噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

ゼロ金利政策の副作用と日銀の無策

2024-05-31 20:34:11 | マスメディア
 4月26日、日銀の植田和男総裁は金融政策決定会合後の記者会見で、円安は「基調的な物価上昇率に大きな影響は与えていない」と述べ、現時点で無視できる範囲かと問われると「はい」と言い放った。市場はこの発言を受け、円はさらに進み4円ほど下落した。通貨の売買をせずに為替相場に介入することを口先介入というが、上田総裁は望ましくない方向へ、つまり円安という逆方向に介入されたのである。市場というものがお分かりになっていないのではないか。
 
 金利がほぼゼロになって久しい。以下、大変大雑把な計算だが全体の傾向ぐらいはつかめると思う。私は経済の素人なのでご容赦願いたい。2022年9月末時点で日本の個人(家計部門)が保有する金融資産は2005兆円、うち現金・預金は1100兆円である。1100兆円をほぼ預金と考え、金利を主要国並みの3%と仮定すると33兆円、税引きで約26兆円の金利収入があったことになる。現金・預金以外の金融資産もゼロ金利の影響を受け、それからの収入は大きく減少する。逆に住宅ローンなどの借入にはプラスに働くがその金額は少ない。
 
 さらに低金利によって円安が進み、その結果、消費者物価は上昇した。IMFの資料によると2020年から2024年にかけて消費者物価は7.96%上がっている。すべてが円安のためではないにせよ、2020年の家計の消費額は280.5兆円を用いると4年間で約22兆円、年間5.5兆円が物価上昇のために失われていることになる。これに金利が正常ならば得られたはずの26兆円を加えると30.5兆円が毎年家計部門から失われたことになる。厳密には家計部門からは住宅ローンなど借入金利が減少した部分を差し引く必要があるが大きなものではないので省略する。ただ2019年の2%の消費税率の上げによる税収の増加が約4兆円であり、それが経済を冷やしたと言われていることを考えると毎年30.5兆円の効果はまことに大きい。
 
 低金利の恩恵を最も受けたのは企業と大量の国債を発行した国である。実際、実質所得の減少した家計に対し、企業は高水準の利益を出している。そして長期間にわたったゼロ金利政策が経済に好影響を与えたのかという視点からの議論はあまり見かけない。議論をしても確実な答えは得られないだろうが、正常な金利に戻った他の主要国との比較はできる。5.5%の金利となった米国は経済が好調である。ゼロ金利政策という家計に重い負担を押し付ける政策を続けながら成果が出ていない点に注目すべきである。
 
 ゼロ金利政策の負の面を放置してきたメディアにも責任がある。メディアの本来の性格として、動かないものには注意しないということがある。ゼロ金利政策が始まった当初は報道していても年数が経つとその是非を気にもしない。そういう問題意識がないため上田総裁の発言にも寛容なのであろう。
 
 ゼロ金利政策の負の面、つまり預金する側である家計の所得減少と通貨安に改めて目を向けることが必要ではないだろうか。あまりにも借りる側である企業に配慮し過ぎてきたのではないだろうか。低金利でも、需要が不足しているから企業は投資せず、借りてくれない。もし金利上昇で家計の所得が上がれば需要の拡大が見込める。そううまくいくとは思えないが30年近くうまくいかなかったのだからそろそろ違うことをやってもよい。いろいろ事情があるだろうが、日本以外の経済政策はみな優秀に見えてしまう。

専守防衛の身勝手

2024-03-13 22:05:31 | マスメディア
 もしあなたの隣人が銃を持った暴漢に襲われ、あなたの持つ銃をこちらに渡してください、と頼まれた時、あなたは「これは自分の身を守るためだけの銃なので渡すことはできません」と拒否できるだろうか。拒否すればあなたは身勝手な奴、ズルい奴と非難されるのが普通である。専守防衛とは聞こえがいいが、身勝手の宣言でもある。
 
 ウクライナはロシアの侵攻に果敢に抵抗してきたが、このところ劣勢気味との報道が目立つ。その大きな理由は各国からの軍事援助の減少であるとされている。そんななか、次のようなニュースが報じられた。
 
 中欧チェコのパベル大統領は3月7日、各国から資金支援を得て、ロシアから侵攻されているウクライナに80万発の弾薬を供給すると明らかにした。複数の欧州メディアが報じた。米国の軍事支援が滞る中、ウクライナは弾薬不足に陥っており、ウクライナ支援に熱心なチェコが主導して弾薬の供給計画を進めていた。

 80万発は少ない量ではない。そしてチェコは経済的にも軍事的にも大国でない。そんな国がここまでウクライナの援助に熱心なのはロシアの将来の脅威があるのだろう。また「プラハの春」の屈辱の記憶がまだ消えないのであろう。それらを考慮したとしても侵略者を許さないというこの気概に敬意を表したい。
 
 日本はヘルメットと防弾チョッキをウクライナに供与してきたが殺傷能力のある武器は対象外である。平和主義などという国内向けの勝手な理由でウクライナを見殺しにしてよいものなのか。侵略国家によってウクライナが侵略されることを阻止することこそが優先されることではないのか。ロシアの侵略が成功すれば世界の秩序が危うくなる。警察が暴力団に負けて、暴力団の支配を許すようなものである。

 平和憲法、武器輸出三原則などはいずれも国内事情である。極論すれば好みの問題である。それに対してウクライナへの軍事援助は民主主義国家の構成員としてのモラル・義務に関することである。もし日本がウクライナを見殺しにするようなことがあれば、日本が侵略を受けた時、他国に軍事援助を頼めなくなる。日本の軍事力は単独で侵略を阻止できるほど強くない。やがて侵略、そして秩序の崩壊へつながるだろう。
 
 パレスチナとイスラエルの紛争が起きてから、メディアの関心はそちらに向き、ウクライナ問題はあまり報道されなくなった。ロシアが勝利すると、その影響は中国の侵略行為を促し、日本にも累が及ぶということは言われているが、あまり切迫感がない。それよりも民主主義国家の構成員としての義務や責任に関する議論がほとんど見られないのが残念である。日本のメディアにはそのようなモラルが欠如しているのではないか。警察と暴力団の勢力が拮抗しているとき、警察に見方をしなければ暴力団に支配されてしまう。
 
 せめてウクライナに対する軍事援助を議論のテーマとして取り上げてほしいと思う。このままだと身勝手な国家、いや卑怯な国家となりかねない。日本人として肩身が狭い。

 最近の前線の報道によると、ウクライナの軍事学科を出た同期の若者70名の内、現在生存しているのは24名であると。前線は過酷である。ヘルメットと防弾チョッキでお茶を濁すようなことはしたくない。殺傷能力のある兵器を彼らは望み、そうでなければ彼らを守れない。

戦力としてのモラル

2023-04-10 21:21:43 | マスメディア
 ロシアはウクライナへの侵攻後、ブチャなどで多数の民間人に対して拷問、略奪、強姦、殺戮、さらに子供の拉致を行ったとされる。このことが世界に知れわたるとウクライナに同情が集まり、ロシアの残虐行為には強い批判が起きた。結果として、ロシアの蛮行は世界により多くの敵を作り出したわけで、それはロシアの戦力が低下したのと同じ意味を持つ。この蛮行は愚行でもある。

 かつて日本は真珠湾を奇襲攻撃した。直前に宣戦布告をする予定であったらしいが時間が遅れ、結果として卑怯な不意打ちと受け取られた。それが何をもたらしたか。アメリカ国民の戦意を一気に高め、日本が開戦当時意図していた、途中での講和交渉の道を遠ざけてしまった。奇襲攻撃の戦略上の利点を上回る失点であったとも言える。

 民主主義国では国民の意識が政府の動向に反映される。ロシアの蛮行が明らかになったとき、こんな野蛮な国に支配されることになってはかなわないという意識が周辺の国に広がった。ポーランドやバルト三国、フィンランドなどの周辺国のロシアに対する強硬な態度には納得がいく。

 それにしてもロシアはなぜ戦略上、不利となることが明らかな蛮行を繰り返すのだろうか。それは彼らが自分たちの行為を蛮行だとは認識していないからではないだろうか。戦争にはつきものの普通の行為だと思っているのではないか。1945年8月、突然日本に攻め込んで満州や千島で残虐行為をしたソ連から変わっていないのではないか。困ったことだが、彼らの伝統的な文化とも言える。

 西欧諸国でも百年前は残虐なことが許される社会であった。だが現代はかなり違う。アニマルウェルフェア(動物福祉)までが叫ばれ、福祉は動物の世界にまで拡大した。残虐な行為に対する拒否感はとても強くなっている。今はそのような文化なのである。だが悲しいことに、犬や猫を食べる国が存在するのもまた現実である。

 モラルという観点から言えば、ロシアがウクライナに侵攻したこと自体、重大な反モラル行為である。他の国の領土、生命、財産などを力づくで奪うのだからとても許せるものではない。こんなことを許せば世界の秩序は崩壊するだろう。暴力団が警察に勝利して、好き勝手するようなものである。悲しいことに、力づくで他国に侵攻しようとする意図は中国や北朝鮮にも見られる。ロシアと同様、我々とは別の文化圏なのである。

 世界は民主主義体制の国と独裁体制の国に分かれるとされる。独裁体制のロシア、中国、北朝鮮などの国は政治体制が異なるだけでなく、文化も異なると言ってもよい。エイリアンみたいなものである。少なくとも我々と共通のモラルと文化をもつ国ではない。平和憲法を持つ国には攻め込まない、とは決して考えない。攻めるかどうかの判断は勝てるかどうか、利益になるかだけにかかっている。平和を守るのには抑止力が最も重要である。しかし、防衛力拡大に反対するなど、こんな簡単なことが理解できない人が大勢いるのは残念なことである。少なくとも我々の文化圏ではモラルは戦力としての意味を持つし、そうあってほしいものである。

「7人の侍」とウクライナ戦争

2022-10-14 21:59:26 | マスメディア
 古い映画だか「7人の侍」を改めて見た。黒澤明監督の世界的に有名な作品である。米国ではこのリメイク版として「荒野の7人」が制作された。あらすじはほぼ同一である。繰り返される盗賊の襲撃に悩む、貧しい村の百姓たちが侍(米国版ではガンマン)たちを雇い、盗賊団に立ち向かう話である。侍のリーダーは百姓たちの願いを聞き入れ、仲間を募集するが、報酬はその期間の食事だけである(米国版では報酬は20ドルだけ)。名誉も出世もない。やがてリーダーの人柄などに惹かれ、6人の侍が応じる。いずれも腕に覚えのある浪人たちである。

 7人は村人たちの住む村に行き、40人の盗賊の攻撃に備える。村人たちにも竹槍などの武器を使う訓練をし、防御作戦を練り上げる。そしていよいよ盗賊が襲いかかる日がやってくる。7人と村人は奮戦し、頭領はじめほとんどの盗賊を倒してしまう。勝利である。しかし7人のうち4人は死に、3人だけが残る。村を後にする道中で、「勝ったのは村人だ」と、リーダーがつぶやく(この部分は米国版と同じ)。

 この映画は様々な見どころがあるが、暴力的な侵略者に対して武力で立ち向かうことの意味を問うている。村の平和と引き換えに、村民の一部とともに半数以上の侍が死んでしまう。提起される問題は、共同体の平和のために一部が犠牲になることの是非である。ここでは逆に抵抗しない場合に起きる隷属の過酷さとの対比も考慮しなければならない。

 「人命は地球より重い」と言って赤軍の要求を入れ、身代金と9名の仲間の釈放した(後に国際的な非難を浴びる)福田赳夫元首相の考えでは、一部が犠牲になる選択などできない。人命は、すべて重く等しいと考えた場合、身代金には応じるほかない。そして犯罪者たちを抑止する秩序が失われる。ウクライナのように侵略を受けた場合、選択は抵抗か降伏の二つしかない。元大阪市長の意見のように、人命を優先して降伏・隷従を選んだとしてもウクライナのブチャのような悲劇が起きる可能性がある。相手が紳士的な国ならいいがそんな国なら侵略などしないだろう。

 現在、侵略の可能性のある国、ロシアや中国は紳士ではない。ブチャやウィグルを見ればわかる。米国による日本占領は例外的に寛容なものであったとされている。現在、ウクライナ国民は結束してロシアと戦う選択をした。この問題を黒澤明は半世紀前に提起している。いつの時代にでも起こり得る問題なのである。条件にもよるが、抵抗こそが現実的な選択なのである。身代金を払ったり降伏したりすれば侵略行為を許すことになり秩序の破壊にもつながる。

 犠牲を覚悟した上の抵抗は楽な方法ではない。抵抗に成功し、侵略者を排除したとしても犠牲になった者たちは浮かばれない。ただ犠牲的行為に賛辞が送られるのみである。だが死んでから賛辞を送られても本人には伝わらない。しかし我々の心は犠牲的行為にひどく感情を動かされるようにできている。そうした心が共同体の結束・維持に役立ってきたと思う。人命が第一だとして降伏や隷従を選ぶ共同体に明るい未来が待っている可能性は小さいと思う。残念なことだが、犠牲なしに難局を超えられない事態もあるのである。ロシアや中国のおかげであるが、今もこのような選択を強いられることがある。

 米国版「荒野の7人」にはなく、「7人の侍」だけにあるエピソードがある。盗賊をできるだけ減らしておくために盗賊の拠点に少人数で夜襲をかける。村人の利吉は案内役を買って出る。忍び寄って盗賊のアジトに火をつけ、あわてで飛び出してくる賊を出口で斬っていく。最後に美しい女が戸口に立ち、しばらく利吉と見つめあった後、炎の中に戻ってしまう。女は盗賊に奪われた利吉の女房であった。ひどく残酷なエピソードであるが、隷属下では起き得ることである。

正義のウソ

2022-10-01 22:15:09 | マスメディア
 安倍元首相の国葬があった翌日のテレ朝「羽鳥慎一モーニングショー」で菅前首相の弔辞について、玉川徹氏は次のように述べたことが波紋を広げている。

「これこそが国葬の政治的意図」と指摘し
「それは胸に響く部分はあるんですよ。そういそういう形として国民の心に残るんですよね」
「演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきましたからね。それはそういう風に作りますよ」
「政治的意図がにおわないように。当然これ、電通が入ってますからね」

 菅前首相の胸に響く、感動的な弔辞を電通の仕事に過ぎない、しかもそれは政治的意図のもとで作られた、と玉川氏は述べたのである。菅前首相に対するひどい侮辱である。玉川氏はそれを演出側の人間として訳知り顔で話している。ところが恥ずかしいことに 翌日の同番組で電通は関係がなかったと謝罪している。すべて彼のつくり話であったというわけである。

 この話題はネットで大きく報じられたが、他の主な地上波テレビや新聞は報じていないようだ。これは仲間同士は批判しないという従来からの慣習があるように感じる。他の企業の不祥事には容赦ないバッシングをするが、同業者にそれをすると他の機会に反撃されるからだと思う。しかし今回は問題が深刻であり、事実を報道すらしないのはおかしい。

 玉川氏は、重要なことを裏も取らず数百万人の視聴者に話したわけであり、要するにウソつきであることを露呈した。ウソがどういう重みを持つか、職業柄、十分知っていたと想像できる。それにもかかわらず意図的と思われる重大なウソをついたことを理解するのは難しい。もしかしたら政治的な目的(今回の場合は菅氏や政権を貶める)のためにはウソはついてもいいという判断があったのではないか。

 その判断は朝日のサンゴ礁事件、慰安婦誤報と福島原発の事故処理の誤報とウソは何回も問題になっている。どれも社長の辞任まで至ったが、それでも彼らはなかなか懲りないようだ。これは推測だが、ウソをついてまで報道しても、それが政治的な目的のためであれば許されるという判断があるのではないだろうか。つまり正義のウソである。実に困った「正義」であるが。

 玉川氏やテレ朝を処分すべきという声が各方面が上がっている。報道機関は言葉が商品である。ウソは商品の価値を失わせるだけではない。有害である。その影響は長期に及ぶこともある。このまま不問にすればその悪影響が懸念される。

 世界にはウソをつく国が少なくない。中国、ロシア、北朝鮮、それに韓国らがメジャーであろう。このように国名を挙げると不思議なことに気が付く。これらの4か国、とくに中韓は朝日が親近感をもっている国々である。ウソをつくということは信用を失うことでもあるから普通はあまりしない。朝日や中韓では信用の失墜よりも政治目的が優先されるのかもしれない。一種の原理主義であり、ウソをついてでも実行しなければならない正義があるのかもしれない。玉川氏の発言はウソがはっきりとわかるケースだが、普段から記事の選択や取り上げ方の違い、見出しの工夫などによって広義のウソが豊富にある。 

正義と不寛容を特質とする人達

2022-09-28 22:26:49 | マスメディア
 少し前、京都の宝ヶ池公園でのことである。ここでは時々ドラマの撮影が行われる。その際、撮影範囲に人が写っては困ることがあるのだろう、通行を2~3分間待ってくださいと撮影スタッフに言われることがある。むろん態度は丁寧だ。その日も1分ほど待って池の反対側へ行ったところ、そこには十数人の集団がいた。撮影の経緯を知った人がその旨を伝えると多くの人は撮影場所を避ける道を選んだ。しかしただ一人、60歳代と思われる女性が「私は行くよ、公園だから」と言って撮影場所に向かった。「少しくらい譲ってやったらいいでしょう」と私が言うと、彼女は「道を通る権利がある」と言い、行ってしまった。いさましい方である。彼女には正しいという信念があるように見えた。信念の中身が問題だが。

 交通機関で妊婦に席を譲ったり、老人の荷物を他人が持ってあげたりする光景を見ると心がなごむ。しかし宝ヶ池公園の60歳代の女性の行為を見ると、心が冷える。もしもこんな人が多数を占めたらどんなひどい世の中になるだろうと思うと暗い気持ちになる。

 なぜこんな話をしたかというと、安倍氏の国葬につながるからである。国葬の模様はテレビで見たが、その中に反対者の集会の映像があった。そこには国葬反対と大声でいきまいている女性が映し出され、それが宝ヶ池の女性が重なったというわけである。

 葬儀は亡き人を静かに送るものである。これは日本だけであるまい。大騒ぎする葬儀など見たことがない。それに酒を飲み過ぎて死んだ人ならともかく、演説中に非業の死を遂げられた方に対し、大騒ぎして反対するなど、許されることではない。人としてのもっとも基本的なモラルに反する。また、弔意を示し、安倍氏を静かに送ろうとする大多数の人々の心に対するひどい無礼である。心を踏みにじるとはこういうことを言うのだろう。

 国葬に反対する人々は、安倍氏に百の功績と一の失敗があっても安倍氏を許せない人達であろう。少しでも寛容な心があれば醜い反対運動などできまい。また葬儀の形式ということだけでここまで必死になるという気持ちも私には理解できない。これは彼ら自身が気づいていないかもしれないが、背後にある政治的な意図に踊らされている結果でもあろう。
厄介なのは彼らがそれを正義と信じていることである。「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」という山本夏彦氏の言葉が思い出される。コップの中の正義とでも言うべきか。

 より深刻な問題はメディアの姿勢である。国葬を中心に報道するように見えるが、本当の狙いは国葬をめぐる国民の分断、対立を映し出すことにあるようなメディアが少なくない。ごく少数者による反対運動を大きく取り上げすぎている。しかし、国葬は終わったのだから今から反対しても意味がない。もしまだ反対運動が続き、それをメディアが大きく取り上げることになれば、それは政治的な目的があるからだろう。この後のテーマは統一教会問題に移るかも知れないが。

 国葬に反対した人たちがすべてそうだとは言わないが、彼らの特質として不寛容と自分達の権利優先があるような気がする。また何年たっても「抑止力」が理解できないという不思議な頭を持っている。彼らは少数だがメディアが同調する限り、その影響力は何倍にもなる。

 言うまでもないが、安倍元首相は稀有の政治家であったし、葬儀はそれにふさわしいものであったと思う。とりわけ菅前首相の弔辞は胸を打つものがあった。葬儀の場でありながら自然発生的に拍手が起きたのはそれをよく表している。

日本を壊す人たち

2022-09-22 22:57:07 | マスメディア
 安倍元首相の国葬反対論が盛んである。落合恵子氏、佐高信氏、前川喜平氏ら、おなじみの面々は国葬反対のデモや集会をおやりのようだが、デモをするほどの大問題なのだろうか。本来、国葬がこのような激しい議論になることが不自然である。国を二分するほどの問題ではない。不自然を不自然と感じさせない裏にメディアの努力がある。

 安倍氏が亡くなった当時は国葬に賛成する人が過半を占めていたが、時間が経過するにつれ反対が増え、現在は反対者が過半を占めるに至った。この変化の要因の多くはメディアの努力によるものと思う。世論の制御である。費用の16億円ですら高すぎる、税金が無駄といった反対論が大きく報じられた。国民一人当たりでは12円程度である。本音は、国葬によって安倍氏が高く評価されるのが嫌なのだろう。国葬に反対することは安倍氏の否定になる、そして現政権の支持率低下につながると考えているのだと思われる。政治的な目的が本当の目的なのであると思う。

 森友問題、加計問題、最近の統一教会問題も同様の意味がある。これらの問題にどれだけの重要性があるか、私にはわからない。しかし少なくともこれらの問題が国会の機能の多くを浪費して議論するだけの価値はないと思う。言うまでもないが国会の機能は有限である。この機能の維持のために莫大な費用がかかる。議員報酬など直接の費用だけでなく、国政選挙の費用もある。この機能の大部分が無駄になるのは大変な損失である。日本という国の重要な機能を奪う行為なのである。

 森友問題、加計問題で1年半以上もそれが国の主要な課題となった。週刊誌報道などをネタにして野党が政権を追求し、それを左派メディアが後押しするという構図である。問題が長期間にわたるのは主にメディアのためである。長期にわたって騒ぐからで、野党はそれによって勢いづく。結果として国会の機能が低下し、重要な方針が決まらない。

 この30年ほど、日本は経済成長をほとんどしていない。だが他の先進国はそうではない。日本は1人当たりの所得では韓国にも抜かれた。このままでは近いうちに先進国と呼ばれなくなるかもしれない。30年は長い。この経済の停滞には与党にも責任があるが、これを主要な課題として取り上げないメディアの見識も問題である。原発事故があってから12年になるが、未だに稼働している原発は4基(稼働可能は別に6基)に過ぎず、この間何をやっていたのかと思う。原子力規制委員会はまともな仕事をしていないが、主要な議題にならない。

 エネルギー安全保障、食料安全保障、経済安全保障、本来の軍事的安全保障、どれも国の根幹に関わる重要問題であるが、ふさわしい扱いを受けてきたとは思えない。ゆとり教育の失敗は明白だが、その重要な政策の実施に十分な議論が行われたとは思えない。優生保護法やらい予防法の廃止は遅すぎたために人権侵害の状態が長期間放置された。これらより森友問題の方が重要と考えるメディアが日本の世論を誘導してきたわけである。メディと野党の関心は政権の足を引っ張ることに集中し、それ以外の問題は等閑にされた。

 最初に騒ぐのは野党であるかも知れないしメディアであるかも知れない。しかしそれを長期にわたって大問題と思わせ、国会の機能を奪うのに大きな責任があるのはメディアであろう。野党はしたくてもその能力がない。メディアは膨大な取材力を持つが、そのほとんどは警察回りのような事件・事故の取材に使われ、経済や教育、様々な社会問題における重要な問題提起には見るべきものが少ない。

 国が何らかの政策方針を決定し、それを進めていくためには国民の合意形成が欠かせない。メディアは合意形成に協力するよりも、分断する方に力が入るのが常である。メディアの罪は政権の足を引っ張るだけでなく、国会の機能を妨害することにある。その結果、日本は食料やエネルギーの自給率、防衛能力が低い国になった。その上、経済力がさらに低下すれば様々な点で脆弱な国になりそうである。私のささやかな願いはメディアのリーダーには利口な人になっていただくことである。それが大変遠い目標であることは承知しているが。

マスク世界一の日本がコロナ感染者世界一とは

2022-09-11 20:13:11 | マスメディア
 1ヵ月ほど前から日本の新規コロナ感染者数は世界一である。その日を先頭にした7日間の平均感染者数(1日あたり)で、7月22日に世界トップの座に躍り出た。8月末をピークに下降傾向にあるが、それでも9月9日現在、以前として世界トップである。人口規模が3倍近い米国をも凌駕し、英、仏などの西欧の主要国は日本に遥かに及ばない。不思議なことに、新型コロナの初期の状況とは逆の傾向である。当時は日本の新規感染者数が少ない理由があれこれと言われたが、未だにはっきりしない。ファクターXは謎のままである。

 しかし、第7波の状況、つまり日本が世界一を続けている状況をどう理解したらよいのだろうか。他の主要国と同様、行動規制は行われず、ワクチン接種率もトップレベルである。それどころか他の主要国ではマスクの規制も緩めており、屋外でマスクはほとんど見かけない国が多い。それに対して日本では屋内はむろんのこと屋外でもほとんどの人がマスクを着用している。つまり世界一マスクを着用している日本が世界一の新規感染者数を生み出しているのである。ここから推論できることは、マスクは少なくとも感染抑止の役に立っていない可能性が大きいということである。

 これは100%正しい推論というわけではない。マスクは有効であるが、その効果を帳消しにするほどの強力な感染促進の要因が日本だけにあるという可能性を考慮する必要がある。しかしその可能性は大変低いと思う。はっきりさせるためには例えば鳥取と島根のような条件がよく似た二つの府県を選び、一方をマスクなし、他方をマスクありとして経過を見るとよい。1ヵ月もやれば結果は出るだろう。

 新型コロナの流行はそろそろ3年にもなる。マスクは鬱陶しい、とくに夏場は暑くて大変である。少なくとも私には大変な負担である。人が声を出すときに生じる飛沫の拡散、マスクの有無による拡散状態の変化はコンピューターのシミュレーションで目にするが、実際にマスクの有無が感染に与える影響を調べた結果を私は知らない。欧米の主要国がマスクをそれほど重視していない裏にはマスクの効果を日本ほど信用していないのではないかとも思う。

 とにかく、感染者数世界一という事実はマスクの有効性に大きな疑問を突き付けるものであり、その疑問を明らかにするのは政府や研究者の役割であろう。また問題提起すらしないメディアの見識をも疑う。メディアなんてこんなもんだと言われればその通りだと納得せざるを得ないが。

 さて鳩山由紀夫元首相が医師から聞いた話として「ワクチンを打った人の方が打たない人より3倍入院する確率が高い」と世界保健機関(WHO)が認めたとツイッターに投稿したそうだ。信用がないことに定評のある人物の発言だけにすぐにデマだと否定されたが、その背景には、ワクチンが感染予防や重症化予防にどの程度の効果があるか、我々はほとんど知らされていない事実がある。ワクチンの感染予防効果や重症化予防効果には重大な関心がある筈だ。変化していくものであるから厳密な数値は無理だとしても目安ぐらいは可能だろう。3年も経ち、全数把握でデータはある筈なので部分的であっても発表してほしい。それがあれば迷惑な鳩山氏の出番はない筈である。重要なことが抜けていても誰も問題にしない、不思議な国である。

死者に鞭打つ朝日新聞 中国式?

2022-07-20 11:28:56 | マスメディア
 安倍元首相の突然の死去後、彼の実績に対する海外からの高い評価に驚かれた方は少なくないだろう。それは国内での評価は海外に比べ低かったことを示すが、その理由は内政が悪かったわけではない。安倍氏を嫌うメディアの報道が曲げられていたことが大きい。
 
 多くの功績があった人に多少の失敗があっても、彼が亡くなった時、ことさら失敗を取り上げて非難したりはしない。それが日本の文化であり、死者に鞭打つ行為として否定される。死者は反論ができないのだから、死者に対する批判は一方的で卑怯という合理性もある。

 しかし朝日新聞は少し文化が異なるようだ。安倍元首相が亡くなった翌日、7月9日の紙面に「『負の遺産』真相不明のまま安倍元首相が死亡」という見出しが載った。負の遺産とは森友、加計、桜を見る会とある。亡くなった翌日にこのようなネガティブな報道をする神経が分からない。15・16日付の朝日新聞に掲載された「朝日川柳」もまた元首相の死を揶揄したものを集めたもので不快であり、朝日の常識を疑う。安倍元首相の功績は海外の反応で一層明らかになったが、朝日は逆に低い評価を続けた。この9日の記事はその終章のようである。死者に鞭打つ行為であり、死者に対する敬意はどこにも見えない。このような文化は日本よりも中国や韓国に近いのではないか。

 安倍元首相の国葬に関しては様々な意見がある。野党の主張の主なものは国論が分かれているから国葬をすべきでない、というものである。世論調査によると国葬の賛成者は過半を占める。どんな案件でも国論が完全に一致することはあり得ない。野党の言い分だと10%が反対でも国論が分かれるということになる。多数決は少数意見の切り捨ての方法である。本心は、朝日と同様、安倍氏の安全保障に関する大きな貢献が気に入らないのだろう。日本が安保法制などによってより防衛力の強い抑止力の優れた国になったことを嫌なのであろう。これは中国と同じである。日本の防衛力の強化を嫌うのは日本への侵略を考えているからである。

 元ニュースキャスターの辛坊治郎氏がツイッターに「毎日新聞が中国共産党政府から広告費として巨額の金を受け取っているのは公然の事実」と書いているが、毎日新聞チァイナウォッチというプロパガンダ記事を掲載している事実がある。中国の浸透もかなり露骨になってきたようである。安倍氏に対する朝日新聞の姿勢も中国の利益を代表しているようにも見える。想像もしたくないが、まさか朝日と毎日が中国に気に入られようと競っているのではないか。

 国葬に反対している論者に橋下徹氏がいる。彼は国葬を安易に決めるのは法治国家ではなく人治国家であるという。将来、菅元首相や鳩山元首相がワシも国葬をやってくれといったらどうやって断るのか、と言う。国葬の基準を設けるべきということであろうが、首相の評価の基準は簡単ではない。功績は時間と共に変わるだろうし、死亡状況によっても変わり得る。暗殺で直後に死亡した場合はブラス10点、1年後に死亡はプラス5点、病死は0点など冗談みたいなことになる。菅元首相や鳩山元首相が国葬をしてくれと言っても常識で判断すればよい。法は決して万能ではない。常識や習慣を決まりにしたのが法であってその逆ではない。優先されるべきは法ではない。法律家の仕事をばかり増えても困るのである。

主義主張より優先すべきもの

2022-06-18 20:27:27 | マスメディア
 最近中国であった話である。飲食店で4人の女性が食事をしていた。そこへ数人の男が入ってきて1人が女性に触ろうとした。女性はそれを払ったところ、男は逆上し、女性4人を店外に引きずり出し暴行加えた。女性2人は入院するほどの怪我を負った。これを助けようとした男は誰もいなかったということが中国で問題になっているという。もしかしたら周囲にいた男たちは平和主義者ばかりで暴力はいけないと思っていたのかもしれないが、そんな理由は世界に通用しない。

 フィンランドとスウェーデンは長年の中立政策を破棄しNATOへの加盟を決定した。またその前にはウクライナへの軍事支援を実施した。ロシアがならず者であることが明確になったことを受けて旗幟を鮮明にしたわけである。またスウェーデンでは原発の維持に国民の84%が賛成だという。両国の現実的・合理的な対応が私には羨ましく感じる。1人当たり国民所得が世界のトップクラスであることも合理的判断ができる結果だろう。日本はエネルギー価格の高騰のために貿易赤字を続けているが、まだほとんどの原発は停止したままであり、電力不足が懸念される上、電気料金も世界有数の高さになった。産業弱体化の理由のひとつである。

 日本はウクライナに対して援助をしているが、軍事支援は拒否している。ウクライナが何にもまして軍事支援を必要としているにもかかわらずである。東部戦線ではロシアとの火力差が10~15倍になるという。軍事支援の遅れがウクライナの敗北につながる。前にも述べたがロシアの軍事侵略を許すことは戦後営々と築かれた国際秩序の危機を意味するから、あらゆる手段を用いて、何としてもロシアの野望を阻止しなくてはならない。しかし日本では軍事支援に反対する意見が強い。恐らく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」という憲法前文の理念、を愚かにも信じているためであろう。しかしいま暴れているロシアは平和を愛する国ではない。前文にある理念の前提はすでにないのである。

 中国の飲食店での例で言うと、日本の行動は女性への暴行を直接止めることはできないが、女性が怪我をしたら治療費を出しましょう、亡くなったら葬式代を出しましょう、ということである。目前の暴力に対抗できるのは実力だけで、カネではない。日本では理念や主義主張という言い訳が通用するが、世界からみればただの偽善、卑怯と映るだろう。とても武士道の国とは思えないに違いない。湾岸戦争のとき、各国が軍を派遣して血を流す中、日本はカネだけを出して世界の顰蹙を買った。それを繰り返すのだろうか。

 フィンランドとスウェーデンの対応は大いに参考になる。両国とも平和を望んだ結果の判断である。NATOという集団的安全保障と軍事予算の増加によって平和を実現しようとするものである。平和のための当然の、最適の選択だと思うが、日本ではそうはいかない。必要最小限度の戦力、専守防衛などと言ってきたが、それでは相手を戦争の誘惑に駆り立てるだろう。核を持つ、ならず者独裁国家が3つも周囲にあり、しかも敵対関係になりそうである。

 また、他国が侵略してきたとき、戦うかという問いに対し「戦う」が国民の15%しかいない国である日本は特殊な国である。自国を防衛する気概を持たない者が85%程もいるというのは情けない。現実の認識が異常であるとしか思えない。このような認識を生み出したのは左派勢力の長年にわたる努力の結果であろう。とくにマスメディアが左寄りであったことが大きく影響していると思う。

 日本の防衛問題に関する空想的な認識は軍事的な安全保障だけでなく、エネルギー安全保障や食料安全保障にも悪影響を与えている。左派勢力の膨大な努力が日本の軍事的リスクを増大させたのは確かだろう。彼らがそれを正しいと思ってやっていることがまた厄介な点である。情勢への正しい認識は実に重要であり、それを誤れば致命的な結果を招くことがある。