党立ち上げは当然の流れというべきである。このような成立の事情はあまり報道されず、意志を曲げなかった点ばかりが強調される。そもそも意志を曲げた者が数多く現れた今回の事態が異常であり、政治家は曲げないのがあたりまえなのである。

 二流を証明した人物の中では鳩山由紀夫氏は最大級の人物であろう。ワシントンポスト紙からルーピー(頭がいかれている)鳩山と酷評された人物は民主党代表に選ばれた首相であり、民主党を選んだのは日本国民である。恥ずべきは民主党員であり、日本国民である。ただ鳩山氏を一流だと持ち上げたのはマスコミであり、彼らは真っ先に不明を恥ずべきである。

 一流の人間が急に二流になることはない。少数の例外はあるが、たいてい一流はいつまでも一流、二流はいつまでも二流なのである。前に紹介した例はいずれも、二流の人間をマスコミが一流だと間違えた結果、一流として過大評価されていたものが、何かのきっかけによって本性が露呈したに過ぎない。いつもながらの、軽率で不見識なマスコミに振り回される政治風景なのである。劇としては面白いけど。