噛みつき評論 ブログ版

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子供のボール蹴りで1180万円賠償

2012-06-25 10:22:44 | マスメディア
「小学5年の子供が校庭でゴールに向けサッカーボール蹴ったところ、ボールが門扉を超えて道路に転がり、運悪くバイクで通りかかった80代の男性がボールをよけようとして転倒して足を骨折。直後に認知症を発症し、約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡し、遺族が約5000万円の賠償を求めていた裁判の判決が大阪高裁でありました。判決は一審と同様、「ボールがゴールを外れ、道路に飛び出ることは予想でき、男児は交通を妨げないようにする注意を怠った。両親にも監督義務違反があった」としてその両親に1180万円の支払いを命じた(一審より300万円減額)」

 これは6月8日の朝日と日経の記事を要約したものですが、両紙とも扱いは小さく、事実を簡単に述べるだけのものでした。つまり判決にあきれたり、批判するようなものは感じられません。新聞社の「良識」からすればこの判決は妥当、あるいは許容範囲のものであるのでしょうか。他でも騒がれないところを見ると驚くような判決ではないのかもしれません。しかし、記事を見た限りですが、私には強い違和感があります。

 古いと言われるかもしれませんが、学校の塀からボールが飛んでくることは日常茶飯事であり、事故の危険があるからと厳しく子供を叱ったりすることは想像できません。仮に飛んできたボールのために被害が生じても、まあ子供のことだからしょうがないなあ、と諦(あきら)めるのが普通であったように思います。少なくとも子供の親に5000万円も請求するというような発想はまずありませんでした。

 ボールをよけようとしてバイク転倒→足を骨折→直後に認知症→約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡。これが恐らく被害者側(の弁護人)が考え出し、裁判所が認めた因果関係ですが、なんやら「風が吹けば桶屋がもうかる(*1)」に近い屁理屈に見えます。

 乱暴な仮定であるのは承知の上ですが、ボールが飛んできてバイクが転倒する確率を1000分の1、転倒による骨折の確率を2分の1、骨折が原因で認知症になる確率は難しいですがまあ100分の1、認知症のために誤嚥性肺炎で死亡する確率を10分の1と仮定すれば、すべてが実現する確率は200万分の1となります。

 この数値はいい加減なものですが、裁判官は蓋然性つまり確率をどう判断して判決を下したのか、気になります。蓋然性の評価なしで判決が確定できるとは思えないからです。このような判断が認められるのなら、もしもこの80代の男性の死によって老齢の家族が失意のために死亡した場合、それも子供の責任とされることになりかねません。死亡に至った理由は高齢など被害者側の事情が大きいと思われ、子供側が責任を負うとしても骨折までが限度のように思います。

 道路上で遊んでいたのならともかく、校庭に設けられたサッカーゴールに向かってボールを蹴ってこんな高額を賠償させられるとはずいぶんおかしな話です。プロの選手でも外すわけで、子供が外すのはあたりまえです。ずいぶん子供に不寛容な社会になったものです。

 事故があるとその責任者を厳しく追及することが世の流行となった観があります。現在の厳罰傾向もそのひとつの現れでしょう。大きな事故がある度に、マスコミは正義づらをして事故の過失責任を、そしてその責任者を徹底して糾弾します。これは泣き寝入りや再発の防止に役立つ一方、過失に対して不寛容な社会を招きます。

 上記の判決はこのような時代の風潮に迎合したものと思われます。この迎合的判決はこの風潮を法の立場から追認することで、これを固定化する意味を持つでしょう。裁判所は僅かな因果関係をたどってでも損害賠償を求めるという諦めの悪い社会を目指しているようです。

 生老病死と言いますが、生まれた境遇、素質、天災による被害など諦める以外どうしようもないことは山ほどあります。理不尽なものに対して諦めたくない気持ちもわかりますが、執心が過ぎれば前向きの姿勢にはなれません。諦めが悪い、は潔(いさぎよ)いの反対語と言ってよく、あまり格好いい姿には見えません。

 一方、加害者側に悪意や重大な過失がない場合、以前は裁判をしてまで賠償を取ろうということにはためらいがありました。損害や不幸をお金で埋め合わせるという方法にはいささかの抵抗感があったわけです。市場原理主義はこの抵抗感を弱める方向に働いたと思われます。市場原理から導かれる価値観は伝統的な価値観やモラルの一部を駆逐してきたと考えられるからです。カネが中心の価値観が徐々に広がってきたような観があります。

 ギリシャの哲学者プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いましたが、今の世ならきっとこう言うでしょう、「カネは万物の尺度である」。

(*1)「風が吹けば桶屋がもうかる」
風が吹けば砂ぼこりで盲人がふえ、盲人は三味線をひくのでそれに張る猫の皮が必要で猫が減り、そのため鼠の数が増えて桶をかじるので桶屋が繁昌するという、現実にはあり得ない因果関係を表す。
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敵前逃亡した民主党元代表

2012-06-18 10:06:23 | マスメディア
 本当ならば政治家としてこれほど不名誉なことはなく、小沢氏の政治生命もこれで終りではないか、週刊文春6月21日号のトップ記事『小沢一郎 妻からの「離縁状」』を読むとそんな思いがします。和子夫人が昨年11月頃10名近くの支援者に宛てた手紙のほぼ全文が掲載されています。長年の支援に対する謝辞と共に、小沢氏の「正体」を示す言葉が詰まっています。

(震災後)「実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」
「小沢の行動を見て岩手、国のために為になるどころか害になることがはっきりわかりました」

「3月16日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私のところへ来て『内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書たちを逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました』胸をはって言うのです。あげく、『先生も逃げますので、奥さんも息子さん達もどこか逃げる所を考えてください』というのです。」

「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです」

「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています」

 兵士の敵前逃亡は珍しくありませんが、指揮官の逃亡はあまり聞いたことがありません。戦前の満州、ソ連軍の侵攻が始まると守るべき開拓民を放置し、真っ先に逃げ出した関東軍を思い出します。もしも小沢先生が事故当時の首相であったら、と思うとぞっとします。民主党政府は国民を尻目にハワイあたりに逃避していたかもしれません。

 従来の小沢氏の外側の顔と、この手紙に描かれた私心あふれる小沢像との乖離があまりにも大きく、驚いてしまいます。本当だとすれば、外の顔を見せ続けてきた小沢氏は見事な演技者であります。

 これから浮かび上がる問題点は2つあります。①危険と判断したとき、国民を尻目に自分だけ逃亡したことと、②「内々の放射能の情報」を信じた判断能力です。これらのうちのひとつだけでも政治家の資質としては重大な問題であり、二つもあれば完璧です。

 これが小沢元代表の実像であるとすれば、民主党内におけるリーダーとしての地位は如何にして築かれたのかという疑問が生じます。情報の判断能力に欠け、危険時には部下を置いて逃げるような人物に人がつき従ってくるとは思えません。他に人徳があるという話も聞かず、セクシーな魅力があるとも思えません。

 国に有害という点でいえば勝るとも劣らないのはあの鳩山元代表・元首相ですが、鳩山氏についても同様な疑問を感じます。恥を知らない強靭な精神力はあっても、失礼ながら人を惹きつけるような人格的な魅力は感じられません。夢想と現実の区別がついていないような認識は政治のリーダーとしてまことにふさわしくないものです。

 となれば民主党のリーダーの選出はいったいどのような基準で行われているのかと問いたくなります。元代表のお二人に共通するのは資金力の大きさですが、やはりそれがものをいうのでしょうか。理念やモラルに代わって市場原理、つまり金が支配する世界は新自由主義の理想ですが、民主党はその隠れた賛同者なのでしょう。

 現在、この問題については大手メディアのほとんどがなぜか沈黙しています。私信の公表というモラルの問題か、それとも裏をとるためか、あるいはどこからか横槍が入ったのか、わかりませんが、ワイドショーが涎(よだれ)を流して飛びつきそうなネタだけにいささか腑に落ちません。

 これは首相になる可能性もある政治家と、その政治家を党の代表に選んだ民主党の素顔を理解する上でたいへん重要なことです。事実ならわが国の政治にきわめて大きな影響のあるものだけに、その真偽の検証をも含めて報道することはメディアの職務であると思います。少なくともオウムの残党がどこへ立ち寄ったとか、どこのコインロッカーを利用したかなどを懇切丁寧に教えていただくよりずっと役に立つと思います。

 それだけに大手メディアの一斉の沈黙は実に不自然です。大手メディアの見識、あるいは独立性に疑いが生じかねない問題ともいえるでしょう。
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嘘つき検察に嘘つき新聞

2012-06-11 09:50:37 | マスメディア
 かつて、狸や狐に化かされた話がよくありました。騙(だま)された者の愚かしさも笑い話として楽しまれたものです。また現金輸送車が白バイ警官に化けた犯人に爆弾が仕掛けられていると騙され、3億円を積んだ車をまんまと乗り逃げされた3億円事件ではあまりにも見事な「騙し」に拍手を送りたくなりました。

 一方、ユーモアや鮮やかさとは無縁で、悪質なずる賢さだけが取り柄の「騙し」もあります。東電OL殺人事件で、ネパール国籍の人間を無期懲役にした検察による「騙し」の手口がそれです。

 先日、再審請求が認められ、再審を待たずして釈放されることになりましたが、事件当時、被害者の体内に残された体液のDNA鑑定を実施しなかったことや、別の遺留物に関する被告人に有利な鑑定書を隠していたことがバレて、検察の汚い手口が明らかになりました。もっとも不都合な証拠を隠すというアンフェアな習性は検察の伝統であり、以前から心ある人々によって指摘されてきました。

 有罪に持ち込むのに不都合な事実を隠すことは裁判所を騙す行為であり、嘘をつくことと同じです。恣意的に選別された情報からはまともな判決は得らないでしょう。これをさらに前向きに、積極的にやったのが証拠を勝手に改変した村木事件なのでしょう。改変の証拠を見つけられ、自ら墓穴を掘ったいうわけです。

 不都合な事実を隠すことと、証拠を捏造することはどちらも裁判所を騙すという点で同じです。異なるのは前者はバレた時「気がつかなった」という言い逃れが可能で、後者は「犯意」が明確になることだけです。両者の違いは手段の優劣であり、罪の深さに大きな違いはありません。したがって利口な人間は安全な前者を採用します。

 不都合な事実を故意に隠す、つまり広義の嘘つきは検察だけでなく多くの分野で行われています。できるだけ使わないように心がけていますが私も相手によっては使うことがありますし、マスコミはもちろん、本や学術論文でもその主張にとって都合の悪いことはしばしば隠蔽されます。もし故意の隠蔽が見つかれば、その本や論文の著者の誠実さが疑われ、信用度を計る目安になります。

 しかし検察がこのような嘘をつくことは大きい問題です。それが人の生死にもかかわる問題であるだけではありません。社会正義を守るという立場ゆえに強い権力を与えられの者が嘘をつくことは、警官が強盗をする、教師が婦女暴行を働く、あるいは神父が子供に性的虐待をする(かつてアメリカで大流行しました)などと同じようなものです。

 証言においても一部を隠すことが偽証罪に問われることはまずありません。知らなかった、忘れていたといえばそれ以上追求することは困難であるからです。しかし故意に隠すことは嘘と同じ重さの意味があります。

 私が不思議に思うのはこの検察による故意の証拠隠しに対する非難があまりにも弱いことです。一部を隠すという消極的な嘘とはいえ、人を騙すという目的では同じである以上、倫理的な立場からの厳しい非難があってもよいと思います。とりわけ検察のように組織として行なわれるものに対しては。

 厳しい非難を執拗に繰り返せば消極的な嘘であっても嘘には違いないという認識ができ、安易に使われにくくなるでしょう。賞味期限や産地偽装などたいした問題とされていなかったものが執拗なバッシングによって重要な問題とされたように。賞味期限のようなどうでもいい問題で大騒ぎするヒマがあるのなら、嘘つき検察を取り上げてほしいものです。

 再審決定のすぐ後、検察は異議を申し立てたそうですが、往生際の悪いことです。恥の上塗りになることでしょう。彼らが「恥を知る」人間であればの話ですが。

 朝日が原発反対という主張のために都合の悪い事実を隠して報道したことは前回の記事で述べました。マスコミが検察の証拠隠しに寛容なのは、自分たちも常に同じことをやっていて、強く非難できないためではないかと想像する次第であります。
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朝日新聞はこうして読者を騙す

2012-06-04 09:58:53 | マスメディア
 朝日新聞には「プロメテウスの罠」という連載記事があります。ギリシャ神話からとってきたと思われる題名はちょっと気障な感がありますが、内容は原発事故に関する話を集めたものです。5月24日付の記事には、45歳の男性の両親(75歳と72歳)が津波に襲われたあと放置され、10日間ほど生きた後、衰弱死したという話です。以下は要約。

『両親は原発から4キロの双葉町に住んでいたため、3月12日からは避難指示が出て入れない。22日になって役場に電話し「親を見に行ってもらえるよう、自衛隊に頼んでもらえないでしょうか」と依頼した。翌23日、「2人の遺体がありました」と役場から電話があった。津波は2階まで達せず、父は2階で死んでいた。目を見開き、苦しそうな表情』

 翌日の「プロメテウスの罠」には避難区域内で見つかった衰弱死と見られる他の例を挙げ、「津波だけなら助かったのです」「助かる人を死なせたのは原発事故です」という地元医師の言葉を載せています。自分の肉親らのいる場所に近づくことさえ許されない原発事故の恐ろしさがよく伝わる文章であり、助かる命まで無残に奪う過酷な原発事故という強い印象を与えられます。

 一方、森 絵都氏の近刊「おいで、一緒に行こう」を読むと、これとは大きく異なる風景が見えてきます。副題に「福島原発20キロ圏内のペットレスキュー」とあるように、立ち入り禁止となった警戒区域での犬や猫の救出活動を描いたものです。

 救出活動は福井から週末ごとに車で通い続ける中山ありこ氏を中心とするグループで多くが40歳代の女性です。取材開始は5月11日なので、20キロ圏内は既に警戒地域に指定されていて、容易に入れない状況です(警戒地域の指定は4月22日、それまでは入れた)。

 警戒の手薄な道を探し、道路を閉鎖するバリケードを動かすなどして区域内に車で入ったそうです。使うことはなかったのですが、鉄条網を切るカッターまで用意している女性の話からは彼女らの強い決意がわかります。

 救出は手間のかかる仕事で、また警察に悩まされたといいます。話のわかる警官もいたが、せっかく保護した猫を元の場所に捨てて来いと命令する警官もいたそうです。

 取材は11月末で終わっていますが、活動はその後も続いているようです。5月28日までに保護した犬猫で被爆線量の最大値は1.2mSvで、心配する量ではありません。また比較的自由に入れた4月22日までは多くの人が20キロ圏内で救助活動や餌やりを行っていたとされています。多少の危険と違法性を承知の上、20キロ圏内で活動した人間が多数存在したわけです。

 このような事実を考えると、避難指示だけで警戒区域にもなっていない20キロ圏内の両親を助けに行くことができなかったという朝日の記事は疑わしくなります。津波に襲われた両親の安否が心配なとき、避難指示だけで行くことを断念するでしょうか。またこの45歳の男性が役場に救助要請をしたのは津波から10日以上も経過してからというのも腑に落ちません。

 私は新聞記者の生態についてはよく知りませんが、この程度の疑問すら持たない記者というのは考えにくいことです。おそらく記者はこれらの事実を承知の上で原発の恐ろしさを訴えるためにこんな記事を書いたのだと思われます。記事の内容に明らかな間違いはないが、読者には誤った認識や印象が伝わるという、いつものずる賢いやり方です。注意深く読めばこのような手口はしばしば見られます。それらは偶然のものではなく、体質を反映したものと思われます。

 福井からペットを助けるために福島に通う女性の話は記事にしませんが、逆に福島から福井に避難している女性の主張は「原発 止めたままに」という見出しで大きく取り上げています(5/6)。朝日は反原発の方針を明確にしたようです。

 検察は数ある証拠の内、有罪に持ち込むのに役立つものだけを選んで提出すると言われています。つまり容疑者に有利なものは隠すわけです。正義のための不正義な方法です。新聞もこれに似て、自分の主張に都合の悪いことは書きません。名づけて「検察方式」。

 しかし原発の是非はきわめて難しい問題です。とりわけ冷静な議論が必要な問題であり、感情的な判断に委ねては将来に禍根を残す可能性があります。原発の恐ろしさを繰り返し強調し印象づける方法は国民の感情をコントロールして自分の主張を通そうとするものです。国民の意思を反映するのが民主主義ですから、これは大変有効な方法です。しかしこれは民主主義を標榜しながら陰で裏切る行為であり、ずいぶん汚いやり方です。

 たとえそれが善意から出たものであっても、このような手口には自分たちはエリートで読者はアホだという傲慢さが潜んでいるように見えます(朝日記者のエリート臭さには定評があります)。

 プラトンの哲人政治のように、大衆は信頼できないとして優れた者が大衆をコントロールするという考え方にも一理ありますが、民主党を持ち上げ、あの鳩山政権を誕生させるような程度のエリートですから、信用しろといわれても・・・・。
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