噛みつき評論 ブログ版

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ゆとり教育の前になぜ実験をしなかったのか

2007-10-29 16:49:28 | Weblog
 「おまえ、『ゆとり』だなぁ」とは、「なんにも知らないなぁ」という意味らしい。『ゆとり』もすっかり有名になったものだ。

 ゆとり教育の失敗がついに明らかになり、今後への模索が続いている。教育に関しては素人ながら、疑問に思っていたことがある。それはゆとり教育を実行する前に、なぜサンプル実験をしなかったのかということだ。

 ゆとり教育は、学習内容を3割削減したり、生徒が自発的に総合的な課題学習を行う総合学習の導入などがあるが、詳しいことは知らない。教科書の薄さや、円周率を3と教えることが学習内容の貧弱さを象徴することとして採り上げられる。

 2003年のOECD生徒の学習到達度調査(PISA)、国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)による国際学力比較調査によって、日本の15歳の生徒の学習到達度の順位が大きく下がったこと 判明した。また他の多くの調査によっても、学力低下はほぼ確実と考えられるようになった。

 学習内容の3割削減などという冒険的な変更は、学力が向上する、あるいは少なくとも低下はしないという予想のもとで実施されたのだろう。しかし、その予想には信頼できる裏づけがあったのだろうか、大いに疑問である。ゆとり教育について、立花隆氏は、文科省は頭がおかしいと言ったが、メディアや学者も似たようなものではないか。

 自然科学の分野における因果関係の解明は社会科学の分野に比べると簡単である。それでも実験は欠かせない手段である。化学装置や機械の分野でも「やってみなけりゃわからん」ということがいっぱいある。 教育は複雑な分野であり、実験なしに結果を予想することは極めて難しい。

 「やってみなけりゃわからん」ことをテストもせずに、国を挙げてやったのであれば、そのこと自体が大きな問題だと思うのだ。そのおかげで数百万人の生徒の学力が低下したとしたら、大きな損失である。

 結果が大きな影響もつ重要な問題はサンプル実験をすべきである。プラントではまず小規模のテストプラントをつくって実験し、それから実証プラントとへ進む。新薬でも少数 の対象者による治験を経て一般の使用が認められる。

 「やってみなけりゃわからん」ものはそれがあたりまえだ。教育でのサンプル実験は実験校と対照校を同時比較できるから、サンプルの選定さえ間違えなければ信頼できる結果が得られるだろう。 今回のように日本中を実験台にしたのでは対照群がないので、結果の検証すら難しく、多くの年月を費やした。

 現在の日本は豊かな生活を享受しているが、それは輸出企業の強い競争力のおかげである。自動車・電機・機械・精密の四業種で輸出総額の約70パーセントを占め、上位30社の輸出額は輸出総額の50パーセント程にも達する。 学力は競争力の源泉である。

 とくに数学・理科の学力低下は国力の低下に直結する。近隣諸国の競争力の向上が目覚しいときに、大規模な学力低下は深刻な問題である。

 各地にある教育大付属の小中学校は教育実験の場として既に用意されている。なぜ文科省もメディアも教育学者もサンプル実験を考えなかったのか、私には不可解である。

 文科省の寺脇研氏らが主導したとされるゆとり教育だが、よってたかって、国全体を実験台にするような無謀な計画がなぜ実施にまで至ったのか。さらに失敗が明白になっても、誰も責任をとらなくてよいシステムのままでよいのだろうか。再びこのような失敗が起きないように組織のチェックが必要だと思う。

参考資料 誰のための「ゆとり教育」であったのか

書評『アルツハイマー病の誤解』…題名から外れた部分が秀逸な本

2007-10-15 07:08:44 | Weblog
 本書の前半分は題名どおり、アルツハイマー病に関して書かれている。しかし一般の読者にとって、本書の価値の多くは後半部にある。健康に対するリスクを経済問題として扱う第4章、リスク情報とメディアとの関係を論じた第5章はとても興味深い視点を含む。前回紹介した『メディア・バイアス』と共に一読されることをお薦めしたい。

後半部で著者はまずBSE問題を取り上げる。
「BSE問題でまず死亡したのは女性の獣医だった。(中略)感染牛の発生を見逃した責任をとっての自殺だと見られる」「BSEの発生以降、全国で焼肉店が2000店もつぶれた。経営者の家族や従業員は路頭に迷ったに違いない」と述べる。

 日本人がBSEに感染するリスクは試算によって、1億人に1人から今後1000年間で1人まで差がある。政府の食品安全委員会で示された試算では10億人に1人だが、これは危険部位の除去などの対策を何もとらない場合の数字だという。

 1億分の1以下のリスクに3300億円を投じている、3300億円あればいったい何人の命を救うことができるのかと考えてしまう、と著者は述べている。まったく同感である。また米国産牛肉の輸入停止で、民間分野では既に6000億円の損失が出ているという。またダイオキシン問題では数千億円の税金が投入されたが、その妥当性にも私は疑問をもっている。

 これらは著者の言う「不安沈静対策費用」なのである。この「不安」は主としてメディアによって作られ、増幅された、ほぼ根拠のないものだ。次の章ではメディア側の事情が説明される。著者の小島正美氏は現役の毎日新聞の編集委員であり、説得力がある。

 メディアが不安情報を撒き散らすメカニズムについては様々な要因が示される。妥当なものが多いが、そのひとつとして記者の勉強不足を指摘し、これを防ぐために行政や企業、専門家が記者を集めてセミナーを開くのがよいと提案されている。

 私はこれだけでは不足だと思う。より深く現在の社会を理解するためには科学の基礎知識が不可欠であり、理系の学力を備えた記者を育てる必要を感じる。取材で得た一次情報を理解もせずして選択・加工し、報道することは読者に対して大変無責任な行為である。

 BSEだけでなく、食品の安全、原子力発電、環境問題など、理解に科学的な知見を必要とする分野は多く、また重要でもある。このような問題を理解できないメディアが情報伝達の中枢を握っている現状は危険である。つねに不安を増幅する方向性をもつため、それに呼応する市民団体などを刺激し、社会の不安定化にもつながる。また、なによりも間違った世論形成を通じて、社会をミスリードする危険性を指摘したい。

書評『メディア・バイアス』(光文社新書)・・要らぬ心配を取り除く好著

2007-10-11 18:25:23 | Weblog
 この食品には発ガン性のある農薬が含まれていないか、あるいは有害な食品添加物が含まれていないか、などという心配を全くしない人は少数ではないだろうか。

 週間金曜日発行の「買ってはいけない」は累計225万部も売れ、「心配や恐怖」を広く撒き散らすことに大いに貢献した本の代表であるが、本書は逆に「心配や恐怖」の根拠のなさを分かりやすく解き明かした本である。「心配や恐怖」の元となった間違った説明を検証すると共に、なぜメディアが間違った説に加担するのかを説く。是非お薦めしたい一冊である。

 題名の『メディア・バイアス』とは文字通りメディアによる偏向のことだが、その結果報道と事実との間に深刻な差が生じる。本書は様々な具体例を示し、報道と事実の隔たりを説明し、その弊害を明らかにする。著者の松永和紀氏は農芸化学を専攻し、毎日新聞の記者を10年勤めた経験を持つ。扱われる問題はサプリメント、フードファディズム、環境、食品添加物、オーガニック食品、遺伝子組み換え食品などだ。

 「心配や恐怖」が広まる理由として、メディアのセンセーショナリズムと共にそれに加担する一部の信用できない科学者の存在、及びその科学者の信頼度を正しく評価できないメディアと市民団体の評価能力の低さを指摘している。全く同感だ。

 本書で紹介された事例を一部紹介する。
まず「みのもんた症候群」。これは「午後は○○おもいッきりテレビ」で採り上げられた食品を食べ過ぎて体の不調を訴える人を指すという。開業医の間で言われているそうだが、実害を生じている例である。

 もうひとつ例、06年5月6日、TBSの「ぴーかんバディ!」の白いんげん豆ダイエットは翌日650人の中毒患者を発生させた。死者はなかったものの救急車のなかで吐き続け、便まみれになった人もあるという。

 この事件を起こしたTBSに対しては、総務大臣より文書による警告のみとなっている。中毒者を出していないにもかかわらず、期限を僅かに過ぎた原料を使用しただけでマスコミの集中バッシングを受け、経営危機に陥った不二家のケースを思うと釈然としないものがある。

 本書は、でたらめな情報を選別するのに役立つし、メディアリテラシーを身につける意味でも有用である。高校の教科にも取り入れたいと思うほどだ。世界でトップクラスの平均寿命を実現した日本の食品・医療行政よりも怪しげな本の方を信用する方々には是非とも読んでいただきたい。

 しかし残念なことに、本書は07年4月20日に初版、9月10日でまだ3刷である。ちなみに養老孟司著「バカの壁」はほぼ同じ期間に35刷である。

 余談になるが、「バカの壁」は間違いが多く、内容も空疎であり、益より害の方が多い(正論04/5月号掲載の拙論「『バカの壁』を読めばバカになる」参照)。
 それが朝日、毎日、読売に絶賛された(以来、新聞の書評は信用しなくなった)こともあって400万部以上売れた。それに対して本書のような有益な本がたいして売れないというのはなんともやりきれない。まさに悪書は良書を駆逐する、である(グレシャムの「悪貨は良貨を駆逐する」からの冗談です)。

政治家に潔癖さを求めすぎては大物政治家がいなくなりはしないか

2007-10-09 17:12:36 | Weblog
 2007年09月04日付の朝日社説に故秦野章氏の有名な言葉が紹介されている。
 「政治家に正直や清潔を求めるのは、八百屋で魚をくれというに等しい」

 この面白い言葉を同社説は以下のように解釈する。
 「政治家と一般の人とでは求められる倫理の物差しが違う。要は立派な政治をすること――。そんな趣旨だろう。四半世紀も前の発言だが、今の政治家が聞けば深いため息をつくのではないか」

 そして今という時代を次のように言う。
 「どれほど立派な政治をしようが、「カネ」の問題で透明性に欠け、有権者に説明できないようでは政治家の資格がない・・・」

 この社説はたいへんご立派なことで、誰も反対できない。政治家は清潔な方がよいに決まっている。しかしそれも程度というものがあるのではないか。あまりにやりすぎると弊害が出ることを懸念する。

 重箱の隅をつつくようなことを続けると国政が空回りするだけでなく、貢献度の高い有能な政治家にまで退場を迫ることになり、残るは潔癖ではあるが小物ばかりということになりはしないだろうか。

 以前、年金未納問題で多くの政治家が叩かれたとき、私はその懸念を感じた。誰でも叩けば多少の埃は出ると言われる。税金の例で言えば、給与所得だけの人は脱税問題など起こるわけがないが、納税申告に裁量の余地がある自営業の場合には微妙な部分も出てくるのが普通だ。

 叩いて埃の出る人がごく少数なら税務調査などあまり必要ない。現実には全く埃のでない人の方が少数ではないか。調査対象の多くは更正申告をさせられる。

 悪質なものは論外であるが、立派な政治をやれば多少のことは大目に見るという寛容な態度もまた必要なのではないだろうか。隅々まで潔癖な性格と大きい仕事をする能力とはちょっと両立し難いように思う。むろん例外はあると思うが。

 「お次は○○大臣」というメディアのお祭りのような報道は確かに面白いが、そのため必要以上に寛容さを失い、有能な才能を無にしてしまうことが心配だ。

誰のための「ゆとり教育」であったのか

2007-10-03 22:51:06 | Weblog
 9月18日、経済協力開発機構(OECD)「図表で見る教育」2007年版を発表した。それによると、日本は小学校1クラスあたりの生徒数は日本が28.4人でOECD平均の21人強を上回っている。
 また教員1人当たりの年間授業時間は日本の小学校が578時間で、OECD平均の803時間を大きく下回り、これは調査対象の中で最短であり、授業時間の短さは中学や高校でも突出している(日本経済新聞9/19の記事から要約)。

 驚いたのは教員1人当たりの年間授業時間の短さである。米国は1000時間を超えているので、日本はその6割以下となる。数値の上では、日本の教員がOECD並みに授業をすれば教員を増やすことなく1クラスあたりの生徒数をOECD以下にできる計算だ。教育の生産性格差が大きく開いていることを示している。

 その一方で、教職員組合などから、教員の過密労働や残業の多さが日常的に問題視されている。つまり、教員一人当たりの授業時間は他国に比べてかなり少ないのに、過密労働であるとは、どう理解すればよいのだろうか。

 OECD学習到達度調査(PISA)などによって、日本の学力低下はほぼ確実と考えられるようになり、「ゆとり教育」は少なくとも学力に関しては失敗がほぼ明らかになった。そして減らされ続けてきた授業時間は逆に1割程度増やされることになった。しかしそれでも国際的には低いレベルにとどまる。2002年度の小学校6年間の授業時間数は伊・印の5700時間、米・仏・加の約5000時間に対して日本は3872時間である。

 「ゆとり教育」は日教組により提唱され、推進されてきたが、95年の村山内閣以後は、旧文部省がこれに同調したという経緯がある(Wikipedia)。

 知識偏重教育に対する反省から生まれた「ゆとり教育」には様々な利点が強調された。だが、主要教科の学習内容を3割削減し、授業時間も15%~30%減らして(*1)学力が低下しないという考えは理解困難である。学習時間と学力は正比例の関係にあると考えるのが一般的だ。

 従って、この一般則に反する削減を実施するためには、根拠に基づく信頼性の高い予測が必要である。不確かな予想に基づいて「ゆとり教育」を推し進めてきた背景には日教組による、教員のための「ゆとり」、つまり待遇改善という目的が隠されていたという疑問を拭えない。

 日教組から分離した全日本教職員組合では「小中学校教諭全体の33%超が1ヶ月45時間を超える残業をしています。厚生労働省では、残業が1ヶ月45時間を超えることを「過労死危険性ライン」としていますから、3分の1強の教職員が恒常的に「過労死危険性ライン」にあるといえます」であるとして、「小学校で7万4148人、中学校で10万629人、合計で17万4777人の教職員定数増が必要」(*2)だとしている。

 夏休みもままならない民間の勤務実態から考えるとずいぶん浮世離れした主張に見える。この教職員定数増が実現すると教員1人当たり授業時間はさらに大きく減少、すなわち生産性の低下が起きる。ここには生産性への配慮が全く見られないが、このような組合の姿勢は一貫して続いてきたものだろうか。現在の生産性の低さは「ゆとり教育」を含めた組合の運動の結果を反映したものなのだろうか。

 OECDの資料は、日本の教員は米国の半分強しか授業をしていない事実を示している。OECD平均並みの授業時間にするためにでも現状からは40%近くも増加させなければならない。

 教育の生産性が低い状態をどう評価すべきか、部外者の私にはわからない。だがもし生産性の低さが問題なら、教育界に強い影響力を行使する文科省、及び組合の関与を含め、議論されべきだろう。授業以外の仕事が多いなど、日本だけの特殊事情があるのかもしれないが、この生産性格差の大きさはちょっと疑問である。


(*1)
(*2)
ゆとり教育の前になぜ実験をしなかったのか(参考記事)