噛みつき評論 ブログ版

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ネットが思考力を低下させる?

2011-02-28 11:31:49 | マスメディア
 朝日新聞は11年3月31日付夕刊から文字を拡大するとの発表がありました。新しい文字は縦に8.3%、横に5.5%、面積は14.3%拡大し、1行の文字数は13字から12字、1段の行数は75行から72行となるそうです。

 朝日は3年前に「文字を大きく、情報たっぷり」と称して、文字数を5.5%減らしています。文字を減らしてなぜ情報がたっぷりなのか、私には依然として謎なのですが、まあそれはともかく、今回の文字数の減少率は11.4%となり、前回の分と合わせると16.3%になります。この狙いのひとつは高齢者が読みやすくすることなのでしょうが、この背景には読者層の高齢化があるものと思われます。しかし内容は確実に減ります。新聞の販売価格は同じなので情報料は11.95%、約2割の値上げになります。こちらが本当の狙いなのかどうかは知りませんが。

 さて、月刊現代、論座、諸君など総合月刊誌の休刊(事実上の廃刊)が相次ぎました。月刊現代は最盛期の30万部が約8万部になったそうです。中央公論は4~5万部と、残っている雑誌も販売の不振が目立ちます。文芸春秋は「安保と青春」「弔辞」など、高齢者向けと思われる特集が多くなり、産経の月刊誌、正論は文字が大きくなりました。これらは読者層の高齢化を反映したものと思われますが、現在の中心的な読者層がさらに高齢化すればいずれ読者ではなくなります。

 これらの月刊誌は数ページから十数ページの記事が主で、ある程度腰を据えて読む必要があります。売れなくなった理由のひとつはこのような比較的長い文が若年層に好まれなくなったことにあると思われます。若者の活字離れと言われますが、これは長文離れといった方がより正確かもしれません。若い世代が読まなくなってきたため、販売数を維持するためには高齢者層向けの編集が避けられないのでしょう。これがさらに若年層の離反を招くという悪循環に陥らなければいいのですが。

 米国ではインターネットの影響で新聞の廃刊が相次ぎ、大きい問題となっています。日本の新聞は宅配と再販制度のためか、さほどの大きな変化は見られないようですが(つまりジリ貧状況)、多くの若者が新聞を読まなくなっているなどと報道されると、新聞もいずれ緩やかに月刊誌のたどった道を行くのではないかという気がします。

 若年層が新聞や雑誌から遠ざかるようになった主な理由はインターネットの普及でしょう。ネットからは多くの知識を得ることができ、それは新聞・雑誌をある程度代替することが可能です。しかも自分が興味を持つものだけを集めることができます。

 逆に新聞や雑誌はまとめて買うことから、あまり興味がない記事まで読まされてしまいます(読まないと損をしたような気分になる)。編集者によって記事を押しつけられるわけですが、このことの意味は大きく、結果的に読者の世界を広げることになります。優れた編集であれば、一見無駄と思われるものが役に立つわけです。月刊誌の場合はかなり掘り下げた記事が多いので様々な分野への理解が深まります。

 我々はネットから大きな便益を受けられるようになりました。しかし現在のネット環境は興味ある情報の収集には向いていても、ゆっくり長文を読むという目的にはあまり適していないように思われます。したがって新聞・雑誌や書籍などの長文を読むことによって得られる思考力が低下しないか、また関心のない分野には知識の乏しい人間が増えるのではないかと心配になります。

 たいへん大雑把な話で恐縮ですが、これらはネットの持つ負の影響として考えられることであり、将来の大きい問題となる可能性があるように思います。このような視点からの調査研究があってもよいのでは、と思います。

意図せざる影響力

2011-02-21 10:05:01 | マスメディア
 私の家の庭には野良猫だけでなく、タヌキやアライグマも時々姿を見せます。しばらく前の昼間のことですが、体毛の約8割ほどを失った裸のタヌキが現れました。弱っている様子なので猫用の餌を与えるとガツガツと食べ、去りました。翌日も来たのでまた来るかも知れないと思い、撮った写真を獣医師に見せたところ、ダニによる疥癬と診断され、放置すれば死ぬ可能性が高いということで、イベルメクチンという特効薬を処方されました。

 その後タヌキは現れず、特効薬を使うことはなかったのですが、この抗寄生虫薬イベルメクチンについて調べると意外なことがわかりました。発見者は大村智 北里大学名誉教授で、関連の特許料は北里研究所に入った分だけで250億円とされ、この薬がいかに広範囲で使われているかを示しています。

 イベルメクチンは、2割が失明するという熱帯病の河川盲目症の予防・治療薬として年間7千万人に使われ、リンパ系糸状虫症、糞線虫症、約3億人が感染している疥癬症にも有効とされています。

 もうひとつは朝日(2/15)の記事で知ったのですが、世界で最初の抗エイズ薬AZTを発見した当時米国立保健研究所の研究員であった満屋裕明熊本大学教授の話です。記事によると、協力関係にあったバローズウェルカム社が満屋氏に知らせずAZTの特許を取得し、AZTを高価格で販売したことに対し、憤りを感じた満屋氏はその後世界で2番目、3番目となる抗エイズ薬ddIとddCを開発し、所属する米国立保健研究所はライセンスを企業に与える際、適切な価格での販売を条件としたため、ddIなどの承認後、AZTの価格は3分の1下がったそうです。

 このお二人は世界に多大の貢献をしたと思うのですが、大村智氏の名も満屋裕明氏の名もあまり知られていません。恐らくほとんど報道されなかったためでしょう。ウィキペディアのAZTの項にも満屋氏の名前はありません。

 一方これとは対照的に、マスメディアはホリエモンこと堀江貴文氏や村上ファンドの村上世彰氏を時代の寵児とばかりに持ち上げ、彼らは知らぬ人のない有名人となりました(その後、お二人とも逮捕されるのですが、その劇的な変化はメディアに「特需」もたらしました)。メディアが英雄に祭り上げたお二人が巨額の金を手にしたことはわかりますが、社会にどんな利益をもたらしたかとなると、難しくて私にはわかりません。

 私が学んだ教科書には医学に功績のあった北里柴三郎や野口英世は載っていましたが、株で大儲けをしたような人の名はなかったと思います。社会科の教科書に取り上げられるものはその当時の編集者の価値観を反映したものと考えられます。

 この例で言えば、メディアは世界に大きな利益をもたらした人にはほとんど関心を示さず、巨額の金儲けに成功した人には賞賛と共に非常に強い関心を持ってきたわけで、これはメディアの、あるいは記者連中の価値観を反映したものとも言えるでしょう。そこには、社会に価値を提供した対価としての所得と、株の売買などで得られる所得とを区別しない「寛容さ」が見られます。

 以上はメディアの価値観を象徴する例であって、すべてがそうとは言えません。最近では山中伸弥京都大学教授によるips細胞の開発は大きく報道されました。しかし公的なものへの貢献より個人的な金儲けに関心を持つというメディアの傾向は否定できないように思われます。そしてその姿勢が社会に様々な影響をもたらした可能性があります。

 東大法学部卒業生の主な就職先は官僚であったのが、近年は数千万円の年収が期待できる外資系の金融機関にとって代わられたと聞きます(リーマン・ショック後は知りませんが)。国や社会への志より個人的な利益を優先する考え方はメディアの姿勢と軌を一にしています。

 子供は親や教師の考え方の影響を強く受けます。同様に、我々は情報の多くをメディアから得ているので、無意識的にメディアの価値観などの影響を受けます。学生の理系離れは大きい問題ですが、これはほぼ理系音痴の集団と言えるメディアの報道姿勢と無関係ではないと思われます。

 社会の価値観や倫理観などは社会が先に変わっていくものというより、メディアが先に変わりそれに社会が追随するものと理解すべきでしょう。むろん双方が互いに影響しあうので単純ではありませんが。

 メディアは情報の大半を制御できる立場にあり、意図せずともメディアは自らの価値観などを社会に感染させ、自動的に社会のオピニオンリーダーになります。社会の方向性はメディアの人材の質によって左右されるとも言えるでしょう。さて日本社会は模範的なリーダーに恵まれてよい社会になったでしょうか。

ヒトの個体差

2011-02-14 10:10:03 | マスメディア
 日経に掲載された「個人主義と経済の関係は?」という記事の中に興味深い部分がありました。筆者は労働経済学の大竹文雄・阪大教授です。(2011-1-17 日経の経済教室)

『人間の生物学的な特性と文化との間には関係性が認められるという研究成果は、このほかにも報告されている。
 例えば春野雅彦・玉川大学准教授らのfMRI(機能的磁気共鳴画像装置)を用いた神経経済学的研究によれば、個人主義的な考え方の人と集団主義的な考え方の人には、自分と他人との所得配分に関する意思決定に直面したときの脳活動の領域に差があるそうだ。つまり、自分だけではなく自分と他人の総和の所得が高いときに満足度が高くなる向社会的タイプの人は、個人の所得だけが満足度に影響する個人主義的な人に比べ、所得分配に関する意思決定の際、扁桃体と呼ばれる脳の部位の活動が高まるという。逆にいえば、所得分配に関する意思決定に直面した人の脳活動をみれば、その人が個人主義的な人か向社会的な人かを予測できる可能性がある』

 記事の趣旨は集団主義、個人主義と経済の関係を述べたものですが、それはともかくとして、つまり他人の利益をも合わせて満足する人と自分の利益だけに満足する人では所得分配に関する意思決定の際に脳の活動に差があるというところには興味をそそられます。

 仮説の段階でしょうが、記事ではこれを生物学的な特性の差として紹介されています。環境による後天的な影響を否定しているわけではありませんが、生来的なものが多分に影響している可能性を示唆しているようです。とすればこのような特性は変わりにくいことを意味します。

 経済の世界では、大きな政府による再分配を重視する社会民主主義あるいはリベラリズムと、小さな政府で市場原理を重視する自由放任主義の流れがありますが、それぞれの支持者が「利益の総和に満足」タイプと「自分の利益だけに満足」タイプのどちらに強い相関があるかを調べると興味ある結果が得られるかも知れません。もし強い相関が見つかれば、両者がいくら議論を重ねても平行線ということになりかねません。

 私の推定ですが、「利益の総和に満足」と「自分の利益だけに満足」という二つのグループがあるわけでなく、中間的な人がもっとも多く、どちらかに偏るにしたがって人数が減っていき、両端には顕著な偏りを示す人が少数存在するという、まあ正規分布のような形になるのではないでしょうか。

 他人の利益をも含めて満足することを利他的な傾向、自分の利益だけに満足することを利己的な傾向と置き換えてもそれほど大きくは違わないだろうと思われます。

 世の中にはまるで仏のような人もいれば、極端に自己中心的な人もいます。この違いを個体差とすれば、経験上、ヒトの特性における個体差はとても大きいように思います。

 理屈っぽい話はともかく、願わくば「自分と他人の利益の総和が高いときに満足度が高くなる人」と付き合いたいものです。fMRIによる試験結果が前もってわかればひとつの指標として参考になると思いますが、まあそれはSFの世界でしょう。

教師労働者論の罪

2011-02-07 09:59:07 | マスメディア
 昨年の末、元日教組委員長で総評議長でもあった槙枝元文氏の死去が報じられました。槙枝氏は総評議長として労働界の頂点にも立ち、そしてまた日教組委員長として長期にわたって教育界に君臨しました。その「業績」には多くの批判がありますが、槙枝氏は北朝鮮の金日成を深く敬愛し、北朝鮮から親善勲章第一級を授与されるなど、北朝鮮からは高く評価されていたようです。きっと北朝鮮にとって有益な人物であったのでしょう。日教組はいささか風変わりな人物を頭領としていたわけで、これは日教組の特異な性格を象徴しているようです。

 槙枝氏をはじめとする日教組は教師労働者論を主張したとされています。労働者としての権利を主張するためであったと思われますが、これはそれまでの教師聖職論を強く否定するものでした。聖職という表現には異論もあるでしょうが、それは教職に単なる労働以上の価値を与えるものでした。しかし教師は労働者であるとする主張では、賃金のために働く者という意味が強調され、人を教育し育てる仕事としての意味や使命感が相対的に弱められることになります。

 教職に使命感を持たない教師が、教え子達に対して、様々な職業の社会における意味や職業に対する使命感を伝えるのは難しいと思われます。現在は、職業の価値はそこから得られる所得の高低によってのみ評価される風潮が定着し、職業に矜持(きょうじ)や使命感をもつことが難しい時代になりましたが、その遠因に日教組の教育があるのではないかと思います。

 一方、近年はGDPの僅かな増減が大きく報道されるようになりました。こんな国は日本だけだそうですが、経済への関心が強くなり、経済成長は最重要の問題であるかのようです。物資の乏しい時代、経済問題は場合によっては生存にもかかわる切実な問題でした。しかし十分な豊かさが得られるようになった現代では経済問題の切実さは昔ほどではない筈です。にもかかわらず、経済がより重視される状況は奇妙な気がします。

 「足るを知る」ことのない、飽くなき欲望のためということもあるでしょうが、むしろ他に価値を認めるような対象が少ないためではないでしょうか。戦後教育は家族を支える倫理など伝統的な日本の文化や価値観を封建的なものとして否定し、ことごとく破壊したと言われています。一部にはその必要性はありましたが、残すべきものまで捨ててしまったという感は否めません。

 前にも引用しましたが、かつて三島由紀夫は日本の現状を憂い、
「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
と述べましたが、これは日教組の「教育成果」に対する三島の絶望を表したものと理解することができましょう。

 日教組が主導したゆとり教育は数年後に学力低下という問題を生じ、その失敗が明らかになりました。これは学力が点数という客観的な方法で測ることができたためだと思われます。しかし戦後教育の結果を客観的に測定することは不可能であり、またその影響が現れるのに長期間を要します。このような問題は結果を見ながら修正する(フィードバック)という方法は有効ではありません。それだけに教育というものの恐さを感じます。

 中国は著しい経済成長が続いていますが、その一方で経済重視の拝金思想が広がっているといわれています。国が物資の欠乏状態にあれば、それは自然なことです。しかし豊かさを達成した日本が途上国と同じ姿勢であれば、それは文化の貧困、あるいは強欲と映るのではないでしょうか。少なくともエレガントとは言えません。