噛みつき評論 ブログ版

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「世紀の空売り」・・・マイケル・ルイス

2012-05-28 09:58:00 | マスメディア
 マイケル・ルイスの近刊「ブーメラン」を読んでなかなか面白かったので、前作「世紀の空売り」を読んだところ、こちらはもっと面白かったのでご紹介したくなりました。

 まず「ブーメラン」にも簡単に触れます。副題に「メルトダウンツアーにようこそ」とあるように欧州危機をアイスランド、ギリシャ、アイルランド、ドイツと国ごとに異なる事情をリポートしたものです。

 漁業で生計を立ててきた国が突如として国を挙げて金融にのめり込み、僅かな期間の栄華(という幻想)の後、膨大な負債を残したアイスランド。政府職員の平均給与は民間の3倍、国有鉄道の歳入が1億ユーロなのに対しその職員の年俸総額は4億ユーロ、脱税が日常のギリシャ。ツアーは国民性や文化にも言及しながら続きます。

 例えばドイツについては、「ドイツの民俗には糞、泥、肥やし、ケツへの言及が著しく多い」という人類学者アラン・ダンデスの言葉を引用する一方、ユニークなドイツ流の挨拶を紹介しています。「わたしのケツを舐めたまえ」というもので、この心温まる挨拶には「きみから先に舐めたまえ」と返すのが慣例だそうです。お上品な方なら腰を抜かさんばかりの挨拶です。これが経済危機とどういう関係にあるかは不明ですが、まあこれはルイスのユーモア精神の表れなのでしょう。

 もうひとつの本「世紀の空売り」は米国のサブプライム・モーゲージ債の危うさにいち早く気づき、その崩壊に賭けて大儲けした3人の男たちの物語です。ほとんどすべての人が信じていることに疑いを持ち、実行するという類まれな才覚と勇気をもつ男達(あるいは単なる変わり者)。巨大な崩壊へと向かう過程がリアルに描かれ、緊迫感が伝わってきます。また市場の主なプレーヤーの人物像も興味深く描かれ、優れた物語を読む楽しさがあります。

 サブプライム債市場の崩壊はベア・スターンズやリーマン・ブラザーズを破綻させただけでなく、世界の経済に巨大な衝撃を与えました。新聞の解説などをよく読んだつもりですが、なぜ米国の住宅ローンの一部の焦付きがこのような巨大な波となって世界を襲ったのか、私にはよく理解できていませんでした。しかし本書を読んでそのカラクリが少しわかりました。いま思うとマスコミに登場する解説者もよくわかっていなかったのではないかという気がします。

 ごく簡単に言うと、信用度の劣る住宅ローンを集め、加工して作られたCDOがトリプルAの格付けを得て世界中に大量に売られ、その多くが紙くずとなって大混乱を招いたわけですが、トリプルAを付与したムーディーズなどの格付け会社、主役である投資銀行の幹部、CDS(債権などが債務不履行になった時に補償する商品)を売る保険会社、監視する役割を担う政府機関、そのどれもがその危険性に最後まで気づかなかったと書かれています。金融工学を使ったCDOの複雑さがその危険性を覆い隠した思われます。

 トリプルAという格付けは大きな役割を果たしたわけですが、そこには格付け会社に対する投資銀行の強い関与と格付け会社の無能という問題があったことが指摘されます。むろん格付け会社は責任を取らず、リーマンなど投資銀行の幹部は数千万~数億ドルを持って「カネと共に去りぬ」となり、世紀の宴は終わり迎えます。

 本書から外れますが、その後、潰れかけた金融機関の救済には税金が投入されました。また各国では経済が急激に落ち込み、その対策のための政府支出の増加を招きました。残されたのは巨額の財政赤字というわけです。結局ババ(ジョーカー)を引いたのは各国の納税者ということになりますか。

 リーマンショックの直後、日本でも危機対策として大型の補正予算を組み赤字国債発行額は当初の約33兆円から44兆円になりました。その後の民主党政権は平時でも44兆円を維持し、財政危機に向かっているのは周知の通りです。大きい財政赤字は政治の対応能力を弱めます。つまり必要なところに予算が回らなくなります。

 サブプライム債の崩壊は全体としては巨大な詐欺事件のように見えます。しかし関係者がそれぞれの立場で強欲(グリード)に身を委ねただけであり、通常の詐欺事件のように意図した主体、核となる者がありません。したがって全体の責任をとる者は誰もいないという不思議なことになりました。

拝金主義者らの巨大な宴とも言え、その後始末に世界中が迷惑しているというわけです。グローバル化は地震を世界中に伝える装置のようなものであり、アメリカやギリシャで起きた局地的地震によって世界が激震に見舞われる結果となりました。

「卑怯」はもはや死語か?

2012-05-21 10:08:01 | マスメディア
 前の記事ではグリーやDeNAの子供をカモにする商法について述べました。マスコミはそれが法に抵触するとわかってから大きく報道しましたが、大人が組織的に子供から金を巻き上げるという深刻なモラルの問題に切り込んだ報道は見られませんでした。彼らの関心はもっぱら法に触れるか、どうかのようですが、より重要なのはモラルの問題であり、法は表面的な問題に過ぎません。

 かつて「卑怯」は人を非難する場合の最大級の言葉であったのですが、最近これを目にすることはほとんどなくなりました。「卑怯」を広辞苑で調べると①心が弱く物事に恐れること。勇気のないこと ②心だてのいやしいこと。卑劣」となっています。間違いではないものの、以前の強烈な負のイメージは伝わってきません。これでは「ずるい」や「セコい」などの軽い言葉と大差ないように思います。

 幼児や女性、犬猫などの小動物を殺傷することは卑怯な行為であり、法に触れるかどうかということより先にモラルの問題として、ひいては人格の問題と見られました。卑怯者という言葉は最大の恥辱であり、人格を全否定するほどの強い意味が込められていました。

 いきなり背後から撃つ、抵抗できない者を殺傷する、集団で1人を襲う、弱い者から金を巻き上げる、あるいは危険が迫った時、他人を尻目に真っ先に逃げ出す、などは卑怯な行為とされ、強い非難を受けてきました。これは日本に限らず多くの国の社会に見られるモラルであり、共同体を維持する上で重要な意味があったものと思われます。

 しかしマスコミに卑怯という言葉が見られなくなり、そのような判断基準も徐々に薄れてきたように思います。三面を賑わせる殺人事件や傷害事件は常に豊富にあり、それらの多くは強い者が弱い者に対してなされる卑怯な行為です。そのような事件ばかり追っているマスコミは、いつの間にか卑怯に慣れ親しみ、卑怯に対する感覚が麻痺してしまったのでしょうか。

 放射線から逃げようと福島から遠く沖縄まで移住してきた人たちが、沖縄の子供達のための青森の雪を使った催事を中止させたという出来事がありました。福島第一原発から数百キロも離れた青森の雪に一時的に触れるだけのことに過剰反応する理不尽さも、青森に住んでいる人々に対する無思慮、無神経さもマスコミは取り上げませんでした。実に「寛容」態度です。

 岩手県や宮城県のがれき処理については、恥ずかしいことですが京都でも一部の人間が引き受けに激しく反対しました。とりわけ福島などから京都に逃亡している人の、「東日本の汚染は仕方ないが、がれきを持ち込んで西日本まで汚染させるわけにはいかない」という過激なご主張にはあきれます。

 東日本の住民を西日本に移すことなど不可能であり、これは東日本の住民は汚染地で住んでもらう、という意味になります。しかもこれを言っているのは放射線に強い危険を感じて逃げ出した人間です。東日本の住民などどうなってもよい、と私には聞こえます。逃げ出すことは理解できますが、彼らの発言を聞く限り、残してきた人々に対する配慮などまったく感じられません。

 利己を最優先する者が恥じることなく発言し、それが非難されなくなった状況の方も問題です。そして彼らの側に立つかのごとく報道するマスコミの倫理観の欠如はさらに深刻です。がれきを処理して増加する放射線量など問題にならないことを明確に示す見識や勇気がないこととあわせて。

 彼らに発言の機会を与え、そのバカバカしい主張を肯定的に報道すれば彼らの主張を認めることになるでしょう。こうしたマスコミの姿勢がモラルの衰退を招いた一因と考えられます。まことに困ったオピニオンリーダーであります。

コンプガチャと白馬遭難に見る奇怪報道

2012-05-14 10:20:13 | マスメディア
 日本のマスコミは政府や自治体などの発表をただ伝えるだけの記事、いわゆる発表ものが約8割を占め、調査報道が少ないと長年批判されてきました。今回の、携帯電話などを使ったソーシャルゲーム、コンプガチャ(コンプリートガチャ)に関する報道はその好例であると思われます。コンプガチャは中高生が数十万円を請求される例が相次ぎ、射幸心を強く煽ることが問題となったゲームです。

 このゲームは違法であるとの見解が消費者庁によって発表された途端、マスコミ各社は大きく取り上げました。それまでコンプリートガチャなるものを知らなかった方が多かったと思われますが、私も騒ぎになる少し前に読者の方から教えていただき、初めて問題が生じていることを知りました。知名度のある会社が儲けのためにはそこまでやるのか、と思った次第です。マスコミ対策によほどの自信があったのでしょうか。

 ソーシャルゲームは3年間で50倍ほどに拡大した「成長産業」といわれ、グリーやDeNAの急成長と高収益は賞賛を込めて報道されてきましたが、それが子供や若者をカモにする、問題ある商売だとは報道されなかったと思います。判断力の未熟な年少者から高額の金を巻き上げるのは実に卑怯な行為であり、それを放置したマスコミの寛容(鈍感)さは理解できません。

 国民生活センターへの相談件数は昨年度3433件と急増しており、消費者庁が動き出すまで主要メディアが寛容な沈黙を守っていたことは奇異な感があります。グリーなどはテレビ局の大口スポンサーであり、そのために「配慮」があったのではないか、とも勘ぐりたくなります。トラブルや被害例をもっと早く報道していれば問題の拡大を防止できたことでしょう。ともあれ主要メディアが不適切な行為を監視する役割を果たさなかったことは否めず、その職業モラルを疑わせるものでした。

 もうひとつは6名の方が亡くなった5月4日の白馬岳の遭難事故。ほとんどのメディアはパーティが軽装であったことを強調する報道を行いました。特に朝日は見出しから「夏山の軽装で出発、一転零下2度 白馬岳で死亡の6人」で、「長袖シャツにベスト、ズボン……。6人はまるで夏山でも歩くような格好だったという」とし、まるで無謀登山を非難するような調子でした。

 ところが5月8日から10日にかけて毎日や日経、読売、NHKなどがパーティーが十分な装備を持っていた事実を報道しました。名誉が回復される内容です。しかしグーグルで調べるとこの名誉回復関連記事はわずか14件で、6日の遭難事故報道の記事217件より大幅に少なくなっています。朝日はようやく11日になって「38面の目立たないところに「リュックにジャケット」というベタ記事を載せましたが、ダウンジャケットなどがあったなどと述べるだけで、無謀登山という不名誉な報道を訂正する内容とは程遠いものです。

 面白いのは発行人と編集長が共に朝日新聞の元記者というJ-CASTニュースの10日付け記事。
『美しい北アルプスの山々は、ゴールデンウィークになっても雪の連山のままで、冬山と全く変わらないのである。そんなところにホイホイと軽装で行くとはバカか。大金を使ってヘリコプターが出動する毎度の映像を見る度に、腹が立つ。鉄道や飛行機のように個人の責任では避けがたい事故ならともかく、山登りでの遭難は100%自己責任。同情的に報道してやることは全くないのである。大迷惑を教えろ』

 10日というと既に装備が十分であったことが判明している時期なのに調べもせず、下品な言葉で威勢よく医師たちの名誉を踏みにじり、大恥を晒す結果となりました。濡れ衣を着せた上、死者を鞭打つというあきれた行為です。当然、謝罪文を載せるべきですが、「朝日系」ならばあまり期待できません(14日現在、一切記載なし)。気になるのは、朝日を覆っているヴェールを剥ぎ取ればJ-CASTのようなものが現れるのでないかということです。

 対照的なのが検索で見つけた12日の「赤旗」、「きょうの潮流」。
『10日付の本欄で白馬岳の遭難について書き、読者のみなさんから「事実と違う」とのお叱りを受けました。ご指摘のとおりでした▼遭難が伝えられた当初の報道、「軽装」「冬山用の装備なく」にもとづき書きました。しかし後日、薄い羽毛ジャケットや風を防げる冬山用ズボンがザックに入っていた、と分かってきたのです▼自宅に執筆当日の朝に配られた新聞に、新たに発見された事実が報じられていました。目立たない記事とはいえ見逃してしまい、無念の遭難にあわれた6人の方々の、名誉を傷つけてしまいました(以下略)』

 どれが不誠実で信用がおけないか、どれがまともか、言うまでもないでしょう。一流の顔をしていても中身まで一流とは限らないという教訓になりそうです。

9条が平和を脅かす

2012-05-07 10:01:17 | マスメディア
 中国脅威論というものがあります。「中国 脅威」をグーグルで検索すると実に1220万件もヒットし、中国脅威論はネットではかなり盛んに論じられていることがわかります。しかし、産経以外の既存メディアで中国脅威論が目につくことはほとんどありません。

 1966年、産経をはじめとする新聞各社は北京から追放されました(朝日だけは例外的に残ることを許されました)。このような経緯もあり、大手メディアには中国恐しというトラウマがあるのかもしれません。

 朝日は中国から唯一優遇された新聞というわけで、それが親中報道とか媚中報道と批判される理由のひとつになっています。ところが意外にもその朝日が運営する WEBRONZA に「中国は脅威か?」と題する中国脅威論が載りました。WEBRONZAは朝日が発行する月刊誌「論座」が販売不振で休刊(実質は廃刊)になった後を継ぐものと思われます。筆者は元朝日新聞編集委員の萩谷順 法政大学法学部教授で、次のように述べています。

「第二次世界大戦後、とりわけ冷戦終結後、軍事技術が急速に進歩し、中国にそれを装備できる経済力が備わったことによって、事態は一変しました。中国の意図はともかく、目の前に隠しようもなく、あからさまに存在するようになった強大な軍事力は、それだけで客観的脅威です」

 その上でかなり控えめながら軍事の重要性をも含めた「まともな」結論に至ります。

「軍事が外交や権益拡大の裏打ちになるという現実には変わりはありません。米欧日が経済危機に瀕し、基礎体力を失いつつあるいま、中国をどう見るか、そして日本がアジア太平洋地域で安全と平和そして私たちの基本的価値をどう守っていくかという大戦略を考える必要は日増しに大きくなっていきます」

 ご興味があれば上のリンクから原文をお読みいただきたいのですが、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といった空想的な建前論・平和論を前提とした朝日の従来の主張とは一線を画すものです。これがマイナーな媒体であるWEBRONZAでなく朝日の本紙に載ればよいのですが、それはまず望めないことでしょう。

 戦前、日本は周辺国にとって軍事的な脅威であり、やがて脅威は現実になりました。現行憲法の9条はそんなことが二度と起きないように作られ、軍事力は防衛のための必要最小限度に抑えられました。しかし現在、脅威を与える国は日本ではなく、軍事力・経済力ともに勝る中国です。平和のためにいま9条を持つべきは中国であり、「9条の会」の方々は中国に中国版9条の制定を働きかけるべきでしょう(無駄なことはわかっていますが)。

 中国は従来から覇権主義・拡張主義の傾向があり、政治も安定的とは言えず、いつ中国製の東条英機やヒットラーが登場しないとは限りません。防衛は国の基本であり、あらゆる想定に基づく議論が国民に共有されることが必要だと思われます。中国脅威論がネットという言わば裏側の舞台だけで行われ、テレビ・新聞という表の舞台でほとんど見られないのは好ましくありません。

 「9条の会」はいまだに活動を続けているようですが、発起人の年齢を見てわかるとおり、これは前世紀の遺物です。国際関係の変化に目を背け、永遠に主張を変えようとしない態度は度し難い頑迷さを示すものです。

 「9条の会」の「誇るべき成果」は、日本が戦争をしかけることにばかり注意を向けさせ、戦争をしかけられる可能性を覆い隠したことにありましょう。9条を支持する立場は常に軍事力(防衛力)の増強に反対であり、そのためには他国からの攻撃の可能性を隠蔽したいという動機があるからです。

 9条を支持したメディアも同罪で、彼らが作り出した世論が、ここ10年ほどの防衛予算の漸減傾向が実現させたといえるでしょう。中国の驚異的な軍事予算の増加と実に対照的です。言うまでもなく、国際関係が「平和を愛する諸国民の公正と信義」で決まるというのは夢物語です。軍事力がものをいう世界であり、平和のためには抑止力が重要であることは歴史を見ればわかります。9条の存在はこの抑止力を弱める方向に働きます。

 核武装を口にするだけで政治家の首が飛ぶとも言われ、軍事力の必要性を主張すれば右翼呼ばわりされます(左翼はインテリで右翼は頭が弱いというイメージがあります)。夢から覚めて、あらゆる選択肢について自由に現実的な議論ができる状況をつくることが表側のメディアの役割であると思います。