噛みつき評論 ブログ版

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左翼が進めた日本の右傾化

2007-05-31 13:52:23 | Weblog
 安部首相が就任した途端、日中・日韓の対立は消えてしまったかに見える。北朝鮮の核実験という共通の脅威の出現が対立の解消を促したこともある。しかしもともと両国との間には深刻な対立を招くほどの利害の衝突はなかった。逆に友好的な関係が互いの利益になることは広く認識されていたと思われる。

 対立の構図は、日本の左翼勢力の一部が南京大虐殺や従軍慰安婦問題を蒸し返して、日本の「借り」を誇張気味に暴露し、それを中韓両政府に利用されたものと見ることができる。中韓両政府は対立を政権の安定という国内事情に利用した。

 ところが、左翼勢力の唱える自虐史観と、それに呼応した中韓の反応は国内に大きな反作用をもたらした。太平洋戦争(右翼では大東亜戦争と呼ぶ)を侵略戦争ではなく、自存のため、あるいはアジア諸国を開放するための戦争と見るような一面的な見解に基づく 、小林よしのり氏の戦争漫画が若者向けに大量に売れた。また対米戦争をしていなかったなら日本は植民地になっていたというようなことを上坂冬子のような有名人までが云いだし、右翼系雑誌も販売数を伸ばした。 藤原正彦氏の「国家の品格」という時代錯誤本が売れたのもこの流れに乗ったためだと思われる。

 (一部のメディアと論者は主義・思想の対立を食いものにして生きている。彼らには対立が激化するほど潤うという構造がある。販売数を伸ばすことは至上命題であるから、対立を煽ることが彼らの抜きがたい属性となる)

  すなわち左翼勢力が古傷を掘り返し、それに中韓が乗っかった結果、左翼勢力は自国よりも外国の利益を擁護するものと見られ、それがナショナリズム刺激した。ナショナリズムの高揚に乗って右翼勢力が拡大したというわけだ。

 つまり、日本の右傾化という事実があるとすれば、それにもっとも功績があったのは左翼勢力、という皮肉なことと相成った。どのような勢力であれ、対立関係の外国と結託していると見られれば、それはナショナリズムを刺激する。中国は自らの行動が日本の右傾化を招いたと気づいて、靖国問題を引っ込めたのだと思う。隣国でナショナリズムが高揚することを歓迎する国はあまりない。

 結局のところ、戦前の歴史観が誇張や歪曲を受けた形で、国民の一部に広まった。それがこの騒動の残したものである。将来、国内の無意味な対立につながらないことを願う。
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メディアの裏の顔-なんといっても金が・・・

2007-05-30 18:28:06 | Weblog
 自分の子供には「相手の立場になって考えろ」と教えている。でないと相手の気持ちも、また弱点もわからないからだ。メディアのことを知りたい思えば、相手の気持ちになるとよい。記事を素直に読むだけではわからない裏の顔が見える。

 保守系と目される編集者が朝日へ迎えられ、朝日の雑誌の編集を任されることもある(この編集者はその後、朝日を離れ、現在は保守系雑誌で活躍中)。外の顔を見ている限りこのような事実は理解できないと思う。

 もし、家族持ちのあなたが左派系雑誌の編集長を任された場合のことを考えてみるとよい。あなたの最大の関心事は、販売部数となるだろう。減れば首が飛ぶからだ。以前からの読者という固定客で支えられている現実を認識することになる。方針の転換は固定客を失う恐れがある。彼らをより満足させる記事を載せるのが無難な選択となる。より過激な方針が部数を伸ばすこともある。左と右を置き換えても同じである。「販売部数が減ってもいいから君の信念を貫いてよろしい」なんて甘いことはまずあり得ない世界である。

 編集者にしても経営者にしても最優先事項は会社の維持・発展と自分の地位向上である。如何に立派なことを云っていても潰れれば元も子もないのだから、これは仕方がない。日本の戦時体制下では新聞はみな軍の手下になり下がったが、「社員を路頭に迷わすわけにいかなかった」というのが戦後の代表的な言い訳のひとつである。社員のために犠牲になった と言いたいようであるが、社員の中に自分も含まれている。いまも体質はたいして変わらないと思った方がよい。

 左や右の路線を継続するのは、それが固定客を大事にする商売の方法でもあるためだ。固定客は自分の考えに近い記事を歓迎する。この状態が続くと社会認識や思考方法、言葉の定義にまで及ぶ謂わば"文化"の異なる二つの固定客の集団が出来る。どちらも対立側の主張を読むことはあまりないから"文化"は純粋になり、違いは大きくなる。新聞や出版社の利益のために国内に「理解の壁」ができるのだ。「理解の壁」は社会にとってよいわけがない。

 そのうち双方の過激な者同士が激しい議論を始める。一種の代理戦争である。"文化"が異なっているので話がなかなか噛み合わない。同じ日本人ながら、互いに相手がエイリアンに見えたりして、理解は期待できそうにない。議論が激しくなるほど雑誌は売れて、経営者も編集者もニンマリ、となる。読者とは金を払って踊らされているだけの上客なのだ。

 歴史問題をネタにすることは販売を促進するひとつの有効な手法である。数十年昔の出来事はその真偽がなかなかわからない。わからない以上、様々な解釈が出てくる。対立相手のアタマを熱くする解釈は歓迎される。双方が熱くなれば販売部数は伸びる。しかしやり過ぎると昨今の事情を見ればわかるとおり、日中関係に水を差すなんてことになる。

 南京事件などの歴史問題を一般の人間が正しく判断するなんてことは不可能である。一般人が得るのは2次、3次情報ばかりだ。AではなくBであると思うのはその人が読んだものによって決定されるといってよい。双方の固定客が与えられた情報に基づいて、熱くなって議論するのは滑稽な風景である。

 もっとも経営者や編集者達が使命感をもっている場合があることは否定しない。行動の背景にはたいてい複数の動機がある。上に述べたのはメディアの性格を理解するための、ひとつの側面である。要するに、メディアの中心部には常に商人の魂が座っていることを、理解していただけたらと思うのである。
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山口県光市母子殺害事件を「利用」する弁護士たち

2007-05-29 17:49:07 | Weblog
 星野文孝氏の記事が興味深い。ここには山口県光市母子殺害事件をめぐる、死刑廃止論者達の恥ずべき行為が載っている。

 詳しくは記事をご覧いただきたいが、面倒な方のために要約する。

 1999年4月14日、当時18歳の被告は、本村さん宅を訪問し、妻の弥生さん(当時23歳)と娘の夕夏ちゃん(当時11カ月)を殺害した事件である。

 被告は本村さん宅に上がり込み、弥生さんを殺害する。動かなくなった弥生さんにガムテープで巻いて姦淫した。母に近寄る夕夏ちゃんを床に叩きつけた後、首を絞めて殺害した。

 1審、2審とも無期懲役の判決の後、最高裁は「死刑回避の十分な理由は認められない」として2審の無期懲役判決を破棄し、広島高裁に差し戻した。

 07年5月24日、その差し戻し控訴審に於いて、被告側には、頼まれもしない21人もの弁護士が顔を連ねた。被告は、21人もの大弁護団になったことを聞き、驚いていたらしい。

大弁護団によって以下のような主張がされた。
 事実誤認があり、被告に殺意はなかった。水道工事屋さんになりすました「ママゴト遊び」で、被害者に抱きついた目的は被害者に甘え、じゃれることにあった。
 動かなくなった弥生さんの体にガムテープを巻き、強姦したことについては「死者に精子をつぎ込んで復活させる魔術とも言うべき儀式」「被告人は精子が死者を復活させると信じていた」などと主張し、その上で「計画性があり殺害方法も残忍」という今までの審議は誤りだとした。

この記事の筆者は、荒唐無稽な動機であり「司法制度を弄ぶ所業である」と述べている。

 死刑廃止論者たちが自説を主張したいためにこの事件を利用しているという記事の内容は事実だろう。悲惨な事件に巻き込まれた遺族の無念さを思いやらないばかりか、遺族の気持ちを逆撫でする弁護士たちの神経が理解できない。

 死刑廃止論を主張することは自由だが、裁判という場を利用し、それに圧力をかけて歪める行為は許せない。このようなやり方は国民感情に反し、逆の効果を招くのではないか。徒党を組み、数の力で押し切ろうとする。あまり上品ではない。

 メディアは安田弁護士と20人の活動や経歴を取り上げて、問題提起だけでもしてほしい。
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武富士、追徴課税1330億円取消し判決に違和感

2007-05-28 18:01:50 | Weblog
 消費者金融大手「武富士」元会長の長男が元会長夫妻から贈与された海外法人株をめぐる税務訴訟で、東京地裁は23日、長男に対する約1330億円の追徴課税を取り消す判決を言い渡した。長男は国税局の指摘に応じて延滞税を含めた約1585億円を全額納付したうえで争ってきた。原告側代理人の試算では、現時点で判決が確定した場合、国は還付加算金を含め約1715億円を返還する必要があるという。(asahi.comより要約)

 私は法に関しては全くの素人であるが、金額がすごいので興味をもってしまった。弁護士の報酬も桁外れだと思うが、そういう勘ぐりはさて措き、素人の立場から疑問を述べたい。

 当時の税法では、国内に住所がない場合は国外財産の贈与には課税されないと規定されていたそうだ。争点は、香港約65%、国内約26%の長男の生活の本拠をどう判断するかであった。

 東京地裁は原告の住所を海外であると認めたわけだが、その判断には多くが納得するような合理的な根拠があったわけではないと思う。裁判官が違えば別の判断をする可能性が高い。つまり裁判官の恣意性がたいへん出やすいケースで、判決がどちらに転んでも敗訴した方は納得がいかないだろう。

 贈与された巨額の財産は金に困った人々から集められたものであり、それが税法の抜け穴を利用して贈与税を免れたという点に、納税者として不快を感じる人がいるかもしれない。しかしそれは別の問題なので触れない。

 双方の言い分の妥当性が、たとえば51:49であっても判決は100:0という極端なものになってしまうことが気になるのだ。ここに合理性があるとは思えない。51:49のような、判断が極めて困難な場合、当事者にとって、判決は運まかせに近いのではないか。つまりくじ引きのように、裁判官の当たり外れによることになる。

 世代間の格差固定の防止や人生の出発点での機会均等という、贈与税の精神を重視する裁判官ならば、海外居住を課税逃れの方便として否定し、課税を認めるだろう。また法の精神よりも条文を厳格に解釈する立場の裁判官であれば、今回の判断になるだろう。

 わが国には、自衛隊は憲法9条で禁止されている「戦力」ではないという「自在な解釈」が行われてきた伝統がある。条文の厳格な解釈より現実を優先したわけだ。衆人監視の憲法解釈でもこのとおりなのだから、海外居住の当否などその気になれば自由にできる。

 巨額の資産の所有権すべてをどちらかの一方だけが得るという判決、そして判決は合理性よりも偶然の要素に左右される、という司法の現実には違和感がある。交通事故では過失割合に応じて損害を分担することが普通であるが、このような経済事件にもある比率で按分することは考えられないだろうか。

 むろんこの種の事件に中間的な判決が難しいのはわかる。それは素人の暴論といわれるかもしれない。法の論理に折り合いをつけなければならないからだ。しかし多少無理でも極端な判決しか出せない制度よりはいくらかまし、と言えるのでないかと思う。
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多数者の利己主義~悲惨な引揚体験から

2007-05-25 22:12:25 | Weblog
 文芸春秋5月号に五木寛之氏の、引揚体験をテーマにした対談記事がある。そのなかに衝撃的な体験が語られている。昭和21年9月20日、五木氏の一家4人は平壌を出て、開城に向かった。14歳の五木氏が妹を背負い、5、6歳の弟を引きずっての逃避行である。少し長いが引用する。

『そして2回目の脱出行で、平壌と38度線の中間にあった沙里院のガードポイントをトラックで突破するときでした。それまで何度も止められましたが、そのたびに時計や万年筆などの貴重品を渡して、見逃してもらっていました。それがここでは女を出せと言われた。これは本当に困りました。 
 若い娘はまずい。子持ちはダメ、あまり年上もよくないということで、結局は元芸者さんなどの水商売をしていた女性や、夫や子供を失った未亡人に、みんなの視線が自然と集中するのです。そのうちリーダー役の人物が土下座して「みんなのためだ、行ってくれ」と頼んだ。みんなから射すくめられるように見られるのですから、その女性は出て行かざるをえません。そうやって女性を送り出していった人間が、生きのびて帰ってきたわけですから
(中略)
 さらにひどいことに、女性が明け方、ボロ雑巾のように帰ってくると、「ロシア兵から悪い病気をうつされているかもしれないから、あの女の人に近寄っちゃだめよ」と、こっそり子どもに言う母親がいた。本来であれば手をとってお礼を言ってもいいのに、そういうことを言って蔑んだ目で見る。戻ってきた女性の周囲には誰も近寄らないのです。私は日本人でありながら、日本人に対する幻滅が強く涌いて、いまも後遺症が消えません』  

衣食足りて、生命の危険がない現代の感覚で過去を判断するのは慎まねばならないと思うが、それにしてもやりきれない話である。

 このときの人々の行動は「多数者の利己主義」ともいうべきものに後押しされていたのではないだろうか(多数者の利己主義は私の造語です)。我々は他人を説得するとき、しばしば「みんなそう言っている、みんな同じ意見だ」などと言う。これには、みんなの意見は正しいという気持ちと、いざとなれば数の力で押し切れる、という気持ちが混じっているように思う。

 他に選択肢がない状況で女性を差し出す行為は軽々に非難できるものではないが、その後戻ってきた女性に冷たい態度をとったことは想像を超える。背景には、間違った行為でも多数であれば心強いし、正当化できるという気持ちがあったのではないだろうか。

 民主主義では多数=力であり、多数決という制度としての担保もある。この制度の背景には、他によい方法がないこともあるが、多数の意見が妥当という考えがあるはずだ。

 上記の例は数の力によって「民主的に」少数者に犠牲を強いたという例であろう。すべてに敷衍するわけではないが、多数意見の正しさというものをあまり信用しないほうがよさそうだ。

 また「女を要求するのはソ連兵ですか。それとも中国や朝鮮の人々も同じことをしたのでしょうか」という質問に対して、「ソ連兵だけではありませんでした」と五木氏は答えている。秩序が壊れると、人間の本性が引き出されるらしい。恐ろしいことだ。もっとも本性は人によって大いに 異なるだろうが。  次に五木氏が日本へ引揚げてからの話の一部を要約する。

 港に婦人調査部というものがあり、それは博多、長崎、佐世保、敦賀にあった。そこで性病と妊娠の有無を調べた。彼女らは「不法妊娠」として麻酔なしで手術された。ところが当時は堕胎罪が厳格で公式にはできなかった。京城帝大、九大、広島大の学生が違法を承知で引き受けた。
(筆者注-これは上記の例が特別ではなく、性行為を強制された女性が多かったことを示している)

 五木氏は『特攻(ソ連兵に提供された女性)に行った女性に「近寄るな」という日本人もいましたが、将来を失う危険を覚悟で手術をした人もいた』と述べている。

 余談になるが、日本人といっても様々だ。日本人というJIS規格があるわけでなく、日本人をひと括りに考えることが無意味なのだろう。これは他の外国人についても言えることだ。○○人というネガティブなレッテルを貼ることは国と国の対立の一要素ともなる。

 世の中にはレッテル貼り(これがまたやめられないほど面白いのだけれど)の好きな人がいるが、レッテルによる単純化(認知的節約)は思考を簡略にし、頭の処理速度を上げる効果があるが、引換えに正確さが犠牲になる。         
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格差社会のリーダーはテレビ・新聞業界?

2007-05-23 17:42:43 | Weblog
 以下は07年3月10日 読売新聞電子版に載った記事の要約である。

 『番組制作会社で構成する全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)は9日、関西テレビの「発掘!あるある大事典2」捏造問題について、加盟88社を対象に行った緊急アンケート調査の結果を公表し、同番組の孫請け制作費は、過去10年間で半減していたことを明らかにした。

 ある制作会社は、1本あたり1600万円あった制作費が、860万円にまで下げられていたという。
 また、アンケートでは27社が、発注費のキックバックや接待の要求など、テレビ局が優越的な地位を乱用するケースがあったことを指摘している。』

 これに関しては文芸春秋4月号に詳しい記事がある。ここにはスポンサーの花王が電通に払った金額の約1億円が、制作会社へ支払われる段階では860万円になる仕組みが説明されている。

 さらに前にも触れたが、週間東洋経済(06/10/7)によると親会社のフジテレビの生涯給与は全上場会社中2位の5億7243万円(1位は朝日放送で5億7570万円)となっている。 業界別比較においても、放送業11社の平均額は4億4287万円で突出している。2位の石油・石炭製品業13社の平均額は2億9104万円である。

 ついでながら、以下はJ-CASTニュース(06/1/16)が報じた『55歳年収2,100万、 朝日総局長が流出させた驚愕「家計情報」』の要約である。

『朝日新聞の静岡総局長の私有パソコンから、個人情報と業務関連情報がネット上に流出した。「家計情報」によると、40代後半の総局長の年収は約1,900万円。55歳時に2,100万円まで上昇、その後、年約175万円減少。退職金の見込み額3,000万円、退職後の収入(嘱託、年金計)が700~1,000万円 などと書かれている。』
 新聞社は給与実態を秘密にしているので、漏れるとこんな騒ぎになるのだろう。

 なぜこんなことを紹介したかというと背景に興味があるからである。1番目には放送業界は局、下請、孫請け、の3階層になっていて、実際に制作するのは孫請けが多いという現状。局は強い立場でこの業界に君臨しているのである。この下部構造の犠牲の上に局の高収益が支えられていると云える。つまり自ら格差構造を作り上げたのである。

 2番目は前にも触れたが、業界の寡占体制。実質的な新規参入ができない体制が独占的な利益(超過利潤)を生み出している。小泉改革もここには及ばなかった。

 3番目は放送業界の、拝金主義といってもよいほどの収益に対する熱意が挙げられるだろう。実現した日本一の給与は長年にわたる不断の努力の果実である。収益への努力があまりに熱心なために、メディアとしての役割を忘れてしまったのだろう。

 放送業界が超過利潤を上げていることは決して我々の生活に無関係ではない。CM費が高く維持されていることはCM商品の価格のコスト要因になり、結局のところ、それを消費者が負担しているわけだ。

 新聞業界の高給システムは下請構造から生まれるものではないかもしれない。しかし2番目と3番目の背景は放送業界と共通すると思われる。また宅配制度が寡占体制とそれによる競争制限の維持に大きな役割を果たしていると云える。

 組織が恵まれた環境にあると、それを維持しようとするインセンティブ(動機)が強く働く。メディアとして果たすべき役割は軽視されがちとなる。

 86年から99年にかけ4度にわたり所得税の累進税率が緩和され、最高税率は70パーセントから37パーセントになった。これは高額所得者を優遇する政策で、格差を拡大する方向であるにもかかわらず、メディアが積極的に取り上げなかったのでほとんど議論にもならなかった。理由は自分達の所得が高く、 減税の恩恵を享受する立場であったことによるところが大きいと思われる。そういう人たちがいま仕方なく格差問題を取り上げている。

 格差社会の上位に位置し、その利益を享受している彼らが、本気で格差社会を変えようとするか、怪しいものである。格差の是正が進めば、つまり平準化が起これば、彼らの所得も下がらざるを得ない。それとも自分達の業界だけは別扱いの秘策でもあるのだろうか。
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