噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

毎日新聞の後始末法

2015-04-27 09:14:45 | マスメディア
 たいていの人は失敗を犯します。よく言われることですが、失敗の後、どのような行動をとるかによってその人の「素性」が明らかになることがあります。隠蔽はバレなければよいのですが、バレた時の場合のダメージは何倍にもなります。

 ここでご紹介するエピソードそのものは些細なものですが、その後始末の方法からみえる体質には興味深いものがあります。3月22日の毎日新聞電子版には
『内閣府世論調査:「社会に満足」60% 外交「悪い方向へ」38%』
という見出しの記事が載りました。3月23日付の私の記事で指摘したとおり、「悪い方向に向かっている分野」で外交がトップとしているのは誤りで、逆に前年の38.4%から25.2%にまで減少となっており、外交は改善方向です。

 見出しまで間違っているので訂正された方がよいと思い、その旨を毎日新聞にメールで通知したところ、毎日新聞東京本社愛読者センターの担当者から、その根拠を教えて欲しいとの返事がありました。そこで朝日と産経の記事、内閣府のHPのURLを知らせたところ、以下のような返答がありました。
『いただいたメールにある内閣府のHPを開くと、ご指摘の悪い方向に向かっているのは外交か、以外にも、良い報告のトップが毎日記事では医療・福祉なのに対し、内閣府HPは科学技術とあり、調査期間その他も違っています。おそらく、記事に書いたのは別の調査のような気がするのですが、これはあくまで私の個人的想像です。政治部の回答が届きましたら、正式にお伝えします』

「難解」な日本語の文章ですが、間違いが他にもいろいろあったので、記事は別の調査について書かれたものではないだろうか、と担当者は考えたようです。私も間違いがいくつもある点は確認しました。しかし内閣府調査としながら別の調査を記事に書くなどという間違いが起きるものでしょうか。

 政治部の回答を待つということになったわけですが、一向に返事がありませんので4月8日に担当者宛に問合せのメールを送付したのですが、まったく返信はありません。そこで毎日新聞のHPで「内閣府調査」と検索したところ、以前の記事は消え、次のような記事が出ました。
『内閣府調査:「景気悪い方向」30.3% 昨年より11.3ポイント増 アベノミクス実感なく』 毎日新聞 2015年03月22日 東京朝刊・・・・これは紙媒体に載ったもので、こちらは間違っていません。

 電子版に載った当初の記事は訂正をせず、ひそかに記事を削除した疑いが濃厚です。もし訂正していたならば私の方に連絡がある筈ですから。電子版の記事の削除は容易で証拠も残りにくいですが、誤った記事を読んだ人もいるわけで、これでは他人の目がなければ何をするかわからない新聞、という評価を受けかねません。

 記事は新聞社にとって商品ですから、誤りや欠陥があれば訂正するのが当然です。他の組織が不都合なことを隠蔽した場合には厳しく糾弾してきたメディアが自ら隠蔽していたとなれば面白いニュースネタになります。まあそれはともかく、これが隠蔽であれば、複数の人間が関わっている筈ですから、毎日新聞の「素性」を知る手がかりとしての「価値」はありましょう。

福井地裁が原発差し止め仮処分

2015-04-20 09:11:09 | マスメディア
 その地位にふさわしい見識や能力を持たない人物が強い権限をもつことの危険性を改めて考えさせられました。それは地位を与えたシステムの問題でもあります。

 福井地裁は関西電力高浜原発3、4号機の再稼働を禁じる仮処分決定を出しました。多大の費用と労力をつぎ込んで周到な準備をし、ようやく実現の運びとなった再稼動が延びる可能性が出てきました。原発稼動は国の方針であり、その安全性には原子力規制委員会など多数の科学者・技術者による長時間の検討が重ねられてきました。それを「非専門家」である樋口裁判長が短時間の検討でひっくり返したというわけです。

 樋口裁判長は主に民事を、つまり金や土地を巡る紛争などを長年扱ってこられた方のようです。そのような経歴の方が国の大方針を覆せる権限をもっているという仕組みにまず驚きます。まあ経歴に関係なく優れた判断を下せる例もあるので、判決理由を見ていきましょう。

(1)「基準には、適合していれば万が一にも深刻な災害が起きないという厳格さが求められる」
(2)「新規制基準は緩やかにすぎ、これに適合しても原発の安全性は確保されていない」

(1)では「万が一にも深刻な災害が起きない」と100%の安全を求めています。世の中に100%の安全などありませんから、判断は確率の大小で決めるしかないでしょう。確率が十分低くなるように作られたのが規制基準です。確率を考慮せず、白か黒かの2分法はあまり教養のない人によく見られる考え方で、判断を誤る要素のひとつです。世に完全な白や黒はあまり存在せず、たいていは灰色です。

(2)では「新規制基準は緩やかにすぎ」と断定しています。これに対して原子力規制委員会の田中俊一委員長は「事実誤認がいっぱいある。私どもの取り組みが理解されていない」「どの程度理解しているのか。世界と比較しても、最も厳しいレベルというのは国際的にも認知されている」との発言があります。

「事実誤認がいっぱいある」というのは「よく理解していない」または「全然理解していない」とほぼ同義であり、失礼のない表現を使っただけと思われます。また新規制基準が適切かどうかを判断するのは容易ではありません。物理・化学の素養だけでなく、原子力プラントに関する広範な知識が必要です。そのような知識なしでの判断は子供の判断とたいして変わらず、司法の信用を低下させるものです。

 地震工学や原子力工学の専門家による他の反論を持ち出すまでもなく、誤解の上に築かれた判決であると思われます。それが妥当なわけがありません。しかし朝日は翌日の15日には判決の支持を社説で表明し、さらに「耕論」というオピニオン欄では判決を評価する意見ばかりを載せています。用意周到です。通常は賛否両論が載るのですが、今回は賛成論ばかり。たいしたご都合主義です。

 前回の「親に責任なし 子供のボール蹴り」という記事では一審、二審とも判決には相関の強さや確率という概念が存在しないという指摘をしました。この福井地裁の判決も100%の安全を求めている点で確率という概念が欠けています。確率や統計が理解できなければ複雑な世の事象を理解するのは困難です。裁判は重大な影響を与えるものですから、司法試験の科目に数学を含めてはいかがでしょう(これはマスコミにも言えそうです)。

親に責任なし 子供のボール蹴り事故

2015-04-13 09:11:18 | マスメディア
 小学生が校庭で蹴ったボールが道路に飛び出し、それをよけようとした80代のバイクの男性が転倒、足を骨折して約1年半後に肺炎で死亡した事件で、最高裁は小学生の両親に賠償責任はないという判断を示しました。

 両親に賠償責任を認めた一審、二審の判決をひっくり返したこの最高裁の判断は予想外(朝日)と受け止められる一方、多くのメディアは当然の判断と評価したようです。

 今回の判決は一般常識に沿ったものだと思います。ただこれが優れた判決であるというよりは一審、二審の判決があまりにも非常識すぎただけと思われます。一審の判決理由は「ボールの蹴り方次第ではボールが道路まで飛び出して、バイクを転倒させる等の危険性を予測することは十分可能」であったそうです。親が「十分可能」なのでしょうか。

 なんとも苦しまぎれの理由です。実情を無視した小学生レベルの屁理屈ともいえます。二審はバイク側にも校庭沿いの道路ではボールや子供が出てくることが予想できたとして賠償額を1500万円から1180万円に減額していますが大筋は変わりません。この理由も理解し難いものです。これほどまでの注意義務を親が要求されるのなら外で子供を遊ばせることが現実にできなくなるでしょう。

 ここには被害者に対する賠償を何が何でも取ろう、どんな僅かな因果関係でもよいから取れるところから取ろうという意思が感じられます。無理に理屈をつけたので滑稽なものとなったのでしょう。司法のあり方として極めて疑問です。

 メディアは二審判決の時には大きく扱わず、今回の最高裁判決は大きく扱いました。メディアがまっとうな感覚を持っていたなら、二審判決を取り上げて強く批判すべきであったと思います。今回の最高裁判断は、少なくともメディアよりまともであったわけで、それがメディアの「予想外」という反応を生んだわけです。政治の分野では習慣のように反対する左派メディアも司法には無関心のようです。

 私は2012年6月の二審判決の後、この問題を「子供のボール蹴りで1180万円賠償」という記事にしていました。一部引用します。

*****************************

『ボールをよけようとしてバイク転倒→足を骨折→直後に認知症→約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡。これが恐らく被害者側(の弁護人)が考え出し、裁判所が認めた因果関係ですが、なんやら「風が吹けば桶屋がもうかる」に近い屁理屈に見えます。
 乱暴な仮定であるのは承知の上ですが、ボールが飛んできてバイクが転倒する確率を1000分の1、転倒による骨折の確率を2分の1、骨折が原因で認知症になる確率は難しいですがまあ100分の1、認知症のために誤嚥性肺炎で死亡する確率を10分の1と仮定すれば、すべてが実現する確率は200万分の1となります。
 この数値はいい加減なものですが、裁判官は蓋然性つまり確率をどう判断して判決を下したのか、気になります。蓋然性の評価なしで判決が確定できるとは思えないからです。このような判断が認められるのなら、もしもこの80代の男性の死によって老齢の家族が失意のために死亡した場合、それも子供の責任とされることになりかねません。死亡に至った理由は高齢など被害者側の事情が大きいと思われ、子供側が責任を負うとしても骨折までが限度のように思います』

****************************

 一審、二審の判決は事故と親の責任との関係の希薄さだけでなく、約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡という事実と事故との関連性の希薄さを無視したものであると思われます。これらの判決には相関の強さや確率という概念が存在しません。つまり1(100%)の確率で起きることも、百万分の一で起きることも同じに扱っています。だから非常識な判決になったのでしょう。司法の信頼を揺るがす問題です。失礼ながらもう少し算数の勉強をしていただきたいと思います。

 誰にも賠償責任を負わせることができない不運な事故は僅かですが起きる可能性があります。そんな場合は犯罪被害給付制度のように社会、つまり国が救済する制度があればよいと思います。加害者側に無理やり賠償責任を押しつけるよりよほどマシでしょう。一審、二審の判決は無理にでも被害者を救済しようとしたためでもあったからです。

宗教と教育

2015-04-06 09:10:59 | マスメディア
 今年は地下鉄サリン事件から20年。日本は宗教テロリズムの先進国であったことを改めて思い知らされました。しかもこのテロ集団は「純国産」です。オウムによるテロとイスラム過激派のテロはどちらも宗教によるテロであり、ほぼ同種のものと考えてよいでしょう。ただオウム事件は日本という先進国で起きた点が特異でありました。

 無知蒙昧が支配する世界では迷信や宗教が強い影響力をもつことは容易に想像できます。時代を経て、教育による科学的・合理的知識の普及が進むにつれて宗教の影響力は弱くなる傾向にあるようです。但しアメリカの一部やイスラム諸国の多くのように宗教が教育を支配している地域は別ですが。

 一方、2013年の統計数理研究所の調査によれば、「あの世」を信じている人は20歳代では45%。これは1958年の調査結果13%の3倍を超えるそうです。統計数理研究所のホームページには詳細な調査結果が載っています(他にも様々な調査結果があり興味深いです)。例えば20歳代の女性の場合あの世を信じているのは65%(男性は26%)となるのがわかります。予想外の高い割合ですが、いったいどんな教育を受けてきたのか、気になります。

 あの世を信じることと宗教を信じることは同じではありませんが、不合理なもの、実証されていないものを信じるという点では同じです。教育の目的のひとつは実証的、合理的な考え方を身につけることです。若い世代の半数近くがあの世を信じているのには教育にも問題があるように思います。この間、高学歴化が進んでいるのにどういうことなのでしょうか。

 霊感商法や、効果の根拠を示さず体験談ばかりの健康食品の広告に引っかからないためにも合理的な考え方を身につける必要がありましょう。余談ですがあの世を信じる人の男女比が26%対65%と女性が圧倒的に高いのはもともと合理的な考え方に弱いのでしょうか。ほぼ同じ教育を受けている筈ですが。

 オウムの後継団体の信者数は増加しているとされ、その多くは若い世代だそうです。あの世を信じているような人は勧誘の標的になりやすいでしょう。統計数理研究所の調査結果で「宗教心は大切か」という質問に「大切」と答えた人の割合は2013年で全世代で66%あり、宗教に対して肯定的な見方が多数を占めます。これは今までの教育の反映と思われますが、この寛容さがオウムの拡大を許した理由のひとつでしょう。

 地下鉄サリン事件での死傷者は数千人と言われます。信者のみならず多数のテロ被害者が人生を奪われ、あるいは狂わされました。宗教とカルトは別物ではなく連続したものと考えられます。宗教は諸刃の剣であり、教育の場で合理的な思考と共に宗教の危険性を教える必要があるように思います。