噛みつき評論 ブログ版

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日本の経営者が最も悲観的・・・マスコミの無責任度は世界一?

2009-01-29 09:45:46 | Weblog
 「世界で2009年の景気動向を最も悲観しているのは日本の経営者」という調査結果が発表されました。1月26日の日経によると、調査は世界36ヶ国・地域の中堅企業経営者対象に行われ、景況感がよいとする人の割合から悪いとする人の割合を引いた景況DI値は日本が-86で悲観度トップです。DI値の低い国はタイの-63、仏の-60、高い方はブラジルの+50、インドの+83となっています(ブラジルやインドのDI値はかなりの好景気を示すもので、世界中が危機にあるかのような日本の報道からは想像できません)。

 一方、周知のように欧米の金融機関に比べ日本の金融機関の損失は軽微とされ、円の価値の上昇は日本経済の比較優位の結果と見ることができます。輸出産業の落ち込みは大きいですが、日本のGDPに占める輸出の割合は15%で、これは英仏独の輸出比率18~38%に比べると、むしろ低い数値です。

 日本の経済的状況は世界の中で最悪レベルではなく、日本の経営者が世界一悲観的という調査結果は現実を正しく反映したものとは思えません。民族的な特性として日本の経営者がもともと悲観的な性格を持っているとは考えにくく、もっとも強く疑われるのは、彼らが得ている情報に悲観的な偏り(バイアス)があるのではないかということです。その情報の多くはマスコミが提供したものです。

 つまりマスコミが悲観的な情報を多量、かつ過大な扱いで流し続けたために日本の経営者が世界でもっとも悲観的になったと推測することができます。例えば1/23朝日新聞朝刊は「09年度成長率、日銀がマイナス2%予測 戦後最悪」を一面トップに掲載していますが、どこまで信頼できるかわからない予測を戦後最悪という説明までつけてトップに掲げることに疑問を感じます(日経トップは「日銀見通し、2年連続マイナス成長」)。

 日本のマスコミには、大地震の後には震度1や2の地震まで細かく報道する、あるいは有名な食品偽装事件があると、取るに足りない同種の事件まで大きく報道するというように、トレンド(傾向、流行)を追う習性があります。これは独自性とは逆の、一種の付和雷同傾向と考えてもよいと思います(情けないことですが)。

 危機の場合、その深刻さを表すニュースは高い価値を与えられ大々的に報道される反面、危機を否定する方向に働くニュースは無視あるいは軽視されます。それは深刻な危機というシナリオが一度出来上がると、当分の間、報道には危機という方向性が与えられてしまうようです。この方向性の決定はとても主観的なものであり、客観報道とは相反するものです。

 人の判断は与えられる情報によって決定されます。情報が独立変数であり、判断は従属変数です。外部から見れば、人はある関数で規定される入出力装置と見ることができます。関数は人により異なり、奇人・変人は変わった関数をもっていると考えられますが、ある集団全体としての平均的な関数は安定したものと考えられるので、判断の平均値は情報によって決定されるといっても差し支えないわけです。

 日本の経営者が世界一悲観的ということは、日本のマスコミの悲観的な偏向が世界一という推定が可能です。一つひとつの記事にウソはなくても、偏った記事の選択、過大な扱いによって結果的に誤った認識を与えているわけです。

 悲観的になるのは経営者だけではありません。マスコミから情報を得ている消費者も世界一悲観的になるかも知れず、買い控えなどを通じて危機をさらに深刻化させるということになります。

「私たちが恐れなければいけないただ一つのことは、恐れそのものであるいうことである」-これは恐慌のさなかに大統領になったF・ルーズベルトの就任演説の一節です。

 日本のマスコミは「恐れ」を拡大することが自分の仕事だと心得ているようです。これをやめさせるには、不況になればまっ先に新聞の購読を中止することがもっとも有効です。
(参考)不景気を増幅するマスコミという装置

首相の演説より注目されるオバマ演説

2009-01-27 23:19:03 | Weblog
 オバマ氏の就任演説はマスメディアにも大きく取り上げられ、新聞には全文の日本語訳も掲載されました。米国の今後の方向性を示すものとして関心を集めるのは当然ですが、周到に用意された演説もまた見事なもので、感銘を受けた方も少なくないと思います。

 新聞が数ページの特集を組むなど、メディアの注目度の大きさは最大級であり、わが国の首相の所信表明演説の扱いに比べ、大きい格差が感じられます。日本に対する米国の影響が大きいといっても、日本の政治が日本自体に及ぼす影響の方がはるかに大きいのは自明ですから、首相の所信表明の扱いが米国の大統領演説より小さいのはまことに奇妙な現象であり、日本政治の地位を象徴しているかのようです。

 日本の所信表明演説に対する関心の低さは、天下泰平で社会に問題がないためではなく、政治に対する期待度が低いためと、日本の政治が方向性を魅力ある形で示すことがないためでしょう。説得力のある方向性を示せない点はオピニオンリーダーを自負するメディアも同じです。

 大統領の演説と集まった多数の聴衆を見ていると米国民が政治に対して大きい期待と信頼をもっていることが感じられます。それに対し、メディアで見る限り、日本では政権発足時から国民は冷めたままという印象があります。

 国民が政治に対する期待や信頼をなくしてしまった理由はむろん政治自体にもあるでしょう。また首相が1年ほどで交代するようでは方針を聞く気にならないのも確かです。しかし、政治家の不祥事を針小棒大にあげつらったり、ほとんどの政策は正負の両面があるのに負の面ばかりを強調するという報道を日常的に繰り返してきたメディアの果たした役割を無視できないと思います。

 永年にわたるこのような報道が政治への期待を失わせたと考えられないでしょうか。政治を育てるのはマスメディアの仕事であり、ムチばかりではうまく育たないのは教育と同じで、是々非々の姿勢も必要でしょう。

 そのような報道の積み重ねによって、政治自体が期待される職業、魅力ある職業でなくなると、政治家を志す有能な若者が減り、2世・3世に道を開くことになります。有能な政治家が減れば政治への期待も低下し、悪循環を起こします。日米のリーダーを見る限り、出自の良さは考慮すべき要素ではなさそうです。

 他国の出来事であるオバマ氏の演説の華々しい報道ぶりを日本の政治リーダーはどんな気持で見ていたのでしょう。日本の政治が華々しく報道されるのは不祥事のときくらいという事実に違和感を持たないのでしょうか。メディアにクレームつけるモンスター政治家がいてもよいのではないかと思います。

カナダの陪審員残酷物語・・・日本の裁判員は?

2009-01-23 12:53:54 | Weblog
 『1990年代の半ばから2001年にかけて何と26人の女性を殺害したとされるロバート・ピクトンという容疑者がいる。この人の裁判は一年近く続いていて、先週の金曜日からようやく陪審員たちが審議に入った。

 今回の12人の陪審員に26名全ての裁判を任せるのは、あまりにも大変であろうということで証拠がある程度はっきりしている6名に関する裁判がまず行なわれた。それでも今年(08年)の1月から裁判が始っているため1年間になる。この期間12人の陪審員(男性が7人女性が5人)たちは仕事も休んでずっと法廷にいた。法廷の中で見聞きしたことを人に話してはいけないので、裁判所にホテルのようなものが併設されているのだと思うけれども、この人たちはそこから動くことができないし、家族や友人などの身近な人に見聞きしたことを話すこともできない。

 また事件の証拠として、普段見ることのないような非常に残酷な写真やビデオなどを見なければならない。自分の中で抱え込まなければならないストレスがとても大きいようで、その後トラウマとして残ってしまう人も少なくないようだ。
 陪審員にとってこの体験は非常に大きなものだから、終わってからも嫌な夢を見たり、不眠症などに悩まされたり、事件の内容によっては自分の身にも危険が及ぶことを恐れるようになったりするそうである。今回は1年近く裁判が続いているので、元の生活に戻るということもなかなか大変である。この制度は国民の義務なので、同じ職場に戻って同じポジションで仕事を始めるということは保障されているのだけれども、1年間も仕事から離れていると色々なことが変わっているだろうし、人間関係のようなものも微妙に変わってくるだろうし難しいと思う』

 以上は08年12月6日、NHKラジオ深夜便で放送された、カナダ・モントリオールからのレポートの一部を要約したものです。私は放送を聴いたものの、正確には覚えていないので検索したところ、放送内容をほぼそのまま文章化している「そのまたそのうえ」という親切なサイトを見つけました。上記の要約はそのサイトに依っています。

 死刑のないカナダで、裁判にこれだけの時間と費用をかけていること、そして陪審員の負担の大きさに驚きます。むろん、カナダの陪審員制度はわが国の裁判員制度とは異なり、また上記の例はカナダでも特別のケースでしょうから単純な比較はできません。それでも重罪を裁くことに対して、わが国の裁判員制度は少し安直という印象を受けます。

 裁判員制度では約7割の事件が3日以内、約2割の事件が5日以内,約1割の事件が5日を超えると説明されており、たいした負担はないように見えます。しかし5日を超えるという1割の事件は上限が示されていません。最高裁の資料によると平成19年の公判前整理手続に付された裁判員制度対象事件の開廷回数では11回以上が17件あり、うち2件は20回以上となっていますが、それが何回なのかは不明です。開廷回数の最大値も正直に発表すべきです。まあそれでもカナダよりもずっと短期間なのでしょう。

 少し気になるのですが、最高裁のHPでは、「約7割の事件が3日以内・・・」という説明が以前は目立つところに載っていたような気がするのですが、現在は目立つところには見当たりません。日弁連のHPも「争いのある事件でも数日間で審理が終わることが多いものと見込まれます」という表現にとどまります。

 広島の女児殺害事件の一審では裁判員制度を意識した短期間の審理が行われましたが、二審の広島高裁は審理が尽くされていないとして差し戻しました。この事実は短期間の審理に疑問を投げかけるものとして重要な意味を持ちます。

 短期間審理に早くもクレームがつき、期間が延びる可能性が出てきたので「7割は3日以内・・・」といううたい文句を引っ込めたのではないか、と勘ぐりたくなります。審理をきちんとすることになれば裁判員の負担が大きくなる可能性があります。

 一方、カナダも米国も、刑事事件の評決は陪審員の全員一致が原則と聞きます。これは誤判をできる限り避けるためだと思われますが、多くの時間を要します。それに対してわが国は多数決ですから、終了予定時刻がくれば、「はい、時間がきました。死刑に賛成の方、手を挙げてください」で終わることができ、たいへん効率的です。

 しかしながら予定された時間内に、被告の刑罰、場合によっては被告の生死を、素人6名を含む多数決で決めるというやり方に対し、やはりこんなに安易なことでいいのかと思ってしまいます(参審制を採用している主要国では有罪には2/3の多数を必要としている国が多いようです)。

合成の誤謬(ごびゅう)

2009-01-20 08:30:46 | Weblog
 1月9日の衆議院予算委員会で、麻生首相は「合成の誤謬」という言葉を使っていました。漢字読み間違いの首相にしては大変難しい言葉だ、と揶揄する人もありますが(その通りです)、「合成の誤謬」は経済学でよく使われる言葉で、なかなか興味深い現象を表します。

 不況になり所得が減ると、消費を抑えて生活を守ろうとするのが普通です。ところが皆が消費を抑えるとますます不況が深刻化して、さらに所得が減り、当初の行動が逆の結果をもたらすことがあります。

 これは合成の誤謬の説明によく使われる例ですが、一般的には、個々の行動は合理的であっても、全体としては個々の意図と逆の結果をもたらすことを意味します。この例では、合成の誤謬は経済の不安定要因にもなります。

 ここから先は私の考えですが(従って信用リスク?があります)、この合成の誤謬はもう少し応用できるのではないかと思います。例えば家電販売店が発行するポイントカード・会員カードと呼ばれるものがあります。発行する店が少数の場合は客を囲い込むのに役立つでしょうが、現在のようにほとんどすべての店がカードを発行すれば意味はなくなります。

 強いて言えば客の固定化によって、先にカードを発行した店が多少有利になりますが、時間と共に効果は薄れるでしょう。顧客情報が得られることにより効果的な販売策が採れるかも知れませんが、これもすべての店がやれば効果はないでしょう。需要の総量を増やす効果は多分ないと思われるからです。自分の店だけカードをやめることは不利になるのでやめられず、麻薬のようなものです。カード会社だけは喜びますが、その費用は商品の販売価格に含まれるので、結局消費者の負担ということになります。消費者は何枚ものカードを持ったりして、わずらわしいのですが、カードなしでは不利な仕組みになっています。

 洗剤などの家庭用品はテレビ広告の大きい部分占めています。このような商品は広告を出しても全体の需要がそう増えるわけではありません。しかし広告をやめるとその会社の販売量は下がるので仕方なくやっているという話を聞いたことがあります。これもやめたくてもやめられない麻薬のようなもので、商品に含まれる広告費は消費者が負担します(そのため民放テレビをタダで見ることができるので、よくテレビを見る人にはいいですが)。

 以上の二つの例は全面的とまでは言えないにしても合成の誤謬の例として挙げてもよいと思います。これらは資源の無駄につながり、国民経済という全体でみると必ずしもプラスになっていないというわけです。販売競争が激しい分野では会社や家庭を個別訪問するなど、業界全体が非効率な営業をしているケースがありますが、これも合成の誤謬に入れてもよいでしょう。

 話が少し大袈裟になりますがアダム・スミスの、個々人が自己の利益を追求すれば社会全体としても利益になるという考えがあります。自由な市場の機能を説明するときによく使われますが、合成の誤謬はその例外と考えられるでしょう。自由な市場は合成の誤謬を防ぐ機能をもたず、自由な市場がいつも効率的とは限らないというわけであります。

裁判員制度のダブルスタンダード

2009-01-16 12:24:51 | Weblog
 国民に詳しい説明もされず、また国会でも実質的な論議をされないまま全党の賛成によって、裁判員制度は04年に決まりました。マスメディアが裁判員制度を頻繁に取り上げるようになり、多くの人が裁判員制度を知るのは決定から3年以上経つ07年頃からで、唐突な印象があったことと思います。

 裁判員として参加したいか、それともしたくないか、という質問に対するアンケート調査が何度か実施されましたが、どれも参加したくないが7~8割を占めています。08年12月6日に放送されたNHKの特集では「市民参加で日本の裁判は良くなるか」と視聴者に質問したところ良くなると答えたのは約39.5%で、約60.5%が良くならないと答えました。

 09年1月9日、朝日新聞は07年12月に実施した裁判員制度に関する面接調査の結果を紙面で発表しました。ここでも裁判員を「絶対したくない」「できればしたくない」は76%占めています。そして59%が裁判員制度は根づかないと考え、裁判員制度そのものに対しても、反対が52%で賛成の34%を大きく上回っています。また地方弁護士会の反対も相次いでいる状況です。

 内閣支持率が数ヶ月で大きく変化するように国民の意見はあてにならないという考えもあります。しかしこの裁判員制度に関する意見は安定的であり、世論・民意とみてよいと思います。

 裁判員制度は2001年6月の司法制度改革審議会の、司法にも国民主権の道を開くという理念に基づいた意見書に沿って作られ、04年に国会を通りました。しかしこの制度の重要性にふさわしい量の報道はされず、幾多の殺人事件の方がはるかに大きく報道されました。要するに国民が知らない間に法曹が作り、国会が承認した制度に対して、現在、国民の過半が否定的になっているわけです。

 民主的な手続きを経て作られたものは国民の意向に沿わなくても実施する。裁判員制度は司法にも国民主権の道を開くもので、民主主義をより完全にするものだから国民の反対があっても強行する。これでは本末転倒ではないでしょうか。本来の国民主権はどうなっているのでしょう。

 国民が裁判員制度を知ったときには、既に実施が決定していて動かせない、これでは国民の意向は無視されたも同然で、民主主義の看板が泣きます。たとえ手続上の問題がなくてもこの経過は納得の得られるものではないでしょう。賛成した国会議員は国民の代表としての職務を全うしたとは言えず、重要さに見合う報道を怠ったマスメディアには大きい責任があると思います。

 両者とも制度をよく理解していたのか、疑問です。それは見識の問題なのか、あるいは意欲の問題なのか知りませんが、ともかくどちらも国民にとってはあまり信頼できるものではなさそうです。

 裁判員制度による判決は裁判員6名と裁判官3名による多数決で決められます。つまり裁判員制度は、正しい判決を出せるという国民の判断力への信頼と、多数の判断が正しいという理念をもとに作られました。しかし上記の調査結果が示すように、国民の過半が裁判員制度に否定的であり、裁判員制度の実施は国民多数の判断力を軽視した結果ということができます。

 つまり制度の導入・実施に関しては、国民多数の判断は正しくないと認めているようです。これはまさにダブルスタンダード(二重基準)です。法曹界は論理が重視される世界だと聞いていたのですが、都合により自在に変えられる柔軟性もお持ちなのかと感心しました。。

 裁判員制度に手続上の問題がなくても、現実に国民という「主権者」の過半が否定的であるという事実がある以上、実施を延期し、過半の同意を得られるように修正などをするのが筋でしょう。形式よりも実質的な主権が優先されるべきです。
(参考拙文 算数のできない人が作った裁判員制度)

般若心経解説本673点出版の意味

2009-01-12 10:16:29 | Weblog
 『般若心経は、仏教の教えそのものの悟りの境地を解き明かし、人間が持つ煩悩(色々な迷いや苦しみ)の世界から心の知恵によって悟りの世界に行くための実践方法を明かした、とても御利益のあるお経なのです』・・・これは全日本般若心経指導審査認定協会の案内文の一部ですが、協会では読経と写経について初級から審査指導者まで有料(1500円~50000円)で検定を行っています。般若心経にはランキングのシステムまで用意されているわけです。

 「般若心経」をキーワードにしてアマゾンで検索すると673点もヒットし、08年12月以降でも新たに6点が出版されています。学術書っぽいものも含まれますが、多くは一般向けに書かれた本で「ポケット般若心経」「アウトドア般若心経」「子どもにおくる般若心経」というものまで見つかります。また般若心経のコーナーを作っている書店もありました。

 般若心経の人気は根強く、出版社にとってはある程度の部数が期待できるおいしい分野なのでしょう。読者にとってはこれだけの本が出版され、売れ続けているのは般若心経にそれだけの魅力や価値があるからではないかと思うのは自然です。ベストセラーを買う心理と似ています。仏教にあまり興味を持たない私も気になって、一般向けの本を購入しました。

 どれもやさしく解説してあり、文章の意味は理解はできます。が、内容を理解・納得できるとは言えません。知識が乏しいので内容を云々することはできませんが、仏教の哲学あるいは世界観を簡潔にまとめたものといった印象です。

 しかしながらその世界観は日常の感覚や合理的な思考からの隔たりが大きく、とても普遍性のあるものとは思えません。かなり特殊なもので一般の人が理解するのは難しいという印象があります。もし、これを大変価値あるものという先入観をもって読めば、自分の理解力が足りないのではないかと考え、劣等感を持ってしまうでしょう。やや批判的な立場で書かれた本の序文には「わからなくてあたりまえ」とありました。

 (もっとも、般若心経に書かれていることが仏教思想の核心部であって、それが簡単に理解されるものであれば、困ったことになります。到達し難い深遠なものというイメージが壊れ、また少しづつ教え導くという宗教従事者の存在理由が減ります)

 皮肉にも、読んでもわからないということが解説本が続々と出版される理由のひとつになっているように思います。優れた定番本があれば数百もの本は必要ないわけです。数多くの出版が般若心経の価値を大きく見せ、それが購入者を生み出します。購入者は読んでもわからないので他の本を購入する、というわけです。出版社にとっては好循環と言えるでしょう。

 出版社にとっては喜ばしいことですが、何冊も般若心経解説本を読んで悩んでいる人にとってはそうでありません。またわからなくてあたりまえのことに挑み続ける無意味さを見ることもできます。般若心経を過大に評価する社会の気分のようなものが存在することはないでしょうか。無批判に受け入れる前に、現代に般若心経がどれほどの意味をもつものか、疑ってみることも必要でしょう(むろん理解してその価値を認める方を否定するつもりはありません)。

 トマス・アクィナスは「神学大全」を著した中世を代表する神学者ですが、彼が死ぬ直前「私は生涯をかけてゴミの山を築いた」と言ったという話を、童話作家のミヒャエル・エンデが紹介していました(古い記憶ですが)。神学はどれだけ緻密に作られていようとも、神という虚構の上に成立するものですから、彼は死ぬ直前、その虚構に疑いをもってしまったという想像が可能です。般若心経が虚構の上に築かれたものかはわかりませんが、この話を思い出しました。

国会は台本の朗読会?

2009-01-08 08:21:33 | Weblog
 『07年10月の英保守党大会。政党支持率で労働党に8ポイントのリードを許していたキャメロン党首はメモなしで1時間の演説をぶった。壇上を歩き回り、住宅高騰が中産階級の生活を直撃しているとして、労働党の失政を突いた。この演説を機に攻守は逆転し、保守党は労働党を最大で26ポイントも引き離した』(08/10/03 産経izaより)。

 片や、始まったばかりの日本の国会。ニュース映像を見る限り、とりわけ答弁者が机上の原稿に顔を向けたままの「朗読」が目立ちます。事前の打合せに従って誰かが書いた原稿を読むだけでは、テープレコーダーと大差ありません。そして地方議会ではさらに形骸化が進んでいるようです。

 『2007年9月18日に開かれた政府の地方分権改革推進委員会において、前鳥取県知事の片山善博が「ほとんどの自治体の議会で八百長と学芸会をやっている。一番ひどいのが北海道議会」と名指しで発言。答弁の内容を事前にすり合わせし、議場で答弁書を棒読みする姿勢などを厳しく非難した』(Wikipediaより)

 たとえ内容を十分把握していなくても「朗読」なら形だけはできます。平均1年程度で交代する大臣にとって、仕事を十分理解しなくても答弁できる便利な仕組みかも知れません。しかし朗読が多くては誰が問題を十分理解しているのか、誰が有能なのかもよくわかりません。

 議事の大部分が予め作られたシナリオ通りに進められることにはやはり違和感を覚えます。大勢の人を集め、少なからぬ予算を食いながらの形式に偏った議会は意味が希薄です。北海道議会では再質問、再答弁まで予め用意されていたそうで、まさに八百長や学芸会と呼ぶにふさわしいものです。

 政治家はしゃべるのが商売であり、自分の言葉で主張を伝える能力は政治家にとってはとても重要な資質です。キャメロン党首のように1時間は無理としても5分や10分はメモなしで、前を見て演説していただきたいものです。職務上の知識を十分もち、問題をよく理解していたなら、朗読に頼らなくてもできるでしょう。

 議会が形式通りに進める儀式になれば、面白くもなく、国民から遠いものになります。キャメロン党首の演説が支持率に大きい影響を与えるなんてことは日本では想像できませんが、注目されるだけの内容、それを国民に伝える報道の仕組みがあったのでしょう。テレビのチャンネル数では、日本は英国に負けないと思うのですが・・・。

 「台本の朗読」が主になった理由のひとつは、口がすべった程度の失言に対し大袈裟かつ執拗に取り上げるメディアとそれを党略に利用しようとする野党の姿勢にもあると思います。本音による論戦は面白く、議論の意味もあるのですが、首を心配しながらではできません。

 怖いのは、この議会の形が常態化し、マスメディアも国民もそれになんの違和感も感じなくなることです。

ジャーナリストの謝罪

2009-01-05 09:35:05 | Weblog
 『08年11月、スウェーデンの元記者は30年ぶりにカンボジアを訪問しました。30年前、元記者はポルポト政権に招かれ、用意されたルートを取材したあと、ポルポト支持の記事を発表します。しかしその半年後にポルポト政権は崩壊し、150万人とも推計される虐殺をはじめ、数々の弾圧の事実が明らかになりました。今回の訪問はその過ちをカンボジア国民に謝罪するためのものです。情報操作の片棒を担いだ自分の過ちを世界に伝えることを今後の仕事としたい、と元記者は語っています』

 上記は08年11月24日7時30分、NHK第一放送で紹介された内容を記憶に基づいて要約したものです。ベトナム戦争後に起きたポルポトによる大量虐殺や中国のベトナム侵攻などによって、共産主義のイメージは大きく傷つくのですが、スウェーデンの元記者がカンボジアを取材に訪れた時期はまだ少なからぬ人が共産主義に期待をもっていた頃で、同様に共産国の宣伝に利用された日本人記者も少なくなかったと思います。

 スウェーデンの元記者はポルポト政権を美化する記事を発表することで政権の延命に少しは手を貸したかもしれませんが、影響は間接的で限られたものでしょう。それでも自分の過ちを伝えるのはジャーナリストとしての使命感、あるいは良心なのでしょうか。

 翻って、わが国の事情はどうでしょうか。1959年に始まった「地上の楽園」北朝鮮への帰国事業では84年までに93340名が帰国したとされています。帰国者がその後どうなったかは最近の報道で明らかです。帰国事業は労働力不足解消を目的とした北朝鮮の思惑による事業だと言われていますが、日本のマスコミは「地上の楽園」北朝鮮礼賛の記事を書き、多大な協力をしました。

 当時は共産主義がまだ色褪せていなかったという時代背景があり、それはスウェーデンの元記者がポルポト政権を取材したときと同様、多少の弁解にはなるものの、誤った報道をしたという事実は消えません。そして日本の場合、マスコミの煽動によって「地上の楽園」を信じて帰国する人を生みました。この被害は直接的、かつ深刻です。

 私の記憶の限りですが、マスコミが過去の北朝鮮礼賛の記事を訂正したり、謝罪したことはなかったと思います。また見聞記などの著書によって結果的に共産諸国の情報操作に加担した記者などが謝罪したことも、また記者などが処分を受けたことも知りません。この業界内部への寛容さは、他業界の不祥事や偽装に対する苛烈なまでの厳しさと好対照です。

 マスコミは役人の無謬主義(むびゅうしゅぎ:誤りがないとする立場)をしばしば批判しますが、マスコミも負けず劣らずの無謬主義であり、謝罪文を見ることは滅多にありません(そう言えば決して非を認めない偏狭な人もよく見かけますね)。無謬主義は面子のため、あるいは権威を保つためのものでしょうが、使いすぎると逆に信頼性を失う危険があります。

 数字など、弁解の余地のない間違いは訂正するものの、小さい訂正記事をこっそり載せるのが普通です。訂正記事が見逃されては元記事の誤りがそのままになりますから、元記事より目立たせるのが当然です。訂正記事は元記事の2倍の大きさで、赤文字とするなどのルールを作っては如何でしょう。

社会貢献度と所得の関係・・・人間のコスト・パーフォーマンス

2009-01-02 09:46:04 | Weblog
社会貢献度と所得の関係・・・人間のコスト・パーフォーマンス

 「貧しい社会とか豊かな社会とかでなく、経済的格差が大きい社会で凶悪犯罪率が高いことが判明している」と社会学者の竹内洋氏は述べています(11/12朝日新聞「格差社会と危険社会」)。

 経済格差が大きくなれば理不尽さが蔓延し、また社会や政府への信頼がなくなり、社会規範を守ろうという気持が薄くなる、というわけですが、経済格差について付け加えたいと思うことがあります。

 才覚や努力によって社会に多大の貢献をした人が高額の所得を得ることに対し、理不尽さを感じる人はあまりないと思います。理不尽さを強く感じるのは社会に貢献することなく、巨額の所得を得ることに対してです。詐欺や窃盗は社会に迷惑をかけて所得を得ますが、まあこれは論外とします。

 少し古いですが、「働かざるもの食うべからず」という言葉は、所得と社会貢献(=働くことにより社会に価値を提供すること)が比例関係にあるべきだ、という考えが基本にあると思います。これは社会の秩序を保つ上でも有用な考え方で、この考えが底にあればこそ社会への貢献なしに高額の所得を得ることに対して理不尽さを感じるのでしょう。

 米投資銀行が半ば詐欺のような商売と批判されながら消滅した際、経営者の超高額退職金が話題になりました。ペロシ下院議長に強く批判された彼らの、所得と社会貢献度の比は記録的な値になったことでしょう。彼らの所得は社会から見るとコストです。

 コスト・パーフォーマンス(C/P)は費用対便益などと訳されますが、商品が値段のわりに機能が優れている場合などに、コスト・パーフォーマンスが高いといいます。上記の人たちに社会が払ったコストは超高額で、社会から見ると彼らは大変C/Pの低い人たちとも言えます。

 一方で、作曲家としての生涯を貧困のうちに終えながら、残された曲が何百年ものあいだ世界中の人々を楽しませる例のように、所得に対する社会貢献度が大きい、すなわち社会から見ればコスト・パーフォーマンスが極端に高い人が芸術、科学の分野には数多く見られます。

 社会貢献度と所得は比例関係にあるのが望ましいのですが、現実の社会はなかなかそうはいきません。社会の仕組みとしては、厳格すぎても息苦しく、ある程度の棚ボタが許されるようないい加減さが必要という面もあります。

 不完全な比例関係を補正するものとして税の所得再分配機能があります。しかしこの10年ほど、所得税の累進度は緩和され、キャピタルゲイン(利子や配当などの資産所得)課税も軽減されたように、その再分配機能が低下した面も見られます。政治は社会貢献度と所得の比例関係を軽視する方向に傾き、メディアもそれに対して反対しませんでした。

 この傾向は新自由主義と直接の関係はありませんが、新自由主義の影響下で起きた金融資本主義への傾斜、拝金思想の高まりの中で生じたものと思われます。社会貢献度と所得の比例関係を満足することは困難ですが、それが価値観の基本にあるということを政治もメディアも忘れかけたのがこの10年ほどの現象だと思います。「貯蓄から投資へ」という、働かずして、つまり社会貢献せずに金を得る方法が国レベルで奨励されたのもその延長線上のことであったのでしょう。

 村上ファンドの村上世彰氏が「カネを儲けてなにが悪い?」と開き直ったとき、記者たちは沈黙しましたが、社会に価値を提供せずに金を得る行為は合法的であっても、所詮タダ乗りであり、胸を張れることとは思えません。村上氏は「貯蓄から投資へ」という国の方針には忠実でした。しかし低C/P人間のランキングでは上位にランクインできるかもしれません。(参考拙文:カネを儲けてなにが悪い?)