噛みつき評論 ブログ版

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猫の家族

2012-10-29 10:49:13 | マスメディア
 いつも悪口ばかりでは品性を疑われかねないので、今回は少し趣向を変えたいと思います。この春、子猫が生まれた猫の一家のお話です。

 我が家の庭には数年前から大きめの雄のトラ猫が日に2~3度、餌を食べにやってきていました。普通の猫の2倍ほども食べる大食漢で、よく喧嘩をする猫なのですが、1月ごろ雌猫を連れてくるようになりました。4月頃、お腹が大きくなっているのに気づき、避妊手術をしなければと思いながらも、馴れない猫を捕獲するのは難しく、気がつくとお腹が小さくなっていました。5月初めに近所で出産したようで、7月になって3匹の子猫を連れてやってきて、我が家の庭は一気に賑やかになりました。

 子猫が庭を走り回ったり、あるときは親子が身を寄せて眠ったりする姿はほほえましいものです。例えば幸せそうなおっさんを見てもあまり心を動かされることはありませんが、幸せそうな家族を見ると、それがいつまでも続くようにと願わずにはいられません。逆に不幸な家族を見るとその不幸は「単体」の何倍もの大きさに感じられます。我々は家族というものに特別な感情を持つようにプログラムされているようです。

 ところで3匹の子猫のうち1匹は後ろ足が両方とも動かないことに気づきました。恐らく脊椎の損傷などがあるのでしょう、尻尾も動きません。前足だけで歩き、下半身を引きずるため地面に接する部分の皮膚が破れて出血していました。処置をしようにも警戒心が強くて無理なため、土間のコンクリート部分にシートを置いて皮膚が削れるの軽減することくらいしかできませんでした。

 9月の半ば、突然母子がいなくなり、家の周囲を探すと、舗装された狭い道路に血の跡が見つかりました。跛行(はこう、びっこのこと)を示すように血の線が左右に大きく振れた痛々しいもので、その方向を探しましたが発見できませんでした。夜になって再び探したところ家から100m程離れたの草叢のなかに8個の目が光っていました。

 仕方なく、その場所に餌と水を運ぶことにしたのですが、2日後、足の不自由な猫を置き去りにしたまま母子が帰ってきました。その後も放置するようなので意を決して、虫取り網でその身障猫を無理やり捕まえ、室内の犬用サークルで飼うことにしました。直後はかわいそうなほどおびえていましたが、3日もすると手で触れるようになり、今ではよく人に甘えます。ただ排尿も排便もコントロールできないので、サークル内だけの生活ですが、そこが安心できる場所と思ったのか、外に出ようとはしません。

 自立できない子を親が見捨てるのは残酷に見えますが、自然界では合理的な選択なのでしょう。そうしないと他の子供の生存まで危うくなるからです。それにしても子猫は母猫の命令をよく聞くようで、「帰るまでそこで待っていなさい」「移動するからついておいで」など、明確な意思の伝達手段があるものと考えられます。

 親子を観察して驚いたのは父猫の態度です。餌を大きなひとつの皿で与えたとき、子猫や母猫が食べ終わるまで父猫は決して食べません。大食漢のくせに欲しそうなそぶりさえ見せないのです。まさに父親の鑑ですね(他の雄猫は知りませんが)。それに対して母猫は子供の餌をためらいなく横取りします。授乳期であったので母猫の食餌は必要度が高く、横取りはある程度の合理性もあるものの、授乳期が終わってもそのままなので猫の「出来」の問題かもしれません。

 猫の繁殖能力は高く、餌が豊富にあれば1匹の雌猫が1年後には計算上16匹になり、2年後には256匹となります。ネズミ算には及びませんがネコ算もなかなかのものです。むろん現実には生存可能な数は限られるので、生まれてきた猫の多くが幼いうちに死ぬことなどで数は抑えられます。

 もっと繁殖能力が低い方が不幸な猫が少なくなると思われるのですが、遺伝子は猫の幸不幸などには配慮しないようです。自分の遺伝子を後代に残す機能に優れたものだけが生き残ってきたわけです。魚類や条虫では多数の卵から親になる個体が数万個にひとつという戦略をとるものがありますが、猫のように知能が高い生物の、多数の犠牲を前提とした繁殖戦略は酷な気がします。まあ自然界の生物の生存は厳しいのがあたりまえですが。

 ともかく猫騒動の数ヶ月でした。従来の猫と合わせて8匹にもなりましたが、母猫と子猫の避妊手術もすませ、猫社会にも安定した秩序が生まれたようで、ほっとしたところです。

週刊朝日の「醜い自爆」 その本性とは

2012-10-22 10:06:51 | マスメディア
 腹の黒さを常に露出している人間はいません。普段は衣を纏(まと)い腹の中を隠しています。ところが何かの拍子に腹の中が見えることがあります。週刊朝日の橋下市長批判記事は醜い内部を露出した衣の裂け目といえましょう。

 週刊朝日10月26日号の「ハシシタ 奴の本性」という記事は表題や「この男は裏に回るとどんな陰惨なことでもやるに違いない」といった記述に見られるとおり激しい悪意にあふれたもので、その卑劣さは強い不快感を伴うほどです。これだけのものは例がなく、後述するサンゴ礁事件のように恐らくメディアの歴史に残るものだと思われます。

 記事は橋下氏の政策や政治的な方向性を批判するのではなく、表紙に「橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶりだす」とあるように、橋下氏の出自を取り上げて批判の材料にするという時代錯誤の手法であり、まるで優生学が支持された時代に逆戻りしたかのようです。

 この背景にあるのは、親などの祖先が問題人物であれば、また被差別出身であれば政治家として問題であるなどという、およそ現代では通用しない考え方であることは明らかでです。しかもこれは一記者の不注意などでなく、いくつかのチェックをパスしたものであるからには組織としての見識を表したものと考えられます。親会社の朝日新聞もこの記事の問題点を重大視せず数日間放置したわけで、週刊朝日と共通した見識があったと見られても仕方がありません。

 一方、橋下氏の週刊朝日に対する反論は次の発言に要約されると思います。

「今回問題視しているのは、自分のルーツ、育てられた記憶もない実父の生き様、当該地域が被差別という話について、それがぼくの人格を否定する根拠として、先祖、実父を徹底的に調査するという考え方を問題視している」
「(これは)血脈主義や民族浄化主義につながる危険な思想」

 これは極めてまっとう、かつ当然の反論で、橋下氏に理があることは明らかです。週刊朝日は謝罪に追い込まれましたが、当然の結果と言えましょう。朝日の意図は近づく総選挙の前に維新の会を中傷することにあったと推定できますが、これでは橋下氏の逆に人気を高めることになりそうです。私は必ずしも橋下氏を支持する者ではありませんが、今回の件で見せた判断の正確さに彼の有能さを改めて感じました。

 逆に、天下に晒されたのはこの程度の結果も読めないという朝日側の無能さです。おまけに卑劣さまで衆目に晒すことになりました。これ以上の恥はありますまい。1995年、文芸春秋発行のマルコポーロという雑誌がナチのホロコーストはなかったという西岡昌紀医師の寄稿文を掲載したことに対し、ユダヤ人団体などの抗議を受け同誌は廃刊、社長は引責辞任となりましたが、今回の記事はそれに勝るとも劣らずであると思います。

 橋下氏と各社記者との会見で、朝日新聞の記者は「朝日新聞と子会社である朝日新聞出版が発行する週刊朝日とは編集が別であり、朝日新聞は関係がない」という意味の発言をしていましたが、こんな形式的な言い訳が通用すると思っているのでしょうか。子会社が事故や事件を起こしたとき、彼らは親会社の責任を追及してこなかったのでしょうか。二枚舌やご都合主義は恥の上塗りと言えるでしょう。

 しかし今回の事件は朝日というメディアを理解する上でのまたとない機会であったと思います。それはメディアという分を超え、選挙に影響を与えようという傲慢な体質と低い判断能力です。これはすでに3年前に"あの"鳩山政権の誕生させたことで十分に実証された筈ですけれどね。

 ここまで書いたとき、朝日新聞広報部のコメントが発表されました。

「当社は、差別や偏見などの人権侵害をなくす報道姿勢を貫いています。当社から2008年に分社化した朝日新聞出版が編集・発行する『週刊朝日』が、連載記事の地区などに関する不適切な記述で橋下市長をはじめ、多くの方々にご迷惑をおかけしたことを深刻に受け止めています」

 文末は「深刻に受け止めています」であり、これでは明確な謝罪文とはいえません。この歯切れが悪さからは、自らの非を認めたくないという「切実」な気持ちが伝わってきます。
「当社は、差別や偏見などの人権侵害をなくす報道姿勢を貫いています」とわざわざ言い訳していますが、今回の週刊朝日の記事を見ると、貫いてきた報道姿勢は「偽善」であったという疑いが濃厚になります。

 なにぶん朝日の過去には大きな実績があります。自分でサンゴ礁に傷をつけながら、その写真を「こんなひどいことをする者がいる」と報じた有名な「サンゴ礁事件」は偽善体質の象徴でありましょう。この事件では一柳東一郎社長が引責辞任となりました。

 ともあれ偽善者の仮面が引き剥がされたのだとすれば、これはまことに喜ばしいことであります。

 まあ今回の事件は、大勢の人間が卑怯な方法を使ってひとりの人間に喧嘩を売ったけれど、情けなくも初戦で敗北して大恥を晒した、というところでしょうか。

社会貢献度と所得の関係

2012-10-15 10:03:35 | マスメディア
 ノーベル医学・生理学賞の受賞者、山中伸弥京大教授が寄付金を集めるためにマラソンに出場されていたということを報道で知りました。山中氏の仕事は病気治療や創薬に大きく寄与するものとされ、その社会貢献度は最大級のものと考えられます。しかし研究費に苦労されているのが現実のようです。

 一方、これと対極にあるのが米国のウォール街で、幹部となれば数十億円、中には数百億円の報酬を得ている人間もいるといわれています。彼らの仕事は半分バクチのようなもので、儲かれば高額報酬として山分けし、失敗すれば会社は政府の公的資金で救済され幹部はゴールデンパラシュート(高額の退職金)でおさらば、ということが批判を浴びました。リーマンショック後の世界規模の経済混乱を考えれば、彼らが高額の報酬に見合っただけの貢献を社会にしたと思う人はあまりいないと思います。

 一方は多大の社会貢献をしながら研究費に苦労し、他方は社会貢献より迷惑の方がはるかに大きいほどなのに多大の所得を得ているというわけです。本来、社会貢献度と所得の大きさは比例関係であるべきです。それは逆に社会貢献度が大きいほど所得が小さくなる社会を想像すれば明らかでしょう。それではだれも社会のために努力しなくなります。

 社会貢献度と所得のあるべき関係からいえば、この二つの例は明らかにおかしいわけですが、我々は重要な問題としてとくに意識していないのではないでしょうか。自由主義体制の下ではあたりまえのこと、あるいは仕方のないこととして。

 しかし、これは仕方のないことではないと思います。現在の仕組みは我々が作ったものであり、変えようと思えば変えられる筈だからです。自由主義体制といっても無数のルールによって成り立っているのであり、まったくの自由放任はあり得ません。

 ノーベル経済学賞の受賞者であるスティグリッツはリンカーンのゲティスバーグ演説をもじって、アメリカの政治を「1%の1%による1%のための政治」と表現しました。1%とはアメリカ社会の経済的な上位1%を指します。この上位1%は政府やメディアに大きな影響力をもち、彼らに有利なルールを作り上げたというわけです。

 例えば、著名な投資家で超高額所得者のウォーレン・バフェット氏は自身の税率が17.4%であり、それは私の事務所の誰よりも低い税率だ、と指摘した話はよく知られています。これは所得税に比べ利子や配当にかかる税が格段に低率であることが主な理由ですが、これは日本にもそのまま当てはまります。社会貢献度の観点からは利子・配当を勤労所得より課税面で優遇すべき理由は見あたりません。

 不況を理由に配当にかかる税率が20%から10%に引き下げられたとき(恐らく証券業界の圧力によって)、メディアは何の批判もしなかったと記憶しています。社会貢献度と所得の関係という問題意識がメディアには乏しく、あまりにも鈍感なことが私には大きな問題であると思えます。まずこの問題意識がなければ変わることは期待できません。

 せめて社会貢献度が低いのに高額所得を得る例や貢献度が高いのに低所得しか得られない例をおかしいと感じる感覚を持ちたいものです。かつては社会貢献度が低いのに高額所得を得る仕事を蔑視する風潮がありました。山本夏彦氏によると株屋や新聞記者は賎業とされていたそうです。記者が賎業とされたのは「新聞に書かれたくなければ金をよこせ」といった「副業」が横行していたためで、彼らは羽織を着たゴロツキ、羽織ゴロと呼ばれていたとあります。

 しかし近年「カネを儲けて何が悪い」と叫んだ村上ファンドの村上世彰氏に象徴されるように「とにかく儲けた者が勝ち」という新たな風潮が旧来の風潮を凌駕したように思われます。学校で教わった「職業に貴賎なし」は思いもよらぬ形で実現されたわけです。「所得の多寡だけがすべて」という実にわかりやすい形ではありますが。

民主政権 152人の大臣を大量生産

2012-10-08 09:34:43 | マスメディア
 「政権交代以来、民主党で誕生した大臣は152人。複数の担当を兼務した場合を除いた延べ人数である」(講談社 現代ビジネス10/03より)

 ごく大雑把な計算ですが、閣僚ポストを18とすれば平均で1ポストあたり約8.4人が入れ替わり、平均在任期間は約4.4ヶ月間となります(合計37ヶ月として)。子供にもできるような単純な仕事ならともかく、大臣というエリートに求められる重要な仕事がこのような短期間でこなせるとはとても考えられません。

 まあ一部のポストを除けば、在任期間の短さは政権が大臣達にまともな仕事を期待していないことを示していると思われます。大量生産の理由はよく言われるように、旺盛な大臣ポストの需要に合わせて大量供給したということでしょう。ポストの配分はタダですから。

 まあ同情的に考えれば、大臣に任命したものの、あいつもダメだった、こいつもダメだったという具合に数ばかりが増えてしまったというケースも考えられますが、一部の例であり、これは人材のレベルの低さを示すものと言えるでしょう。

 素人同然の大臣を次々と短期間で交代させるような政府はまともに政策を実行しようとする気があるのか、疑わしくなります。大臣の機能よりポスト配分を優先させるのはまさに本末転倒でありましょう。しかしこのことに対するメディアの強い批判があまり見られないことが気になります。

 逆に言うと、メディアの強い批判を受けることはないだろうという民主党の「読み」があればこそこのような人事が行われた、ということができます。外国人からの献金をうけたとされる新任の法務大臣の問題はかなり大きく報道されましたが、こんなことは実質的には瑣末なことであり、大臣大量生産による政府の機能低下の方がずっと重要な問題だと思われます。

 大臣の短期取替えは自民党時代からの悪習とされてきましたが、民主党はさらに強力に進めたとされます。短期取替えは注目するほど珍しいものではなかったようです。大臣のポストを本来の意味でなく、論功行賞などの政権維持の手段とするやり方は半ばあたりまえのこととなっていたようです。

 どうやらメディアは目先の変化には敏感に反応しますが、従来から同じように流れているものに対しては鈍感であるという特性を備えているようです。これは鳥の眼ではなく虫の眼の特性です。したがって大臣の短期取替えという習性の片棒を担いだのは日本のメディアということになりましょう。

 大臣の短期取替えはメディアが批判しなければ政権のダメージにはなりません。逆に安部政権の場合のようにひとりの大臣の事務所経費のような小さなことでも執拗に非難されれば政権を揺るがすほどの問題になります。政治にとってどちらが重要かは言うまでもないでしょう。

 民主主義制度の下ではメディアは投票行動に支配的な影響を持ちます。したがって「政権交代」という甘言に騙された愚かなメディアは民主党政権の生みの親と言えるでしょう。まさに「この親にしてこの子あり」であります。

宣伝の道具と化す有名人

2012-10-01 10:24:18 | マスメディア
 有名なスポーツ選手や俳優が「私も愛用しています」などという健康食品のCMがあります。健康食品は有効性試験が不要であり、有効性を謳(うた)うことができません。そこで有名人に「飲んでよかった」などと個人的な感想を言わせ、あたかも有効であるかのように思わせる手口です。しかしスポーツ選手や俳優が健康食品や医学に詳しいわけではなく、また彼らの言葉が信頼できると信じる理由はありません。有効であると思わされた人にとっては詐欺に近い商法であると言えるでしょう。

 一方、「さようなら原発」という反原発運動では作家の大江健三郎氏、落合恵子氏、澤地久枝氏らの有名人が呼びかけ人となっています。彼らは文学者としては有能かもしれませんが、原発の技術的な問題や長期のエネルギー問題について社会をリードするにふさわしい知識の集積や見識があるとは寡聞にして存じません。

 有名人が専門外の分野で意見を主張して、社会に何らかの影響を与えようとする点において、有名人を起用したCMと同じです。根拠の不確かな彼らの主張を受け入れることはスポーツ選手のCMに乗せられるのと同様です。そしてもうひとつの共通点はどちらも責任をとる立場ではないということです。

「たかが電気のためになんで命を危険にさらさないといけないのでしょうか。子どもを守りましょう」。これは「さようなら原発」の賛同者である音楽家の坂本龍一氏の発言です。電気と命とを二項対立として捉えるやり方はまるで子供だましです。「原発はもとより、オスプレイも基地も全部反対です。なぜなら全てが命を脅かすものだからです」と言ったのは作家の落合恵子氏ですが、詭弁としかいいようがありません。これらは両極端しか選択肢がないと思わせる、稚拙な感情論と言えるでしょう。

通学途中の交通事故が続いていますが、こういう論法が許されるなら、たかが教育より命、あるいは通学は命を脅かすから反対ということになるでしょう。彼らの思考には量と確率の概念が決定的に欠けています。算数はあまりお得意ではないようです。確率を無視すれば隕石があたって死ぬことにも脅えなければなりません。

 命か原発かと、選択肢が二つしかない議論は確かにわかりやすく感情に訴えやすいもので、賛同者も少なくないようです。しかし将来原発をどうすべきかは、温暖化や資源の問題、再生可能エネルギーの技術進歩、国際間の関係などに関わる複雑な問題であり、少なくとも原発事故によってカッカと熱くなった頭で感情的に決める問題ではなく、状況を見ながらもっと時間をかけて検討すべき問題であると思います。

 ここで気になるのは、大江氏らは反原発という考えにどれほどの根拠と自信をもって運動を進めているのか、という点です。ノーベル文学賞の受賞者としての、あるいは作家や音楽家としての知名度は高く、彼らは社会的な影響力をもっています。それだけに発言には影響力に見合った責任があると考えられます。安易にいい加減なことを言ってほしくないわけです。

 このところ「九条の会」は鳴りをひそめていますが、大江氏ら「さようなら原発」の呼びかけ人は「九条の会」の呼びかけ人と一部が重なります。この会の考えは一言でいえば9条さえ守っていれば平和が保たれるというもので、他国からの侵略はあり得ないというのが大前提です。それでは現在の隣国の軍事的脅威に対しどう対処すればよいのか、大江氏に改めて問うてみたいものです。

 つい最近、中国や韓国との領土問題を「日本がまず侵略について反省すべき」とする大江氏ら日本の知識人の“反日声明”が韓国メディアで大々的に紹介されているそうです。29日の韓国各紙はほぼ全紙が社説でこれを取り上げ大歓迎している、と報じられています(9/29 MSN)。まあ少なくとも日本の国益に資する行為ではないことは間違いないでしょう。

 こうなると大江氏は深く考えず、軽率に左翼の広告看板になっているだけではないのか、疑わざるを得ません。それは健康食品のCMに登場するスポーツ選手などと同様、詐欺まがいの行為に加担するものであると思われます。影響力の大きさに見合った責任を自覚していただきたいものです。