噛みつき評論 ブログ版

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自転車は車両に区分すべきか

2011-12-26 10:10:04 | マスメディア
 自転車が歩行者と衝突する事故が増え、昨年の死者は5人に達したと、一時マスコミ騒ぎました。これを受け、警察庁は自転車の歩道通行を制限する方向を打ち出しました。これに関しては自転車のマナーの悪さなど、多くの報道がなされましたが、自転車乗車中の死亡者数が昨年は658人であったことに言及した報道はなかったように思います。

 この死者658人の大部分は車道での対自動車の事故であると思われます。自転車の歩道通行を制限し、車道へ追い出せば、死者が増えることはあっても減ることはないでしょう。自転車による歩行者の死者5人に対して、自転車の死者は658人と100倍以上あるため、仮に3%の増加でも20人増えることになります。

 歩行者の危険を強調する報道がほとんどでしたが、歩道から車道へ追い出される自転車の側の事情にも触れなければまともな議論になりません。いつもながら一斉に同じ方向に流れるマスコミの付和雷同体質です。それが「自発的に」であるだけにいっそう不気味です。

 自転車は軽車両に分類され、車道通行が原則とされています。このこと自体が適切なのでしょうか。単純に車輪の有無で区分されたのかもしれませんが、人間と自転車、自動車の性質から見ると別の分類も考えられます。

 異種間の衝突という観点からすれば、それぞれの重さ、速度、そして破壊力につながる運動エネルギーの大きさが重要になります。重さを人間55Kg、自転車70Kg、自動車1500Kgとし、速度をそれぞれ5Km/h、15Km/h、50Km/hとすると各比率は以下のようになります。

重さの比         1 : 1.3 :    27
速度の比         1 :   3 :    10
運動エネルギーの比  1 :  11 :  2700

 どの比率を見ても自転車は人間に近い位置を占めています。とくに自動車の運動エネルギーは人間の2700倍、自転車の約250倍と大差があります。そして自動車は箱に囲まれていますが、人間と自転車は生身です。この3区分にすべきものを無理やり2つに区分するならば、自転車は人間と同じグループに入れる方が物理的には理に適います。少なくともタマ(車輪のことです)の有無で区分するよりはマシでしょう。

 自転車の歩道通行が認められたのは78年頃(*1)だそうですが、これは事故の増加という実情に対処するために軽車両という形式的な古い分類を実質的に変更したものと解釈できます。したがって自転車の加害性だけを強調し、本来の車道走行に戻すべきだという意見は問題の一面だけを見るものです。

 マスコミが一面的な理解に基づいて騒ぎ立て、それに迎合する形で、あるいは「民主的警察」を演じる形で、警察が動くという事態にならないように願いたいものです。

(*1)この翌年には自転車事故の死者数が1割程度減少しました。

政治家の顔

2011-12-22 11:59:29 | マスメディア
 首相が選ばれた直後は、その顔が首相らしく見えないことはよくあります。でもしばらくするとなんとなく首相らしい顔に見えてきます。立派な肩書きをもつ人の顔が(立派でなくても)立派そうに見えるのは、先入観によって見え方が違ってくるためでしょう。これは主観の影響を示しています。

 しかしこの数年間に登場した首相に関しては1年ほど拝見していても、どうも日本国の代表たる首相らしい顔に見えてきません。先入観の影響を加算してもそれらしく見えないのは隔たりが大きすぎるのでしょう。

 2年前の総選挙の時、マスコミも世論も民主党に大きな期待を抱き、民主党は大勝、政権を取りました。しかし期待が儚く消え去るのに長くはかかりませんでした。もっとも私は当初から絶望していました。それは彼らの言葉と共に、顔から受ける印象を判断材料にしていたからです。

 選挙前、民主党は小沢氏、鳩山氏、菅氏によるトロイカ体制と称していました。この御三方は党内でもっとも優れた方々の筈です。しかしこの三氏に対する渡部恒三・民主党最高顧問の次の発言は如何でしょう。

「この世で一番悪い小沢と、この世で一番バカな鳩山と、この世で一番ずるい菅を、世の中にさらしてしまった」

 この発言は少し過激ですが、それぞれの顔から受ける印象とけっこう符合しているように感じます。とくに小沢氏なんかよく一致しているようです。ただ鳩山氏の顔だけは私の経験上、類例がなく難物でしたが、性格もなかなか類例のないユニークな方であり、少なくともその点だけは符合します。

 また、金正恩氏ほどではないにせよ閣僚級の方々の多くは若く、その顔には甘さが残り、厳しさや強さが感じられません。前記事で取り上げたリンカーン流に言うと、国の命運を託してもよいと思える方は残念ながら極めて数少ないという印象です。

 馬齢を重ねると、顔や表情と性格の関係例を数多く見ることになるわけで、少しは観察の精度も上がるというものです。もっとも観察だけでの信頼性にはやや難があり、他の材料をも考慮する必要がありますが、まああれやこれやと考えることは楽しいことです。

顔は口ほどにものを言う

2011-12-19 10:08:19 | マスメディア
「人がヘビを怖がるのは本能」とする研究結果の発表がありました。怖がるのは本能なのか、それとも学習なのか、という議論は以前からあり、3歳児を使ったこの実験は本能とする説にひとつの根拠を与えることになりましたが、学習の結果であることが否定されたわけではなく、恐らく両方が関わっていると考えたほうがよいでしょう。

 また、体に比べ大きい頭と、低いめの位置にある大きい目をもつ顔は幼児の特徴ですが、これを我々はかわいいと感じ、保護したいとという気持ちにさせられます。これも多分生来のものでしょう。かわいいと感じる親から生まれた子は保護を受けやすく生存の確率が高くなって、そのような形質が伝わったと考えられます。

 生来的(本能的)、後天的かはともかく、われわれは凶暴な肉食獣の顔を見て恐怖を感じ、温和な動物の顔からは親しみを感じます。顔の形と与えられるイメージの間には曖昧ながらも一般的な関係があるようです。

 人の顔や表情から様々なイメージを受け取ります。怖い顔、優しい顔、冷酷な顔、情のある顔、貴族的な顔、下町の顔、聡明な顔、愚鈍な顔・・・、いろいろの言葉で語られるように顔からは様々なイメージが惹起されます。「目は口ほどにものを言う」といいますが、顔や表情はもっと「ものを言う」と思います。

 リンカーンは閣僚として推薦された人物に対し「顔が気に入らない」と言って同意を拒みました。では「顔で決めるのですか」と質問されたことに対し、「40歳を過ぎれば、誰でも自分の顔に責任を持たなければならない」と答えたそうです。大宅壮一の「男の顔は履歴書」という言葉も同じ意味です。

 幼い頃の顔の形は遺伝的なものに支配されますが、歳を経るごとに後天的な要素が加わり、ある程度内面を反映すると思われるので、リンカーンの洞察は多分間違っていないでしょう。人間には30個ほどの表情筋があり、年齢を経た顔はそれらの発達具合の結果と考えられます。私自身も他人を評価するとき、顔から得られる印象を参考にします。顔は言葉と違って嘘をつきませんから。

 文章や演説には様々な情報が含まれ、当人の評価をするためには大変有効ですが、政治家の場合は他人が書いた原稿によるものが多く、あてになりません。一川防衛相は自分の言葉で語ったところは偉いのですが、そのために馬脚を露してしまいました。野田首相は原稿読上げを徹底し、記者会見を最小限にするなど、隠す能力が優れていますが、政治家としてどうかと思います。

 かつて、骨相学というものがありました。なかなか興味深いもので、頭蓋の大きさや形状と性格との関係を研究するものでしたが、現在では否定されています。しかし顔から読み取れる様々なイメージはある程度の共通性を持つわけですから、形とイメージの関連性の研究は骨相学より見込みがありそうです。目や鼻、顎などの部品の形、大きさ、相互の距離などを数値化して、性格との関連を調べれば面白いことになるでしょう。

 彼は知能はCクラスだけど腹黒さがAクラスだとか、彼女は決断力はCクラスだけど同情心がAクラスだとか。・・・むろん私は評価されたくありませんが。

大国の驕り

2011-12-15 10:05:55 | マスメディア
 昨年の尖閣諸島沖で起きた中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件に続いて、違法操業をしていた中国漁船員が韓国の海洋警察官2人を殺傷した事件が起きました。相手国の警察行為に対するこのような抵抗はちょっと想像できません。勇敢なのは認めますが。

 あくまで想像ですが、この背景には経済力でも軍事力でも強大となった中国の大国意識があるように感じます。戦前、日本が占領した地域で、日本人はずいぶん威張っていたと聞きます。むろん威張っていた日本人が偉かったわけではなく、虎の威を借る狐(*1)であったに過ぎません。

 大国意識は自尊心を伴います。自尊心が強過ぎれば僅かのことでも頭に血が上りやすくなります。海洋警察官殺傷事件に抗議する韓国の騒ぎに対し、韓国側に非はないのに北京の韓国大使館のガラスが壊されたのは中国の強い自尊心と無関係ではないでしょう。

 今回、中国は韓国に謝罪をしていません。尖閣諸島沖の衝突事件後、中国政府は非は日本にあるかの如く、謝罪の代わりに報復行為をし、中国国内では反日デモも起きました。尊大な人間は謝罪するのが大嫌いですが、国もまた同じなのでしょう。

 国と国の関係という観点から言えば小さな事件が国民全体を巻き込む騒動に発展し、それが両国政府に反映して関係が悪化することは珍しいことではありません。国民感情に影響された政府が、気の短い人間のように感情的な行動を起こしやすいのは民主主義のおかげでしょう。良かれ悪しかれ、それは国民主権の反映というわけですから。国民に迎合するマスコミはさらに感情を加速させる存在です。

 経済規模だけでなく、軍事力でも中国が日本を圧倒するようになれば、大国意識はさらに強くなるでしょう。それはナショナリズムともつながって危険なものになりかねません。中国が世界の中心だとする中華思想が力を増したとき、「小日本」と蔑称されるわが国との関係がどうなるのか、気になるところです。尊大で気難しい隣人の存在は大きな不安材料であり、付合い方を研究しておく必要がありそうです。

(*1) 虎が狐を食おうとしたときに、狐が「私は天帝から百獣の王に任命された。私を食べたら天帝の意にそむくことになるだろう。嘘だと思うなら、私について来い」と虎に言った。
そこで虎が狐の後についていくと、行き合う獣たちはみな逃げ出していく。
虎は獣たちが自分を恐れていたことに気づかず、狐を見て逃げ出したのだと思い込んだ。(故事ことわざ辞典より)

チャーチル「第二次世界大戦」

2011-12-12 10:04:05 | マスメディア
 ウィンストン・S・チャーチルは第二次大戦時の英国首相ですが、その著書「第二次世界大戦」によってノーベル文学賞を受けています。読みにくい日本語訳に苛立ちながらも、4巻ある訳本の1巻目を読んだところですが、歴史好きの人にはなかなか面白いだろうと思います。

 たとえば、高校の世界史では、ネヴィル・チェンバレン英首相がヒトラーに対し宥和政策をとったことが大戦へとつながったと簡単に習った記憶がありますが、この本にはそのあたりの事情や背景が詳しく書かれています。

 1936年3月ヒトラーはベルサイユ条約で非武装地帯と定められたラインラントに進駐します。このときドイツの軍事力は貧弱で、フランスに大きく劣っていたため、ドイツの参謀たちは反対したのですが、それを押し切ってヒトラーは軍を進めます。ところが英仏などの関係国は強力な対抗処置を取りませんでした。ヒトラーの作戦は成功し、この成功がヒトラーに強大な権力を与えることになったというわけです。その後ドイツは着々と軍事力の強化に努め、やがて周辺国の占領を開始します。

 もしフランスがラインラントに軍を進めていたならばヒトラーは失脚していただろうという見方もあり、そうならば大戦を回避することが出来た可能性も指摘されています。

 チャーチルは、この背景に当時ヨーロッパ全体に広がっていた平和主義があることを指摘しています。第一次大戦での悲惨な体験でもう戦争はこりごりということになったわけです。このときの英首相はボールドウィンですが、国内の世論が平和主義に傾いていて強硬手段は困難であったとされています。チェンバレンに至る宥和政策の背景には平和主義があったわけです。

 ドイツも第一次大戦で壊滅的な敗北を喫したわけですから、平和主義が蔓延してもよさそうなものですが、なぜかそうはならず、戦勝国を逆恨みしたような結果になりました。

 この話は戦後の日本といくつかの類似点があります。もう戦争はこりごりと、日本の戦後平和主義は広く支持されました。しかし日本は懲りても他国は必ずしもそうとは限りません。現に核兵器をもち、軍事費を毎年二桁で増加させ、攻撃型兵器である空母まで持とうとする隣国もあります。

 巨額の費用をかけて軍事力を強化しようとするのはそれだけの意味があると考えるのが自然です。そして強大な軍事力を行使できる隣国の政権が今後も安定しているとは限らず、どのように変わるか予測できません。

 このような環境に於いて、9条によって平和が保たれているという考えはずいぶん独りよがりに見えます。「いわゆる平和憲法だけで平和が保障されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方が良かったかも知れない 」という田中美知太郎氏の名言を思い出します。

 もうひとつの教訓は、相手国の不法、不適切な行為に対し、毅然たる態度で対応しなければ、相手国の好戦派に力を与えることになるかもしれないということです。皮肉なことですが、寛容が戦争に、非寛容が平和に結びつくことがあるわけです。

 チャーチルは政治家として有能であるだけでなく、いくつかの歴史書を書き、また絵の才も相当なレベルであったそうです。「天は二物を与えず」は、「天は不公平を好む」と変えた方がよさそうです。もっともわが日本の歴代首相の趣味もマンガに、落語、格闘技「鑑賞」と、なかなかユニークではありますが・・・。

首相、不退転の決意、一夜で心変り

2011-12-08 10:36:21 | マスメディア
 12月6日、日経の朝刊一面に『消費税「不退転の決意」』という見出しで、「社会保障と税の一体改革は際限なく先送りできるテーマではない。不退転の決意で臨む」という野田首相の「力強い」言葉が載っていました。

 続いて翌7日、朝日の朝刊には「景気悪ければ消費増税凍結」との見出しで、野田首相は消費増税法案に景気が悪ければ増税を中止できる「景気条項」を盛り込む方針を固めたと小さく報じられました。事実上の大転換にもかかわらず、なぜかマスコミは極めて平静です。マスコミなど玄人は「不退転の決意」など、端から信用していなかったということでしょう。

 素人が「不退転の決意」という言葉から、少しは骨のある人物かと思ったのも束の間、一夜にして心変わりし、前日の首相の言葉によれば「先送りできるテーマではない」消費増税は事実上先送りされる可能性が強くなりました。

 「不退転の決意」という強い言葉がこれほど軽く使われて、誰も不思議に思わないのは政治家の言葉の軽さに定評が出来ているせいでしょう。「しっかり」「前向きに」などの言葉と同じで、言っても言わなくても同じ類でしょう。

 また国会の質疑においては、質問者の質問に対して誠実な答弁は少なくて、はぐらかしや抽象的な答弁が目立ちます。答えになっていない答弁に厳しく再質問する議員はごく少数です。質問趣意書に基づいて予め用意された、しかし面白くもない形式的な答弁は議論になっていないと感じることが多く、国会中継を見ようという気持ちになりません。

 政治家の記者会見においても同様です。記者の質問に対する答えが答えになっていない場合でもほとんど再質問されません。こういう現場に来るのはたいてい若い記者ですが、彼らの能力の問題なのか、あるいは再質問をさせない慣習でもあるのか知りませんが、このことが政治家の言葉の軽さを「支えて」きたのでしょう。つまり言語能力の低い人でも政治家になれる道を拓いたと思われます。失言する政治家が輩出する現象はこの「成果」だと言えるでしょう。

 英国のトニー・ブレア元首相は草稿なしで1時間も演説が出来たといわれますが、そこまでは無理にしても、棒読みがジャパニーズ・スタンダードになっている現状は政治家のレベルを象徴しているようです。

 国会でも記者会見でも、あまりシビアな議論が行われると多くの政治家がついていけないので、馴合いの関係が作られたのでしょうか。政治家の言葉が信用されないと、政治そのものが信用を失うことは自明です。政治の信用低下は周知のことですが、マスコミがその片棒を担いだと言ってもよいでしょう。

集団の狂気と老人の美徳

2011-12-05 10:16:05 | マスメディア
 個々の人間が犯罪などの不合理な行動をし、やがて破滅する、ということはそれほど珍しくありません。その原因となる個人的な理由、あるいはその社会的背景などを推測することは可能です。しかしオウム事件や人民寺院事件、連合赤軍事件、それに対米戦争を開始した当時の日本など、集団で破滅への道を選択するメカニズムを理解することは簡単ではありません。多くの人を否応なく巻き込み、重大な影響を与えるこの種の出来事に私は昔から強い関心をもっていました。

 11月25日の朝日に掲載された山本直樹氏の話はオウムをテーマにしたものですが、集団の暴走を、「言葉」の支配という点から説明するもので、たいへん興味深いものです。初めの部分を引用します。

 『リーダーの資質の違いなど違いは色々ありますが、メンバーたちが「世の中をましにしよう」と真面目にがんばった結果、気がついたらたくさん死んでいたという点で、オウムと連合赤軍には共通点があります。
 イメージと結果とのあまりに大きい隔たりは、なぜ生じたのか。2006年から連合赤軍を題材にした漫画「レッド」を描き続けて見えてきたのは、「閉鎖環境で、言葉だけが暴走する」という構造です。
 オウムも連合赤軍も「救済」とか「革命」とか大きな言葉を多用する一方で、やっていることは意外に小さくて笑える面もある。でも、外部との接触を失ううちに、言葉と現実とのギャップに誰も突っ込めなくなる。』

 「閉鎖環境で、言葉だけが暴走する」という見方はかなり有力な説明になると思います。言葉というのはある概念を表すものですが、閉鎖環境ではそれが絶対化され、すべてに優先するような異常な力をもちやすいのでしょう。本来、多様な価値で構成される社会が単一の価値・概念に支配される現象というわけです。

 「言葉」は山本七平が「空気の研究」で述べた「空気」とよく似ています。「空気」は不合理な方向であっても誰も反対することにできない雰囲気を言いますが、それは特定の概念に規定されたものといってもよく、「言葉」と多くの点で重なります。もちろん集団の不合理な行動にはそれに加え、集団内で孤立する危険を避けるための心理的な特性、つまり多数に逆らうよりは同調を選ぶ、同調行動と呼ばれるものが大きな促進要因になったと思われます。

 一方、この見方は外部との接触を絶たれた集団がいかに簡単に理性を失うかということを示唆しています。それは均質な人間で構成される集団ほど顕著に見られることでしょう。少し飛躍があることを承知の上ですが、均質なマスコミだけが存在する国では国全体が外部から遮断されているのに近い状況になると思われます。

 さらに若い人間は経験が少なく、こうした意味づけの変化に順応しやすいこともひとつの理由だと考えられます。オウムや連合赤軍に有力な老人がある程度混じっていれば暴走は起こらなかったかもしれません。様々な考え方に接し、失望などを多く経験した老人は相対的な見方が得意です。簡単には熱くならず(例外も多いですが)、冷静な判断ができることは老人の美徳だと言えるでしょう。むろん惚けるまでの話ですが。

犬を食べる毎日新聞女性記者

2011-12-01 10:51:46 | マスメディア
 驚くほど勇敢で、正直な女性記者の記事をご紹介したいと思います。以下は10月26日の毎日新聞「憂楽帳」に載った「裏メニュー」という記事であります。

 『「ソウルよりおいしい食堂」。韓国系住民5万人以上が集中する米ロサンゼルスのコリアンタウンでは、ハングルで書かれたこんな宣伝文句をよく見かける。ヨン様の大好物トッポッキはもちろん、二日酔いに効く解腸(ヘジャン)スープまで何でもある。本国と変わらない。

 ひょっとしたら……と、ソウル特派員時代、夏バテした時に食べた犬鍋を探した。食用犬を調理した伝統料理で、補身湯とか栄養湯と呼ばれる。食用犬がいない米国でも、輸入して「裏メニュー」で存在するかもしれない。

 この秋、「補養湯」の看板を見つけ、韓国語で注文した。「羊肉ですよ」と説明する女性店員に「犬の肉はないの?」と食い下がったとたん、「韓国語分かりません」と急に英語で拒絶された。

 韓国系の知人に報告すると「おとり捜査と誤解されたんじゃない」と笑われた。鯨肉を出した高級すし店が常連を装った動物愛護団体メンバーに告発され、昨年閉店に追い込まれた。犬鍋も監視されているという緊張感があるようだ。不透明な裏メニューなど聞くほうが間違っていた。【堀山明子】』

 欧米はむろんのこと、日本でも犬を食べる行為に不快感をもつ人は少なくないと思われます。日本はそういう文化をもつ国です。犬や猫は人間と心を通わせることのできる「友人」であると思われているのがその大きな理由でしょう。普通の人は友人を殺して食べようとは思いません。

 こんな記事が日本の新聞に掲載されれば、多くの人に不愉快な思いをさせることは予想できます。それを敢えて書いた記者も、また臆面もなく掲載した毎日新聞もたいへん変わった見識をお持ちのようです・・・凡人には理解不能ですが。

 落ちぶれたりといえども毎日新聞は約350万部発行の主要紙(08年では世界第3位)であり、海外にも影響力があります。日本の主要紙の女性記者が犬を好んで食っている事実が知られれば、日本全体のイメージに影響します。それが極めて特殊な例だとは思われず、日本人は平気で犬を食べるのか、と思われる可能性があるからです。

 犬を食らう日本人の記事を日本の主要紙が堂々と掲載すれば、韓国の一部には歓迎されるでしょう。夏バテした時に食べる犬鍋という言葉を信じて犬鍋店に出かける日本人も現れるかもしれません。

 この記者は日韓関係がようやく正常化に向かった09年2月、「日韓関係、歴史和解を棚上げするな」という記事を書いています。犬を食ったり、やっと沈静化した歴史問題を再び蒸し返そうと主張するなど、この記者は韓国の文化や民族にすっかり同化されている感があります。韓国語もなかなかお得意のようです。この記者が日本の全国紙の記者として適切かどうか、それは毎日新聞社の見識の問題です。