噛みつき評論 ブログ版

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教員養成課程6年制の失敗予測

2009-12-31 09:24:08 | Weblog
 朝日新聞には1ページを使ったオピニオン欄があり、けっこう面白い記事が載ります。少なくとも記者が書いたものより面白いものが多いようです。編集者の選択の結果なのでしょう。

 12月26日の同欄には元河合塾理事の丹羽健夫氏の「養成過程6年制?教員の質 下げますよ」というたいへん興味深い記事が載っています。ごく簡単に話の要点を紹介しますと、6年制にすることにより志望者が激減し、教員の質が低下するというわけです。例として先行した薬学部のケースが示されています。

 「2006年に薬学部が6年制になったとき、私立の薬学部志願者は前年の14万人から9万人に減りました。その後も減り続け、今春の入試では8万人になった。その結果、河合塾のデータによると、50台だった偏差値は軒並み7ポイント以上、下がりました。10~20ポイント下がったところもたくさんあります」
「(教員養成系大学の)合格者の平均偏差値は現在でも53。これは国立の系統別偏差値の中で最も低い芸術・体育系に次ぐ低さです。(中略) 40台に落ち込む可能性が高い」
「そういう子が6年間の大学の授業に耐えられるのか、授業についていけるのか、危惧を感じます」
「せっかく6年かけて教員免許を取っても、正規の教員になれるのはごく一部です。当然志願者は減るでしょう」

 刈谷剛彦氏は教員養成系学部の偏差値が近年5ポイント程度低下していると、既に指摘していますが、それに加えての7ポイントはたいへん大きな数値です。

 また、民主党が07年に策定した教員養成課程6年制はフィンランドの修士課程を意識したもののようだが、フィンランドでは教員養成系大学の志願倍率が10倍程度なのに対し、日本では平均2.5倍だと書かれています。

 丹羽氏の話はたいへん説得力があり、偏差値の低下はまず起きるとみてよいと思います。民主党の考える6年制は偏差値の低下を無視したものか、それとも教育期間を2年延ばすことによって偏差値の低下を十分補えると考えたものかの、どちらかでしょう。

 教育の重要性から考えれば、教員の資質の低下を意味する偏差値の低下は非常に重大な問題であり、それを低下させるような施策は危険だと思います。2年間の延長による効果はそれに比べると小さなものでしょう。

 養成課程6年制の背景には学生の資質よりも教育の可能性に期待する素朴な楽観論(a href="http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/09A/shakai-Darwinism.htm">参考)があるのでしょうが、「ゆとり教育」と同様、失敗する可能性が高いと私には思われます。

 民主党が養成課程6年制というマニフェストを作成するにあたり、どのような専門家の意見を取り入れたのか気になります。政府の当事者に専門家並みの知識を求めることは無理かもしれません。しかし様々な専門家の意見から適切なものを選択する能力、そのための見識が必要なのは言うまでもありません。

フィンランドには優秀な学生が教員になる仕組みがあるようですが、その前にそれを実現した優秀な行政機構があるものと想像できます。優れた政策担当者→優れた教員→優れた教育という順序です。先に必要なのは政策担当者への「教育」ということになりますが、これは間に合いそうにないので、優れた人材を配置することが必要でしょう。

 教育政策の結果は何年も先になって現れます。失敗は取り返しのつかないもので、国家的な規模の損失を招きかねません。養成課程6年制を掲げる民主党の先生方に正しい判断を果たして期待できるでしょうか。

ばれるまで黙っていよう、贈与税

2009-12-28 10:05:45 | Weblog
 鳩山首相は12億6千万円を親からの贈与と認め、約6億円という多額の贈与税を払うことになりました。不運であったのはたまたま「故人献金」問題で捜索を受けたことであります。これさえなければ鳩山氏は税金を払わずにまんまと贈与に成功していたことでしょう。たいへんお気の毒な、不幸な出来事です(時効成立分については成功ですが)。

 資産家にとって財産を減らさずに子孫に移すことは重大な関心事です。鳩山氏の資産管理会社、六幸商会のことは知りませんが、資産家が相続税や贈与税対策のために資産管理会社を作るのはよく使われる方法です。長期の計画のもとにうまくやれば節税などにかなりのご利益があるとされています。

 もうひとつ気になるのは六幸商会→首相の事務所→各政治団体・個人の活動費・私費への流れが現金となっていることです。一般社会ではこのような高額の受け渡しは小切手か銀行振込みが常識です。現金による受け渡しは面倒なので、跡(証拠)を残したくないときなど、特別な事情があるときに利用されます。

 したがってこのような仕組みは「不透明化」のために用意周到に作られたものであるという気がします。捜査当局は金の流れをほとんど解明できなかったとされており、「不透明化」は大成功のようです。そして鳩山氏だけが資金のことをまったく知らなかったそうですが、われわれの頭脳ではちょっと理解し難いことです。やはり「宇宙人」なのでしょうか。

 鳩山氏は結局、贈与をお認めになったわけですが、もしこの発端が検察の捜査でなく、税務調査であったならば同じことになっていたでしょうか。税務調査の結果、数億円の税逃れが出てくれば普通は立件になると言われています。税務当局と検察庁は「全く知らなかった」という宇宙人のような釈明が理解できるのでしょうか。普通の人が同じことを言ってもまず認めてくれないと思いますが。

 それにしても現職首相による多額の「申告漏れ」という事態に対し、マスコミの優しさが気になります。赤城農相の事務所費が不明朗であるとして今回とは比較にならない程の大騒ぎになりました(それほど重大な罪とは思えませんが)。10年間の事務所費の合計でも数千万円であり、金額は2桁違います。絆創膏を貼って出てきただけでもひどく叩かれ、参院選の自民敗退、安部政権の崩壊へとつながりました。選挙まで左右するマスコミの腕力をまざまざと思い知らされた出来事でもありました。

 今回の「激漏れ」は課税分だけで約6億円であり(延滞税以外の加算税が課せられるのか興味あるところです)、まったくスケールが違います。なぜマスコミはこれほど優しいのでしょう。マスコミには公平性という概念がないのでしょうか。

 税務署長→財務大臣→総理大臣というラインでいえば首相は徴税する側のトップです。納税の範を示すべき立場の人が「激漏れ」とは困ったことです。警察庁長官が刑事事件を起こすようなものです。放置すれば納税のモラルに大きく影響することでしょう。「贈与税はばれるまで黙っていよう、もしばれても払えば済むことだ」、と。

 鳩山氏は民主党のスポンサー、オーナーとも呼ばれ、民主党が鳩山氏の資金力に依存してきたとされています。政治資金規制が徐々に厳しくなった結果、金を集めることが困難になり、自ら資金を持つ人が有利になったという側面は否定できないと思います。

 麻生氏、鳩山氏と自己資金のある首相が続きました。キングメーカーの森元首相は「お世話になったから」と公式の場で麻生氏を首相に推しました。「お世話」が経済的なものかどうかは知りませんが、首相が資質や能力以外の要素で選ばれるのは国民にとってたいへん不幸なことです。その結果かどうかはわかりませんが、両氏とも首相としての資質に疑問が残ります。

 かつて金権政治が批判されました。それが自己資金によるものに変わっただけであるならば残念なことです。首相の巨額の使途不明金が何に使われたのか、たいへん気になるところです。

市長のブログ騒動

2009-12-24 10:58:13 | Weblog
 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長がブログで語ったことが問題になっています。引用され、障害者への差別だと指摘されている部分は以下のところです。
「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」「結果、養護施設に行く子供が増えてしまった」

 ここだけ読むとたしかに問題ある表現です。朝日、読売などが批判的に取り上げ、TBSの朝ズバは手厳しく批判しています。問題の11月8日のブログは修正中で読めませんが、転載されたものなどを読むと、マスコミの批判は理解を欠いた、ずいぶん一方的なものと思います。次のような市長の発言があります。

「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事、というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない」
「社会的な救済を受けられない人が数多く存在するという世の中の矛盾について、議論を喚起する必要がある」

 高度医療などに多額の費用が使われる一方、必要なのに救済がうけられない人がいることを市長は指摘したかったのでしょう。「命はなによりも尊い」として、例えば植物人間となった患者の延命に多くの費用(社会的資源)をつぎ込みながら、その一方で生活にもこと欠く人たちがいるという矛盾です。

 このような問題をヒューマニズムの観点から批判するのは簡単であり、しかも多くの賛同が得られます。しかしことはそれほど簡単ではありません。社会的資源の配分の問題に突き当たるからです。

 合計特殊出生率が変わらなければ2055年には生産年齢人口1.2人が1人を支えることになると試算されています。現在は3人が1人を支えていますから、この試算どおりにならなくても負担の増加は間違いないでしょう。

 07年度の社会保証給付は91兆円とGDPの約4分の1を占め、年々拡大している現状があります。10年度の一般会計予算案では、社会保障関係費は国債費と地方交付税を除いた一般歳出の5割強を占める最大の支出項目となっています。

 予算の半分以上は借金に頼るものであり、将来の生産年齢層の大きい負担になります。将来の生産年齢層は重い負担の上にさらに前世代のつけまで払わなければならないことになりそうです。

 少し話がそれましたが、「命はなによりも尊い」式の方法は資源配分の問題によっていずれ制約を受けざるを得ないことになると思われます。きれい事では済まない現実的な解決が必要となるでしょう。「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事というのは間違いだ」という発言は現在の形式的な考えに対する批判でしょう。

 市長の発言に対する反応は批判的なものが大部分だそうですが、これはマスコミ報道の当然の反映でしょう。このようにして世論が形成されることは恐ろしいことです。

 障害者を例にとるなど、市長の発言に問題なしとは言えませんが、市長という立場にありながら非難を覚悟の発言は評価できるものです。誰かが言わなければならない問題だと思います。

 きれい事を言うのは簡単です。そういう人は掃いて捨てるほどいるのですが、それには国民負担の増加が伴うことを意識する人はどれだけいるでしょうか。聞こえのよい報道が分不相応な出費を促し、巨額の政府債務を作り上げた一因とも言えるでしょう。

顕示的消費とユニクロ現象

2009-12-21 09:53:19 | Weblog
 かなり古いことですが、なかなか売れなかった宝飾品に10倍の値段をつけたらすぐ売れたという話がありました。この種の話は誇張されて伝わることが多く、そのまま信じるのは賢明ではありませんが、この話は顕示的消費の例で、ヴェブレン効果とも言われています。

 私達は商品を購入するとき、一般的には商品の実用価値に対価を払います。しかし宝飾品、高級衣類、高級車などを購入する場合、実用価値だけでなく、それによって得られる幸福感に対価を払います。

 幸福感は商品を他人に顕示することで得られる優越感に多く由来すると言えるでしょう。高級品を身につけることは財産や高所得を示すラベルを身に貼り付けることでもあります。この場合、高級品を誇示された側は劣等感を持つ可能性があります。つまり優越感には他人の劣等感が必要というわけで、合計するとゼロになるかもしれません。

 他人に対して優越したいという欲求はかなり強いものです。フロイトは人間を行動に駆り立てる基本的な動機を性欲に求めましたが、フロイトの弟子、アドラーは基本的動機を他に対する優越であると考えたほどです。

 現代は物が豊富にありますが、それまでは欠乏時代が長く続きました。そのため、物を所有するという欲求は普遍的なものであったと思われます。物と交換できる貨幣についても同じです。したがって、物や金を多く所有することによって他に優越するという動機は最も一般的であったと思います。

 数十年前、車は経済的地位の象徴でした。しかし少しずつ実用価値の割合が増してきて、地位の象徴としての意味は徐々に薄れてきたように思います。

 物が豊富になったため、物の相対的な価値が低下して、社会的地位、知識や頭の良さ、趣味の世界、洗練された生活様式、など他のカテゴリーで差をつけようとする傾向が強くなってきたのは自然なことでしょう。

 ユニクロは規格品を大量生産・販売し、社会に広く受け入れられました。これは多品種少量生産という現在の流れとは逆方向です。安価で品質がよいことがその大きい理由であることはもちろんですが、衣類が以前ほど優劣を競うカテゴリーではなくなったことも理由のひとつだと思われます。衣類は実用価値が重視されるようになったと考えられます。

 京都では、一見して金持と分かるような身なりをする人間は軽蔑されるという風潮がありました。見えないところに金をかけるのがよいとされたわけです。私は好きにはなれませんが、一種の洗練とも言えるでしょう。

 一方、最近の若者の世界では無理をしてまで車を所有するのは格好悪いこととされているそうで、大きな価値観の変化が感じられます。若者に車が売れなくなった理由のひとつだそうですが。

 物を買い集め誇示する方向から、様々なカテゴリーで価値を見つける方向への転換は、資源の有限性からも歓迎すべきことでしょう。少なくとも多数が大型の高級車を目指す社会よりも好ましいと思います。GDPの成長にとってはマイナス要因かもしれませんが、それは仕方のないことでしょう。

鳩山政権の統治能力

2009-12-17 10:05:37 | Weblog
 我々はとんでもない政権を選択したのではないか、8月の選挙で民主党に票を入れた人ですら、そう思い始めているのではないでしょうか。統治能力への疑問は定着しつつあるようです。

 普天間飛行場移設問題を先送りした理由を鳩山首相は次のように説明しています。

 「日米の合意の重さ、一方で沖縄県民の強い思い。両方同時に考えたときに、今すぐに結論を出せば必ず壊れる」「私は結果を出して壊すなどという無責任なことはやりたくない」

 米国はもとより、これに納得する国民がいるのでしょうか。何が必ず壊れるのかを明示すべきであり、また結論を先延ばしにすれば展望が開けるのなら、その道筋を示すべきです。むしろ先送りして壊れそうになっているのは日米の信頼関係です。深読みすれば、結論を出して自らの連立政権が壊れるくらいなら日米関係が壊れた方がいいという意味にも受けとれます。これは国民が餓死しても体制の維持を優先するというどこかの国と通じるものがあります。

 上記の発言は「決定しない決定」の理由という重要なものであるにもかかわらず、意味がよくわかりません。会見に群がっていた優秀な記者の方々はこの発言に納得されたかもしれませんが、私にはわかりません。「何が壊れるのですか」くらいの質問をして、首相の意図を一般国民にもわかるように伝えるのがお仕事だと思うのですが。単に伝えるだけならマイクロフォンだけで十分です。

 鳩山政権は米国に対し信頼を失うような行動をとりながら同時に中国に接近していると、既に指摘されています。もしかすると日本外交は岐路に立っているのかもしれません。政治的に安定し、半世紀を超す関係を築いてきた米国と距離をとり、未知の要素が多く残る中国に接近するのは大きなリスクがあります。

 多くのメディアはこの問題を大きく取り上げています。産経や読売は当然というところですが、今回はNHKも事態を深刻なものと理解しているようで、大きく報道し、批判的な解説もしています。しかし朝日だけは異色です。

 「あらたにす」によると15日、日経と読売は朝夕刊ともトップで取り上げているのに対し、朝日は朝刊ではトップですが『普天間移設先「5月までに決定」』と誤った事実を伝え、夕刊では一面から消えています。また同日のテレ朝「報道ステーション」では野球の松井選手の話題の後、申し訳程度にごく短かく触れただけです。まるで知らせたくないような、驚くべき姿勢です。日米間の危機につながりかねない問題を伏せるのは、国民の認識を誤らせるものです。

 日本には非武装中立論に代表されるような空想論が根強く存在します。100年先の理想論としてはわかりますが、外交に対処していくには非現実的なものです。この空想論に汚染されているのは社民党と朝日新聞だと言われていますが、このところの動きは鳩山政権もかなり親和性をもっていることを示しています。

 日本は数十年前、生産力が10倍もある米国に戦争をしかけました。リアリズムに立脚せず、思想や精神論に影響された認識がいかに危険なものであるかは既に経験済みの筈です。主義や思想が現状認識を狂わせるという事実は一般化してよいと思います。

 哲学者田中美知太郎氏は「いわゆる平和憲法だけで平和が保障されるなら、ついでに台風の襲来も、憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない」と言ったそうですが、非現実的な認識を巧く皮肉っています。

 むろん、普天間問題は基本的な政策の結果などではなく、単に政権の統治能力の欠如の結果と見ることもできます。まあどちらにしても困ったものです。目先の人気取り以外には関心がないようなこの政権の統治能力が周知のものとなるのに、さほどの時間はかからないと思われます。

終末期医療と安楽死

2009-12-14 09:16:07 | Weblog
 以下は医師で作家の久坂部羊氏が「終末期医療はだれのため?」という題で書かれたものの要約です(2009.2.12 産経新聞)

 『私が在宅医療で診ていた乳がんの末期患者Kさん(72)が、入院先で亡くなったという連絡が届いた。Kさんはは午後8時過ぎに心肺停止の状態で発見されて、すぐに当直医が呼ばれ、心臓マッサージなどの蘇生処置を受け、心拍が再開した。その後、人工呼吸器を装着し、強心剤などの投与を行ったが、治療の甲斐なく、翌日の午後9時過ぎに息を引き取ったという。

 慌ただしくのどに人工呼吸の管を挿し込まれ、激しい心臓マッサージを受けるのは、決して穏やかなことではない。Kさんは痩せていたので、本格的な心臓マッサージを受けたら、肋骨が折れた可能性も高い。点滴だけでなく、尿の管も入れられただろう。がんの末期で静かに死を迎えているのに、そうやって生の側に引き戻すことが、ほんとうにKさんのためなのだろうか。

 Kさんの意識がもどらなかったからよかったものの、気がついていたら、きっと治療の苦しみに悶えたにちがいない』

 誰もがこんなことはされたくないと考えることでしょう。むろんすべてがこのようなものではないと思われます。DNR(Do Not Resuscitate 蘇生拒否)シートを出しておけば避けられる仕組みになっているものの、上記のようなことがある以上、まったく安心というわけにはいきません。

 久坂部羊氏は「こういう事例を耳にするたび、終末期医療はいったいだれのためにあるのかと、考え込んでしまう」と結ばれています。

 少しでも命を延ばそうとする周囲の気持ちと、苛酷な延命治療を受けて亡くなった人が「もうこりごり」といった感想を述べる機会のないことがこの背景にあるのでしょうが、あまりにも形式に偏重したやり方との感が否めません。

 さて日本では呼吸器外しが殺人罪に問われる状況ですが、欧州ではかなり変わった状況が見られます。今年の3月、ルクセンブルグはオランダ、ベルギーに続き安楽死の合法化に踏み切りました。

 自殺を禁じるキリスト教の影響下にある国々が合法化に踏み切ったのは自らの命は自らが決めるという権利意識がより強いためだと言われています。いろいろ議論があることは承知していますが、少なくとも自分の命を他人が決めるより、合理性があると思います。

 また7月には英国の著名指揮者夫妻がスイスの病院へいき、安楽死を果たしました。これはスイス安楽死ツアーとも呼ばれ、諸経費は500から1000スイスフラン(約4万3500円~8万7000円)で、支援団体があるそうです。国外で安楽死が可能となると費用を負担できる人にとっては現実の選択肢となり、日本だけが禁止してもその意味は薄れます。

 日本は宗教色が薄く、安楽死に対する抵抗感が比較的小さい筈ですから、「東洋のスイス」になって国際的な貢献をすることも可能だと思うのですが。

安楽死に殺人罪を適用すべきか

2009-12-10 09:46:24 | Weblog
 川崎協同病院で98年、気管支喘息の発作で意識不明状態だった患者の気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与して死なせたとして、殺人罪に問われた医師の上告審で、最高裁は被告側の上告を棄却、殺人罪の成立を認め、医師の有罪が確定しました。

 この種の事件があるたびに「殺人罪」という罪名に対して違和感を覚えます。死期を控えた患者の苦しみを見かねた遺族が医師に懇願したケースが、利己的な動機のための殺人と同じ殺人罪で処断されるということに対する違和感です。両者はかなり異質なものに思えます。

 また、生命は今後数十年間生きられる命もあれば、あと数時間、数分の場合があります。残り数分の命を縮めても殺人となります。

 つまり両者の動機には質的な差があるうえ、絶たれた生命の状態にも大差があります。これを殺人罪という同一の法律で扱うのはやはり乱暴だと思います。

 殺人という行為の法的な定義を適用し、論理を積み重ねるとこのようになるのでしょうが、少し単純すぎはしないでしょうか。法の論理を厳格に貫徹することが最終目的ではありません。社会に役立つことが法の最終目的です。

 遺族が当人の苦しみを見かねて、医師に死を早めて欲しいと依頼することは珍しいことではありません。医師が依頼を承知する場合もあるでしょうけど、被害者がいるわけでなく、たいていは問題にならないと思います。昔はよくあったこと、という話を聞きます。

 今回、なぜ問題が表面化したのか知りませんが、たまたま医師が殺人罪に問われたとき、遺族は「依頼」の事実が判明すると自身も殺人罪に問われるので、「依頼」の事実を否定することになるといわれています。したがって医師だけが罰せられるという理不尽なことになる可能性があります。

 今回の川崎協同病院の事件でも遺族は依頼の事実を途中で否定したと聞きます。二審では依頼の事実は否定できないと消極的に認定されたようですが、もし一審のように否定されたままであれば、医師はさらに気の毒なことになっていたでしょう。

 医師が依頼もなく、患者を死に至らしめるということはたいへん考えにくいことです。そして依頼があったと推定される場合、依頼した遺族が罪に問われないことは論理的な整合性を欠くものです。この種の事件に問われる医師は、たいてい同情心が強く患者の信頼も厚いことが多いだけに、いっそう違和感が残ります。

 むろん、依頼者を罪に問うべきだと言うつもりはありません。このようなケースに殺人罪を適用することの是非を問いたいわけです。この判決によって、医師は末期患者の死に関してより慎重な姿勢になることと思われます。

 回復の見込みのない患者に対して、意味があるとは思えない延命処置、蘇生処置がしばしば行われることはよく知られています。生命を助けるという医療の使命ゆえのことですが、遺族の訴訟などに備えるためでもあると言われています。

 私自身、苦しくて回復が見込めない状態になれば、早く命を絶ってほしいと思っていますが、これは多くの人が望んでいることだと思います。医師が法的なリスクを避けるため延命処置、蘇生処置に懸命な努力をする間、悶え苦しむのは遠慮したいものです。それならば、むしろ世界の主流となっている薬殺による死刑の方が楽かもしれません。

 それはともかく、強盗殺人も安楽死も同じ殺人罪という現状は何とかならないものかと思う次第です。
 関連拙記事 終末期医療と安楽死

社民党レバレッジの迷惑度

2009-12-07 09:20:55 | Weblog
①社民党の党首選挙で、普天間飛行場の県外・国外移設を主張する照屋衆院議員を福島氏の対抗馬として擁立する動き。
②これを抑えるため福島氏は普天間飛行場の県外・国外移設を民主党に要請、拒否すれば連立離脱も辞さずと。
③社民党の「連立離脱」に仰天した民主党は即座に移転問題の先送り決定。
④米国との信頼関係に重大な懸念が発生。
⑤日米関係が深刻な事態に・・・・?

 つまり、照屋議員を擁立しようとする小グループの意向が回りまわって日米関係に重大な影響を与えるに至りました。FX並みの高いレバレッジ(てこ)が実現したというわけです。支持率が1%前後の小党の内部事情によって、対米外交の方針が大きく変更されるのは異常な事態と言わねばなりません。

 またこの間の動きは大変迅速でありましたが、日米関係の重要性を考えるとそんなに簡単にきめていいのかと思ってしまいます。また決断があまりお好きでない鳩山首相が珍しく即座に決断されたことには驚きました。「先送り」という決断だけは例外なのでしょうか。

 2大政党が拮抗しているとき、小政党がキャスティングボートを握り、大きい影響力を行使することがありますが、この場合は多数が決するということであり、合理性があります。しかし今回のケースは少し様相が違います。

 社民党の福島党首の目的は自党内の反対派を抑え、無投票で次の党首になることであったと考えられます。まあ早く言えば保身です。そして社民党が連立離脱をちらつかせた要求に早々と「無条件降伏」した鳩山政権も内閣の保身のためと言われています。

 この一連の過程では「風が吹けば桶屋が儲かる」式に小党の内部事情が結果的に大きい影響力を行使するというレバレッジが働いたわけですが、その理由は連立という政治構造だけではありません。社民、民主の両党主が国や国民の利益よりも自らの保身を優先させ、国や国民の利益のためという大局的な立場を放棄した結果であると言えるでしょう。

 逆に言うと、この一連の過程で国民の利益という観点から判断する部分がひとつでもあれば、このような事態は避けられていたと思われます。とすると現政権の統治能力に重大な問題があると思わざるを得ません。

 この状況を見る限り、双方とも「友愛精神」は何よりも自党や自分自身に向けられているように感じます。そろそろ看板の「友愛」を「自己愛」に書き換えられてはどうでしょうか。その方が言行一致でわかりやすいように思います。

 レバレッジを効かせた点では国民新党の方も同様です。こちらは財政支出の拡大を実現させました。ここで気になるのは国債発行の増額を主張しながら、その返済計画をまったく示さないことです。返済のメドも示さず借金をさらに重ねる、なんてふつうの世の中では通りません。

 責任のない野党としてのクセが抜けないのでしょうか。国債増発を主張するのならば概略でも返済できるという根拠を示すのがあたりまえです(民主党にも言えることですけど)。単に増発を主張するだけでは「あとは野となれ山となれ」の無責任な態度と言えるでしょう。

 国債増発に対し、その返済計画を求めないマスコミの見識も大きい問題です。権力の監視役を自称するのであれば、政府が借金を重ねる際には返済計画の提示を要求するのが当然です。返済計画の提示はマスコミが好んで口にする説明責任のひとつだと思えるのですが。

視聴者を安心させないでください

2009-12-03 09:48:37 | Weblog
視聴者を安心させないで

 荻野アンナ氏は11月30日の日経夕刊のコラム「あすへの話題」にたいへん興味深いことを書かれています。テレビの健康番組に関わった医師の話です。

 『(医師は)健康番組の打ち合わせで、テレビ局側に最初に念を押されたという。
「視聴者を安心させないでください」
 不安を覚えた視聴者はチャンネルを切り替えずに番組を注視し、続編を出せば飛びついて見てくれる』

 私は「マスコミが幸福感を蝕む」で、幸福感と報道の関係に言及しましたが、この話はそれを裏付けるものです。

 視聴者に不安を与えてまでも視聴率を上げることを優先するこの考えは、私にはとても不穏当なものに思われます。またこのような問題のあることを外部の人に臆面もなく話すテレビ局の人間にも驚きます。おそらくこの感覚は放送業界の常識なのでしょう。

 これだけですべてのテレビ局や番組が同様の考えであるとは断定できませんが、放送の現状を見ると、不安を与えて視聴率を稼ぐという「手法」はマスコミ業界に広く定着しているという印象を受けます。

 食品の消費期限、農薬混入、ダイオキシン、環境ホルモン、これらは実害がほとんどないにもかかわらず大きな社会問題になりました。不安を煽ることによって初めて大きな社会問題となり得たわけです。出版業界もこの不安を巧みに利用し、「不安本」というユニークな市場を作り恩恵を受けています(参考拙記事)。残念なことに「不安本」のほとんどは不安を鎮めるものでなくさらに不安を増幅するものです。そしてこれらの本が大量に販売される結果、不安に駆られた読者は健康食品や電磁波防止グッズなどに向かいます。これらは「不安ビジネス」と呼んでもいいでしょう。

 ダイオキシンなどの不安材料があったとき、不安を小さく報道すると、それが誤りであった場合に報道の責任を問われる可能性があります。過大に報道すれば、そのリスクがない上に、読者・視聴者を惹きつけることができるので、報道は不安を誇張する誘惑に駆られます。しかし過度の誇張は社会に不安を蔓延させ、無視できない負の影響を与えます。

 新型インフルエンザが流行し始めた5月、異様なマスク姿が街に溢れたのは日本だけの特異な現象だといわれました。日本人が感染に対して過大な不安を持ったからだと考えられます。むろんその不安は自然に発生したものではなく、日本のマスコミ報道の反映に過ぎません。日本のマスコミは不安を煽るという点に於いて、世界でもっとも優れた能力をもっていると思われます。

 新型インフルエンザによる5月以降の経済的損失は関西の2府5県だけで2383億円とされています(秋以降の本当の流行期を含まず)。関西の経済規模は約2割ですから、全国の経済的損失は単純計算でこれの約5倍、1兆2000億円ほどになる可能性があります。マスコミの不安報道が観光、輸送に与えた打撃は大きく、日本航空の危機にも一役買ったことと思われます。報道が幸福感の減少だけでなく経済的実害をもたらした例と言えるでしょう。しかしながらマスコミが過剰報道を反省したという話はまだ聞きません。

 テレビや新聞は娯楽を提供してくれます。しかし同時に不安も押しつけてきます。差し引きするとプラスになるかマイナスになるかわかりませんが、ともかく最優先の動機が視聴率(購読数)で、視聴者・読者の不安や幸福感には「関知せず」では困ります。

 ブラジルではニュースキャスターが視聴率を上げようと、警察より早く到着して生々しい現場を生放送するために5件の殺人を指示していた疑いがもたれています。これは極端な例ですが、視聴率という魔物は国の内外を問わず存在するようです。