噛みつき評論 ブログ版

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厳罰化とマスコミ報道

2009-05-28 08:56:58 | Weblog
 「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」。かつてよく耳にした言葉です。行うのは簡単ではありませんが、憎悪と報復の連鎖によって二つの民族が果てしない悲惨な状況に陥る例などを見るとこの言葉が思い出されます。このように極端でなくとも、赦すという寛容さは民族間だけでなく諸々の集団の間、あるいは個人間でも重要な意味を持ちます。

 「赦すこと」と「報復すること」が同時に満たされることは通常ありませんから、トレードオフの関係と言ってよいでしょう。そして両者には一定のバランスが保たれていたと考えられます。ところが近年の報復を重視する風潮はこのバランスを変化させ、赦すという寛容さが失われていく心配があります。

 マスコミは常に被害者の側に立って報道します。そして裁判の前には「極刑を望みます」といった、被害者の報復感情を露わにした発言を好んで取り上げます。これは慣例化しているようであり、マスコミが報復感情を後押しているという印象があります。

 ある事件の一連の報道は勧善懲悪劇に似ています。加害者という悪人が厳罰を受けることによって被害者は報復を果たすという筋書きは読者・視聴者に一種のカタルシスをもたらします。劇を面白くするためには加害者の悪事は大きく、被害は深刻に見せることが効果的です。ここにニュースキャスターなどが正義の代弁者として登場すると、面白い上に読者・視聴者の支持を得られるというわけです。感情移入した読者・視聴者の報復感情を満たすことは劇の重要な要素なのです。

 福岡の飲酒運転事故の二審判決は危険運転致死傷罪と道路交通法違反とを併合して懲役20年となり、一審の業務上過失致死傷罪による懲役7年6月に比べて格段の重罰です。一審判決直後の各紙(日経を除く)の報道と論調は悲惨さを強調し、厳罰を求めるものが主であり、二審判決はそれに沿った形となりました(死亡事故へと拡大した一因は道路にガードレールのような車両用の転落防止策がなかったことですが、考慮されませんでした。確かにこの方がわかりやすく、マスコミの論調とも整合します)。

 最近の刑事裁判では重罰化の傾向が指摘されていますが、これにはマスコミの報道が影響しているように思えてなりません。検察は「被害者とともに泣く検察」として被害者のためにやってきたのだが、サリン事件における検察への批判を境に主権者である国民の理解と支持を得る方向に大転換したという意味のことを、但木前検事総長は述べています(4/26NHK日曜討論)。

 「国民の理解と支持を得るため」とは聞こえのよい言葉ですが、具体的にはどうするのでしょうか。検察の行動や裁判の結果にいちいちアンケート調査をするわけではなく、現実にはマスコミが世論のように見せているもの、つまりはマスコミに従うことに過ぎないのではないでしょうか。

 東京女子医大で心臓手術を受けた女児が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われた医師は警察で次のように言われたと記しています(参考拙記事)。

 『これだけ社会問題になると、誰かが悪者にならなきゃいけない。賠償金も遺族の言い値で払われているのに、なぜこんな難しい事件を俺たちが担当しなきゃいけないんだ』

 この発言は、マスコミ報道が警察に(恐らく検察にも)対して、いかに大きい影響を与えるかを示しています。「国民の理解と支持を得るため」とはこのようなことを指すのでしょうか。被害者よりの誇張された報道が警察・検察を動かし、裁判にも影響を与えるというわけです。マスコミの下部機関のようになる恐れはないでしょうか。

 刑罰の基準は社会により様々であり、絶対的な基準などはなく、それぞれの社会が任意に決めるべきことです。しかし視聴率優先といったマスコミの営業政策から生まれた興味本位の報道によって、報復が正当化されて厳罰化が起き、その結果、社会から寛容さが失われるのならば、ちょっと気になる問題です。
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安全と職務のバランス

2009-05-25 11:23:02 | Weblog
『(イラク戦争では)3月20日の開戦直前に日本の大手メディア(新聞、テレビ)は「記者の生命の安全を守る」という理由でバクダッドから横並びで一斉に退去した。爆撃される一番危険な場所はフリーランスに任かせてしまった。米国、英国、フランス、スペイン、ドイツなど世界各国の記者の多数がバクダッドにとどまって取材を続けたのに比べると、最重要な取材現場から一斉集団離脱したのは日本だけであり、いわば、オリッピック出場を自ら棄権した形で、日本のメディアの特異性・臆病ぶりが際立たせた。
(中略)
 かつてベトナム戦争報道では日本のメディアは世界の注目を浴びた。ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)や北ベトナムの姿を従軍取材などで深くえぐり、戦争の真実を報道して米国はもちろん、世界の世論形成にも大きな影響を与えた』

 これは前坂俊之氏の文章からの引用です。イラク戦争当時、既に日本の大手メディアは安全に対する配慮を報道の職務より優先させていたことがうかがえます。各社一斉という行動様式も不気味ですが、非難を避けるためには有効であったでしょう。赤信号、みんなで渡れば怖くないというわけです。

 今回の新型インフルエンザでは日本の過剰な反応が指摘されています。米国では日本のマスコミの大騒ぎを見て、日本で流行しているインフルエンザは米国とは別種の強毒性のものだろうと誤解されていた、という話がありました。今回の新型インフルエンザ騒動も日本のメディアの特異性を示したものと理解することができます。

 最初に感染者が見つかった大阪府立高校には多数の報道陣が群がり、記者らは校長に詰問調の質問を浴びせていました。その後、この高校には匿名の抗議が多数寄せられたそうです(5月23日朝日新聞文化面)。感染に対して過剰に敏感な空気が醸成された結果と言えるでしょう。

 22日現在で感染者1名の京都では278校が休校となっています。各学校の判断によるものと思いますが、インフルエンザの症状の軽さと感染の広がりが限定的なことを考えると、過剰な反応という印象は拭えません。大学の場合、京都大学は「現状では休校にする水準に達していない」として休校していませんが、他の45の大学は休校しています。

 休校の解除後、補講があるとしても完全な回復は難しいと思われ、生徒や学生は不利益を受けます。部分的にせよ、学校の職務が放棄されることになります。多くの学校が休校という過剰な反応を示す背景には、流れに逆らって感染者を出したときのマスコミの非難を恐れる気持ちがあるのではないでしょうか。群らがった記者から詰問されるような目には誰だって遭いたくありません。

 紛争地域での取材は危険がつきものであり、かつては危険を冒して職務を全うすることは賞賛の対象でありました。しかし、バクダッドを退去した日本のメディアは職務より安全を優先させました。価値観の大きな転換がうかがえます。

 僅かでも安全を損なう可能性のある行為は厳しく非難され、安全のためという名目があれば誰も反対できないような風潮が作られました。マスコミは事故のたびに原因者を追求しますが、それには安全の基準が高い方が強い非難が可能であり、記事に強いコントラストがつけることができます。過剰な安全志向の一因は恐らくそんなところにあるのでしょう。

 過剰な反応だと学校や自治体がわかっていても、休校のためにマスコミから非難を受けることはありませんから、学校としては休校が無難な選択です。マスコミの圧力が判断を左右したと言えるのではないでしょうか。

 世界の中で突出していると言われている日本の騒ぎ方ですが、それは数十日間にわたるマスコミ各社による一斉のトップ報道の当然の結果です。バクダッドからの一斉逃亡は報道に関する使命感の相対的な弱さを示すものであり、過大なインフルエンザ報道は状況を冷静に判断できず、報道の反作用による社会の不利益を考慮しない無責任さを示すものです。どちらも世界の標準から大きく外れた体質が生み出したものと思われます。
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いま2週間分の食糧備蓄をすすめる朝日新聞の見識

2009-05-21 10:29:59 | Weblog
 5月18日の朝日新聞には「食糧備蓄、目安の2週間分は」という記事が載っています。1面の目次にも掲載されており、力を入れている様子がうかがえます。内容は新型インフルエンザに備えて、2週間分の食糧を備蓄するための具体的な案内です。一見、親切で役立つように見える記事ですが、この時期に備蓄をすすめる記事を掲載することに強い疑問を感じます。

 備蓄は個々の人にとってはよいことかもしれません。しかし皆が一斉に備蓄を始めれば食糧は店頭から姿を消し、パニックになる恐れがあります。合成の誤謬(*1)と言ってよいでしょう。むろんこの記事だけでパニックになるとは思いませんが、その素地を作ることは十分考えられます。

 インフルエンザの不安が広がっているとき(朝日新聞はそれにも多大の貢献をされています)、この素地に加えて、どこかで保存用の食糧が売り切れたような映像が流されれば、今のマスクのようになる可能性があります。場合によっては一般の食品にまで広がるかもしれません。

 軽症とされる新型インフルエンザのために2週間分の備蓄をする必要があるでしょうか。2週間、買い物にも行かず引きこもらなければならないほど恐ろしいものでしょうか。パニックによる無用の混乱の方がよほど心配です。なかには食糧が入手できない人が出るかもしれません。もしかしてこの新聞社は内心ではパニックを期待しているのではないか、と勘ぐりたくなります(マスコミにとって騒ぎはなによりの栄養ですから)。

 800万部の影響力をもつメディアは報道の反作用を考慮するのが当然であり、皆が備蓄に走れば混乱がおきるかもしれないという予想ができない筈はありません。信頼度の低い週刊誌が書くのとはわけが違います。800万部の発行部数と信用(比較すればという意味ですが)をもつ新聞は報道の反作用に相応の責任を持つ必要があります。

 ついでながら「広がり踏まえた対策を」と題する、同日の朝日新聞社説を一部紹介します。
「インフルエンザは自宅で寝て治すことが常識の米国などとは異なり、日本では病院や診療所へ駆け込む人が多い。大勢の患者が病院に押しかけたら、発熱外来はもちろん、病院全体が大混乱に陥りかねない。
 軽症の人が家にとどまって診療を受けられる往診態勢や、医療機関が感染を広げる場にならないように感染者を分ける仕組みも必要だ」

 「軽症の人が家にとどまって診療を受けられる往診態勢」、というご主張には驚きました。往診は医師の移動時間が必要であり、大勢の患者に対応しなければならないとき、非効率な往診をする余裕があるでしょうか。社説は新聞社の最高の頭脳が書き、厳重なチェックを受けると聞きますから、誤りのあろう筈がありません。しかし、どう考えれはこのようなご主張になるのでしょうか、凡人には理解することができません。軽症の人には米国のように自宅に留まってもらい、タミフルを郵送するなどの方法なら私にでも理解できるのですが。

 意外に思われるかもしれませんが、上記のような記事を生み出す見識の方々が、オピニオンリーダーとして現在の日本社会を指導されているという現実だけはしっかり認識しておくべきでしょう。
(参考 朝日記事の信頼度が低い理由)

(*1)合成の誤謬
例えば不景気になって所得が減少したとき、個々の消費者は節約することが合理的な行動です。しかし皆が一斉に節約するとさらに景気が悪くなり、全体として悪い結果になります。
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NHKクロ現の不可解な論理

2009-05-18 10:17:26 | Weblog
 「なぜ私たちが法廷に~裁判員制度の意義を問う~」
 これは5月14日のNHKクローズアップ現代のテーマです。クロ現は優れた番組が多いのですが、残念ながら今回の番組は内容に問題があるように思いました。

 番組はまず裁判員として参加したくない人が58%もある現状を示し(制度が必要ないと思う人も6割)、裁判員候補に選ばれた人の不安や悩みを具体的に取り上げます。「求められる市民感覚とは何なのか」「残酷な証拠に耐えられるか」「恨まれる恐れはないか」「カレー事件のように状況証拠だけで死刑の判断を迫られる難しさ」などか紹介されます。

 次に、これらの不安や疑問に答える形で、米国の陪審員制度の事情が紹介されます。ここでは陪審員は地域社会への奉仕であるということが強調されます。ある重要事件の4ヶ月間にわたる裁判で100人を超える証言、900件の証拠をノートに記していた陪審員のリーダーは地域社会への貢献を誇らしげに語ります。

 陪審員制度の意義を地域社会への貢献とする米国の事情が日本に適用できるかも疑問ですが、番組は米国の重要な事実を伝えていません。以下は第30回司法制度改革審議会配布資料よりの引用で、興味深い事実が書かれています(米国では被告は陪審員制の裁判と職業裁判官による裁判を選択する権利が与えられています)。

「アメリカ,イギリスにおいても,陪審裁判が行われている事件は極めて限定されている。アメリカにおいては,民事について,連邦地方裁判所において陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は1.7%,刑事について,陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は5.2%である。また,イギリスにおいては,民事について陪審裁判に付されている事件は,高等法院において1%未満,県裁判所において0.1%未満であり,刑事について陪審裁判により処理されている事件は全刑事事件の1%にも満たない」
「イギリス・フランス・ドイツの各国はいずれも,絶対主義の下での権力者の統治に対する対抗手段として,また,アメリカはイギリスの植民地支配に対する対抗手段として,それぞれ陪審制度を導入したものである」

 つまり米国の陪審員制度は広く支持されているとはとても言い難く、刑事事件で陪審員裁判が行われるのは20件中の1件に過ぎません。意図的かどうかはわかりませんが、この重要な事実を伝えずに、見習うべき手本のように意義を語るのは適切ではないでしょう。また英国や米国の陪審員制度導入の理由は日本とは根本的に異なっているとされており、意義が同じではないことを示唆しています。

 ゲスト解説者は裁判員制度を題材にしたミステリーを書いたという夏樹静子氏でしたが、この人選にも疑問を感じます。裁判員の意義は裁判に市民感覚を持ち込むことだと主張する一方で、裁判を難しく考える必要はなく検察側の立証ができているかを見きわめるだけでいいと発言されています。立証の見きわめは論理の問題であり、そこに市民感覚を持ち込むというのは凡人にはちょっと難しい話です。

 また一生に1回あるかないかのことだが、裁判員に参加することによって社会をよくしようとする気持ちが出てきて社会が変わってくることに意義があるとしています。この意義があるとすれば裁判員になる回数は大きい意味を持ちますが、回数は一生に1回どころではありません。年間6000人に1人ですから一生に一回だとすると6000年も生きなければなりません。一生に1回あるかないかを50%の確率と考えれば3000年となります。裁判員になれる期間は50年ほどですから夏樹氏の話には60倍ほどの誤差があります。つまりその意義は60分の1程度になるわけです。

 番組を概観すると、前半の裁判員になることの不安に対して、後半は不安に答えるというより、適切とは思えない外国の例をとって裁判員は社会の義務であり、やらなければならないことと説明する構成になっています。「裁判員制度の意義を問う」という表題から予想される意義に対する問いかけはほとんどなく、逆に制度を肯定する内容となっています。羊頭狗肉と言ってよいでしょう。

 今回はたまたま情報の欠落に気づいたわけですが、一般に情報が伏せられた場合、視聴者・読者がそれに気づくことは大変難しく、情報の受け手側の立場の弱さというものを改めて感じた次第です。
(参考記事 算数のできない人が作った裁判員制度)
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日本のマスコミは世界一、新型インフルで「実力」判明

2009-05-14 10:22:36 | Weblog
「カナダではマスク姿なし・報道控えめ」 (見出し)
「機内検疫にどよめき」           ( 〃 )
「研修から帰国の高校生」         ( 〃 )

(以下本文より)
「カナダでは新型のインフルエンザはあまり話題になっておらず、生徒らは機内検疫のものものしさに驚いた」、「現地の新聞ではほとんど報じておらず、街中にもマスクをしている人はいなかった」

 これは研修旅行で感染者が出た高校生達の様子を報じた朝日新聞の記事であります(5月12日、28面)。カナダのマスコミと日本のマスコミの違いに驚かされます。それにしても自分達が騒ぎを引き起こした当事者でありながらカナダの事情を他人事のように書く、この「客観性」にはあきれます。それとも、この朝日の記者は「カナダのマスコミはなんて無能なんだろう」と思いながら書いたのでしょうか。

 高校生だけでなく、海外から帰ってくる人たちの多くは日本のものものしさを見て、新型インフルエンザへの対応の差におどろいているようです。私の周囲にも慌てて1週間分の食糧を買い込んだ人がいます。「日本のマスコミは世界一」としたタイトルの意味は新聞の発行部数のことではなく、たいして重要でないことを国中に「大変だ」と信じ込ませる能力を指しています。つまり優れた煽動能力です。

 新型インフルエンザに対する海外の反応は断片的なものしかわかりませんが、カナダや米など患者が自国で発生している国でさえ、日本よりずっと静かな印象です。日本の対応が世界の中で突出したものであるというのはほぼ間違いないだろうと思われます。

 誰が指令したわけでもないのに、同じ方向へ群れをなして突き進む、私にとってはこの日本のマスコミの方がインフルエンザよりも恐ろしいものに映ります。マスコミが一斉に同じ方向に流れるとき、合理性が軽視されるのは食品関連の事件などにも見られます。

 もっとも顕著に現われ、最悪の結果を招いたのが太平洋戦争(立場によって大東亜戦争と呼ぶこともありますが、どうでもよいことです)に於けるマスコミでありましょう。戦争に向けて国民を鼓舞したマスコミの積極的な協力がなければ、あのような戦争はできなかったと思われます。

 新聞が戦争協力へと転換したのは満州事変直後であると言われています。軍の圧力に対し、若い社員の「社がつぶされても反抗すべきではないか」という問いに対して「私もそうしたいと思うが、万余の従業員やその家族があすから路頭に迷うことを考えると私にはできない」と言った毎日新聞の高田編集主幹・総長・代表取締役の言葉はこの辺りの事情を物語っています。

 新聞がウソを書いて売るということは、食品会社が有害なものを混ぜた食品を売るに等しい行為です。つぶされるかもしれないという選択が困難であることも理解できますが結局、新聞各社は反抗ではなく、有害物の販売を選んで販売部数の大幅拡大を得て繁栄し、国民は辛酸を嘗めることになりました (参考拙文 新聞の戦争責任)。

 軍の圧力を受け、やむなく消極的に従うのならば、理解できます。しかしその後に起こったことは新聞各社の軍に対する積極的・自発的な協力であり、これは軍の圧力だけでは説明できず、別の説明が必要であると思われます。付和雷同する群集のように自ら判断することを放棄した結果なのでしょうか。少なくとも戦前の新聞の不合理・不可解な一斉行動は今回の新型インフルエンザへの一斉対応と通低するように思います。

 戦前、日本のマスコミは制御不能となった実績をもっていますが、今もなお条件次第ではモンスターになる素質を温存しているように感じます。
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NHKニュースの変身

2009-05-11 10:36:59 | Weblog
 10年以上前に月刊誌に載っていたものですが、新聞のトップ記事の見出し文字の大きさと新聞の信頼度の関係を調べた小論がありました。それによると主要紙のなかで見出しにもっとも大きな文字を使っているのはスポーツ紙で、もっとも小さい文字は日経新聞でした。朝日新聞は意外にもスポーツ紙に次ぐ大きさであったと記憶しています。これは参考に示した資料とも符合します。(参考 朝日新聞の読者信頼度、3位転落)

 その小論の結論は文字が大きい新聞ほど信頼度が低い傾向が見られるというものでした。ル・モンドなど海外のクォリティペーパーと呼ばれる新聞の文字も小さく、この傾向を裏付けるものとされていました。大きい文字を使う新聞ほどセンセーショナルな傾向をもつことは十分考えられることであり、信頼度と逆の関係になることは納得がいきます。

 新聞の方法と対称的なのがグーグルニュース日本版です。見出し文字の大きさに差をつけず、数本の注目ニュースをトップニュースとして上部に載せているだけで、主観的な要素はごく限られています。他のポータルサイトも似たような傾向ですが、新聞社の電子版はトップニュースに大きい文字を使っている例が多いようです。長年のクセが抜けないのでしょうか。

 一般の関心を惹く殺人事件などが重視されるように、ニュースメディアは視聴者・読者の注目を集めたいために、平板なニュースを面白おかしく脚色することに努力します。しかしこの傾向はメディアの信頼性としばしば相反します。必要な情報を適切なウエイトをつけて報道することはメディアの役割であり、信頼される条件のひとつです。センセーショナリズムは情報の適切な配分を歪め、信頼性を損ないます。

 NHKニュースにセンセーショナリズムへの傾斜が目につくようになったのはここ数年来のことです。夜7時のNHKニュースはひとつの注目ニュースに集中する傾向を強く感じます。7時の定時ニュースでありながらワイドショーと変わらない一点集中の報道が中心になっています。

 4月25日以来、軽症の新型インフルエンザはずっとトップニュースであったようです。それも30分のうち20分を充てたりする集中ぶりは常軌を逸しており、これでは「冷静な対応」を呼びかけてもあまり意味がありません。過熱ぶりはグーグルニュースと好対照です。

 ひとつの事件に強く傾斜すると、例えば感染者を収容した成田の病院前から中継をしたり、大阪府の教育委員会のコメントを報じたり、停留者の朝食メニューを映したりと、どうでもよいことばかり多くなる反面、報道されずに消えてしまうニュースが多く生じることになります。

 補正予算に関する報道は大きく削られたと思われますが、軽症インフルエンザの方が重要なのでしょうか。また裁判員制度はその重要性にもかかわらず、ほとんど報道されず、国民が知らないうちに決まってしまいました。これは公共放送の役割放棄と言えるでしょう(新聞も同罪ですが)。報道されない場合、報道されなかったという事実すらわからないことが多く、深刻な問題です。

 民放や新聞社が上記のような営業上の理由からセンセーショナリズムを目指すのはある程度は止むを得ないことですが、非営利のNHKにその必要はない筈です。視聴料で運営されるNHKまでが市場主義に染まることはないわけで、公共放送の役割である信頼性を重視する姿勢を示すべきでしょう。

 海外で高級紙と呼ばれる新聞の発行部数は日本の大新聞に比べ圧倒的に少ないながらも、影響力があるのは信頼度が高いためだと言われています。いやそれとも私が知らないだけで、世界1位の読売新聞、同2位の朝日新聞、同3位の毎日新聞は「こう主張をしている」と、海外のメディアに常に紹介され、世界のオピニオンリーダーの地位を築いているのでしょうか。

 もっとも信頼できるのはグーグルニュースである、なんてことにならなければよいのですが。
(グーグルニュースは他からの寄せ集めですが、並置されているため主観性が弱く、また同一ニュースを複数の媒体で見られるため客観的な評価がしやすい利点があります)
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概念化の落とし穴

2009-05-07 10:25:50 | Weblog
 数年前、ある公園で猫の親子が毒殺されるという出来事がありました。朝、母猫の周りに4匹の子猫が横たわっていたと聞きます。そこには以前から猫が住みついており、数名の人たちによって、餌の提供や避妊処置が行われていました。公園は民家から離れているので、毒殺や餌の提供に現実的な要請はなく、それぞれの自由な意志によるものだと思われます。

 猫にとって、人間は残忍な殺戮者でもあり、善意の保護者でもあるわけです。猫の話を持ち出すまでもなく、日頃の報道に接しているだけで、人間という「種」には天使から悪魔までそろっていることがうかがえます。このようなあまりにも多様な対象を人間というひとつの概念で表すのはちょっと無理があるように思います。

 イタリアの著名な精神科医・犯罪人類学者チェザーレ・ロンブローゾ(1835-1909)は犯罪者の身体的、精神的特徴を研究した結果、犯罪者は生まれながらにして犯罪者(生来的犯罪人説)であり、彼らは人類の「亜種」であるという理論を提唱しました。たいへん独創的で過激な説ですが、当時としては実証的研究に基づいた真面目な学説です。「亜種」という奇抜なアイデアには驚きますが、それが認められる時代背景というものにも興味を惹かれます。

 勝手な想像ですが、ロンブローゾは犯罪者を「亜種」として切り離すことによって人類の多様性の範囲を限定したとも見ることができます。ロンブローゾにとって、人類の極端な多様性は認め難いものであったのかも知れません。

 むろん私にとってもこの極端な多様性は理解し難いものです。多様性という言葉は一般に肯定的な意味に使われますが、この場合は過ぎたるは及ばざるが如しと言えるでしょう。同一の種でありながら、精神的特性においてなぜこれほどの多様性が生じるのかはむろん私にはわかりません。

 人間という概念はあまりに多様なものを含んだものであるため、概念としての有用性に限界があると考えることができます。人によってこの概念の意味が異なる可能性があるわけです。例えば性善説を信じる人と性悪説を信じる人が人間の行動などについて議論しても恐らく議論が収束することはないでしょう。

 多様なものを含んだ概念は様々な意味に用いられやすく、つまり使う人が都合に合わせて恣意的に変えることが多いわけで、議論が混乱する原因になり得ると一般化してもよさそうです。
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痴漢事件、実名報道は必要か

2009-05-04 09:25:24 | Weblog
 4月25日、兵庫県で女子高生の下半身に手の甲を押しつけたとして小学校の校長が容疑否認のまま県迷惑防止条例違反容疑で逮捕されました。小さなローカルニュースでありながらこの事件はNHK、読売新聞、毎日新聞、MSN産経ニュース、時事通信などによって実名で全国に報道されました。教育関係者の痴漢行為は意外性が強く、彼らにはとっても「おいしそうなエサ」に見えるのでしょう。

 当然のことながら逮捕時点では容疑がかけられただけで、犯人と決まったわけではありません。推定無罪の原則が適用されてもよい状態ともいえます。しかし大きく報道された時点でこの校長は社会的な生命をほぼ失う状況に陥ります。裁判の結果を待たず、報道が彼に実質的な刑を宣告することになります。

 一方、迷惑防止条例違反というような、軽い罪の容疑者の実名を警察は発表する必要はあるのでしょうか。裁判の結果が出てからではなぜいけないのでしょうか。問題なのは判決前に、容疑者を地獄へ落とす権限をマスコミに与えていることです。

 実名報道によって受ける被害の大きさは個人差があります。教育関係者や社会的地位のある者には致命的である反面、実際の刑罰以外はほとんど被害を受けない者もいます。マスコミが好んで報道するのは前者、つまり地獄へ突き落とすことができる者です。その選択の基準は注目される記事になるかどうかということ、つまり自らの利益につながるかどうかです。

 ここに2007年8月20日、痴漢容疑で逮捕された会社員が12日間拘束された後、不起訴となるまでの詳細な記録があります。警察や検察の取調べの模様、マスコミの対応など、とても興味深いものです。「痴漢容疑で逮捕され」は痴漢容疑の恐ろしさをよく伝えています。冷静に書かれた文章は信頼できるもので、実際に痴漢容疑をかけられたときにも役立つことと思います。

 「痴漢容疑で逮捕され」は釈放後、ご本人やそのご親族による警察署への取材を経てまとめられたもので、話題になった映画「それでもボクはやってない」の実話版のようであり、埼玉県大宮署の数人の刑事が実名で登場します。

 先日、最高裁で無罪判決を受けた防衛医大の名倉教授の3年間に比べると短いようですが、「実際に筆者の家族は塗炭の苦しみを強いられたのである。母は今でも睡眠障害が治っていない」と書かれているように、僅かなきっかけで地獄に落とされる理不尽さを感じます。そして、幸い不起訴となってもそれを元の状態に戻せるとは限りません。

 不起訴後のマスコミの対応については、「朝日新聞、東京新聞、共同通信は概ねきちんと対応してくれた。しかし、残念ながら、一番警察発表に忠実な記事を出した産経新聞からは新たな事実を記事にすることを拒否された。筆者に対する対応も一番不誠実であった」と書かれています。

 不起訴や無罪判決を記事にしても全読者が読むわけでなく、回復は不完全なものです。ましてそれを拒否する新聞社の姿勢にはあきれます。こんな新聞社を含むマスコミが、それも営業上の都合によって刑罰以上の制裁を課すことができるのはまったくおかしな話であります。
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