噛みつき評論 ブログ版

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「法化社会」が目指すもの

2008-12-01 10:31:07 | Weblog
 「胎児が母体から指一本出ていれば人間として扱われ、殺せば殺人罪となる。母体から出ていなければ胎児であり、堕胎罪となる」

 これは昔、ある教授の講義で聞いた話です。私は極めて不熱心な学生であったのでこの話以外はまったく記憶がありません。後から思うとこの教授は胎児から人へという連続的な状態のどこかに線を引いて区分しなければならない法というものが本来持つ不合理性、不完全性を伝えたかったのだと理解しています(ややこしいことにどの段階で人となるかは刑法と民法よって異なるとも聞きます)。

 刑法上の責任能力は心神喪失、心神耗弱、正常の3種に区分されますが、この区分も問題を含みます。区分し定義することは法に不可欠のことであることはわかりますが、連続した状態を3分する方法は現実との間に無視できない差が生じる可能性があります。また鑑定者によって異なる結果が出ることも少なくありません。そして区分適用の如何によって、刑罰は無罪か死刑かという重大な差が生じることがあります。

 法の世界では論理が重視されますが、その論理の出発点、公理や定義にあたるものが不明確であるなら、導き出される結果は不正確なものになる可能性を否定できません。法の不完全性というものを意識する必要があると思います。

 ところでいま進められている司法制度改革は法の支配をより強めることを目指しているようです。但木前検事総長は「法化社会への対応と裁判員制度」と題する講演で次のように述べています。「では法化社会とは何なのか。端的に言うと、究極的に紛争のすべてが裁判所に持ち出され、あるいは持ち出されることを前提に準備しなければならない社会である」。これは社会のすみずみまで法の支配を行きわたらせることを意図するものと理解できます。司法制度改革の柱のひとつである法曹人口の急激な増員はこの法化社会の実現を見越したものと思われます。

 一方、この数年多くの食品偽装事件がメディアを賑わせました。例えば不二家事件では、期限が1~2日過ぎた牛乳を使用していたとして、食品衛生法等の違反が疑われました(超過していたのは社内基準の消費期限であり、それは牛乳メーカーの消費期限よりも3日ほど短いそうです)。赤福の場合は、余分の商品を冷凍保存し、必要に応じて解凍して再包装し、新たな製造日を印字したことが問題になりました。赤福は10年前に三重県に「この手法で偽装表示にはならないか」を問うたところ「商品衛生上問題ない」という容認を受けて、34年間続けてきたとされています(Wikipediaより)。

 不二家は1995年6月以来食中毒事故はなく、赤福に至っては34年間も問題がありませんでした。食品衛生法の目的は安全な食品を消費者に提供するためのものです。販売量の多さと年数を考慮すると、両社は実質的に安全を確保してきたと言えるでしょう(小さな違反行為より実績が重要です)。しかし結果は大量の商品廃棄(もったいない!)だけでなく手酷い経営的な打撃を受けました。形式的な違反行為でこれほどまでの制裁を受けるのは異常なことと思います。

 メディアは両社が大量の安全な商品を供給してきたことを一顧だにせず、形式的な違法行為ばかりに焦点を当てました。バッシング対象が悪質だと思わせる方がニュース価値が高いのでしょう。メディアにとっては単に興味を煽るための手法ですが、このような報道が続くと、違法の重大さを社会に印象づけることになります。それは法の本来の目的よりも形式的な遵守を重視する風潮を生む恐れがあります。

 福島県立大野病院事件のように、医療事故に対して警察が介入する例が目立ちますが、これも同じ流れの現象として理解してもよいかもしれません。警察の行為はそれが社会に及ぼす影響を考慮するより、法を厳格に運用するという狭い視野に基づいたものと考えられます。

 法化社会の目指すものと、メディアの不寛容な姿勢が産み出すものは同じ方向を示しています。法を無条件に受入れ、より厳格な遵守を要求する方向です。つまり法が人に従属するのではなく、人が法に従属するという意味合いが強くなると考えられます。

 日本の社会は法に頼らない紛争解決法が主流を占めてきました。中には泣き寝入りもあり、この解決法がよいとばかりは言えませんが、これは日本社会の等質性や和を重んじる文化ゆえの美点と言えるでしょう。「紛争のすべてが裁判所に持ち出され、あるいは持ち出されることを前提に準備しなければならない社会」という手間暇のかかる法化社会は国民性への配慮を欠くものであり、社会の効率性を犠牲にするだけでなく、この美点を損なうものではないでしょうか。少なくとも心地よく住める社会ではないという気がします。