噛みつき評論 ブログ版

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登山道にロープ設置をやめようという動き…切れて事故になれば責任問題?

2008-01-31 11:26:52 | Weblog
 登山道の危険な箇所にはロープや鎖が設置してあることが多い。おかげで登山者は危険箇所を安全に通過することができる。だが、管理が行き届いているわけではないから、切れかかったロープもある。

 ロープなどの利用は登山者自身の判断と責任で行われてきたのだろう。また通りがかりの登山者がロープなどの補修をすることもあったと思われる。

 ところが、登山道の整備を長年実施している団体で、今後ロープの取付をやめようという動きがあることを知った。ロープの切断などにより利用者が負傷・死亡した場合、損害賠償を請求される恐れがある、というのがその理由である。

 合繊ロープ(安価な標識用ロープが多く使われる)は日光によって徐々に劣化する。十分な管理ができない以上、無償の設置者に訴訟リスクまで負担しろとはとても言えない。訴訟になっても設置者の責任は免れるかもしれないが、訴訟のわずらしさは避けられない。

 背景には、事故の責任者を厳しく問う世の風潮がある。事故の責任者を苛烈なまでに追及するマスメディアの報道は責任追及があたりまえという風潮を培ってきた。医療の分野では、医療側は訴訟リスクを避けるため、訴訟リスクの高い救急患者受入れの消極化、積極的医療に代わり消極的・防衛的医療、などの防衛策を採ってきた。(医療崩壊を推進するマスコミ報道 参照)

 世の中の流れは、信頼から不信・敵対へ、自己責任から他者の責任追及へと、徐々に変わってきたように見える。当然、紛争は多くなり、解決は裁判でどうぞ、となる。ここにつけ込んだのが、司法試験合格者6倍の3000人を企てた司法改革推進者達だ、というのは少々気の回しすぎか。

 彼らが目指したのは法が支配する世界、法化社会などといって日常のことまで法の関与を徹底させることではなかったか。でなければ6倍も必要な筈がない。法律家が至る所にいて、常に彼らに法律上の相談して物事を進めるような社会はどうかと思う。

 話がそれたが、権利を主張し、責任を追及することに熱心な社会では、リスクのある仕事の引受け手がなくなるのは当然である。もし登山道のロープが切れて死亡事故が起こり、マスコミが設置者の責任を言い出したら、全国の山からロープや鎖が消えることは間違いなさそうだ。
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司法試験3000人、見直しへ…そもそも司法制度改革審議会の見識に疑問

2008-01-28 10:08:01 | Weblog
 法務省は、司法試験合格者を2010年までに年間3000人にし、その後も増やすことを検討するという政府の計画について、現状を検証したうえで内容を見直す方針を固めた。合格者の急増による「質の低下」を懸念する声が相次いでいることに危機感を募らせたためで、「年間3000人は多すぎる」との持論を展開している鳩山法相の意向も受け、年度内にも省内で検討を始める。同省が慎重路線にかじを切ることで、今後の検討内容によっては現在の「3000人計画」が変更され、合格者数を減少させる方向に転じる可能性も出てきた。(2008/01/25 asahicomより)

 そもそも、司法制度改革審議会が決定した3000人という数に明確な根拠がなかった。審議会の意見書を読むと、理念先行の非現実的な考えが審議会を支配していたと感じる。審議会が6倍という法曹の爆発的な増加を企んだ理由は意見書に一応示されている。それは司法制度改革の三つの柱のひとつとして書かれている。

『「司法制度を支える法曹の在り方」を改革し、質量ともに豊かなプロフェッションとしての法曹を確保する』

 誰も反論しようのない文章である。また「法の支配」という語句が何度も出てくる。少しうがった見方だが、彼らは法の支配の代理人として、より大きい権力を目指していたのかもしれない。そうとでも考えなければこの6倍の意味が理解できない。

 3000人に達するのは2010年の予定だが、既に就職難がささやかれている。それにしても、急激な増加によって、なぜ弁護士の過剰、質の低下を予想できなかったのだろうか。法律家は需給ということがわからないのだろうか。審議会には実業界の委員や、作家、労働界の委員もいた筈だが、ただ座っていただけなのだろうか。

 10年で1.5倍や2倍程度ならまだ理解できる。しかし明確な根拠もなく6倍という非常識な案を決定した審議会の見識を疑ってみる必要がある。なぜなら裁判員制度も同じ審議会の産物であるからだ。裁判員制度も現実から遊離した原理主義が生んだもの、と私には映る。一例を挙げる。(拙文 司法制度改革審議会はまともに機能したか 参照)

『(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決であると・・・』(但木敬一検事総長の発言-論座07/10月号) 同様な発言は他でもあり、裁判員制度を支える基本的な理念のようである。

 模擬裁判では判決のバラつきが問題になっているにもかかわらず、「それが至当な判決」と断定される。同一事件の模擬裁判で、無罪~懲役14年までのバラつきがあったが、これは一方が正しければ、他方は誤審と言えるのではないのだろうか。どちらも「至当な判決」だとはちょっと理解できない。(拙文 『裁判員 量刑に大差 殺人事件に無罪~懲役14年』―最高裁の想定内という見解に唖然! 参照)

 司法試験合格者3000人、裁判員制度、どちらも司法制度改革審議会で決定され、十分に検討されずに法案となったものだ。裁判員制度も改めて見直すべきではないだろうか。
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元日弁連会長の不祥事が続出、日弁連の摩訶不思議

2008-01-24 10:21:11 | Weblog
 次の3件はいずれも3名の元日弁連会長が別々に引き起こしたものです。

 ①元日本弁護士連合会(日弁連)会長の鬼追明夫弁護士が整理回収機構(RCC)の社長当時、その債務者だった不動産会社から月10万円の顧問料を受け取っていたとして懲戒処分を請求され、所属する大阪弁護士会の綱紀委員会から一定期間について「弁護士の品位を失うべき非行にあたる」との議決を受けていた(asahicom 07/01/20より抜粋)。

 要するに元会長は整理回収機構の社長として給料を取りながら、債権を取立てる相手である不動産会社から顧問料を取っていたわけです。毎月、金を頂戴していれば、取立てに手心を加えたくなるのは人情です。

 整理回収機構と不動産会社は利益が相反する関係であり、双方から金を受け取る行為は日弁連の職務規定に反すると判断されたわけです。

 ②元日弁連会長の土屋公献弁護士は、民事訴訟の代理人を依頼した東京都内の医師夫婦から、「適切な訴訟活動をしなかった」として訴えられ、07年11月/21日、東京高裁は土屋弁護士に80万円の賠償を命じる判決を出しました。恥ずかしいことに、裁判のプロ中のプロが自分の裁判に負けたのであります。

 この土屋氏は朝鮮総連中央本部の不動産売買問題の主役の1人を演じましたが、朝鮮総連に深く関わり、「拉致問題はなかった」と主張してきた「北朝鮮寄り」の人物といわれています。2007年6月15日、総連側の代理人の土屋氏は自宅や事務所を東京地検特捜部に電磁的公正証書原本不実記録の疑いで家宅捜索を受けています。土屋氏の会長在任は1994-95ですが、このような思想の持ち主が会長に選出されることも、日弁連の性格の一端を示唆しているようです。

 ③元日弁連会長の中坊公平氏は、旧住宅金融債権管理機構による債権回収の際の詐欺容疑で告発されましたが、東京地検特捜部は03年10月17日、起訴猶予処分としました。その直後、中坊氏は弁護士資格を返上しました。中坊氏の名声はこの事件により地に墜ちた、と思われるほど衝撃的なものでした。
 この事件がその重大さにもかかわらず、起訴猶予となったのは中坊氏の「英雄的」経歴と弁護士資格の返上が条件とされたため、などといわれています。複雑な事件ですが、参考資料を挙げておきます。(資料1 資料2)

 元日弁連会長の問題発生率はなぜこんなに高いのか、という疑問が生まれるのは当然です。弁護士社会の頂点に座る人物は地位にふさわしく、潔癖で高い倫理を備えている筈だという認識があるからです。1人や2人なら偶然ということで済ませることもできるでしょう。でも3人ともなると、これは選出方法などの構造的な問題が日弁連内部に潜んでいると見た方がよいでしょう。わざわざ一癖ある人ばかり選ばれる理由が気になります。

 私が若い頃、父に「弁護士って、どんな仕事をする人?」と質問したことがあります。父は「曲がったものを真っ直ぐに見せるのが弁護士の仕事だ」と答えました。弁護士の仕事のすべてではないにしても、この言葉は弁護士の一面を言い当てています。

 依頼者の利益を守るためには倫理なんか気にしていられない、ということはわかるつもりです。堅いことを言ってたら商売にならないでしょう。しかしいくらなんでも会長に問題のある人を選ぶのは理解できません。また、たとえ倫理観に問題があったとしても、問題を発覚させないだけの有能な人を選べないのでしょうか。

 問題がひとつ発覚する裏にはその何倍、何十倍の隠蔽された問題があると見られるのが当然です。他はバレなかっただけだと。会長を選ぶ基準に、倫理観や能力は重視されず、それよりも大きい別の要素が存在すると考えられます・・・どの組織でもよくあることですが。

 ともあれ日弁連会長の相次ぐ不祥事は会長個人の問題としてだけではなく日弁連全体の問題として捉えるべきでしょう。マスメディアは何故かこの問題はほとんど取り上げられませんが、少なくとも吉兆事件よりも遥かに重要だと思います。

 日本弁護士連合会は弁護士会の連合体ですが、弁護士は地域の弁護士会を通じての日弁連への登録が義務付けられています。つまりここに登録しなければ弁護士としての活動はできない仕組みであり、弁護士に対する懲戒権など、強い権限がある上、政治的な強い圧力団体でもあります。

 したがって日弁連の問題は内部だけにとどまらず、社会に大きい影響力をもった問題として扱われるべきです。③番目に登場願った中坊氏は司法制度改革審議会に参加し、根拠が不明な法曹人口一挙6倍増(拙文参照)や裁判員制度の成立に強い影響力を行使しました。

 外部の素人には立ち入れない問題ですが、とにかく問題のある元会長「輩出」という事態を恥じていただきたいものです。そしてマスメディアがもっと関心を持つことを望みます。
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病気腎移植の大半問題なし・・・過大な報道の後始末は目立たぬ記事

2008-01-21 15:25:58 | Weblog
 1月12日、宇和島徳洲会病院の調査委員会は万波医師が実施した11件の病気腎移植のうち、2件については疑問があるが、それ以外については肯定する内容の報告書を発表した(朝日新聞1/13の記事を要約)。

 一昨年の秋、「瀬戸内グループ」の万波誠医師による病気腎移植は大きく報道されました。明るみに出た直後の06年の11月から翌年4月にかけての論調は、非難一色で、「腎臓提供の同意文書はごく一部しかなく、病気腎と知らずに移植を受けた患者もいる」「人体実験にほかならない」「密室の手術」「4学会、全面否定」など過激な言葉が並びます。万波医師は大変な悪徳医師だというイメージが出来上がりました。

 今回の調査委員会の報告書は1年以上の調査期間を経て発表されたものですが、それは一昨年の論調と対立するものです。医学の知識がなく、報告書も読まずにその是非を評価するつもりはありませんが、気になるのは記事の扱いです。

 万波医師の名誉を回復すると思われる今回の朝日新聞記事は27面(社会面)の右最下部の2段記事に過ぎません。一昨年の非難報道の記事の面積を合計はこれの100倍ほどもあったかもしれません。万波医師にとってはまことに不当なことです。

 今回の報告書は第三者による評価を経ていないから小さな扱いにしたというのは理由になりません。一昨年の記事は疑惑段階で大々的に発表されました。このことから二つの問題に気づきます。

 ひとつは、悪人を仕立て上げ、世間を驚かす要素のある記事と、同じ重要性があってもそのような要素のない記事との非対称性です。もうひとつは誤った知識・イメージをバラ撒いた後の始末の仕方です。

 今回の報告書の是非の判断はできませんが、少なくとも一昨年の非難記事より重要でないとはいえません。目立たない記事では、病気腎移植についての一方的な知識が固定する恐れがあります。

 新聞社は訂正記事に不熱心で、アリバイのためだけではないかと思われる小さな記事しか載せない、とよく言われます。訂正記事は謝罪の意味もこめて、元記事より大きく目立つようにするのが本当です。多くの読者に気づかれない、形ばかりの訂正記事は間違いを実質的に隠蔽するものです。

 一昨年の非難記事の多くは、いつもながらのことですが、移植に否定的な人物の見解を数多く並べただけ、という体裁をとっていたため、間違いがあったと断定することは困難です。しかし、判断するだけの医学知識も能力もないままに、移植否定の前提で記事を書いたことは誰が読んでもわかります。

 似たような例は環境ホルモン騒動でも見られました。2004年6月、環境省は環境ホルモンとして指定していた67種の物質の指定を廃止しました。98年の指定以来調べてきたが、哺乳類にはその影響が認められなかったという理由によります。かつてバカ騒ぎした新聞はこの事実を黙殺するか、目立たない小さな記事にしただけでした。

 ここでは購読紙である朝日を例に出しましたが、他のマスメディアもほぼ同様と考えてよいと思います。格好悪くても、過去の報道を正すことはマスメディアの使命であり、誠実さの表れです。放置することは社会に害をもたらすことを自覚してほしいと思います。

 マスメディアには、都合が悪いことを通さないフィルターがついているようです。
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朝日が掲載した裁判員制度擁護論…制度の問題点を露呈

2008-01-17 14:03:11 | Weblog
 12月30日朝日新聞朝刊には「再考 裁判員制度」いう見出しで早大法科大学院教授の四宮啓弁護士の文が掲載されています。文末に(聞き手・市川美亜子)とあるので両者で作成したものでしょう。なお四宮氏は、29日夜9時にNHKで放映された模擬裁判の解説も務められていました。四宮氏はどうやらこの分野の第一人者と見られているようです。

 この第一人者による文章の趣旨は裁判員制度反対論に対する反論、つまり擁護論であります。主な論点を以下にまとめます。

①国民が裁判に参加することは日本の民主主義の空洞を埋める意味がある。
②時間や金のかかる閉鎖的な司法を使いやすいものするため、国民にも中に入ってもらう。
③裁判員制度は違憲でなく、奉仕の強制でもない。
 そして次の項では、注目すべき主張が述べられます。
④模擬裁判で量刑がばらつき、公平な裁判ではないという声があるが、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ。それがプロの裁判官の相場とずれているなら、相場が見直されるべきで国民が議論した末の結論こそ「真実」だという考え方を日本社会は身につけていくだろう。

 順序が逆ですが驚きの④から反論します。

 量刑のばらつきが問題になっているとき、それが正しいのだから、プロの相場が見直されるべきだ、とされるのは理解できません。裁判員制度によって量刑が全体として重くなる、あるいは軽くなる方向が出たのなら、相場をそれに合わせることはできます。だが量刑がばらついたときに、どうあわせたらよいのでしょう。プロの裁判もばらばらになれとおっしゃるのでしょうか。

 また「裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ」と述べられていますが、どのような根拠があるのでしょうか。この考えは裁判員制度の重要な基本であり、明確な根拠が示されるべきです。その考えが正しければプロだけの上級審は要らなくなります。現実を理解しない暴論であり、形式論というより原理主義というべきでしょう。

 ばらつきがあるという指摘に反論もせず、適正な刑罰だと主張もわかりません。ばらつきは裁判員の質の差が大きいために当然生じたのであって、それでも公平性が保たれるという認識も理解できません。この考えは、同一事件を想定しての模擬裁判の結果に無罪~懲役14年の開きがあるのを「当然、想定していた」との最高裁の見解とも一致します。

 また、「今まで法律のプロだけがコップの中で議論していたシビリアンコントロール(文民統制)の要素が盛り込まれる点を考えてほしい」とありますが、シビリアンコントロールという言葉は一般に軍の指揮権を文民が持つことを意味し、誤用と思われます。以前にも指摘しましたが、記事の信用にも関係することであり、記者・校正者の学力向上を望みたいところです。

 次に、①の裁判員制度が民主主義の空洞を埋める、というご主張に移ります。

 これは司法制度改革審議会の意見書の、裁判員制度の第一の目的は国民が国民主権に基づく統治構造に参加するという理念の実現である、という記述と符合します。大変ご立派なお題目ですが、裁判員の数に対する思慮が欠けているのではないでしょうか。裁判員に選ばれるのは2006年の資料によれば年間約5500人に1人です。

 5500人に1人だけ選挙権を与え、国民主権の民主主義をやっていますと胸を張るのとたいして変わりません。国民という抽象的な実体はないのです。形だけ整えばよいという考えであり、現実性・有効性を無視した考えです。まして裁判員経験者はその経験を口外してはならないとされているので、参加意識の波及効果もごく限定されます。

 自然科学の世界では、必要な数の数千分の一を満足しただけで、これでOKなどと言うと、奴は頭がおかしい、と言われかねません。法の世界には数量の概念がないようです。総選挙のとき、最高裁判所裁判官国民審査が実施されますが、この仕組みの有効性を信じる方はあまりいないのではないでしょうか。これも形式論の産物でしょう。

 ②の司法を使いやすいものするため、と言われるますが、なぜ裁判員制度がそのような意味をもつのか、理解に苦しみます。素人裁判員への説明のために余分な時間を取られる裁判員制度は安くて早い裁判の実現に逆効果ではないでしょうか。裁判員の時間的制約のために早く結審せざるを得ないという圧力のために時間が短くなるのなら、拙速でしかありません。早くすることは裁判員制度と関係なく実現できることです。

 ③の本制度がもつ憲法上の疑義については素人の出る幕ではないので触れまませんが、素人ながら、見解が分かれる法の解釈など、いつまでやっても仕方がないという気がします。憲法9条の解釈など数十年やったって結論がでません。

 裁判員制度の導入の意義は、約5500人に1人の参加で国民主権が実現できるということと、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ、という考えが中心のようです。前者は形式的な空論に近く、後者は「適正な刑罰」の根拠がないばかりか、むしろ裁判の公平性を損ねる危険が大きくなります。

 さらに根拠も示さず(ないからだと思しいまが)素人が6人加われば「適正な刑罰」が決まると決めつける思考方法自体に危険なものを感じます。これは論理の世界ではありません。無作為抽選による一様でない6人がどんな影響をもたらすか、実験もせずに予測できるのでしょうか。予測の方法と根拠を提示していただきたいものです。

 調査によって違いがありますが、国民の7~8割がなりたくないと思っているこの裁判員制度を進めるべきでしょうか。大勢の専門家がよってたかって作り上げた「ゆとり教育」のような大失敗にならなければよいのですが。
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UFOの次は9.11テロ陰謀論…民主党議員の国会質問のレベルに唖然

2008-01-13 15:35:50 | Weblog
 1月10日の参議院の外交防衛委員会、民主党の藤田幸久議員の質問場面の映像記録を見ました。ツインタワービルについて、爆発音があった、破片が150mも飛び散ったのはおかしいなど、9.11テロの疑問点を次々と質問される藤田議員の意図は途中でわかりました。

 9.11テロはアルカイダによるものではなく、米政府の捏造だという説を拠り所にして、テロ対策の抜本的な見直しを求めているようなのです。しかしそれにしては質問が稚拙で、国会でこんなことをやっていていいのだろうか、というのが正直な印象です。

 藤田議員は、火災ではビルは崩壊しない、仕掛けられた爆弾によるものだとおっしゃりたいようですが、鉄骨構造であれば火災で崩壊することは不思議ではありません。通常使われるSS400という種類の鋼材は700度で強度が約1/4になり、崩壊は起こり得ます。

 熱が伝わりにくいように鋼材には断熱材が張られていますが、想定外の大量の燃料による長時間の加熱には耐えられません。火災では崩壊しないと主張する人はこんな基本的なことも調べてないのでしょう。衝突後の爆発は気化した燃料に新たに引火しても、破壊されていない燃料タンクが加熱されても起こり得ます。

 破片が遠くまで飛散したのは不思議ではなく、衝突時の衝撃でも、燃料が気化したガスの爆発でも生じます。こういう事実を一つひとつ否定できなければ爆弾説に説得力はありません。

 また、ペンタゴンの建物に翼長38mの飛行機が衝突したのならそれだけの大きな穴があくはずだが小さな穴しかあいていないのはおかしい、またペンタゴンの建物は堅固にできているにもかかわらず、軽い合金で作られた飛行機が貫通するのはおかしい、と質問されています。

 この2つの質問自体、矛盾しています。最初の質問は建物が堅固でないという前提でなされ、2番目の質問は建物が堅固であるという前提に立っています。わけがわかりません。長い胴体部が縦方向に衝突すると強い力がかかるので、その部分だけ穴があいたという解釈が自然です。翼の部分は横向けに衝突したので建物には強い力が働かなかったというだけのことです。

 また、事件直後に暴落した航空会社の株のプットオプションを事前に購入していた者が儲けた事実を指し、こんなオペレーションをアルカイダがアフガニスタンなどからできますか、という質問がありました。プットオプションの購入など、4機の航空機をぶつけることに比べれば、メンバーにとって実に簡単なことでしょう(プットオプションについて予め調べておくべきです)。

 プットオプションや他の質問に対しても政府側の答弁は答になってないものが多かったのですが、藤田議員はそれに何の反応もせず、次の質問に移っていきました。まるで質問の棒読みです。必要な答を得ようとする意欲が全く感じられません。

 9.11が米政府の捏造だという怪しい本も出版されているようです。それを信じる少数のひとがいるのは仕方ありません。だが国会にそんな荒唐無稽なものを持ち出されては時間の浪費です。なぜ荒唐無稽かと言いますと、聞いた限り、質問に科学的な裏づけがあるとは思えないからです。広く信じられていることをひっくり返すには強力な証拠・証明が必要なのは当然です。

 満州事変の発端となった柳条湖事件は少人数で出来る線路の爆破ですが、後でばれています。まして9.11のような多人数を必要とする謀略を隠し通すことが現実に可能でしょうか。しかも発覚は政府の命取りになるだけでなく、米国の信用失墜を招きます。

 こんな話を持ち出すには新しい事実、あるいは十分に調査・検討された説得力のある材料を提示すべきです。怪しい本から得たネタを、検証もせずに持ち込むのはどういう見識でしょうか。UFO、陰謀説、ムー大陸、心霊現象、ガセネタ、なにを信じようと自由です。しかし昨年12月の山根議員のUFO質問に続いて、こんなもので国会の時間を使われては国民はたまりません。

 これは藤田議員だけでなく、民主党の見識の問題としても捉えるべきでしょう。民主党を代表して質問に立つわけですから、党としての関与もある筈です。政治家にとっても、政党にとって現状を的確に認識する能力は極めて重要です。参院第一党としてはたして大丈夫でしょうか、外交や防衛を託してもいいでしょうか、ちょっと心配です。防衛予算をUFO対策に使ったり・・・。

 まあ、UFOや陰謀論を国会で質問するなんてことは、あまり報道されない方がいいでしょうね。民主党にとっては逆宣伝ですから。朝日と毎日がこれを取り上げなかったのは民主党への優しい心遣いのためであったかも知れません。
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福岡飲酒運転事故判決に批判の嵐…またメディアスクラム?

2008-01-10 19:59:38 | Weblog
「過失」の判断、やりきれなさ残す 福岡3児死亡判決(朝日新聞) - goo ニュース

福岡飲酒運転事故判決に批判の嵐…またメディアスクラム?

 『飲酒惨劇 なぜ「過失」』

 これは判決直後の1/8朝日夕刊の13面(三面)見出しです。見出しは、この事故は過失ではなく、故意の殺人だと主張しているようです。本文では、その理由には触れず、ご遺族の様子と以前飲酒事故で子供を失った方のコメントを載せています。

 翌日、日経を除く各紙も似たようなもので、量刑が軽すぎるという論調が目立ちます。事故後の報道は厳罰を求めるものが主であり、その姿勢は一貫しています。

 判決は7年6ヶ月でした。泥酔ではなく0.25mg/Lの酒気帯びで、正常な運転が困難な状態にはなかったと強く推認される、という判決理由を信じれば、この判決を非難する理由を見つけるのは困難です。

 ネットに出される意見の大半も判決が軽すぎるというものです。確かに、マスコミの報道は検察側に主張に沿ったものが多く、被告に有利な情報はあまり伝えられないことはよくあります。マスコミ以外に情報を得る手段がない以上、軽すぎるという意見が多いのもわかります。

 確かに事故後の被告の行動に同情の余地はなく、しかも3人の命が失われた結果は痛ましく、かつ重大です。結果の重大さは量刑に加味されるのは当然ですが、この事故の場合、下が海という不運と道路構造が事故拡大の大きい要因になっています。

 もし通常の道路のようにガードレールがついていれば単純な追突事故であり軽傷で済んでいたと思われます。海への転落は致命的な事故になる可能性が高く、4mの歩道が車の転落を防止できるとは思えません。また事前にその危険性は十分予見できたと考えられますから転落防止措置の欠如は重大です。

 にもかかわらず、道路管理者の責任はゼロで被告の責任が100%と考えるのは合理的ではありません。恐らく各紙は求刑の25年か、やや下回る程度を期待していたものと思われます。それは、事故の直接要因ばかりに目を向け、拡大要因への配慮が欠けているためだと思われます。20年、25年という刑は故意による殺人(初犯)の量刑相場と比較しても、バランスを欠くように感じます。

 危険運転致死傷罪はその要件である、故意の立証が困難であると批判されています。しかしこれを緩くしてしまうと、故意と過失の境界が曖昧になり、実質的には過失でも重 刑を課すことが可能になる危険があります。故意という要件があってこそ殺人に匹敵する重刑が可能なのでしょう。

 他は知りませんが、少なくとも朝日とNHKの報道は、感情に訴えるという傾向が強すぎるように思います。結果が重大・悲惨であってもメディアは冷静さを保つべきです。脚色は本来の仕事ではありません。他の要素を無視し、被告人にすべての責任をおしつけて問題を解決しようという姿勢は単純でわかりやすいですが、魔女狩を思わせます。

 マスコミの論調は、量刑に対する不服という点でほぼ一致していますが、裁判での審議に匹敵するほど綿密な検証がなされた結果なのでしょうか。判決の翌日にすぐ社説などで発表されたこと、またその内容から推定しても、綿密な検討を経たものでなく、表面の主な事実による簡易な判断という印象が拭えません。

 検察はマスコミの意向に沿った求刑をしましたが、判決は裁判官が圧力に屈せず、冷静に判決を下したものと見ることができます。だが、素人の裁判員が参加する裁判では、報道に左右されない冷静な判決が可能でしょうか。私は極めて疑わしいと考えています。
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小学3年生に嘘と誇張について教えるフィンランドの教育

2008-01-08 09:31:43 | Weblog
 1月6日のNHK第一放送の番組「日本人のコミュニケーションの育て方」の中で、劇作家の平田オリザ氏は次のようなことを話しました。「フィンランドでは、小学3年生に文章を読ませ、その中の嘘と誇張(大袈裟)を見分けさせるといった教育をしています。そして誇張はどの程度まで許容されるべきかを考えさせています」

 私にはフィンランドの教育についての知識はありません。国際学習到達度調査(PISA)の調査で最優秀ということだけは知っていますが、この話を聞いて、なるほど、と納得がいきました。フィンランドの教育システムとそれを構成する人たちのレベルの高さを感じます。

 この一点だけでフィンランドの教育を云々するのはよくありませんが、平田オリザ氏が取り上げられた事実は、フィンランドの教育を象徴するもののように私には思われます。

 嘘と誇張を見分ける能力、それはコミュニケーションの能力に直結することでもあり、メディアリテラシーにも深く影響します。小学3年生にこのような教育をするという、その見識には驚かされます。聞いて、その重要性に私も気づきました。

 科学的応用力、数学的応用力、読解力での高い学力を実現したファンランドの教育は、優れた見識に支えられた教育システムの産物なのでしょう。

 誇張、大袈裟の許容度を小学生に教える社会がある一方、わが国の現状はというと、テレビ、新聞の見出しは年々、センセーショナルな傾向を強め、誇張が日常化しているように感じます。

 週刊誌の記事見出しは実に巧妙にできおり、広告の見出しに釣られて購入し、記事を読んで「なあーんだ」という経験をもつ方は少なくないと思います。限りなく嘘に近い誇張表現を作るのが編集者の「腕」なのでしょう。

 「激安」「おっしゃられる」「させていただいていいですか」など話し言葉の世界も誇張が進んでいます。どうやら我々は誇張に対して大変寛容な民族のようです。誇張は嘘の一種であり、許容範囲があるという考えは希薄です。これは正確な記述をしようという気持ちにも悪影響を及ぼします。

 誇張は面白さの反面、言葉のもつデリカシーを失わせ、正確なコミュニケーションのツールとしての機能を低下させます。フィンランドに差をつけられたのは学力だけではなさそうです。

 文科省や日教組に将来の日本の教育方針を委ねて、はたして大丈夫なのでしょうか。「ゆとり教育」を主導してきた彼らの見識にはいささか不安を感じます(参考)。一に教育、二に教育、三に教育、と言ったのは英の前首相ブレアでした。

 リテラシーの差は選挙を通じて、政治の質にも強い影響を与えるでしょう(フィンランドでテレビタレントが政治をやっているかは生憎存じません)。

 フィンランドのような教育によってメディアリテラシーが向上すれば、誇張の多いものは信用を失い、マスメディアも少しはまともになると思うのですが。
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朝日、信頼度低下の典型記事…正確さよりセンセーションを優先

2008-01-06 10:19:45 | Weblog
 1月4日朝日新聞夕刊の1面トップの見出しは「東証大発会765円下落」である。日経は「日経平均616円安」の見出しだ。こんなに値段が違うのはなぜか。

 朝日の765円下落は取引時間中につけた最安値であり、日経の616円安は午前の終値である。「一時○○円安」というように特に断りがなければ、私の知る限り、値段は終値を指すのが慣例となっている。

 朝日の記事も詳細に読めばわかるのだが、見出しだけ読む人には誤解を与える可能性が大きい。些細なことだと思う方もあろうが、新聞社の姿勢を判断する上で重要なポイントになる。慣例を無視してまでの「765円下落」という書き方には、読者に正確な事実を伝えるという気持ちは感じられない。誤解を予想できないはずがない。あるのは誇大に見せて読者の注目を引こうという下心である。

 これは1面トップであり、十分なチェックを受けている筈であるから、単なるミスではないと考えられる。先ほど、社外秘資料が漏れて、朝日新聞の読者信頼度が3位に転落したというニュース(参考)が流れたが、朝日には危機感はないようだ。もっとも信頼度低下の調査結果は一般社員には知らされず、隠蔽されてるのかも知れない。

 いつも朝日のあら探しをやっているわけではないが、ついでに気づいた例をもうひとつ紹介しよう。12月30日の朝刊オピニオン欄である。「再考 裁判員制度」と題して四宮啓氏が書いているが、聞き手・市川美亜子となっているのでインタビュー記事だろう。裁判員制度の利点を説いた問題箇所を引用する。

『何よりも、いままで(中略)「法律のプロ」だけがコップの中で議論していた刑事裁判にシビリアンコントロール(文民統制)の要素が盛り込まれる点を考えてほしい』

 シビリアンコントロールは軍の指揮権を文民が持つことを意味するのであって、市民が法律家(官僚でも政治家でも)をコントロールする意味で使われているのは聞いたことがない。civil(市民の)の派生語ということで誤解があったのだと思うが、「一流紙」に載れば、正しいと思いこむ人も出るので影響が大きい。新聞における言葉は「生産物の品質」に相当するもので、用法は入念にチェックするのがあたりまえだ。

 まあ、いくらチェックをしても記事の筆者や記者、校正者に気づく能力がなければ仕方がありません。新聞社にもゆとり教育の学力低下が現れ始めたということですかね。新聞社の高給は大分知られてきましたが、給料と教養の「格差」が気になった次第です。
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あなたは20歳の裁判員に裁かれたいですか?…司法改革を貫く原理主義?

2008-01-03 11:11:17 | Weblog
 法律上20歳になると成人とみなされ、参政権が与えられます。ただ被選挙権は衆議院25歳、参議院30歳にならないと与えられません。これは20歳の見識・判断力では議員は務まらないという考えによるものでしょう(民主党は18歳選挙権・20歳被選挙権をマニュフェストで謳っていますが、まあこれは無視することにします)。

 ところが人を裁く裁判員は20歳以上の者が無作為抽選で選ばれます。見識や判断力をチェックする有効な仕組みは事実上ありません。背景には、20歳以上であれば誰でも人を正しく裁くことができるという非現実的な建前だけの考えがあるのでしょう。むろん実際は20歳以上の人が選ばれる可能性が高いのですが、ここでは裁判員は誰でもいいという根底にある考え方を問題にします。

 因みに20歳の頃の私は、ものごとの多面性ということがわからず、人の話には建前と本音があることもわからず、また(大変愚かにも)新聞に書かれていることはすべて正しいと思っていました。人を裁くなど、とても考えられません。

 年齢条件以外でも裁判員として不適格な者を排除する仕組みはありません。ある模擬裁判で裁判員になった元高校教諭の小川氏は「少しは法律の知識もあるほうだと自負していた」方ですが、内容の6割程度しか理解できなかったと発言されています(月刊現代1月号)。6割の理解で裁かれたのでは被告はたまりません。

 裁判員に理解してもらうための説明に余計な時間を取られれば、本来の審議にかけるべき時間が削られます。たいていは3日間などという従来より厳しい時間制限もあり、さらに拙速の可能性が大きくなります。裁判を十分理解できない裁判員の存在をどう考えているのでしょう。賛成の手だけ挙げられればいいと思っているのではないでしょうか。

 裁判員制度の元を作った司法制度改革審議会の意見書には、この制度の導入の意義は被告人のためというよりは、裁判に国民が参加することである、と正直に書かれています。国民とは、成人であれば誰でもよいわけで、国民参加は被告人の利益に優先すると解釈できます。ここがもっとも理解に苦しむところです。

 一方、現実の社会では毎日無数の決定・決断がなされています。会社でも役所でも無数の決定事項があり、重要度によって決断の主体は変わります。社運を左右するような決断は20歳の新入社員にはさせません。20歳の大会社社長や次官が出現することもまずありません。

 社会には重要な決断は経験や判断力に優れたものに委ねられる仕組みが備わっています。むろんそれでもバカな決断はいっぱいありますが、あてずっぽうで選んだ、つまり無作為抽選の者による決断よりずっとましです。裁判員制度による裁判のみが未経験の素人に重要な決断をさせることになるのです。

 無作為抽選によって選ばれる裁判員には、より優れた判断をする者を選ぼうという配慮も仕組みも見られません(米国ではかなり時間をかけて選別していると聞きます)。少なくとも年齢を30歳以上にするといった選択は可能であったはずにもかかわらずです。ランダムに選んだ素人が、適切な判断ができるいう明確な根拠も示されていません。

 この制度は、司法への国民参加を実現させるという理念ばかりが重視され、被告を公正に裁くという裁判本来の機能には配慮がなく、それを低下させる恐れが多分にあります。単純に理念を優先し、複雑な現実を軽視するのは原理主義と変わりません。

 複雑な現実への適応を放棄し、単純な理念に基づく、一面的な考えの人々が審議会を支配し、意見書を作ったことに強い懸念をもちます(法曹人口を6倍にしようとした意図も再検討する必要があると思います)。そして、大きな修正を受けることなく与野党の賛成で国会を通過したことに、その立法府としての機能に疑問を感じます。ほとんど関心を示さなかったマスコミも同様です。

 裁判員は6人であり、平均化されるから問題はないという考えは間違っています。平均化によってバラツキを解消するには数百人以上が必要でしょう。6人で平均化されるなら内閣支持率などの調査は6人で適切な答が得られる筈です(千数百人の回答から得られるデータでも調査によってかなりの差があります)。また仮に平均化されるとしても、不適格な者は始めから除いておく方がより適切な判断を期待できます。

 裁判員制度が被告にとって公平性を確保できるという確証が得られるまでは、米国のように、職業裁判官による従来の裁判を被告が選択できるようにすべきでしょう。選択制を採用してもとくに不都合はないし、その方が理解が得られると思うのですが。
(参考)裁判員模擬裁判 量刑に大差
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