噛みつき評論 ブログ版

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百田発言の背景・・・メディア独占

2015-06-28 23:49:07 | マスメディア
 自民党議員の勉強会における百田尚樹氏の発言が騒動になっています。朝日が27日の朝刊トップで報じた問題の発言とは「沖縄の二つの新聞社は絶対につぶさなあかん」ですが、それに対し、百田氏は『誰かが「沖縄の二紙はやっかいですね」と言った言葉を受けて、「ほんまや、つぶれたらいいのに」と軽口で言ったにすぎない』としています(自民議員にも問題発言があったようですが、こちらは私人ではなく議員という立場なので性質が異なるためここでは触れません)。

「つぶさなあかん」と「つぶれたらいいのに」では意味が全く異なります。前者は積極的な意思を表すのに対し、後者は単なる願望に過ぎません。どちらが正しいか、私には判断できませんが、過去の信用度からすると朝日の記事には疑念があります(朝日の信用度については後述)。次の百田氏の発言も興味を惹かれます(産経新聞より)。

「それより、私がむかつくのは、報道陣がいたのは、最初の2分だけ、あとは部屋から出て行って、シャットアウト、つまりその後の講演も質疑応答もクローズな場所での発言なのに、それを盗み聞きして報道されたことだ。...
 部屋から退出しても一部の記者はドアのガラスに耳をくっつけて、盗み聞きしていたのだ。部屋の内側からガラスに耳がくっついているのが見えたときは笑ってしまった。
 私はラジオやテレビで不特定多数に向けて発言したわけではない。あくまで私的な集まりの場において話したにすぎない。内輪の席での発言だ。
 そういう場で口にした軽口が、大々的に報道され、あるいは国会で問題にされるようなことだろうか」

 双方とも相手を言論弾圧だとして非難していますが、少なくとも弾圧の効果という点では朝日や沖縄の二紙などの一斉反撃は絶大です。これからは内輪の会合でも発言には細心の注意が必要ということになりそうです。

 一方、この騒動の背景にも注目する必要があります。沖縄では朝日系の沖縄タイムスと琉球新報の二紙のシェアが98%あるいは90%と言われるように圧倒的な影響力を持っています。新聞は朝日と毎日だけという状況を想像してみれば、それが公正な情報の取得という点でかなり危い状況であることがわかります。恐らく現在とはずいぶん異なった世論となっているでしょう。社会主義国家となっていた可能性すら否定できません。

 事実上の独占に近い寡占体制であり、二紙にとっての言論の自由はあっても、反対勢力にとっては実質的な言論の自由があるとは思えません。二紙に対立する言論が読者の目に触れることはごく限られることでしょう。つまり沖縄では二紙によってコントロールされた情報が大量にばら撒かれるわけで、一党独裁の国と似ています。

 実質的な言論の自由を保障するため、メディアの独占を防ぐ規制があるものの、沖縄の例はその限界を教えてくれます。沖縄はメディア独占の実験場でもあるわけです。そして他の分野と違ってメディアの独占・寡占体制は簡単には崩せません。読者の頭を支配しているからです。オウムなどの信者を信仰から解放することの困難さと同様です。

 朝日の信用度に触れましたが、6月22日の同朝刊の「新聞ななめ読み」が参考になります。これは昨年、慰安婦問題を取り上げたところ掲載を断られ、筆者、池上彰氏とトラブルが起きた連載記事です。今回も掲載を拒否したい内容だと思いますが、昨年のことがあるのでそうはできなかったのでしょう。以下、一部を紹介します。

「元法制局長官の安保法案批判 同じ発言、トーン大違い」と題した記事で元内閣法制局長官の阪田雅裕氏の発言を伝える各紙の記事について、具体的な点を挙げた上、次のように締めくくっています。

「阪田氏の発言は新聞によってニュアンスが異なり、朝日、毎日、日経、読売の順に、発言は厳しいものから緩やかなものへと変化します。同一人物の発言のトーンが、これほど違っているのです。この並びは、安全保障関連法案に対する社の態度の順番とほぼ一致しています。
 社としての意見はあるにせよ、記事が、それに引きずられてはいけません。どのような発言があったのか、読者に正確に伝えることで、読者が自ら判断する材料を提供する。これが新聞の役割ではありませんか」

 最後の文節はいまさら言うのが恥ずかしいくらいの当然至極のことです。こんなイロハの指摘を改めて大新聞にしなければならないのは実に異常なことだと思います。お読みになればわかりますが、トーンの違いというより、もう虚偽、ウソの領域だと思います。池上氏の評価によっても記事の歪曲度は朝日がトップ、信頼度・誠実度は当然最下位ということになります。これは判断は読者ではなく我々がする、という伝統の態度に基くものです。言論の自由はありますが、虚報の自由なんて聞きません。

選挙権年齢引下げに反対する

2015-06-22 00:29:05 | マスメディア
 選挙権年齢の引き下げが参議院本会議で決まりした。誰一人反対しなかったそうです。まるで一党独裁の国みたいです。新たに240万の票が生まれるそうですが、何でも反対の左派政党まで賛成したのは日教組の影響力をあてにしているのでしょうか。メディアも歓迎の様子で、反対意見はほとんどありません。それほどでもない利点ばかりが報道され負の点は目につきません。欧米は18歳が大半らしいですが、物まねをしなくてもよいと思います。

 ヒトは他の哺乳類に比べ、成体になるのに長い時間を要します。体は高校生くらいで一人前になっても頭はそうはいきません。社会が複雑になるにつれ、教育期間も延び、一人前となるのにさらに時間が必要となります。

 選挙権年齢が20歳と決められた70年前ですが、現在の社会はもっと複雑で理解するのも大変になりました。選挙権年齢をもっと引き上げるべきだという議論があってもよいと思います。選挙の投票には一定の判断力が求められますが、社会に対する理解無くしての判断力はありません。判断力の低い有権者が多くなれば政治の質が低下する可能性があります。選挙制度の目的は有権者を広げることではなく、よい政治を実現することです。

 また若者は被暗示性が強いとされます(他人に影響されやすい)。宗教や一部の政党が勧誘の標的にするのはそのためです。かつて毛沢東は権力を奪還するため年少の紅衛兵を組織し、文化大革命の大混乱を作り出しました。判断力が低く、被暗示性が強い年少者の特性を利用した例です。

 2009年の衆議院選挙では多くの人があの鳩山民主党に投票しました。その結果、どうなったでしょうか。投票における判断力は政治を左右します。政治のレベルは有権者のレベルに比例すると言ってよいでしょう。

 18歳の頃の私自身、政治に参加するのに必要な見識や判断力は全くありませんでした。選挙権年齢の引き下げに賛成の方々はご自身が18歳の頃、さぞご立派な見識と判断力をお持ちなのでしょう。

 6月18日の天声人語は選挙権年齢の18歳への引き下げについて好意的に述べています。

「フランスの作家サガンはこの年で『悲しみよこんにちは』を出版している」

だから18歳は十分大人だと言いたいのでしょうが、才能に恵まれた稀有の例を出して一般化するという奇妙な論理は一流紙というより、井戸端会議レベルです。さらに、文学に秀でてることが政治的な判断力があることにはなりません。失礼ながら大江健三郎氏の例が参考になります。

対立の構造

2015-06-15 08:55:50 | マスメディア
 犯罪者達が奪った金の分け前をめぐって相争う、というのは映画によくあります。見苦しいですが、分かりやすい話です。互いに利益を最大化しようとする争いだからです。それに対してイラクやシリアの内戦のようにスンニ派とシーア派というイスラム教の宗派対立を主な理由とする争いは理解が困難です。これは人々を助ける筈の宗教が人々にひどい苦難をもたらすという皮肉な現象でもあります。

 敵対する当事者にとっては互いに譲れない切実な理由があるのでしょうが、外部の第三者から見ると理解できません。宗派の違いごときでなぜ戦争までするのか、まったく理不尽な行為と映ります。しかもどの宗教・宗派を信じるかはたいてい住む地域などの偶然性に左右されます。偶然によって敵味方に分かれるわけです。

 宗教は特定の世界観や価値観を持つよう信者に要求するので、宗教・宗派が違えば世界観や価値観も異なります。このことが相互の理解を妨げます。また地域的な分離も対立を継続させる要因となるでしょう。まことに厄介な状態です。

 日本では幸いにして戦乱に及ぶような激しい対立はありません。しかし政治的な左右の対立はずっと続いています。左と右では世界観や価値観の違いが大きく、相互理解が進まない点は上記の宗派対立と似ています。

 宗派対立では地域の違いが対立構造を維持する大きな要素ですが、日本の政治的な対立では地域的な差はあまり見られません。それに代わるものは強力な「機関紙」の存在でしょう。政治的な色のついた新聞などのマスメディアです。

 意外と思われるでしょうが、戦後しばらくの間、読売や産経は今よりもずっと左よりでした。安保改定には反対の立場であり、北朝鮮を楽園だとし、在日朝鮮人とその日本人妻の北朝鮮帰国事業を進めたとされます。しかし現在は左翼から離れています。

 一方、朝日や毎日は左翼思想の影響を残したままです。最近はさすがに言われなくなりましたが非武装中立論はその特徴のひとつです。理想主義ですが現実性が乏しいため、安全保障問題では右派と話が噛み合いません。他の問題でも世界観や価値観が大きく異なるため噛み合わず、議論が意味をなさないことがしばしばです。もしこの対立を宇宙人(鳩山元首相ではない)が見れば、つまらないことでいつまで争っているのだろう、と思うことでしょう。

 純粋な若者にとって左翼思想は確かに魅力的です。しかし多くの賢明な人は現実の社会を理解するにつれ左翼思想から離れていきます。「25歳のとき左翼にならない人には心がない。35歳になってもまだ左翼のままの人には頭がない」(*1)とはこのことを表した言葉です。

 朝日や毎日は会社の年齢も、また幹部社員の年齢も35歳以上ですね。ま、それはともかく、左派メディアが「価値観を共有」しないため相互理解が困難な大集団を育てあげ、無用の対立を生みだしたことは、無意味な宗派対立にも似た困った問題です。そのために社会が支払った代償は莫大なものになるでしょう。

(*1)(チャーチルの言葉として紹介されますが、異論もあるようです)

論争の前提が違う

2015-06-08 09:06:02 | マスメディア
 5日の朝、NHK第一放送では沖縄からの「便り」を伝えていました。放送された「便り」は米軍人と交流のある70代の男性からのもので、このような視点の意見がメディアに取り上げられることはたいへん珍しいのでご紹介します。

『軍人が勤務を離れ、市民の隣人に還ったとき、彼らは本当の善き隣人になります。私達は彼らのたくさんの親切、優しさに触れることができました。この交流は他国の文化や教育など多くのことを学ぶ機会でした。そしてこれまで何げなく学んできたことが私達の暮らしの中に息づいています。
 軍作業という職場で技術や英語を仕事を通して習得して大成した人。70代から80代のお年寄りが外国人と楽しく英語で話している情景は他府県では見られないことと思います。知人のアメリカの軍人は言います。私達にも悲しむ家族がいる、命はひとつしかない、死にたいと思ったこともない。自分の国の平和のためでなく、他の国の安全のために駐留して、基地反対、ヤンキー帰れと、毎日毎日言われると、考えさせられることは多い。基地があるからと片付けず、日頃の友好、交流を通じて信頼関係を深めることも大切だ思います』

 沖縄では基地反対の人が大多数であるかのように報道されていますが、半数ほどは基地容認と見られています。しかし容認の立場からの発言はあまり聞こえてきません。沖縄の2大紙、朝日と深いつながりがある沖縄タイムズと琉球新報が共に左よりであることも関係があるでしょう。

 「便り」から想像できるように、米軍基地が日本の平和と安全に寄与していると考える人は容認論となるでしょう。逆に言えば、反対論者は米軍基地は迷惑なだけの無用のものと考えているのでしょう。つまり反対か容認かは米軍基地が日本の平和と安全に有用と考えるか否かで決まると考えられます。つまり基地が無用と考える人は他国からの軍事的脅威がないと信じる立場であり、有用と考える人は脅威があるとする立場です。

 集団的安全保障に於いても同様、意見対立の根本は他国からの軍事的脅威を認めるか否かであると思われます。将来にわたって脅威が全くないとなれば沖縄の基地や集団的安全保障など、不人気で面倒なことはまったくやらなくてもよいわけです。

 つまり他国からの軍事的脅威の有無が問題の核心です。しかし、それについての議論が十分になされてきたとはとても思えません。マスコミの怠慢というべきでしょう。つまり我々は議論の前提となるべき重要な部分を曖昧なままに放置して、反対だ、賛成だと騒いでいると見ることができます。これでは実のある議論など期待しようもありません。

 日本に対して軍事的な侵攻をする能力と意思のある国が存在しない時代は「9条があれば平和が保たれる」でも実害はなかったわけですが、現在は必ずしもそうとは言えません。米軍基地や集団的安全保障に反対するためには軍事的脅威が将来にわたってあり得ないということを説明する必要があります。納得できる説明をせずにただ反対するのは極めて無責任であります。

 たまたま同じ時間帯の解説番組であるニュースアップではNHKの広瀬解説委員が南沙諸島問題を取り上げていました。中国がフィリピンの目と鼻の先で埋め立てを強行したのはフィリピンの基地に駐留して睨みをきかせていたアメリカ軍が1992年に撤退し、この地域に軍事的空白が生まれたからである。そこで去年、フィリピンは軍事協定を結びなおしてアメリカの関与を強めようとしているが中国の進出は抑えきれていない、と述べています。

 集団的安全保障に反対する勢力は憲法に違反するという理由を挙げています。しかし「日本は憲法を守ったが侵略された」では笑い話にしかなりません。少々古い話ですが、イザヤ・ベンダサンは「 日本人は、水と安全はタダだと思っている」と述べました。いま改めて世界の「常識」を思い起こすのもよいでしょう。

現代の精神論

2015-06-01 08:49:57 | マスメディア
 国会で審議中の安全保障法制改定法案を与党は平和安全法制整備法案と呼び、社民党や共産党は逆に戦争するための戦争法案と呼んで反対しています。同じ日本人であり同じような教育を受けながら、なぜこれほど認識が極端に分かれるのか、実に興味ある問題です。

 予想通り、朝日など左派メディアはこの法案に反対しています。しかしその反対論の中心は憲法解釈に加え、法案と戦争を直結させ、戦争の恐ろしさを盛んに強調するという旧来の方法です。もっぱら戦争の怖さを感情に訴える方法であり、近隣諸国の軍事的膨張などを前提とした防衛議論など見たことがありません。

 簡単に言えば、戦争には攻撃する場合と攻撃される場合があります。朝日や一部の野党などは戦争とは日本が攻撃することだけで起きると考えているようです。しかし現在の脅威は他国からの侵攻の方である以上、国際関係や軍事バランス、相手国政府の将来の変化などを分析・検討した上で議論すべきでしょう・・・かなり複雑な問題ですが、難しいからといって放っておいてよい問題ではありません。

「9条があれば平和が保たれる」といった意見は非常に単純でわかりやすいのですが、これはもう無責任な精神論だと言っても差し支えないと思われます。かつての「日本は神の国だから決して負けない」「精神力で勝つ」と同レベルです。どれも現実性のない夢想に過ぎません。

 世論を構成するのは国民ですが、多くの国民は専門知識をもっていないので、複雑な問題を正しく判断するのは困難です。安全保障法制改定法案は11もあり、その分量だけでも大変です。したがって理解はメディアに頼らざるを得ません。ところが左派メディアは「海外で戦争ができる国になる」といった感情論が中心です。

 広く情報を伝えるメディアがこんな調子ならば、民主主義は複雑な問題に関しては有効に機能しないでしょう。

 世論を動かすのは数行のスローガンだ、といわれます。内容を表すのに数百行、数千行を要する課題もありますが、それが世論を動かすのは極めて難しいと思われます。本来それを補うのはメディアによる中立的な解説ですが、最初から賛否を決めた上での恣意的な「解説」では国民のまともな判断など期待しようもありません。

 ましてその解説が「精神論」に基くものであれば極端な認識の違い、無益な対立を招くだけでありましょう。誰しも戦争は避けたいものであり、そのためには現実の世界に立脚したまともな議論が必要です。情報の仲介者が政治的な意思を持ち、曲げて伝えることの危険性を改めて感じます。

 戦時中、朝日は国民を鼓舞し戦争へと向かわせました。そのとき大きな役割を果たしたのは単純な精神論であったと思われます。それが世論に対して有効であることを朝日は承知しているようです。世を動かすには冷静な議論より単純な感情論・精神論が有効であることを戦前からご存知のようです。さすが伝統ある朝日新聞です。